第6話 Prescription
夜がどんどん長くなるのと同じように、鬱々と気分を引き摺っていた俺の心は小金井の言葉によって現実の世界に引き戻される。
「藤堂、出した?」
奴の言葉に、俺は思い切り顔を顰めて首を捻り、問いかけなおす。
「何を?」
「……何をって」
「英語の課題はもう出したぞ。こないだこっぴどく怒られたから」
「そうじゃなくて」
小金井ははぁ、とひとつ息をついて、俺の前にある空席に座り込んだ。
「進路希望。昨日提出だったの、知ってる?」
はて、と俺は考える。進路希望表。そういえばいつだったか、そんなものを貰った気がする。
「あれ、昨日だったっけ」
「つまり、出してないんだね」
「提出どころか書いてない」
「紙はあるの?」
「んー、確か地理のノートの間に」
「なんでそんなところに……」
「この時、ファイルなくて。皺になるの嫌だったから」
「……藤堂って真面目なのか不真面目なのかよくわからないよ」
理解ができない、と左右に首を振る小金井に、「お前が真面目すぎるんだ」と俺は言った。
進路希望。いざそれを書こうと思ってペンをとっても、何を書いたらいいのかわからない。
他のやつはなんて書いているんだと聞いてみると、
「染野は早かったよ。美大にいって絵の勉強をするんだって。吉本は就職するっていってたし」
「聖は」
「環境系の勉強をするんだってよ」
「ふぅん」
染野洸一はへたれでだらしがなくてうるさいやつだが、芸術的感性に長けているらしく美術に関する評価が高い。吉本は実家が八百屋だから将来的に継ぐことになるといっていた。聖は真面目で地球上のすべてのものを慈しんでいるような奴だから(あくまでイメージだ)本気になれば何でもできるのだろう。
俺は机の上に広げられた紙切れを前に頬杖を突きながら、指の先でペンを回す。
(動いているときの鉛筆が曲がって見えるのって、なんでだっけ)
鉛筆でやるとうまくいくのに、シャーペンやボールペンだとうまくいかない。やはり木製じゃないと駄目なのかと思いつつペンケースを手に取る と、小金井に思い切りひったくられた。
「何すんだよ」
「早く書いて」
「何を」
「進路」
俺は小金井の白い手が握りしめているペンケースを奪い取り、顔を顰める。書けと言われても、書けないのだ。いくら紙切れとにらめっこをしても出てこないので、正面で監視をし続ける小金井に聞いてみる。
「小金井、お前はなんて書いたんだよ」
「大学」
「何大?」
「K大の人間科学部」
「人間科学?」
「人類の発展とか心理とか勉強するの」
「ふぅん」
校内で優等生と評判の小金井だが、おそらくそれは先天的なものだろうと俺は思う。机の上でがりがりと問題を問き頭を抱えてできたものではなく、生まれ持った素質だとか才能だとかがいい具合に育まれてこうなったんだろう。こいつの持つ穏やかさだとか面倒見の良さというものは体全体から溢れる自然なものだ。
「僕も、別に心理学とか学ぶ気があるわけじゃないんだけど」
小金井は言った。
「まだ2年だし。ホントに決めるまでもう少し時間があるわけだし。K大も成績に見合うところ書いただけでホントにそこ受けるかわかんないし」
別に、何かやりたいことがあるわけじゃないからと笑う。
「少しでも可能性があるところを選べばそこから何か広がっていくこともあると思うし。例え、もし今はやりたくことがなくったって、一か月後とか二か月後に急にでてくるかもしれないじゃん。だから、まぁ……なんていうか……保険みたいな?」
清潔感のある顔に浮かべられた、悪戯を仕掛けた子供みたいな表情。小金井は少しだけ腰を上げ体勢を変えると、
「僕たちの年齢で本当にやりたいことが決まってるやつの方が珍しいよ。だから、そんなに考え込むことないんじゃないの?」
正面で行われた優等生の見解に、俺は少し考える。そうかもしれない。いつどこで何があるかもわからないし、今の俺がそんな先のことを考えたとしても仕方のないことなのかもしれない。
「それにしても、ちょっと意外。驚いた」
「何を」
「藤堂がこんなに悩むとこ、初めて見た」
「そうだっけ?」
「そうだよ。だってさ」
小金井は俺の机の空いたスペースに肘を置いて、体重を乗せた。
「だってさ。藤堂って、そんな素振りみせないじゃん。いつだって何にも関係ないっていうカオしてるし」
汗の一つも掻かなそう、という奴の言い分に、俺は少しムッとする。
「なんだよそれ、なんか俺が人間じゃないみたいじゃねーか」
「そういうわけじゃないけど……」
そこで苦笑。
「あれだよ――なんていうか藤堂はさ、威圧感があるんだ」
「いあつかん?」
「そう。こう、有無を言わさぬ雰囲気」
威圧感。そんなこと言われたの初めてだと俺が言うと、
「そりゃあ、威圧感のある人に向かってそんなこと誰もいわないでしょ」
と呆れられた。確かに。
「でも、あれだね。藤堂なんか」
小金井はそこで言葉を止めて、両手の平を上に上げ、首を傾げた。
「人間ぽくなったね」
「……俺は人間だ」
低く発した俺の声に、そうだったっけと小金井は言った。
中学の頃、哲学の言葉でセックスのことを「小さな死」というと教えられた。
その時は対して興味もなくて、きちんと理解もしていなかったのだが、今となってはよくわかる。
生殖活動を行うことで、体内における何万という数の細胞が活動をして、死に至る。ある種の快感にはかならず痛みが伴うものだし、破壊と再生は二つで一つだ。何かが消える反面で、新しいものが生み出される。
(ああ、そうか)
声を聴くたび息が止まり、姿を見るたびに喉が渇いた。話をするたび血が湧いて、細胞が死んで生まれ変わることを感じていた。
(きっとこれが)
死に至る病と呼ぶべきものだ。
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