第2話 Cause
けれどうっかり教師の雑談なんてものに心を奪われてしまったために、俺は少し色々なことを考えてみるようになった。
例えばなんで空が青いのか、とか。
英語の教師は、なぜちょいちょいと自分の若いころの話を間に挟むのか、とか。
吉本はなぜ4時間目が終わると同時に姿を消してしまうのか、とか。
そういうこと。
けれど実際それらの問題は開始一秒で解けてしまう問題であり、俺の頭を悩ますほどのものではなかった。
空が青いのは、太陽が放ったいくつもの色の中で青が最も散乱しやすく、人間の目に映りやすいためであるし、英語の教師の雑談が多いのは最近可愛がっていた娘が反抗期な上に、妻ともうまくいっていないためだ。吉本の行動についてはただ単に一番で学食に行きたいだけなので考えることもない。
そういうことを呟いてみたら、
「フェルマーの定理でもやってみたら?」
と聖に言われた。フェルマーの定理がなんなのかわからなくて聞いてみると、
「有名な数学者たちが350年以上かかって解決をした公式のことだよ。確か、事典何十冊に及ぶとか……」
やめてくれ。俺は考えたいわけであり、そんなわけのわからない数式のために俺の細胞を犠牲にしたいわけではないのだ。
だから、そのとき俺の気分が悪くなったのも昨日の夜にうっかり嫌な夢を見てしまったためであり(本当に嫌な夢だった。体中傷だらけの人形が俺の首を絞めつけるという最低な夢だ)、そんな夢を見てしまったのも前日に近所の女に唆されて共にホラービデオを見たせいだ(あいつにはあとで慰謝料を請求しようと思う)。
そんな俺が午後の授業を抜け出してノートを聖と小金井に任せたのは当然のことだったし、サボりの場所として屋上を選んだことも当然だった。屋上は基本的に立ち入り禁止で鍵がかけられているはずなのだが、間抜けな教師たちは屋上の鍵がやんちゃな誰かによって壊されているということを誰も知らない。
そういうわけで、静かな廊下を抜き足差し足でこっそり歩いてほこりっぽい階段を上がりノブに手を掛けた。屋上のドアは錆びついていてひどく重くて、立てつけが悪くて開けるだけでも体重をかけて全力で前に押さねばならない。まるでぬりかべのように重い扉が俺の体重でぎぃぃぃ……と開き、不愉快な音が上がる。日の入りにくい薄暗い場所にうっすらと光が入り込み、真っ白な俺のワイシャツを反射させる。俺はぎゅ、と目を瞑りごしごしと両手でそれを擦り、前を見る。目の前が白い。俺の目はいつまで眩んでいるのかなどと思うが、少し遅れてその白さが光の白さでないことに気が付く。
太陽の光のように眩しい白ではなくて、人工の白。蛍光灯とか電球とかの光を反射させるような白ではなく、ノートとかメモ帳とかでよく見る白。大体大学ノートくらいの大きさの白は何枚も何枚も風に吹かれて飛び散って、よくよく見ると付箋のようなものが書かれている。謎だ。地べたに落ちた何枚もの紙切れのうち、一番近くに落ちていたそれを拾い上げると、どうやらそれは楽譜のようで、音符やら記号やらがやたらとたくさん書かれている。なんでこんなものがこんな場所に舞い上がっているのだろうと思い顔を上げると、目の前にこれらの楽譜の持ち主らしき人物がいて俺は思わず顔を顰めた。
目の前にいるのは、色素の薄い栗色の髪を持った女。規定通りの制服を規定通りに着込んだその女は、短い手足を振り回しながらあちらこちらに散らばった紙切れをかき集めていた。風で吹き飛ばされたその紙切れは、集めた底から更に風が吹いて飛び散って散らばっている。少しばかり子供っぽい造作のその女は、今にも泣きそうな表情でひらひらと自分を惑わす紙切れ達を追い掛け回していた。掴まえたそこから一枚飛んで、それを掴まえるとまた一枚ひらりと抜けて……という状態。アホだ。今日は晴れてるけどその分風が強いから、ちゃんと掴んでおかないとどんどんどんどん逃げていく。
その光景が面白いので暫く黙って見てたのだが、延々と同じことを繰り返すその女に5分目にして飽きてしまい、手近にあった紙切れを数枚纏めて拾い上げる。それから、俺の近くを飛んでいた紙切れを掴み取り、半泣きの女に突き付けた。
「なにしてんの?」
栗色の髪を持つ女は、俺の声に反応をしてぴくりと肩を震わせた。それから、地べたに座り込んだまま数十センチ頭上にある俺の顔を見上げ、なぜかうるうるうると涙を溜めた。なぜだ。俺はなんとなく見てはいけない気分になって、持っていた楽譜を纏めて数枚女の顔に押し付ける。
「楽譜が……」
風で飛ばされて、というのはその女。やたらか細くて高い声に、俺は少し溜息をつく。当たり前だ。こんな風の中、こんなばらばらの紙切れを持ってきたら、飛ばされるに決まっている。
「初めは、風がなかったんです」
初めはなかったにしろなんにしろ、ホッチキスで止めるなりなんなり工夫をしないとあっという間にばらばらになるだろう。
「最初は、こんなにたくさんになるとは思わなかったんです」
思わなかったにしろなんにしろ、こんだけ数が増えたらその時点でどうにかしろよ。
「ひゃっ!」
なにもないところでなぜか転び、女の抱えていた紙切れがまたばらばらに飛び散る。それと同じタイミング吹いた突風がばさりと楽譜を舞い上がらせて、女のスカートも捲らせた。 半泣きでスカートの裾を抑える女に、俺は言ってやる。
「……あんた、馬鹿だろ」
「ううう……」
大量の紙切れが舞い上がるその中で、女は両手で顔を隠していた。
大量の時間と労働力を使いすべての紙切れを集め終ると、俺はまず、それを女が持っていたらしいファイルに押し込めた。あくまで“俺が”だ。それから、周りに紙切れ一枚も落ちていないことを確認し、ピンクのファイルをそいつに渡す。頼むからもうばらしてくれるなと願いながら。
俺が渡すと、女は「ありがとうございます」と頭を下げた。小さい。というか、単純にか弱くて、細い。俺はクラスの女子とまともに話したことがほとんどないし、クラスのやつの名前だってほとんどちゃんと覚えていない。というか実際たまに間違える。佐藤のことを高橋と呼んで、こないだは小金井と聖を間違えた。(この件については、俺ばかりに非があるとは思えない。小金井と聖は、あまりにも後姿が似通っている)
その女は目玉がぐりぐりと大きくて、睫だってマッチ棒が乗るんじゃないかというくらいに長い。肌だって、太陽の光を反射するんじゃないかというくらいに色白で、いくらなんでも白すぎる。規定通りの制服。きっちりと第一ボタンまで絞められたブラウスと、赤いリボン。青いスカートは膝下で襞を打っている。軽くウェーブかかった栗色のロングヘアはおそらく天然なのだろうと俺は勝手に見当をつけ、ひとりで頷く。
「あんた、音楽部?」
俺の問いかけに、女はなぜか微妙な表情を作り強張らせる。
「なんで……」
「いや、だってそれ楽譜だし」
違うの?と俺が言うと、女は何とも言えない表情で俯いた。
「違うわけ?」
「……」
無言の返答。俺は顎に手を当てて探偵のようなしぐさを取ると、
「趣味?」
「趣味……じゃ、ありませ」
そこで初めて出た、強い反応。
俺は思い切り上を向いた女と目を合わせ、次の言葉が出てくることを暫し待つ。が、待てども待てども出てこずに、出てきたのはなぜか目の前で真っ赤に火照った女の顔と、ぷしゅぅぅぅという水蒸気。
それから、両頬に手を当ててなぜか悶える女の行動を眺めてから、今度は俺が問い詰められる。
「あ、あなたこそ!なんでこんなところにいるんですか!」
強気な口調なのになぜか強気になり切れていない、口調。しかも微妙に距離を取り、いつでも逃げられるような体勢を取っている女に、俺は当然のように言ってやる。
「サボり」
「……はぁ?」
あからさまに拍子抜けをしたという表情を取る、女。それが少し面白くて、開いた距離を少し縮めた。
「だからサボり。授業とか、やる気しねーし」
「……サボりは、だめだと思います」
あんたは一体何なんだと俺が言うと、女は表情を少し険しくして(けれど全然怖くないところが逆にすごい)
「わたしは、サボりじゃないです……今日は、授業が午前中だけだったんです……」
ぼそぼそと呟くような女の声に俺は適当に頷いて、それからああ、と思い出す。
「あんた、進学科?」
俺の言葉に、女がきょとんとした表情を返す。
「あれ、違う?進学科、今日の午後、なんかの振り替えで午後休みとか聞いたんだけど」
腕を組んで首を傾げ、疑問の表情を浮かべてみる、俺。女はぱちぱちと瞬きをして、無言でうん、と頷いた。
そうして俺は、数十分という短い時間を紙切れ集めで過ごしたことに気が付いて、屋上に対する魅力を失ってしまう。俺の体の脳細胞たちは散らばった紙切れを集めて名前の知らない同じ学校の女と話すだけで満足をしてしまったのだ。もっとも、なにか目的があり屋上に来たわけではないのでいいのだが。
だから俺は、次のチャイムで教室に戻ることをあっさりと決める。いつまでもここにいるわけにはいかないし、次の授業は担任だから出ないと色々うるさいのだ。あんたはまだここにいるのかと問いかけると、言葉少なに頷いた。なんでまだ残るのだろうとかも思うのだが、何も聞かないことにした。興味がないわけではなかったが、そういう雰囲気でないような気がしたのだ。
けれどそいつは、「それじゃあ」といってドアノブに手を掛けた俺のことを「あの!」と言って引き留めた。今度はなんだ。そう思いながら振り向くと、そこにはなぜかキラキラと瞳を輝かせたその女が立っていて、俺は嫌な気分にかられてしまう。 何となく逃げ腰になっていると、その女は自分のポケットに手を突っ込んで、俺の手を取り何かを握らせた。飴玉だった。意味が解らない。
眉を潜めながら俺の手の中の飴玉と女の顔を見つめると、そいつはすぅっ、と息を吸い込んだ。
「あ」
「あ?」
「ありがとう、ございました」
ぺこり、と盛大な音がするほど潔い、お辞儀。その行動に、俺は一体どのような反応を示していいのかわからずに、そのままの状態で数秒動きを止める。
俺は今まで人に感謝をされるようなことなんてしたことないし、まして同じ年齢の女に頭を下げられるなんてことあるはずがなかった。動きどころか、うっかり息まで止まってしまうのではないかと思った。
そのまま、止まって、固まって――
俺は、左手でそいつの頭をそのままぐいぐいと押し込めることに決める。俺の聞き手は左手だ。こいつの頭はちっこくて、俺の対してでかくもないはずの掌に丁度良く収まるいいサイズだ。思い切り力を入れて体重をかけると、
「ひぎっ!」
という悲鳴が上がり、俺のことを喜ばせる。もう少し遊んでやろうかと思ったのだが、あと2分で次の授業が始まってしまうと気が付いて、俺は左手の力を抜いた。
俺は、そいつが顔を上げる前にその場を退散することを決める。ぽん、ぽん、ぽん、と 階段を下りて、俺は笑いを抑えきれない自分に気が付いた。
風にふっとばされた楽譜と、何もないところで転げた足。意味もなく深いお辞儀。渡された飴玉はすでにちょっと溶けかけていてスルメ味とか怪しすぎる。
「ふはっ……」
馬鹿みたいだとか正直思うが、それでも俺は、なぜか笑いを抑えることができなかった。
全身の細胞が生まれ変わっていくように、俺の体の中にいる何かが、何かしらの衝動を起こしているような、そんな気がした。
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