第三章
ローレンシアは姉の背中へと右手を伸ばしたが、その小さな腕がそこへ届くことはなかった。
力の限り声を出そうとしたが、なぜかまったく声が出ない。
姉の背中は大きかった。立派な魔法使いの証である〝
魔法使いは正装を纏うようになってようやく一人前とされる。
正装は自我境界線の具現化そのものである。
魔法使いは心の中にある願いを、本物の奇蹟に変えることができる。
心が強く気高く凛々しいほどに正装は美しくなり、奇蹟はより大きな奇蹟となる。正装を纏うことができない魔法使いは心が未熟な証拠であり、そんな魔法使いが使える奇蹟などたかが知れている。
彼女はこれまで一度も正装を発現させたことはなかった。これは魔法使いとしてはまだまだ未熟ということで、これを纏えるようにならなければ、とても一人前とは認めてもらえない。
確かにローレンシアが正装を纏えるようになるにはまだ少し幼いと言えるが、それでもいつか姉上や国のために戦うのだと、一日でも早く自分だけの正装をまとうのだと、日々の鍛錬を怠ったことはなかった。
だが、それも全ては無駄だった。
いまこの時、この瞬間にこそ、自分は正装をまとって戦わなければならなかったのだ。
力が欲しかった。憎きギガンテスを倒す力が。
そうすればみんなの役に立つことができる。ギガンテスを倒す力さえあれば、エンテレケイアをやつらの好きにさせたりなんてしない。
ああ、力が、力が欲しい。
光の奔流の中へ姉の姿が消えていく。
どれだけ叫んでも、無力な自分ではそれを止めることができない。
何もかもが消えた世界で、唯一そいつだけが自分を見下ろしていた。
ギガンテス。
憎きニューアトランティスの巨人。
ローレンシアの声なき慟哭は、見境のない激情だけで満たされていた。
――魔法とは、守るための力。
この暗闇に満たされた世界の中でほんのわずかな残響がどこか遠くから聞こえてきたが、それはまだローレンシアにはまったく届いていなかった。
μβψ
「うわああ――ッ!」
ベッドに寝かされていたローレンシアは、こわれたバネ仕掛けの玩具みたいに身体を起こした。かけられていたシーツもベッドから落ちてしまった。
激しい動悸に襲われて、息がまともに吸えない。頭は完全に混乱しきっていた。
それでも何とか自我を手放さないようにしていたが、ふと視界に入った周囲の光景に思わず虚を衝かれてしまった。
「こ、ここは……?」
見慣れない場所だった。どこかの室内で、壁は灰色で構造体表面が剥き出しだ。明かりが弱いのか、少しだけ薄暗い。何だか廃墟みたいな場所だった。
突如、激しい頭痛に見舞われた。
意識を失う直前までの記憶が、決壊した川の水みたいに頭の中に溢れてきたのだ。
燃える王都、逃げる人々、迫りくるニューアトランティスの軍勢、最後まで王都に残って敵を足止めしてくれたアルティメットとアイアンハート、最後に感じた姉の温もり――そして、ギガンテス。
ローレンシアははっと我に返ると、ベッドから飛び上がって床に着地し、体勢を低くして周囲の気配を探った。
敵がいればすぐにでも戦うつもりで神経を極限まで研ぎ澄ます。
「やれやれ、騒がしいお嬢ちゃんだ。だが、どうやらもう元気そうだね。子供は元気なのが何よりだ」
すると呑気にも聞こえる場違いな声がして、ローレンシアは「へ?」となった。
室内に敵はいなかった。
代わりにいたのは、薄汚れた白衣を着た初老の男だけだ。
男は無防備で、部屋の隅に置かれたデスクで何やらペンを動かしていた。
ローレンシアへは軽く一瞥を向けただけで、そこには敵意など欠片も存在しなかった。
「……あなたは誰ですか?」
思わず警戒を解いてしまったローレンシアが問うと、男はようやく手を止めて顔を上げた。
「わたしかい? わたしはセドリックだよ。まぁこんなんでもいちおう、医者の端くれだ」
セドリックと名乗ったその男は、年齢がよくわからない顔をした男だった。
顔には皺が多いのだが、短い髪は黒々としていて、おじさんともおじいさんとも、どちらとも言えるような雰囲気である。
顔色の悪さといい、やけに年季の入った白衣といい、ともすればこの男のほうが患者のようにも見えるが、椅子に座っている男の姿勢はしゃんと背筋が伸びていて、医者という言葉に相応しい知識者としての風格は備わっているように見えた。
「お医者さん、なんですか?」
「そうさ。なに、そうは見えないって? まぁ確かに、医者というよりわたしが病人に見えるかもしれないね」
「いや、そうではなく――」
ローレンシアは臨戦態勢は解いたが、今度は疑問に次ぐ疑問で頭がいっぱいになった。いったい自分がどういう経緯でこんなところにいるのか、まるで見当がつかなかったのだ。
「君はね、砂漠で倒れてたんだ」
ローレンシアの困惑を見て取ったのか、セドリックと名乗った医者はそう言った。
だが、彼女はますます混乱した。
「砂漠……? 王都の周囲に砂漠なんてないはずですが……?」
「おうと? うん? そりゃなんのことだい?」
「いえ、ですから王都です。エンテレケイアの――」
そこまで言ってから、ローレンシアは再びはっとして周囲を見回した。
どうやらここは病院らしかったが、他にも設置されたベッドに人の姿はない。
自分だけだ。
彼女は大慌てでセドリックへ詰め寄った。
「セオドアさん! 姉上は!? 姉上はどこにいるのです!?」
「ちょ、落ち着きなさい。あとわたしはセオドアじゃなくてセドリック――ではなく、お姉さんというのは?」
「わたしの姉です! 姉上はここにはいないのですか!?」
「い、いや、運び込まれてきたのは君だけだが……もしかして砂漠ではぐれたのかい?」
セドリックはできるだけ相手を刺激しないように言ったが、ローレンシアは大きく首をふって興奮した面持ちでまくしたてた。
「王都にニューアトランティスがやってきて、ギガンテスもいっぱい来て……それで、わたしたちは逃げてたんですけど、でも追手がきて、アルティメットたちが囮になってわたしたちを逃がしてくれて、でもすぐにもっと大きなギガンテスが現れて――」
「ちょ、ちょっと落ち着きなさい」
ローレンシアの口早な説明はセドリックには理解不能だった。支離滅裂で、現実と妄想の区別がつかなくなっている――少なくともセドリックにはそうとしか思えなかった。
その時、誰かが部屋の中に入って来た。
振り返ったローレンシアが見たのは姉とよく似た背格好の女のシルエットで、その姿を見るなり彼女はすごい勢いでその人物に飛びついた。
「あ、姉上! ご無事だったのですね!?」
喜色満面で顔を上げたローレンシアだったが、自分を見返す顔がまったく知らない赤の他人だったので、混乱のせいかそのまま固まってしまった。
浅黒い日焼けした肌に、慎ましやかだった姉とは違って自己主張の激しい胸元。それに鍛えられているのか、抱き着いた感触がちょっとごわついていて姉のように柔らかくない身体。
「え? え? えっと?」
抱き着かれたほうも目を白黒させている。
「姉上――じゃ、ない?」
頭の回転が段々と現実と同期してきて、ローレンシアは一転、とんでもないがっかりに襲われた。
現れたのはチヒロだった。自分が運び込んだ女の子の様子を見に来たのだが、ドアを開けた途端にこれなので、困惑するなというのが無理な話だろう。
膝さえ折ってしまってうなだれる女の子に、むしろチヒロのほうが困惑した。
「え? ちょ、なんでわたしそんなにがっかりされてんの!? わたしなんかした!?」
「……く、こうしてはいられません」
ローレンシアの瞳に急に光がともった。喜んだりがっかりしたり立ち直ったり、実に忙しない女の子である。
「姉上を探しにいかなければ……ッ!」
小さな身体が部屋からぱっと消えた。あれ? とチヒロは目を瞬かせたが、風となったローレンシアはチヒロの脇をあっという間に抜けて、建物の出口から外へと飛び出していた。
「な――ッ」
しかし、彼女は外へ出てすぐに足を止められることになった。
そこには見たこともない景色が広がっていたのだ。
周囲のうら寂れた雰囲気とどこかすえた臭い。
一目見て、ここがあまり衛生環境のよくない場所だというのは理解できた。
いわゆるスラムというやつなのだが、エンテレケイアにはそんなものは存在しなかったので、彼女にとってそれは異質でおおよそ理解し難い空間だった。
だが、彼女が驚いたのはそれではない。彼女の足を止めたのはスラムの周囲に並び立つもの――シティの巨大構造物群で形成された摩天楼だった。
マクスウェル・シティは規模としてはメトロポリスであり、シティの規模としては中規模程度だ。
その上になるとメガロポリス、あるいはベンセレムのようなギガロポリスとなる。
「……なんですか、あれは」
王城よりも大きなものを見たことがなかったローレンシアにとっては、この都市の構造物ですら異形だった。
見上げるほどの高さを誇る何だかよくわからない建物が、所狭しとひしめき合っているのである。彼女がこれまで見てきた都とはまるで異なっていた。
「ちょっと! いきなり動いたらだめじゃない!」
奥からチヒロが追ってきた。
もちろんローレンシアの耳には何も入ってこない。
「――いったいどこなんですか、ここは……?」
ローレンシアは今度こそ混乱の極みに叩き落された。
彼女の心の中に、言いようのない不安が大きく渦巻き始めていた。
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