268:大軍に区々たる用兵は

268:大軍に区々たる用兵は


【剥製屋】ことイスフォード伯爵オジー=キノンが戦死した第五次コボルド王国防衛戦、ザカライア=ベルギロスが敗れたアルドウッズ橋の戦い、そしてイグリス中央軍とコボルド王国軍の、この直接衝突。

 後世【コボルド戦役】と呼ばれる今年一連の戦いを締めくくる第六次コボルド王国防衛戦……コボルド森の戦いは、開始からとうとう四十日目を迎えようとしていた。


 ……二十四日目の大敗以降、イグリス軍はまったく攻勢には出られていない。


 第一陣一千五百、第二陣三千、第三陣二千と総計六千五百名にのぼる戦闘人員を投じた討伐軍であったが、これまでの戦いで想定以上の損失を重ね、今や戦力は二千五百程度にまで減少していた。いや、軽度負傷者の復帰で三千弱はいくか。

 勿論これですらコボルド軍残存戦力の十倍以上にはなろう。なるが堅牢な【緑の城】だけを固めればよい毛皮の防衛軍とは違い……前線以外の領域や本陣にも兵力を割かねばならないイグリス軍は、緑迷宮の再攻略などに移る余力は無かったのだ。

 それどころかむしろコボルド軍が度々城外へ手を伸ばしすらしており、イグリス側は包囲の維持に汲々とする有様である。

 さらにイグリス陣中では質の悪い風邪まで流行し始めており、兵の士気と稼働をさらに悪化させていた。


 本来であれば敗北を認め、軍を退くべき状況であろう。だが彼の裁量で軍を退くことはできず、またこの戦いは退くことができぬということを知るのが彼の立場なのだ。

 そのことを理解できる人物は、ごく、ごく一部に限られている。そのため一般将兵の目には引き際を心得ぬ「宰相七光りの司令官」と映り……無論直接言うはずもないが、無言でも容易に伝わるその圧力は【若禿】の自尊心と精神を大いに傷つけ、苦しめたことだろう。


 しかしこのガイ=ガルブラウは、その屈辱で荒れることも部下へ当たり散らすことも、責任を転嫁することも無い。【欠け耳】への敗北感に臓腑を焦がしながら、彼は彼がこの段階で為すべきことを黙々と為し続けていく。


 多くの騎士や隊長格を失い、また部隊編成的にも断片となった第一、二、三陣の再編成を戦線維持と並行して進め、野戦任官で前線指揮官数を確保、また前線と後方との連絡線整備を行い、さらに既存三つに加えてもう六つの森砦を新設までして包囲態勢の強化に努めた。

 また流感患者の隔離でひとまず流行を落ち着かせつつ、この戦いで復帰の望めぬ傷病者を本国へ後送するなどして、来るべき第四陣を速やかに受け入れる余地を作り出したのだ。

 彼はこの十六日間、ただうなだれていた訳ではない。攻勢に出られない分、その間は次の動きへの準備に専念したのである。

 今天幕の中で、彼が跪き謝罪している相手のために。


「申し訳ありません、伯父貴!」


 それがミッドランドからの第四陣を伴いこの四十日目に到着した、イグリス王国宰相エグバード=ビッグバーグであった。


「ご到着前に片付けるなどと嘯いておきながら、この体たらく。申し開きのしようもございません」

「【欠け耳】のほうがお前よりも、数枚上手だったようだな。ガイよ」

「はい。仰る通りです」


 サーシャリア=デナン当人が聞けば渋面を作りそうな物言いだが、【若禿】は率直に頷く。彼は【欠け耳】からかつてない苦杯を舐めさせられた男でもあるが、同時に今やイグリス軍内で最も彼女を尊敬している軍人なのだ。


「本来ならこの第四陣は、コボルド村の攻略ではなく防衛のための戦力。辺境伯らからミスリル鉱床を守るための軍となるはずなのに……」

「その辺境伯だがな。ゴルドチェスター領は目論見通りグランツ王国の侵攻で汲々としているようだが、ルーカツヒル領は雲行きが怪しくなってきた」

「なんですと!?」

「フルリールの王弟では、ルーカツヒル辺境伯の足止めすら力不足だったようだ。あれでは冬を待たずにゴルドチェスター領から駆逐されるかもしれん」

「では、コボルド攻めがもし雪時期まで長引き来春まで持ち越すようであれば……」


 ガイ=ガルブラウの言葉に、無表情のまま頷く【白黒の人】。


「そうだ。春にコボルド村の救援へ現れる可能性は、非常に高い。どころか下手をすれば冬前に牽制のため戦力を送り込んでくるやもしれぬ。既にルーカツヒル辺境伯軍は、フルリール王国撃退後を見越した『攻め』の動きと編成に移っているという情報だ」

「事態はそこまで……」

「転がりもする」


 椅子の座りを直しながら、宰相はぼそりと言う。


「ガイ。お前もルーラ姫を覚えておろう?」

「え、ええ勿論。何を言うんです伯父貴」


 以前にも述べたが、ルーラ姫は現イグリス国王の従姉弟にあたる王族である。

 美麗にして豪胆、少女時分から王者の風格漂う人物で、先王が「女子に継承権無し」というイグリス王室の慣習を排してまで、息子たる現王ではなくルーラ姫に王位を継がせようとしていたほどだ。大小貴族平民問わず、人気も高い。

【若禿】の伯父たるこの宰相は、そんな彼女が嫁いだフルリール王国に謀略で政変を起こさせた。結果彼女の夫は弟から弑逆され、狙われたルーラと子供たちも行方知れずとなったのである。覚えているも何も、あるものか。


「そのルーラ姫が、ルーカツヒル辺境伯に保護されたという情報が入った。フルリールの王弟はやはり、彼女の殺害に失敗したのだな」


 ガイ=ガルブラウは絶句した。

 無理もない。最悪の事態に、上乗せまでされたのだから。


「ルーカツヒル辺境伯が、掲げる旗を得たということですか」

「相手があのルーラ姫では、掲げるのか掲げさせられるのか分からんがな」


 皮肉のようにも聞こえるが、くすりともこの男はしない。あてこすりでも何でもなく、正直な評価なのだろう。


「だが何にせよ、ルーカツヒル辺境伯の追い風になることは確かだ。ゴルドチェスター辺境伯だけでなく、ウェストフォード伯やグリンウォリックの先代あたりもルーラ姫につくかもしれんな」


 そうなれば、来るべき内乱の陣営構成予想は大きく変わる。

 この際ルーラ=フルリール……いやルーラ=イグリスが女子であることはもう問題ではなかった。イグリス王族ルーラ=イグリスが旗印という時点で、ルーカツヒル辺境伯側の名分と立場、そして求心力はどうしても補強されるのだから。


 つまりこの戦、ミスリルの確保は……今までよりさらに、失敗が許されぬ。それどころか、これ以上手間取ることすらも危ういだろう。

 本来あったはずの戦略的優位と余裕は失われつつある。ミッドランド側もまた、追い詰められているのだ。

 自分の失態が招いた事態の重大さに、甥が呻く。


「そのため急遽王都から軍を二つ出し、ルーカツヒル領境へ貼り付けるべく向かわせている。春に予想されるルーカツヒル軍の本格攻勢ならともかく、今年内の牽制戦力程度は十分に足止めできるだろう」

「それはもしかして、以降の戦力を……」

「そうだ。ただそれでも第五陣第六陣の増援計画は本来の規模と同等かそれ以上となるように進めさせている。これからの戦いで出るであろう損耗も、都度十分補えるだろう。お前はそれを率いて、今度こそコボルド村を陥落させれば良い」

「……えっ?」


 意外という表情で、顔を上げる【若禿】。


「どうした」

「俺はてっきり、これまでの不手際で討伐司令官を降ろされるものと……」

「報告書は全て目を通した。【大森林】という連絡や指揮の困難な特殊環境、敵の奇策、そして大兵力を展開も維持もできぬ戦場……仮に私が指揮を執っていたとしても、お前よりも上手くいったとは思わぬ。他の者でもな。ならば痛い目を見た分だけ、お前のほうがこの戦には相応しかろう。このまま指揮を続けよ」


 宰相エグバード=ビッグバーグもかつての戦争では前線へ頻繁に身を置き、自ら剣を振るいもしたひとかどの武家である。軍歴も実績も、それこそ【若禿】の比ではない。

 だから【若禿】はこの失態で指揮権を剥奪され、宰相自らが指揮をとることになる……それが当然かつ自然だと思っていた。それだけにこの言葉は、意外であったのだ。


「よ、よろしいのですか」

「私よりも、若いお前のほうが近代軍には慣れている。そしてこんな【大森林】の戦いを私は知らぬ。妥当な選択だろう。不服か?」


 相変わらず眉一つ動かさず、つまらぬこととばかりに述べる宰相。

 凡百の貴族であればこの大一番で焦りが生じ、かつなまじ過去の実績と経験が豊富なだけあって、自ら采配に乗り出したことだろう。それが人の常、心理というものだ。

 だがこの【白黒の男】は、最初から誰にも期待というものがない。そしてそれは自分という人間すらも含めてであった。だから彼は一切の感情を挟まず、乾いた決断を下せるのである。

 歴史上に讃えられる英雄とは逆の思考回路ではあるが、やはりこの男も一種の怪物であった。


「い、いえ! そんなことはありません!」

「ならばよい」


 頷きもせずそう言う【白黒の人】だが、少し考え込むように顎を指で挟むと。


「そうだな。だが一点注意を喚起しておくならば……」

「は、はい」

「お前は【欠け耳】に対抗し、用兵上の巧緻で報いようとしていた節が見られるな」


 敢えて目を逸らし続けていた図星を突かれたのか。ガイ=ガルブラウが小さく唸る。


「責めている訳ではない、構わぬ。それに自軍の兵を労り損害を抑えようとする心理は、指揮官に必要不可欠な要素でもある。あるが……この戦いではそれが、結果として裏目に出ただけだ。だから今後はそれを忘れよ。忘れるべき局面だ」

「は……はい」


【若禿】は、冷や汗を垂らしながら続きを待つ。


「数を活かせぬ狭隘な戦場であれば、数を活かせる戦い方をさせよ。交替で昼夜問わず【緑の城】を攻め上げるのだ」

「し、しかし伯父貴。夜戦はコボルドどもに分があります。事実、闇夜に防塞を攻略した時は我が方の兵の損害が著しくかさみ……」

「構わぬ、忘れよと言っただろう?」


 微かに首を左右に振る伯父。


「夜闇の中でも間断なく魔杖攻撃を行わせ、魔弾の輝きを灯り代わりに狙いをつけさせよ。射撃不利も意に介すな。連れてきた第四陣四千五百、そして今後の増援、悉く使い潰すことをお前に許す」

「そ、それは……」


 それはあまりにも単純で乱暴な絵図の描き方であった。

 だが【白黒】の言う通り、兵の損耗を度外視できる神経があれば確実に実現できるだろう。


「大軍に区々たる用兵は必要ない。連中を眠らせるな、休ませるな、疲労を蓄積させよ。【緑の城】が陥ちぬというのなら、陥とせるまで敵を疲弊させるだけのことだ。そうすればやがて……『崩れ』は一気に来るであろう」

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