第3話 Approach

 その間抜けな楽譜女との出会いはそれで終わり、俺はそれをそっくりそのまま忘れてしまうのだが、きっかけというものはある日突然やってきた。

 俺の音楽室での席は窓際から二番目の一番後ろと決められている。目の前に座るは聖、右からは吉本の鼾声、左からは左右に揺れる染野の鼻歌というとんでもない状況下の中でシューベルトの何とかっていう曲を聴いていた。聖陽一の忍耐力はすごいものがあり、なんでこの混乱の中血管の一つも浮かべずにいられるのだろうか。

 隣の席で小金井もうつらうつらとしていることを眺めながら(小金井の転寝というのはイリオモテヤマネコのように希少価値がある)シューベルトを聞き流していると、「教科書の20ページを開け」という教師の声がかかる。俺は教科書を出していない。机の上には筆箱すらない。ごそごそと机の中に手を突っ込むと、教科書の代わりに紙切れの詰まったファイルが出てきて俺のことを驚かせる。それは音楽部のやつらが使うような付箋の書かれた紙切れで、オタマジャクシのような俺の知らない記号がたくさん泳いでいた。 どこかで見たような気がすると思いつつ、こめかみに人差し指を当ててうーんと記憶を探ってみる。脳の奥底まで潜ってみると、最初に閃いたのは俺の前に舞うたくさんの紙きれたち。そうしてなんだかパッとしない進学科の女と溶けかけた飴玉。

 ファイルの裏には、小さな丸文字で名前とクラスが書かれている。

 黒板の前ではシューベルトというよりもシュークリームのような顔をした女教師がキンキンと耳に痛い声を張り上げていて、意識のないはずの小金井が無意識に眉を歪めていた。

 俺は珍しい隣人の顔を眺めながら、ファイルの中身を捲ってみる。さて、どうするべきかと思いながら。



 午後5時。日の落ちかけた屋上に、その女はやってきた。

「……なんで、あんたはそんなに息切れをしてるんだ?」

 俺は、熱の冷めかけたコンクリートに座り込み、問いかけた。

屋上の重たい扉に体重を預けてぜいぜいぜいと全身で呼吸をするその女は、お世辞にも決して体力があるようには見えなかった。どちらかというと、100メートルを走っただけで体力を使い果たしゴールと共に地べたに転がってしまうようなタイプに見えた。

 女は、全身で呼吸をしながら必死に息を整えると、

「げた、ばこに、こんな、かみ、が……」

 途切れ途切れ発した言葉と一緒に突き出された、ルーズリーフ。

 俺はそれを手に取って、読み上げてやる。

「『人質は預かった。返してほしければ放課後5時に屋上に来い』」

「こんなのが下駄箱に入ってれば誰だって焦りますよ!」

「……紙質のほうがよかったか?ちょっと悩んだんだぞ」

「そうじゃなくて!」

 息を切らしながら叫ぶ、女。ずいずいと音を立てて俺に近寄ると、

「楽譜……」

「はぁ?」

「楽譜、返してください」

 早く返せとばかりに差し出された細い両手。俺が思わず握りしめると、ばんっ、とそれを払われた。

「握手じゃありません!」

 ジョークだって。落ち着かない奴だなこいつと思いながら、俺はそいつの名前を呼んでみる。

「えーと……青森――さん?」

 ピクリと跳ねる、そいつの体。

 ファイルの後ろに書いてあった名前で、どうやら間違いないらしい。

ほんのり赤くなって手を擦りながら、俺は鞄を開けて例のピンク色のファイルを取り出した。その途端、大きなブラウンの瞳がきらきらと光を帯び、そいつの小さな体から安心のオーラが発せられる。わかりやすいやつだ。

 俺が例のファイルを掲げると、『青森さん』がそれを取り戻そうとぴょんと両足で飛び上がった。あれだ。おもちゃを取り上げられた子犬みたいだ。

「……返してやってもいいけど」

 俺は、そのファイルを青森さんの届かない場所まで持ち上げて、いう。

「これ、なに?」

 俺の問いかけに、それまでぴょんぴょんと飛び上がっていた青森さんがぴくりと全身の動きを止めた。

「中、なんか楽譜みたいなの入ってるし。あと、これなに?歌詞カー……」

「わーっ!わーっ!わーっ!」

 青森さんの声はやたら滅多ら甲高く、よく響く。それが俺の耳元で叫ばれたものだから、俺の鼓膜は張り裂けんばかりに震えあがった。

「あんた……人の邪魔するの、趣味なわけ?」

「ごめんなさい……」

 自分でも自覚があったのだろう。

 俺は両手で両耳を抑えながら半泣きでそういうと、両人差し指を合わせながら、青森さんは視線を落とした。

「それで」

 気を取り直して。

 俺はフェンスに寄りかかり、青森さんに問いかける。

「これはなに?」

「ううう……」

 栗色の髪を持った青森さんは、同じ色の瞳を右往左往に漂わせながらコンクリートの上に正座していた。小さい体が更に縮まり、とてもコンパクトになっている。青森さんは意味もなく顔を上下に振って、忙しなく瞼を瞬かせていた。その姿が猫のようなネズミのようななんとも庇護欲をそそってみたりもするのだが、残念ながら俺は、そのファイルの中身になんともいえず興味があった。地味で大人しいこの女がそんなにも大事にしているこのファイルの中身が何なのか知りたくて知りたくて仕方がなかった。

 青森さんは青いスカートをぎゅ、と小さく握りしめると、決心をしたかのように唇を噛んで、言った。

「……に」

「はぁ?」

「音楽家に、なりたくて……」

 蚊の鳴くようなその声を聴くために、俺は耳を澄ます。

「音楽家に、なりたくて……それで、なんか……自分で、作ったりとか、してて……」

 後になるほどどんどんどんどん小さくなる、青森さんの声。

 それがあまりに聞き取りにくく、俺は自分が青森さんの言いたいことをきちんと拾えているのか不安になり、確認をする。

「音楽家?」

「……そうです」

「自分で曲作ったり?」

「……そうです」

「歌詞作ったり」

「……そうです」

「お風呂で鼻歌歌ってみたり」

「いえ……それは」

「しないの?」

「……たまに」

 ふぅん、と俺はそういって、腕を組む。緑のフェンスは、俺が寄りかかって体重をかけると少し軋んだ。紙切れで膨らんだファイルで少し汗ばんだ顔を仰いで、続ける。

「なんで内緒にしてたの?」

 俺がそう問いかけると、青森さんがぐぐぐ、と機械のように顔を逸らした。

「その……」

「うん」

「恥ずかしかったから……」

 青森さんの告白に、俺は少し顔を顰める。

「自分で作曲とか……馬鹿にされる、から……誰にも秘密にしてて……」

「馬鹿にされる?」

 無言の返答。俺はそれを肯定を受け取り、続ける。

「誰に」

「……クラスの人とか」

 クラスの人。

 ふむ。俺は腕を組み、首を傾げてこういってやる。

「別に……そんなおかしいことじゃ、ないんじゃねぇの?」

 俺の言葉に、そいつが伏せていた目を上げた。

「珍しいっちゃ珍しいけど……漫画書いてるやつとかクラスにいるし、馬鹿にされるとかは、ないんじゃねぇの?」

 俺としては、むしろなぜそれを恥ずかしいと思うのか謎だった。

 青森さんのいう『クラスの人』がどういう人なのかはともかくとして、とりあえず俺の中では、これらは馬鹿にする対象とはなりえない。それだったら弁当の中に栗羊羹弁当を詰めてくる染野の方がよっぽど馬鹿にされる要素を待ち合わせている。まったく、もっと面白い展開を予想していたのに、とんだ期待外れだった。

 手すりに背を添わせ、首を反らす。茜色の空には白い鳥が数羽纏めて飛んでいて、なんとも哀愁を漂わせた。影の落ちたビルの向こうからは夕焼け小焼けの音楽が甲高く鳴り響き、空っぽの俺の腹を刺激した。

 今日の夕飯はなんにしよう、カレーがいいなぁなんて意識を飛ばしかけたとき、「あの」という小さな声で、俺は現実に引き戻される。

 さっきまで俯いていたはずの青森さんはすでに顔を上げていて、睫の下から覗くように俺のことを見上げていた。どうやら、まっすぐ人の目を見るのが苦手らしい。

 人見知りの子供が親の後ろからちらちらと覗くようにして、体を左右に揺らしている。謎だ。

 俺は暫く、「あの」の後に続く言葉を待っていたのだが、なかなか次が出てこないので痺れを切らす。それから、例のファイルをハリセン代わりに、青森さんの頭に叩きつけた。

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