266:被弾
266:被弾
連日続く「攻城戦」の中、イグリス軍の戦いには習慣にも似た規則性が生まれていた。
彼らは【大森林】の短い日中に攻勢をかけるのだが、交戦中に陽が暮れることを懸念し、まだ明るいうちに攻撃を切り上げるのだ。そして再編に加え休息や食事を済ませ、暗い夜に向け現地で守りを固めるのである。
それは疲弊で勢いが落ちたことや、かつてのノースプレイン軍同様「今日の仕事はこなした」という心理が現場将兵に働いただけではない。
相手は樹海で暮らし鼻も利く【大森林】の住民。野獣や魔獣ほど夜目が利く訳でないにしても、ヒューマンよりはずっと夜闇に強い……という情報と分析による、現実的な判断だ。
だからコボルド軍が一発逆転の失地回復を狙うならば自然、夜襲に依ることとなるだろう。夜は注意せよ、闇に警戒せよ。暗黒の森は、ヒューマンに味方をしないが故に……。
だがコボルド王国将軍サーシャリア=デナンは、その至極当然な認識を先入観として逆用した。それは裏を返せば、陽があるうちは反撃に来ぬという思い込みに繋がるのだから。
ヒューマン兵の攻撃が止むあたりを見計らい、コボルド軍はそれまで守りについていた戦力を攻勢のため再編する。
イグリス軍第三陣の動きは把握できているため、前線陣地は平然と空にされた。【緑の城】内部は偵察兵が隠れて往来や待機のできる仕組みが多数あり、城外と違って猟犬警戒されようとも索敵力はさほど落ちぬ。
こうして素早く移し集めた戦力を、サーシャリアはまだ陽のあるうちに叩き込んだのだ。
狙われたのはイグリス軍【緑の城】内中央戦線、枝の如き数本の突出部。
コボルド軍は連日じわじわと後退を強いられながらも、陣地の陥落速度や防御力を調整してイグリス軍戦線を歪に乱していた。いや、育てていたと言うべきだろうか。
その連絡と中継を担う根元の要所へ向け、楔を打ち込んだのである。
「暗くなる前に食事と休息を済ませておけ! 夜はいつものように半々で交替警戒だ」
「了解です、隊長……ん?」
「どうした軍曹」
「いやほらあっちの茂み、今時分に霧ですかね」
薄暗い森中の向こうより、地を這い寄せてくる白い空気。
まるで意思持つように足元へ辿り着いたそれを見て、皆は違和感を抱く。
「いやこれ……煙……?」
「まさか山火事か!?」
当然の恐怖で、皆がざわめいた。
「こんな湿った森で、山火事は考えづらいですよ。それに【大森林】の木々に火をもって接すれば、魔獣が黙っていないと爺さんは言っていました」
開拓民として一財産築いた祖父を持つ軍曹が、所見を述べる。
「では……コボルドどもの仕掛けか!」
「ええ、そう思います」
「分かった軍曹。よし全隊魔杖を構えろ! 四方を警戒!」
「「「了解!」」」
「ワンワン! ワンワン!」
軍用犬の慌てた吠え声が響くが、濃白色の層に飲み込まれて既に姿は見えぬ。
それどころか煙はみるみるかさを増して積み重なり、ついには兵の首元まで達してしまう。
「これじゃあ一体、何処を撃っていいか……」
「ワンワン! ワン……ギャウン!?」
「おいどうした! ってうぎふぅ!?」
軍用犬の悲鳴、そして次々に白煙へ沈んでいく兵士。
この時彼らは理解したのだ。自分たちは既に、妖精犬の牙に掛かっていたことに。
「お前たち、剣を抜け! もう連中は入り込んでいるッ!」
「奴ら背が低いから、煙でよく見えうぐっ?」
「野良犬め、これを見越して煙幕を……!」
然り。これは【ゴブリン煙】、もしくは【ゴブリン竈(ストーブ)】とも呼ばれるコボルド軍の煙幕だ。
野外炊具(フィールドキッチン)ゴーレムに横煙突ゴーレムを複数連結。調合薬液に漬け込んだ煙の多い妖樹を薪として、【ゴブリン火】で強引に燃やして発生させたもの。
調整された筒や煙溜まりで適度に冷えた煙は、普通とは違い空へ上らず地を這い進む。さらに専用薪の煙は残留性が高く粘りもあるため、これに風精霊の誘導があれば拡散を抑えつつ指向性までをも持つ。
本来は立ち上る煙で外敵に居場所を悟られぬための、ゴブリン族伝統竈が原型だ。専用薪は虫除け研究の失敗作だという。ゴブリンらが友人へ残したその技術を、コボルド王国は軍事へ転用したのだった。
素材妖樹がやや稀少で、専用薪の量産が困難なため多用はできない。また一度見せれば、二度目の効果は薄かろう。だからサーシャリアはこの戦いこの瞬間が訪れるまで、【ゴブリン煙】を温存し続けていたのである。
期待通り【ゴブリン煙】は日中でありながら迎撃射撃を封じ、無傷の突入を成功させた。しかもその後の白兵戦で、コボルド族が有利となる状況を作り出しつつ。
「犬どもの総攻撃だ! とても持ちこたえられない!」
「隊長! 隊長どうしますか!?」
「隊長はもうやられた! 軍曹もだ!」
「こ、ここにいたら俺たち全滅しちまう!」
たちまち壊滅したイグリス兵は方角も選べぬまま散り散りに潰走し、そして逃げた先で出会う味方部隊に恐怖と混乱、そして錯覚を伝染させていく。特に突出部各所にはしる衝撃と戦慄は、深刻なものであった。
「じきに夜になる」
「このままでは後方が遮断される」
「敵中に孤立する」
「各個撃破を受ける」
というごく当然の恐怖が疲弊した兵らの間に伝播し、狂乱に近い動揺を引き起こす。酷いところでは、兵卒たちが制止する騎士を暴行の上で逃げ出す例すらあったという。
これを鎮めるには健在な騎士や下士官の数も、連絡も、情報も、士気も何もかもが足りていない。連日の戦闘や狙撃で指揮官を失い、控えとして連絡線を維持する集団に至っては後退を止める者すらもいなかった。
加えてここで、「態勢を立て直すならば、陽が沈む前しかない」という圧迫と希望を与えられたのが悪辣であっただろう。
「動くなら今しかない」
「夜になれば身動きが取れない」
「敵は闇に乗じ各個撃破を狙うに違いない」
などの論理的な思考は逆に、各隊指揮官に後退判断をも促した。自分たちの突出部のみが攻撃を受けているという錯覚も、それを手伝うことになる。声も視界も制限された森の中、霊話を持たぬ彼らには、正しい状況を知る術も知らせる術も無いのだから。
近隣部隊への拙速な連絡、慌てての後退が敗走、やがて潰走へと転落するのは自然であり……コボルド軍は強襲や奇襲、場合によっては遠吠えだけで容易にそれを煽っていく。
「隣の隊は後退するそうですが……」
「これは犬どもの罠だ! 我が隊はそんなものにはかからん! 現地を死守するぞ!」
「で、ですが」
「ええい黙れ! 後退指示など来ておらんわ!」
勿論、コボルド側の策に乗らなかったイグリス部隊も複数存在する。あるが皮肉にも彼らは周辺部隊が消えたため本当に敵中へ取り残され、後日ゆっくり各個撃破されていく憂き目をみることになった。
貧乏くじのようだが、戦線崩壊とはそういうものだ。だから混乱に飲まれず冷静だったとしても、冷静だからこそ敵中孤立を恐れ、下がる判断へ至りもするのである。
……結果、イグリス軍第三陣の中央戦線突出部は潰走した。
『うまくいきましたね、将軍!』
「ええそうね。これで突出したイグリス軍は追い返せる。時間がまた、稼げるわ」
その頃コボルド村の指揮所では、将軍と副官が頷き合っていたという。
だが彼女らの目論見通りに運んだのは、あくまでこの時点までに過ぎない。
「奴らが、奴らが迫ってきているぞ!」
「どこまで下がれば大丈夫なんだよ!?」
「いいから走れ! 【緑の城】の中にいたら助からない!」
『『『あおぉぉぉん』』』
「ひぃぃぃ!?」
敗走兵の群れと追撃するコボルドの姿は、前線の背後で【緑の城】内部を確保する諸部隊にも混乱を引き起こしたのである。
決死の形相で逃げてゆく友軍ほど、兵の不安を誘うものはない。その光景や姿は、士官の号令や伝令の一報よりもよほど説得力を持つのだから。たとえそれが、錯覚だったとしても。
「おい貴様前線部隊の兵だな!? どうした! 前線はどうなった!」
「か、壊滅です! 敵の総攻撃です! 各所で味方が潰走しているんですーッ!」
「あっコラ! 待て逃げるな! おい!」
「隊長! どんどん味方が逃げてきますよ!」
『『『わおーん』』』
「コボルドの遠吠え……!」
「ほ、本当に総攻撃……? 前線が崩されたんだ……!?」
古の軍記物や英雄譚において、雪崩打ち逃げる味方を名将が一喝で踏み留まらせる場面がある。勇壮で、感動的な情景場面だ。
しかしそれは奇跡的な出来事だからこそ、後世まで語り継がれたに過ぎぬ。恐怖と混乱に支配された奔流を止めることは、現実において極めて困難だろう。
「このままでは、我が隊だけが取り残されますッ!」
「く……さ、下がるぞーッ! 後退して立て直す! 下がれ、下がれー!」
こうしてイグリス軍第三陣の中央戦力は、仕掛けたコボルド側の予測をも越える大崩壊を起こしたのである。
とうとう闇に沈んだ森の中で、彼らは混乱を加速させつつ我先にと【緑の城】城外を目指した。狭い回廊で先を争い、醜悪な同士討ちへ発展した例すらあったという。
コボルド軍もこの好機を見逃さず、追撃へと移る。戦闘において追撃こそが最も打撃を与え得る機会であり、そしてここでイグリス軍に損害を与えておくほど、雪が降るまでの時間が稼ぎやすくなるのだから。彼らには、当然の選択であった。
『『『牙と共にーッ!』』』
「「「うわああああ!」」」
追い打ちは、【緑の城】城内イグリス中央戦力の崩壊に拍車を掛けていく。
しかもコボルド軍は、ただ追うだけではない。【緑の城】の構造と霊話戦術を活用し、巧みな先回りで攻撃を加えて混乱させ、分断し、迷わせ、先を塞ぎ、また敢えて逃がし、そして行く手に射点を被せ薙ぎ倒したのだ。
それは戦闘と呼ぶより、殺戮に近い一方的な展開であった。
ばち、ばちと闇を照らす魔弾の閃光。
雷雨の稲光を思わせる瞬間的な輝きはしかし絶え間なく続き、夜の樹海の中に白昼を作り出す。その中で叫び、倒れていくイグリス兵たち。
しかしこの時、知らせはまだ【若禿】の元に届いてすらいない。
「ぐるぅぅおおぅ」
『『『牙と共にーッ』』』
「に、逃げろーッ! 【緑の城】の外へ逃げるんだーッ!」
「砦だ! 砦まで行けば大丈夫なはずだッ!」
二刻半(約三時間)もせず第三陣中央部は完全崩壊し、影響は左右両翼の付け根にまで達そうとしていた。特にガイウスが踏み込み暴れた左翼側は深刻であり、恐慌がそのまま翼端まで波及する危険を孕んでいた。
「突入するぞお前ら!」
「「「了解だぜ、おやっさん!」」」
「ひえぇぇぇ」
だがそこで第三陣の全軍崩壊を防ぐべく、城外から敢然と躍り込む一隊がある。
赤軍服を着崩した、むくつけき荒くれ男……一名、銀髪の小娘含む……の集団。【跳ね豚】ジョン=ピックルズ率いる、黒猪戦士団だ。
◆
乱戦が続く【緑の城】西部外縁、ある陣地にて。
『木偶の坊、指揮所から通信! 【緑の城】城外から敵の増援が侵入、急速接近中じゃ!』
背嚢から伸びた長老の腕が、コボルド王の後頭部を叩く。
イグリス騎士の喉にフォセを突き入れたばかりのガイウスが、微かに顔を動かしそれに応じた。
「城外後方で控えていた第一、二陣からですか。この状況で、早いですね」
霊話戦術の無いイグリス軍である。第三陣との連携も、本陣との連絡や確認も取れていないはずだ。なのに随分と、思い切りの良い動きである。
『相手さんは結構じゃが、今横槍を入れられるのはまずい……上じゃ木偶の坊!』
「ヒョオオオゥ」
ガキン!
水面へ飛び込む海鳥の如き鋭さで加えられた直上からの斬撃に対し、フォセで受けるガイウス。邪魔がなければ斬られていただろう若い兵が、悲鳴を上げつつ這うように逃げていく。
「【跳ね豚】殿かっ!」
『まーたあの太っちょか!』
「クソッ」
舌打ちしたピックルズは剣を合わせた反発だけで体を浮かし、猿のように近くの木へ跳ね飛ぶ。彼固有の重量軽減魔法と体術が成す、驚異の空中剣術であった。
豚子爵はこの力で、疾走する馬から馬へ飛び移りすらする。【跳ね豚】の異名は、五年戦争時にそうやって敵国グランツ王国の第六王子を討ち取った逸話によるものだ。
「逃げてきた連中の話から、テメーがここに居ると踏んだが……正解だったな!」
「なるほど、君なら納得だ」
暗い森の中、幹を次々と蹴る音。続いて大きな金属衝突音が響き、火花が小さく闇に煌めく。そしてその軌跡が網膜から消えぬうちに、また次、その次の空中攻撃が襲うのである。
「チッ! 相変わらず人間止めてやがるな!」
「そ、それは君のほうだろう!」
微かな光を頼りに連続する衝突。並の剣士であれば、一撃を受けることすら叶うまい。しかし何十合も繰り返された異質の剣戟は、不意に届いた合唱が終わらせることとなった。
ロウ……アア……イイ……
幾つにも重なる、【マジック・ボルト】の詠唱音だ。
「今だお前ら!」
「「「合点!」」」
樹上へ跳躍しつつ叫ばれた、豚子爵の合図。それに呼応して脇の回廊が、瞬間的に光で満たされる。
バ、バ、バ、バシュウ!
「ぬっ!?」
光線にも見える軌跡を描き、眩く闇を照らしながらガイウスへ襲いかかる魔弾の嵐。
【跳ね豚】は最初から、剣でガイウスを仕留めるつもりなど無かったのだ。彼が単独で先行し動きを止めたところで、部下たちに一斉射撃を行わせたのである。
ガ、ガ、ガガンガン!
しかしそのことごとくをフォセで打ち落とし、あるいは回避するコボルド王。
魔弾との衝突で欠けたミスリルの刀身が、きらきらと宙を舞う。
「「「嘘だろーッ!?」」」
「嘘でしょー!?」
黒猪戦士団の戦士たちが絶叫したのも、無理はない。あまりにも、あまりにも人間離れした業前である。
……だが、その瞬間。
ズゴン!
閃光、そして金属を突き破る衝突音。
ガイウスの背中へ鋭く抉り込む、一筋の軌跡があったのだ。
「……なっ……」
「手応え、アリだな」
それは、樹上に避難した肥満の魔法剣士が自ら放った【マジック・ボルト】。魔法にまで素養のあるピックルズは、当然魔術も扱える。
【跳ね豚】は、自分を囮として部下に奇襲射撃を行わせただけではない。それすらも偽装とすることで、彼はようやく旧友の背を撃つ決定的な隙を作り出したのであった。
「唱えて、構えて、狙って、撃つ。剣に比べて魔術は、まだるっこしくていけねえや」
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