1.〝いま〟

第一章

 ニュートンズ・クロックの異形とでもいうべきその姿は、ニューアトランティス大陸のどこからでも見ることができた。


 ニューアトランティスの中枢であるベンセレムは大陸の端にある人工島に置かれている。

 その超巨大都市を基部のようにそびえるのがニュートンズ・クロックであり、これこそがニューアトランティスが造り上げた現行文明の象徴そのものだと言えた。


 蒼穹の天蓋すら突き抜けて、その構造物の先端はどこまでも続いていく。どれだけ見上げても終わりというものがない。


 時計とはいうものの、この超巨大構造物が構造体表面から周囲に浮かび上がらせている無量大数のごとき数字の羅列には、およそ意味などありそうには思えない。

 ニュートンズ・クロックは時計というよりは、ただデジタルな数字をひたすらに積み上げて造り上げられた果てのない塔のようにも見えた。


 地表からはるか天上まで続いていくこの数字の羅列は〝絶対時間〟と呼ばれ、現行文明の全てはこれに従って動かされていた。

 

 絶対座標系を基準に動くこの時計が狂うことは絶対にあり得ない。

 現代における時間という概念は、この時計塔が吐き出す膨大な数字の羅列によって決定されているのである。


 絶対時間の正しさはおそらく〝玄学者ソフィスト〟たちにしか理解できない。


 現行文明の支配者である彼らが『正しい』とするものが、今の世界ではすなわち真となり、それ以外のものは容赦なく偽とされるのである。


 玄学者とはつまり知識者階級に属する人間たちのことで、彼らこそが超玄学主義に基づいた現行文明を造り上げた開拓者なのであった。


 彼らはソロモンの館と呼ばれる最高意思決定機関を中枢としている。ソロモンの館の決定こそが今の人類の総意である。


 中枢都市ベンセレムは玄学者だけが住む都市であり、それ以外の人間――総人口の九十パーセント以上を占める労働者階級は正規市民と非正規市民にわけられ、〝シティ〟か〝プラント〟に配属されるようになっていた。


 正規市民と呼ばれる人々はシティと呼ばれるコミュニティに属し、シティで市民権をはく奪された人間は非正規市民とされ、プラントへ送られてそこで『機械的労働』に従事することになるとされている。


 プラントとは、現行文明の主要エネルギー源であるテスラ・ストーンを採掘するための大規模施設のことを言う。


 それに対し、シティの役割とは言ってみれば『労働者たちを能力によって篩にかける』ことであると言えた。文明を維持するための資源には限りがあるのだから、無駄な人的資源を置いておくことにメリットは一つもない。


 何も生み出すことができない非生産的人間からは容赦なく正規市民権をはく奪し、限りある資源をより有用かつ有効に、効率よく消費させるためには当然の仕組みだと言えるのである。




μβψ




 マクスウェル・シティを治めるハプワイアは落ち着きのない様子で、不必要に広くて華美な執務室の中をうろうろしていた。


「くそ、なんでこんな時期に中央から査察がやってくるのだ」


 かなり不安そうな面持ちである。


 彼の年齢は五十歳そこそこだったが、実年齢よりはかなり老けて見えた。

 長年にわたって不摂生な生活を続けてきたのか、顔や首に皺が多い。

 太っているわけもないが健康的でもない肉付きの身体で、手足が細いわりに腹はでっぷりと前に出ていた。


 玄学者は現代文明における超特権階級とでも言うべき立場にある人間だ。

 彼らは生まれながらにして、労働者階級では一生届くことのない高みに立っているのである。


 ハプワイアの階級はテラバイト・クラスであり、シティ・ディレクターというという一見すると多大に名誉な役職についているかのように見えるが、厳然たる階級社会である玄学者社会の中では、所詮は地方の小役人程度の立場でしかない。


「しかも相手は中央執行委員会の連中だぞ……執行委員と言えばあの〝粛清者〟ナヴァリアの息がかかった、実質的な私兵ではないか。いったいどんな難癖で〝粛清〟されるかわかったものではないぞ――」


 査察とはシティが正常に運営されているかどうかを中央の人間――この場合、ソロモンの館の意思を代行する者――が定期的に確認しに来ることだが、これはもうほとんど形骸化したシステムであり、本来ならかなり以前から事前に通達されるので、査察によって不備が指摘されることはありえない。

 双方共に予定調和のスケジュールをこなして終わるだけだ。


 それが今回、通達がなされたのは二〇時間前である。

 ハプワイアにとっては寝耳に水で、見られてはまずいものをとりあえず片っ端から隠したものの、なにせ時間がなかったので不安で仕方がないのだ。


「くそ、忌々しい! なぜわたしがこんな目に遭わねばならんのだ! 粛清されるべきやつなど、他にいくらでもいるだろうが!」


 しかし、彼は段々と腹が立ってきた様子だった。


「いや、やつらめ、きっとこのわたしの頭脳を恐れているのだ。そうに違いない。わたしが優秀だから、脅威となる前に芽を摘もうとしているんだ」


 そのような結論に至った。この男には自分に対する不利益は全てが理不尽であるという考え方しかないようで、そうなると持て余した感情は全て他者へと向けられることとなり、自分に落ち度を求めるようなことはまずしないという性格らしかった。


「こうなったら査察にきたやつを買収するか……いや、それには相手を見極める必要が――」


 ぶつぶつ独り言を言っていると、執務室にノックの音が三回鳴り響いた。


 ハプワイアははっとなって、慌ててドアを開けた。


 ドアの向こうにいたのは若い男だった。まだ二十代半ばといったところだろうか。あまりに若いのでハプワイアはぽかんとしてしまった。


「どうも初めまして、ハプワイア殿。わたし、中央執行委員会から派遣されてきましたゲンベルスと言います。本日はいきなりお邪魔することになってしまい、まことに申し訳ありません」


 しかし男が慇懃鄭重に名乗り頭を下げたので、慌てて玄学者の礼(右こぶしを額に当ててから、さらに胸に当てる動作)を返してから、即座に低姿勢になって揉み手をし始めた。


「こ、これはゲンベルス卿、ようこそいらっしゃいました。こんな辺鄙なシティへ中央の方がお出でくださるとは光栄の極みでございます」

「いやなに、そんなにかしこまって頂く必要もありませんよ。わたしの階級はあなたと同じで、わたしはまだまだ若輩なのですからね」


 階級の差だけで言えばハプワイアとゲンベルスは確かに同一だが、彼らの間にある差はあまりにも大きかった。

 ソロモンの館直轄の委員会に属しているテラバイト・クラスは実質的にハイエンド・クラスであり、ようするにこの男は官僚である。

 政治中枢に関与しない立場であるハプワイアなどは所詮ただの小役人であって、目の前の男は組織的に見ればはるかに上位存在なのだ。


(こんな若造が中央の直轄委員会所属だと……? 信じられん。よほど中央に強力なコネがあるに違いない)


 何だか納得いかないものを感じながらも、とりあえず表向きは丁重に部屋へと招き入れた。


 部屋に入って、二人は向かい合う形でソファに腰を下ろした。


 ゲンベルスはまず部屋の中を見回して、


「ほう、なかなか良い趣向の部屋だ。ソフィストとしての威厳と権威を感じさせますね」


 と、感心したように言った。


 譜面通り受け取れば褒められているのだろうが、疑心暗鬼になっているハプワイアは「いやはや滅相もない」と、この白々しい世辞を内心、鼻で笑っていた。


(ふん、しょうもない世辞など言いおって。貴様のような若造に何がわかるのだ)


 ハプワイアの心中を知ってか知らずか、ゲンベルスは余裕のある態度を崩さず、鷹揚に話を切り出した。


「さて、それでは仕事の話をしましょうか。実は、今回の査察というのは便宜的な方便であって、本来のわたくしどもの目的ではないとまず申し上げておきましょう」

「――は? そ、それはどういう……?」


 予想していなかった言葉にもちろんハプワイアは困惑した。

 若い上司はかまわず続けた。


「時に、ハプワイア殿。先日、このシティで大規模なネットワーク障害が発生しましたよね。一週間ほど前のことですが……覚えておいでですか」

「は、はあ。それは確かにありましたが……しかし障害は一時的なもので、すぐに復旧したのでとくに損害などはなかったかと思いますが――」


「ああ、いえいえ、違いますよ。別にあなたを咎めるためにこの話題を出したのではない。実はこの障害が発生したのと同時刻、地表で特殊な異常現象が観測されていたんですよ。座標はこのシティのすぐ近くです」

「特殊な異常現象、ですか? それはどういう?」


 話の先が見えないハプワイアは、何とも言えない中途半端な反応しかできない。いったい何の話だと訝しみつつ、ゲンベルスの言葉の続きを待った。


「もちろんご存じのことと思いますが、我々のネットワークはエーテルを媒介に構築されたものです。通常、エーテルは空間全てに均一に存在するものであって、大気のように密度が変化することはない。エーテルは全宇宙、どの空間でもまったく同様に、絶対座標系を基準にして存在するものです」

「ええ、それはもちろん知っておりますが……それと先ほどの話にどういう関係が?」

「なに、簡単なことですよ。エーテルの密度が変わることがあるとすれば、それはすなわち空間そのものに歪みが生じた時です。空間に歪みがあれば、エーテルにももちろん影響が出ますし、そうすればそれを媒介としているネットワークにももちろん障害が発生します」

「い、いや、それは理屈の上ではそうでしょうが、空間が歪むことなどあり得ないでしょう。空間も時間も宇宙の全てにおいて不変で、絶対的なもののはずなんですから。空間が歪むなんてことがあれば絶対座標系に狂いが生じます。そうすれば絶対時間にも影響が出てしまうではないですか」


 ハプワイアは困惑しながらも、正しい玄学者としての常識を述べた。


 この世界においては絶対座標系が全てであり、それなくして絶対時間は確立できない。

 そんなことになれば〝完全無欠の理論プリンキピア〟に狂いが生じることになる。


 だというのに、ゲンベルスはまるでその狂いとやらに抵抗がない様子だった。


「おっしゃる通りです。我々の常識ではあり得ない――というよりは、あってはならない現象と言えます。しかし、現実にこの現象は発生してしまいました。どれだけデータを洗い直しても、導き出される結果は同じなのです。空間が歪んだとしか考えられない。正しきソフィストにとってはおおよそ受け入れがたいものでしょう。とくにハプワイア殿ほど見識の深いお方であればなおの事と思います」


 白々しいお世辞もハプワイアの耳には入ってこない。

 この男はいったい、何を言っているのだ?


 ゲンベルスは相手の困惑など、やはりお構いなしに続けた。


「ただ、これとまったく同じ現象が、実は百年ほど前にもたった一度だけ観測されていたのですよ。アカシック・ストレージの中に、これとまったく同じ数値を示している現象データが残っているのが判明したのです」

「百年前、ですか? というと、〝革命戦争パラダイム・シフト〟の時代ということになりますが……?」

「そうです。まさにその時期です」


 ゲンベルスはしたりと頷いて――これまでの温和な表情から一転、蛇のような歪んだ嗤いを浮かべたかと思うと、


「率直に言いましょう。我々は〝魔法使いパンタシアグラマー〟の生き残りを探すためにここへ来たのです」


 と、ハプワイアの想像の範疇を超えたことを言ってのけた。

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