空に落ちる

シメサバ

空に落ちる

 死のうと思った。

 人生に失敗をしたからだ。

 だから俺は、スーツ姿で夜の会社の屋上に立っていた。

 俺が今いる場所からは夜の街の輝きがよく見えた。眩しかった。星ひとつない都会の闇の下で、家ビルの光が付いたり消えたりするのが面白くて、なんだか笑ってしまった。

 ぽっかりと穴の開いたような足元はひどく心もとなくて、女の子の短いスカートのようにスース―とした。少し風が吹けばあっさりと落下してしまう気がした。

さぁ目を閉じて飛び降りようとしたそのときに、俺は甲高い子供の声で呼び止められる。

「おじさん、何やってるの?」

 だから俺は飛び降りかけた足を止めて、肩ごしに後ろを振り向いた。

 そこにいたのは男の子だった。胸のポケットに大きく星の入ったオーバーオールと赤いトレーナーを着込んだ、小学校入る前くらいの男の子。その子は、小さな体に恐竜のぬいぐるみを抱え込み、扉の前に立っていた。

 俺は、深夜で俺意外誰もいないはずの場所に子供がいたということに驚愕をして、それからその子供が一瞬天使に見えたことに少し笑った。

「ねぇ、何やってるの?」

 この寒い中やたら薄着のその男の子は、子供特有の頼りない足取りで一歩一歩近づきながら、これまた子供特有のまったりとした足取りで問いかけた。

 俺は天への入り口から一歩足を引き、子供に少し近寄って、言った。

「おじさんはね。これから天使になるんだよ」

「なんでおじさんは天使になるの?」

「たくさん失敗をしちゃったからさ」

「たくさん失敗?なんで?どんな失敗をしたの?」

 ビー玉のような瞳をきょとんとさせる小さな子供に、俺は苦笑する。それから、自分の身長の半分にも満たないような子供に視線を合わせ、頭を撫ででこういった。

「数えきれないほどの失敗さ」

 答えになっていない俺の答えに、子供は案の定、頭の上にはてなマークを浮かばせた。ひどく素直な反応だ。俺は自分のコートを脱いで冷たく冷えた子供に着せ、問いかけた。

「君こそ、ここで何をしているんだい?」

 俺の言葉に、子供はぴくしょん、というくしゃみを一つして答えた。

「呼ばれたんだ」

 子供の答えに、今度は俺がきょとんとする。呼ばれた?誰に?親に?

「お父さんとお母さんはどうしたんだい?」

「知らないよ。でも僕は、呼ばれたからここに来たんだ」

 理解のできない子供の答えに、俺は首を捻る。わからない。どういうことだ?

 俺がそれを再度問いかけるその前に、子供は先ほどまで俺が立っていた場所にちょこんと腰かけた。屋上の端は丁度いい具合に段差ができて、椅子のようになっている。

 俺のコートを着込んだ子供は――コートが大きすぎて、コートを着ているのかコートに着られているのか――まだまだ幼い風貌に俺の薄汚れたコートは何ともミスマッチで可愛らしい。俺は、ぷらんぷらんと落ち着きなく足を揺らす子供の隣に腰を掛けた。子供の短い両手の中には、緑の生地に星マークの散ばされた恐竜が存在している。

「ティラノザウルスかい?」

 俺が問いかけると、子供はうん!と満面の笑みで頷いた。

「フレディは僕の友達なんだ!いつも一緒にいてくれるんだ!」

 子供は恐竜の脇下に手を入れて抱き上げると、それを俺に差し出した。そうなの、と俺は言って、ティラノザウルスを受け取った。小さな子供の腕の中にいたときはとても大きく見えたのに、実際自分で持ってみると案外小さいものだ。

「僕はね、呼ばれたんだ。僕を呼んでいる人がいるから行くようにって、待っている人がいるから来るようにって。だから来たんだ」

 意味が、わからない。この子はさっきから、一体何を言っているんだ。

 俺はぬいぐるみを抱えたまま、隣で足を揺らしていた子供を見つめた。

 子供はすっ、と俺の腕を掴みとると、そのまま後ろに体重をかけた。瞬間、ひゅっ、と首が引っこ抜かれるような、背中が空を飛ぶかのようなそんな感覚。視界のすべてに空が広がり、俺は瞳孔を見開いた。暗い空には星が散らばり、眩い模様を作っている。右の空がきらりと光り、星がひゅるりと流れて行った。黒い雲が途切れ途切れに流れて、欠けた月を横切っていく。

「おじさん、僕はね」

 黒目だけを動かして横を見ると、俺の手を掴んでいたはずの子供の姿が見えなかった。けれど、甲高い子供の声だけは、落下をする俺の耳の奥にやたらしっかりと響いていた。

「おじさんに呼ばれたから来たんだよ」






 ぶわっ――

 と夢から目覚めるようにして覚醒をした。ふぎゃあ、ふぎゃあとよくわからない声を上げると、唐突に俺の体が縮んでいることに気が付いた。俺は泣いていた。仰向けに寝かされて泣いていた。なぜ泣いているのかわからない。理由もなしに泣き喚いている自分に驚いて、俺は泣くことをやめようと努力をする。が、なぜか泣くことをやめられない。俺は自分がいつまでも泣いていることが気に入らなくて、更に大声で泣き喚く。大声で誰かを呼ぼうとそうしても、なぜか俺の口から出るのはふぎゃあふぎゃあという情けない声ばかりで言葉らしきものを発することができない。寝返りを打って周囲の状況を確認しようと思うのだが、自分の体が自分の体でないかのように動かない。

 そのままぶぎゃあぶぎゃあと情けない声を上げていると、それまで真っ白な光ばかりであった俺の世界に影が落ちた。俺がその影が人であると気が付く前に、伸ばされた腕が俺の顔に触れた。

「あらあら、みーくん、もう起きたの?」

 腕の主は俺の頭と尻の下に手を入れ、抱き上げた。いつまでも泣き続けていた俺は漸くの事泣き止んで、その人の顔をじっと見た。


 俺がその人の名を呼ぶ前に、俺の思考はまた暗闇の奥に吸い込まれた。






 ドンッ!

 大型トラックに衝突されたような衝撃に俺は体を震わせた。

 現れたのは教室だった。どこの教室なのかわからない。目玉が転げ落ちそうなほど見開いて前を見ると、小学生らしき子供たちが教師も含め全員で俺のことを見つめていた。意味がわからない。ドンドンドンと胸を叩きつける心臓を抑え込んで、俺は冷や汗をかいた手を握りしめる。

「富沢くん」

 どこかで聞き覚えのある声に、俺ははっ、と頭を上げた。

「次、富沢君だよ。29ページの、ゴンじいの所から」

 伊藤早苗は俺の初恋の相手だった。頭がよくて優しくて、まさに高値の花だった。

 俺は事態を把握できぬまま、小学3年生の教室を見渡した。それから辺りの様子を探るようにして立ち上がった。俺の机の上には、薄べったい教科書と欄の大きいノートが置かれている。

 俺は表紙に熊と女の子が書かれた教科書を手に取って、恐る恐るそれを開く。そこに広がっていたのは夜空だった。文字でもなく白いページでもなく挿絵でもなく、星の散らばる夜空だった。

 俺の体は、俺が悲鳴を上げると同時に教科書の中の夜空に吸い込まれた。






 次に俺がいたのは学校だった。

 俺は黒い学生服を着て、地面に座り込んでいた。

 目の前にいるのは、同じ中学で当時仲良くしていた4人で、そいつらは一人の男を囲んでいた。

「いっちばーん、植木―。シュートいきまーす」

「ナイッシュー、かみっちゃーん」

 上着を剥がれズボンを脱がされ、ワイシャツをパンツという間抜けな格好になってしまったその男は、サッカーゲームと称したこの遊びでボールという名の役を与えられ、殴られ蹴られいじめられていた。痣ができ血がでて使い込まれた雑巾のようだった。

 俺はそのサッカーボールが蹴られ更にぼろぼろになっていく様を煙草を吸いながら眺めていた。空いている手にはビールもあった。中3の頃、俺は何人かと手を組んで大人しいクラスのやつをいじめていた。理由はなかった。暇だったのだ。

 俺はそいつの名前を覚えていなかった。覚える必要もなかったし、その時の俺はそいつの存在自体この世にいらないと思っていた。

 目の前にいるそいつの鳩尾に足が減り込み、端の切れたそいつの口から胃液が出る。ゲホ!と急き込んで、汚いそれが芋虫のように丸まった。

俺の友達たちは「うへぇー、汚ねぇー」とか「こいつゲロ吐きやがった―」とか嘲笑をしていた。

 胃液を吐いてゲロを吐いて、地べたの上に転がっているサッカーボールはひどく惨めで滑稽だった。そうして、調子づいた一人がそいつのパンツを剥ぎ取って、股間を抑えてケツ丸出して土に汚れている様も滑稽だった。

(俺は……過去を彷徨っているのか?)

 そいつのパンツを脱がせた奴が俺の煙草を取り上げた。にやにやと嫌な笑いをしていた。

 それからそれを、痣だらけの傷だらけ泥だらけになったそいつの太腿に近づけた。

 俺はひどく驚いて思わず顔を引き攣らせた。


「やめろ!」


 叫ぶより早く、俺の体は夜の闇へと吸い込まれた。






「俺は死んだのか?」

「死んでないよ。なんで?」

「……走馬灯と、いうだろうが」

「違うよ。おじさんは見てるだけ」

「俺の過去をか?」

「そうともいうけど、でも違うかな」

「……じゃあなんだ」

「おじさんに必要なもの」



 


 そこは大学のキャンパスだった。

 上京をして一人暮らしを始めた俺は浮かれていた。髪を染めてピアスを開けて洋服だって流行のものを買い込んで、俺は学生生活を満喫していた。

「幹生」

 人ごみの中、俺は女の声で呼ばれて振り向いた。茶色い髪のセミロングのその女は、俺の手をぐい、と掴むと、満面の笑みでこういった。

「なにぼーっとしてるの?次、講義室だよ」

 中川由美は大学1年でできた、初めて彼女と呼べる存在だった。中川由美とは大学3年の冬までそれなりに長い期間を共に過ごした。キスもしたしセックスもした。結婚をしようと考えたこともあった。

 中川由美に引かれて足を一歩踏み外した瞬間に、一気の俺の周囲が変わった。俺の服さえも代わっていた。そこはアパートだった。俺の部屋ではなかった。その部屋には猫のぬいぐるみだとかボンボンのついたロングコートが置いてあった。部屋の脇には一組のベッドが置いてあって、そこには一組の男女が裸で抱き合って嬌声をあげていた。

 その男女は俺が唐突に現れたことに気が付いて目玉が飛び出るほど驚いた。俺は全身の血液が湧き上がるような感覚を覚え、咄嗟にそこにあった置時計を持ち上げて投げつけた。

 俺の掌から飛んで行った置時計が中川由美に当たり、当たった場所から暗闇が展開された。俺の足元はまた安定感を失って、ずぶずぶずぶと落下していく。

 俺が中川由美の自宅を訪れたことは突然ではなかった。俺が由美の家を行くことはかなり前から決まっていたし、由美もそれを知っていた。由美は、俺との約束を忘れ、浮気相手の男を連れ込んでいた。

 俺が由美に投げつけたのは、由美の誕生日に渡したものだった。由美が前々から欲しいといっていた、ピンク色の置き時計だった。






 暗闇を漂っていた俺が着地をしたのはコンクリートの地面だった。スーツを着込んだ俺は肌寒い冬の夜を歩いていて、クリスマス間近のきらきらとした街を歩いていた。

「きれいだね」

 コートに包まれた俺の腕を組んでいるのは、記憶の中よりもずっと若い瑞穂だった。瑞穂は俺と同じ年の癖に年齢よりもずっと幼く見えた。

 俺のポケットの中には小さな箱が入っていて、俺は今ここで瑞穂に一世一代の大勝負を申し込むはずだ。俺の3か月分の給料が込められた小さな箱は、とても軽くて気が付けば失くしてしまうようなものだったが、それはその時の俺のすべてだった。

 俺は俺の腕にすがりつく瑞穂と向き直って、コートのポケットに手を入れた。目の前では寒さで真っ赤に目を腫らした瑞穂がきょとんとした顔で見上げている。

 俺がその箱を取り出そうとしたその時に、俺の世界は一気に弾けた。





 俺が30歳の時に購入をした家はガラスが割れ食器が割れ荒れ放題だし、食べ物の散らばったその真ん中では瑞穂が泣いている。テーブルの上からは味噌汁がぽたぽたぽたと垂れて床の上にプールを作り、台所の端をゴキブリが歩いている。

 また武雄が暴れたのか、と俺が言うと、瑞穂はそれを泣き声で返した。もうやだ。なんで結婚なんかしたんだろう。なんで子供なんか産んだんだろう、結婚なんかしなければよかった。子供なんて産まなきゃよかった。

 俺は、俺の足もとまで転がっているハンバーグを手に取った。ハンバーグはもうすでに冷たくて、潰れてぐちゃぐちゃになっていた。

「そんなの……」

 俺が聞きたいよ。

 俺はその、ぐちゃぐちゃになったハンバーグを握りしめた。ソースのついたハンバーグは四方八方に飛び散って、俺の顔に直撃をした。直撃をしたそこに罅が入り、べりべりべりと剥がれ落ちた。






 正直俺は、あの時瑞穂にプロポーズをしてしまったことを悔やんでならない。むしろ、俺は俺の人生を生きてきたことを悔やんでならない。俺がこの世に生を受けてしまったことを悔やんでならない。

 もし、あの日あの時に生まれてたのが俺じゃなければよかったんじゃないか。なんで俺なんかが今まで生きてきてしまったのか。俺のくだらない人生には、あのときああすればよかったこうすればよかったという後悔酬いが多すぎる。

「俺なんか死ねばいいんだ。俺なんか消えればいい。そうすれば大抵のやつは幸せに難なく生きることができる。その方が瑞穂も武雄も幸せになるだろう」

「……本当にそう思ってるの?」

「ああ」

 結局俺は、誰かの役に立つこともなかったし誰かのために何かをすることもできなかった。それどころか人を傷つけたり苛めたり大事なものを奪ってばかりだ。

 宙を漂っていた俺の体は、誰かにひゅい!と腕を掴まれた。俺の体はまるでロケットに括りつけられたかのように動き出す。暗闇ばかりだったその世界に一筋の光が見えたと思ったら、俺の体は頭からそこに突っ込んだ。思わず目を閉じてそれを開くとそこは病院で、目の前ではお腹の大きな妊婦さんがベッドに転がりラマーズ法を繰り返していた。その周りには年を取った医者と中年の看護婦が見守っていて、ひぃひいはぁと呼吸を繰り返す妊婦の隣で呼吸を合わせているのが武雄。

 武雄とは、もう何年もあっていない。あいつが結婚をしていることも嫁さんが妊娠をしているということも、住んでいる場所すらも知らなかった。

「パンドラの箱って知ってる?」

 妊婦の声が悲鳴のように大きくなって、呼吸もどんどん荒くなっていく。頭が見えたと医者が言う。がんばってくれと看護婦が言う。

「開けるな、と言われた箱を開けると、そこからは、疫病、悲観、欠乏、犯罪、嫉妬、憎悪などのあらゆる災厄が飛び出てきた」

 ふぎゃー!という劈くような泣き声が一面に広がり、反響する。

「でもね、最後にたった一つだけ残ったんだ。それがなんなのか、知ってる?」

 臍の緒で繋がれた赤ん坊が、狭い世界から広い世界に誕生を遂げた、しわくちゃで猿みたいな赤ん坊だ。手も足も小さくて目も開いていない赤ん坊だ。

「それはね」

――かしゃん


 




 次にいたのは暗闇だった。安定感なくふわふわと宙を漂う俺の体。星屑の一つも見えない暗闇は、気味が悪いを通り過ぎて美しいと思えるほどだ。

「あれは、武雄の子供なのか」

 俺が聞けば、「他に誰の子供だっていうんだ」と返されて、「そりゃそうだ」と俺は言った。

「武雄とは、もう何年も会っていない」

「知ってるよ」

「あいつは……」

「うん?」

「あいつは一体、いつ、どこで……」

「それは――」

「それは?」

「それは、自分で聞いた方が、いいと思う」

「……そうだな」






 そこにあったのは箱だった。

 あの時、瑞穂に渡した箱と同じくらいの大きさの、小さくて黒い箱だ。

 俺は足元に置かれたそれを拾い上げ、蓋を開けた。






 目覚めは静かだった。

 俺は屋上に寝転がり、広くて深い空を見上げていた。群青の空には相も変わらず点々と星が散らべられ、欠けた月が笑っている。

 俺はぽかーんと口を開いたまま真冬のコンクリートの上に背中をつけて、夜の温度を体感する。ひどく寒い。そして冷たい。ひゅるりとゆるく風が吹いて、俺のネクタイを靡かせた。

 小さな子供は、先と同じ屋上の端に腰を掛け、頼りない足をぷらりぷらりと動かしていた。狭い肩にかけた黒いコートは、見覚えのあるものだ。緑の生地で星マークの恐竜は、短い子供の腕の中から俺のことをじっと見ていた。

「僕は、呼ばれたんだ。おじさんが大切なものを見失って、なんにも見えなくなってるから、だから呼ばれたんだ」

 俺は欠けた月を見上げながら浅く小さく呼吸をして、言った。

「それは、俺が呼んだのか」

 子供はさらさらとした髪を揺らし、うん、と小さく頷いた。

「一緒に探してほしいっていったから、だから来たんだ」

 子供はぽぉん、と飛び降りると、ぺたぺたぺたと頼りない足取りで俺の頭の上まで近寄ってきた。

「コート、あったかかった。ありがとう」

 にこっ。と、子供らしい無邪気な笑みを浮かべると、まるで布団のようにして、寝転んだ俺の体の上に掛けた。

 魂を抜かれたようにして、呆然と天を見上げる俺。小さな足音が徐々に遠くなっていくことに気が付いて、俺はガバリ!と体を起こす。

「君はなんだ?」

 先ほど、俺が飛び降りようとしていた位置に、その子はいた。オーバーオールと赤いトレーナーを着込んだ子供は恐竜のぬいぐるみを抱きしめて、振り向いた。


「おじさんが探していたものだよ」






 俺はまた、屋上に立っている。

 けれど今は夜ではないし、光輝く星もないし、欠けた月だって出ていない。天には真っ青な空が広がり、巨大な雲が浮いて、汗が出るほど赤々と乾いた地表を照らしている。

 あの時死ぬことのなかった俺の魂は、俺という肉体に押し込められたままのらりくらりと毎日を過ごしている。

 俺が生きている限り、おそらく俺は失敗と後悔を繰り返し人を傷つけ苦しめていくことだろう。

 俺の足もとはとつもなく不安定な状態に広がっていて、一歩進めばあっというまに天国に行くことが可能だろう。いや、天国ではないのかもしれない。半分以上の確率で地獄なのかもしれないが、それでも俺は、ここから下に飛び降りるわけにはいかないのだ。色々な苦痛だとか後悔だとかを抱えたまま、俺は俺の作り出してきた色々なものと生きていかねばならないのだ。

 俺はふとした瞬間に小さな子供を思いだす。

 あの夜の欠けた月と、星のマークがちりばめられた恐竜のぬいぐるみ。赤いトレーナーとオーバーオールを着込み夜空へ消えた幼い子供。

 例えばもし俺がまた、何かを見失い、探しても見つからなかったその時に。あの子は呼べば出てくるのだろうか。またあの恐竜のぬいぐるみを抱えたまま俺と共に何かを探してくれるのだろうか。

 俺は目を閉じて、体のすべてであの時の暗闇と浮遊感を感じ取る。

 遠いどこかで、誰かが俺を呼んでいる。そんな気がした。




fin.



2010.9.28 執筆




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