死に至る病
シメサバ
第1話 Immunity
俺は元々科学が嫌いで、それと同時に科学の教師も嫌いだから、科学の授業は殆ど9割方いつも聞き流していた。大体俺は黒体の単位面積から単位時間に放射される電磁波のエネルギーなんてものに興味はないし、実在気体に圧力と体積の関係を近似するためにオランダ人が提案をした式なんてどうでもいいのだ。社会システムとエントロジーの関係性を学んだとして、この先人生80年生きていくどこかで役に立つとは思えなかったし、定積モル比熱と定圧モル比熱の関係が世界を救うとも思うことができなかった。
どんなに興味のないことでも、黒板に書かれた文字をノートに写して配られたわら半紙に枝豆の法則を書いておけば点は取れたし、怪しい薬品の入った試験官をビーカーの中に突っ込めば単位が取れた。カエルの解剖だとか気味の悪い作業は、人体の神秘に興味を持つ怪しいクラブに任せれば成功していた。
クラスメイト曰く、
「藤堂は成績いいけど態度が悪いね」
らしい。いつだったか提出期限から5日遅れて出したとき、脂の乗った担任の教師に同じようなことをぼんやりと言われた。嫌味だったかもしれないし俺にやる気を出させるためのすべだったのかもしれないけど、俺はそれらの言葉を気に留めることもなくただひたすらに聞き流した。どうでもよかった。それらの問題は俺にとって、ノストラダムスの大予言よりも興味のないものだったのだ。
だから俺は、いつも通り、緊張感のない間延びをした教師の声を半分以上聞き流し、欠伸をしながら板書をしていた。6月の梅雨が明けたての空はよく晴れ渡り、それをそのままぽっかりと切り抜いたかのような雲が浮かんでいた。名前の知らない白い鳥が3羽並んで飛んでいて、ピチピチピチという囀りを奏でている。最高にいい日だった。俺の席もよかったのだ。窓を開けると、爽やかな風が吹き込んで、俺の前髪を戦がる。窓際の一番後ろの席って素晴らしい。前の席にいる染野洸一が涎を垂らしながらずびずびずびと鼾をかいているのだが、それさえも許せてしまうくらいの素晴らしさ。
だから、その時教師の言葉にうっかり興味を持ってしまったのは、水無月の空の魔法のせいか、もしくはほんの気まぐれだったのだ。
人間の体というものは生きた細胞で成り立っていて、その数およそ60兆個。毎日、そのうちの約20%(およそ15兆個)の細胞が死んで、生まれ変わる。早い細胞は1日2日で脱落死亡、人間を支える硬い骨でさえ数ヶ月で全部新しく置き換わる。
脳細胞は生まれて3歳ごろまでは増殖をするが、それ以降はまったく増えず、10代以降は減る一方。
なんてことだ。不覚にも俺は、教師が授業の間に気まぐれで話した趣味の話にうっかり興味を奪われて、挙句の果てには感動なんてしてしまったのだ。
全身の細胞は一秒間で約500万個生まれ変わる。俺が今こうして堪えることなく欠伸をしている間にも、俺という個体を構成している全身の細胞の20%は死亡して生まれ変わっているのだ。俺の体のすべてを司っている脳細胞の何パーセントはどんどんと死んで行ってしまっているのだ。今いる俺は間違いなく俺という存在のはずなのだが、一秒前の俺は俺であり俺ではない。無茶苦茶な理論で電波な意見でしかないのだが、その時の俺は、間違えて教師の言葉を一生懸命暗記して、脳みそという辞書の中に仕舞い込んだ。その辞書も、すでに何パーセントかは死んでしまっているのだが。
そう考えてみると、なぜか俺は死んでいく細胞の数だとかのんべんだらりと過ごしていく一秒一秒だとかがなぜか急にもったいなくなり残念になり、もう少し俺の中にある脳細胞だとかそういうものを大事にしたほうがいいんじゃないかと思い始めた。もう少し色々なことを考えて行動に移してみてもいいんじゃないかと考えだしてしまったのだ。
と、いうことをクラスメイトの常識人の小金井崇にふらりと呟いてみると、そいつは豆鉄砲でも食らったような顔でこう言った。
「藤堂がそういうこと言うの、あんまり思いつかなかった」
意外なのかと聞き返すと、そいつは何とも言えない曖昧な笑みを浮かべた。
「いいんじゃない?やってみなよ」
そうしよう。
さて、いざ考えてみようと思っても、一体何を考えてみればいいのかわからない。俺は正直日本の政治に興味はないし、環境問題もどうでもいい。今の首相の名前も覚えていないし(俺の日本の総理大臣は三代前で止まっている)、赤い羽根募金もしたことがない。
世界平和について?
それは俺の仕事ではない。
自分という一人の人間の存在性と意義について?
そんなもの考えるだけ馬鹿げている。
愛と勇気と希望について?
俺よりも近所の小学生や幼稚園児の方が明確な答えをくれそうだ。
などと色々なことを考えてみて、なかなか答えが出なかったので隣の席の常識人その2こと聖陽一に聞いてみた。曰く、
「考えすぎなんじゃないの?」
らしい。
「世界平和だとか愛とだとかって、いきなりそんな大それた考えを抱くから失敗するんだよ。もっと身近なことについて考えてみればいいんじゃない?」
なるほど。
確かにそうだ。世界平和や愛や希望なんて、俺の柄じゃない。
といったら、隣で聞いていた染野のアホが
「藤堂は世界を守る側じゃなくて壊す側だもんね」
とか言いだした。ムカついたのでとりあえず殴ってみた。そしたら染野が泣きだして聖がそれを慰めるという奇妙な構図が出来上がり、俺は話す相手がいなくなる。しばらくわんわんと子供のように泣き喚く染野を眺めていると、様子を伺っていたらしい小金井が俺の傍にやってきた。やってくるも何も小金井の席は俺の隣で、自分の席の隣についた以外の何もないのだが。
小金井崇という人間はどこか大人びているというか年齢の割に非常に達観をした――という言い方をすればよく聞こえるが、はっきりいうと性格が老けていた。高校生のくせにまるで子供を2,3人育て上げた父親のような風貌を持っていて、人生の衰も甘いも知り尽くしたような表情を作っていた。
だから俺は、隣でこんこん自分で自分の肩をほぐしている小金井崇に聞いてみる。
「小金井、なんか悩みある?」
「悩み?」
「そう、悩み」
俺の言葉に、小金井は清潔感のある顔に皺を寄せた。その表情が近所に住んでいる農家のおっさんと同じものだったので俺は思わず吹き出しそうになる。ぎりぎりぎりと笑いを堪えていると、小金井はポン、と両手のしわとしわを合わせて言った。
「うちの弟がいまだに0点のテストをベッドの下に隠してるんだけどどうしたらいいと思う?」
「……エロ雑誌じゃないのか?」
「いや、グラビアは普通に机の上にあるんだよ」
それはいいけど、0点のテストが……などと近所の奥さん顔負けの母親っぷりと現すクラスメイトに、俺はこっそり溜息をつく。訂正。こいつはおっさんじゃなくてこの道十数年の主婦だ。
さて、俺は一体何について考えてみたらいいのだろう。
大体俺は、生まれてこの方悩んだり考えたりということについて無縁だったのだ。問題があるということは答えは必ずどこかにあるわけだし、答えのない問題などあり得ない。
「真実はいつもひとつ」なんて大それたことをいうわけではないけれど、問題がある限り常に何かしらの答えを選択せねばいけないのだ。AがあればBがある。Cが嫌ならDを選ぶ。嫌なことはやらないし、嫌でもやらねばいけないことはやってきた。
「あんたって結構冷めてるよね」
近所に住んでいる同じ年の女にそのようなことを言われたことがある。
「だってそうでしょ?どうしてもやらなきゃいけないのにどうしてもやりたくないこととか、選びたくないのに選ばなきゃいけないこととかあるじゃない」
そうなのか。そうかもしれないとも俺は思う。
けれど俺は、やらなきゃいけないのに嫌だとかぐだぐだうじうじ考えて悩んでみたり、そこにある答えを探すためにいちいちわざわざ遠回りをしてみたりするのが嫌なのだ。
「考えるのが面倒くさい?」
それもある。
『答え』が出来上がるまでの過程には間違いなく“原因”と“問題”があるわけで、その大元を探っていけば大体の問題は解決をするのだ。水と砂糖を混ぜれば砂糖水ができることと同じように、3人以上の人間が集まればいじめは必ずそこで起こる。それと同じだ。
「あんたって、悩みとかないの?」
なんと失礼な奴だろう。
俺にだって時々悩んだり苦しんだりもするわけだが、それは大体いつも突発的にやってきて、わけもわからずに引っ込んでいた。一年に一度の割合で飽きもせずに俺の体内に住み込んでしまうような奴もいるのだが、そいつらだって知らないうちにどこかの誰かに住処を移してしまっていた。
わけのわからない悩みというのは、大体原因は自分にある。突然現れたそれらは、まるで新種のウイルスのように俺の体内に住み着いて好き勝手にぼろぼろに活動をしていく。俺だって、俺の意思だとか希望だとかを無視して暴れまわるそのウイルスをうまくコントロールすることができなくて、時々ふらりと情緒不安定になることだってある。ないわけではない。この進歩をした世の中に風邪の特効薬がないのと同じように、不安や孤独はいつまでたってもなくならないし、悩みはまるで山のように大きく盛り上がり壁のように立ちはだかっている。
考えれば考えるほど増えて行って、雪だるま方式に大きくなる。
そう考えてみれば、悩みなんてものは最初から持たない方がいいのだ。
「考えても無駄ってこと?」
当たり前だ。悩んでいいことなんてひとつもない。
「あんたって本当にやな奴」
うるさい。
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