第5話 Development of symptoms
亀足ながらも順調に社会復帰を果たしている青森とは対照的に、俺はイマイチパッとしない日々を過ごしていた。特に何の問題もないはずなのに、俺の体内にはまるで煙のような灰色のモヤが立ち込めて、ヘドロのように真っ黒い闇が俺の心臓を包んでいた。
とはいっても、俺の情緒は基本的にはとてもよく安定をしているわけで、激しく騒ぐわけでもないが激しく落ち込むわけでもない。俺の体内における些細な変化は単純に俺の心を惑わせて、かき乱した。
例えば、目の前で染野が鼻歌を歌いながら両手を左右に振っていると、容赦なく殴りつけてみたくなったりとか。
吉本が全力で走っているとき、意味もなく前足をひっかけてみたくなったりとか。
と、いうことを小金井に話したら
「いつものことじゃないの?それ」
苦い口調で諭された。確かにそうかもしれないけれど、俺の体の中にある細胞たちは何やら変化をしているらしく、そのイライラだとかもやもやというものは常に付きまとった。そうして、その原因がなかなか見えてこないことに俺は勝手に腹を立てて、苛立たせた。
夏から秋に移行をしていく短い期間はまるで水の上に薄らと張られた氷のように曖昧で、淡い太陽さえも鬱々と気分を下降させた。徐々に静かになっていく蝉の音も、昼の賑わいと夜の静けさのギャップさえも俺の頭痛の種だった。
なんでこんなに頭が痛いのか。
窓から差し込んでいる光がとても透き通っていて眩しいから。
なんでこんなに腹が立つのか。
夏の暑い日を過ごした蝉が鳴くことをやめたから。
それらの答えは考えれば五秒で出たが、俺の心はまるで雨の日のガラスのように晴れなかった。考え込むことは好きじゃないし、悩むなんて柄じゃない。
悶々とした思いを抱え込みながら季節の変わり目を過ごしていたのだが、その原因はある日突然、まるであやとりの紐のようにあっさり解かれることになる。
当時テレビでは『100万回目のキスを君に』という、人気俳優と人気女優が主演を務めるラブストーリーが放送していた。運命的に出会った一組の男女が様々な困難を経て結ばれる。しかしある日女性がHIVに感染していることが発覚するという、よくあるといえばよくあるタイプの悲恋物。
俺は特にその番組に興味があるわけではなかったのだが、ある日気まぐれでテレビをつけるとその番組がやっていて、思わず俺は引き込まれる。
テレビの中では、一人の女がベッドに横たわっていて、その隣には主人公の男優がヒロインの手を取り泣いていた。HIVにかかったヒロインが妊娠したのだ。
『俺は君に死んでほしくない』
『ごめんなさい。でもわたしは、どうしても産みたいの』
HIVに侵された体は日に日に抵抗力が減り、免疫力が低下をしていく。HIVウイルスが体内の免疫を司る細胞を殺してしまうのだ。
俺は、父親がいつの間にか帰ってきていることにも気づかずに、風呂の湯が万班になって溢れ出ていることにも気づかずに、テレビ画面に食い入ってしまっていた。
病気を絡めた悲しい純愛などというありふれたテーマだというのに、うっかり感動なんてものをして、のめり込んでしまっていたのだ。それこそまるで、6月のあの日のように。
そうして俺は、ブラウン管の中で行われる安っぽい愛の言葉を聞きながら、俺の中にある疑問の答えを知ってしまう。
考えてみると俺は色々ぎりぎりだった。
指を見るたび触れたくなって、姿を見るたび抱きしめたくなる。
栗色の髪は一体どれほど柔らかいのだろうと考えて、唇を見るたび塞ぎたくなった。
スカートから伸びる足の白さに緊張して、ブレザーの下にあるであろう腰の細さを想像した。
桜色の指先が五線譜をなぞるたびに嫉妬をして、小さくメロディーを奏でる声に羨望する。
(形のないものに嫉妬とか)
ウイルスに侵されてしまった細胞を止めるものなどどこにも用意がされていなかった。そんな特効薬も治療法も、世界のどこを探しても見つかるはずがなかったのだ。
「曲ができたんだよ」
そういわれたのは、秋も深まりつつあった10月の中旬のことだ。
「もう、ずっと前から考えていたやつなんです。お風呂のときもご飯のときも、寝るときだってずっとずっと考えてて……」
にこにこと嬉しそうに笑う青森から渡されたメモ帳には、歌詞らしき文字が数行にわたり書かれていた。
空を飛ぶ夢ばかり見る私
美しい世界に憧れているの
もしも願いが叶うなら鳥になりたい
そうすればあなたの元まで行けるでしょう?
「祈りのコトバ」とタイトルのつけられたそれは、決して夢見る女の子のラブソングではなくて、うまくいかない現代社会を皮肉ったヘビーメタルなわけでもなかった。
おそらくそれは、今俺の目の前にいる女の子が精一杯自分の力を注ぎ込んで作り出した「等身大の自分」他ならなかなった。
解決しない悩みだとか限りない考え事だとか色んなことを抱えつつ、天高くから見守っているであろう神様に祈りを捧げる。目の前にいるこの少女は、苦しみだとか悲しみだとかすべてのものをつぎ込んでこの曲を作成したのだろう。なんとも青森らしい歌詞だと俺は思う。なんとも素直で、純真で、いじらしくさえもある。
「いいと思う。出してみろよ」
俺が単純に思ったことを口に出すと、はい!と明るく返事をした。
にこにこと笑う青森の言葉は、まるでボールのようによく弾んでいたのだが、それは夜中に聞こえる猫の泣き声のようにして俺のことをイラつかせた。青森の頭がコンテストで一杯になっていることにイラついて、あいつの目には楽譜しか映っていないことに腹を立てた。
(……握手じゃ移んないんだっけ)
HIVは主に粘膜感染で発症をする。だから、会話は勿論キスやハグでも感染しない。
(輸血とか、セックスすると感染をするのに)
体内に侵入をしたウイルスは、本人の知らない体の奥深くまで入り込んで、時間をかけて徐々に徐々に根を張っていく。ひっそりと、ゆっくりと、確実に。
(唾液、バケツ10杯分くらい飲んだら、移んのかな)
あまりにも病的な考えであると自分でも思う。実際そんなに飲まないし、飲む気もないい、飲んだら飲んだで別の病気になりそうだ。
それほどまでに俺の脳細胞はすり減って、考えるほどのままならないほど悪性のウイルスに侵されている。
こんな風に秋の夕暮を楽しみながら屋上に寝そべっているその間も、俺の中にある細胞たちはどんどん死んで生まれ変わっているのだ。
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