237:致命の睾丸ナイフ
237:致命の睾丸ナイフ
飛び付くように振るわれた睾丸ナイフを、身を逸らし躱すレイングラス。
怒り任せでありながらも速い刃が、猟兵隊長の頬毛を細かに宙へ散らす。
『おおっと!』
「ちょこまか逃げてんじゃねえぞぉぉぉッ!」
唾を飛ばしつつ、オジー=キノンが吠える。
次いで繰り出された第二撃、これも鋭い。やはり一武門の棟梁だけあり、相応の鍛錬は若い頃から積んでいるのだろう。
『へえ。後方でふんぞり返るだけの男かと思いきや、中々やるじゃねえか』
そう煽りつつも、レイングラスは相手の力量を皮膚で理解していた。これまでに討ち取ってきたどの騎士よりも腕が立つ、と。相手の得物が短剣なのは本来好材料だろうが、雑然とした天幕内では種族差を縮める助けにはならぬ。
「素材の分際でェ! 上から! 物を言うなぁぁぁ!」
逞しい六尺超え(約百八十センチメートル)の体躯を、怒気で震わす【剥製屋】。一方第一世代コボルドたるレイングラスは、半分程度の身長だ。体重に至っては数倍もの差があるだろう。その光景はまさに大人と幼児、いや捕食者と獲物の対峙であった。
だがそれでも、【大森林】の狩人は臆さない。
『だって仕方ねえだろ? お前の剥製作りが下手なんだからよ』
「そっちじゃねえええええええェェ!」
石槍で魔獣と戦い続けてきた世代の彼からすればこの程度、物質的にはともかく精神的には体格差の内に入らぬ。圧とて、蟲熊と対面するに比べれば軽いものだ。
『あ、そうか。すまんすまん……おっと危ねえ。今のはいい線いってたぜ』
次の一振りも回避し、猟兵隊長は冷静に時間を稼いでいく。
「てめえはただじゃあ殺さねえ! 生きたまま! 皮ぁ剥いで! やるからな!」
『えっお前そんなやり方やってんの? ハハーン、だから剥製作り下手くそなんだな』
煽る。徹底的に煽るレイングラス。
「殺す! 絶対にぶっ殺す!」
『でもこっちはお前を殺さねえから安心しろよ。聞きたいことが結構あるし、お前の身柄は色々使い道もありそうだからな』
「逃げてるだけの素材が嘯いてんじゃねええッ!」
何度も攻撃を避けられ続けたキノンが、す……とナイフを背後へ隠す。対決中にそれは、奇怪な姿勢と言えた。
実は短剣(ナイフ・ダガー)術には、ロング・ソード剣術のように多彩な構えはない。鼻を突き合わす程の間合い故に、凝った構えで駆け引きをする猶予が無いからだ。しかし【剥製屋】のこれはそんな中でも数少なく存在する構え、【背中の構え】であった。
「だったらこの軌道を読んでみろやッ! クソがよォ!」
この構えの目的は、武器を一度背後に隠すことにより攻撃方向と間合いを予測させにくくするものだ。つまりそれは暗に、次で勝負を決めようと目論んでいることを意味する。
「ダハラッ!」
踏み込みと共に動いたのは左腕だった。
なれど振るわれたのは睾丸ナイフでは無く、剥製道具の鋭利なヘラ。攻撃方向で揺さぶると見せかけ、彼は卓上から手にしたそれを投げつけたのだ。
回転しながら飛ぶヘラは赤胡麻コボルドに回避を強い、隙を作る。そしてそこ目がけて【剥製屋】が決定打を突き入れる! ……はずが。
ずぐん!
レイングラスは地を滑る様にそれを躱しキノンの足下へ飛び込むと、相手右脛へミスリル手斧を強かに叩き込んでいた。毛皮の腕へ伝う、骨を割る感触。
ここまで一度も反撃しなかったのは、間合いと踏み込み速度をキノンに悟らせぬため。相手を殺さず無力化するために、この一撃を彼はずっと温存していたのだ。
「ダハアアアアアア!?」
勢いそのままに体勢を崩し、転倒するオジー=キノン。様々な道具を載せた台や棚を薙ぎ倒しつつ、その身体が沈む。
『いつもの要領で迂闊に太股斬りつけたら、殺しちまうからな……だがこれでもう逃げられねえだろ』
足止めという目的を達し、猟兵隊長が息を吐く。
『さて、後はガイウスなり親衛隊なりを呼び込めば……ん?』
「クソがよ……クソがよ……!」
上体すら起こさぬ【剥製屋】の様子に違和感を抱き、斧を構えつつ近付くレイングラス。
だがしばしの時間をおいて、森の狩人は耳と尻尾を力なく垂らすのであった。
『やっべ……やっちまった』
転倒した時の衝撃か、それとも薙ぎ倒した台や棚にぶつかったのだろうか。
オジー=キノンの腹には、彼の睾丸ナイフが深々と突き刺さっていたのだ。
◆
ぎちぃん!
これで何十合目になるのか。
チャスのロング・ソードとガイウスのフォセが、またしても火花を散らす。
「【イグリスの黒薔薇】さんよ。一昨年のあれは、結構トサカに来たんだぜ」
「ほう」
「俺もそれなりにな、剣振り回すのには自信があったのさ。冒険者始めてあれまで、切った張ったで遅れを取ったことは一度も無えくらいには、な」
「だろうな」
「それがあのザマだ。だから正直ッ」
がっ! しゃりりりん!
構えられたフォセめがけ、横薙ぎの【流し目斬り】を叩き付ける元冒険者。彼はそのまま相手の剣に自らの刃を滑走させ、切っ先を突き入れる。しかし瞬時に読んだコボルド王は、払うようにそれを押し退けていた。
「ちっ……また斬り合えるのは、ちょっと嬉しいんだぜ」
舌打ちしつつもガイウスからの反撃を即座に撃ち落とし、軌道を逸らす。やはりこの元冒険者、抜群に目が良い。
「しかしまさか、そっちまで魔剣を持って来てるとはよ。前回はソレ使ってなかったよな? コボルド村の用心棒ってのは、そんなに羽振りがいいのかね」
「転職を考えるなら、歓迎しよう。うちの村には美人や可愛い子が多いからな、きっと楽しいぞ」
「へっ。戦争の英雄様も、冗談を抜かすんだな」
若干のすれ違いを経て、また交差する刃。
双方の剣が猛烈な速度で振るわれ、撃ち落とされ、押し退けられる。だが決してバインド状態へは持ち込まれぬ奇妙な剣戟は、膂力差を鑑みたチャスの戦術だろう。
「生憎だが先約があるからよ。仁義は通さねえと、な」
そうしてまた、金属音が鳴り響いた瞬間だ。
ロウ……アア……イイ……
【マジック・ボルト】の詠唱音が届いたのは。
「「!」」
切っ先を向け合ったまま飛び退いた二剣士が、視線だけを向ける。
そこには戦死した防衛隊から拾ったであろう魔杖を構える、ビクトリアの姿があるではないか。
涙目で膝もひどく震えているが……彼女がどれほどの気力を振り絞りこれに至ったのかについては、ボサボサ髪の元冒険者のみが知ることだろう。
ばしゅう!
揺れながらも照準は奇跡的にガイウスを捉え、魔弾がその身体を抉る……と思いきや。
がきん!
「ふぁえー!?」
「何だと!?」
凶相の男は、飛来する魔素の釘を剣で弾いたのだ。しかも当然、という顔をして。
「ふむ」
尻餅をついたビクトリアへ向き直り、歩み寄るガイウス。軽い蹴りで、魔杖は天幕の上へと弾かれていく。
「あの馬鹿ッ!」
彼女へ注意が向いたことに焦ったのだろう。
チャスは慌てたように敵手の側面目がけ斬りつけ、そしてフォセで受け止められた。
ぎんっ!
刃同士が触れた瞬間、身を翻したガイウスが一気にバインドへと持ち込む。チャスは即座に逃れようとするも、力尽くでこれは封じられた。
コボルド王は横槍を逆用し、相手の動きを誘ったのである。
「しまっ……」
力比べに持ち込んでしまえば、巨躯の側に圧倒的な優位性がある。加えてガイウスはただの力自慢ではなく、卓越した技量も備える剣士だ。
それでも懸命に対抗する元冒険者を押さえ込みつつ、ガイウスはフォセを巻き相手の剣を強引に動かす。
「ぐぼっ!?」
体勢を崩させた瞬間に、ガイウスの右足がチャスの腹部を蹴り上げた。
内臓が破裂してもおかしくないその一撃で彼の身体は宙に浮き、投げ込まれる鞠のように近くの天幕へと突っ込んでいく。続き、その中で何かを倒す音。
「これでもう、先程のような動きはできま……」
しかし追撃に向かうガイウスは、逃げゆく負傷兵の群れに遮られる。
「お、お館様が討ち取られたー!」
「ひいい、逃げろ、逃げろーッ!」
「もう戦う理由なんてねえー!」
「ふむ……?」
それはオジー=キノンに致命傷を与えてしまったレイングラスが、駆けつけた親衛隊員と強力して天幕の外へ彼を引き摺り、『イスフォード伯討ち取ったり』と周囲の兵へ見せつけた成果であった。
総大将を人質に兵を降伏させることができなくなった故の機転だ。しかし悪い意味でも【剥製屋】が精神的な柱であったイスフォード軍は、レイングラスらの予想を超えて完全に士気崩壊した。貴族や高位指揮官になるほどその動揺は酷くなるのだから、誰もそれを止められまい。
「……しまった。逃げられたか」
その混乱の最中で元冒険者と女騎士の姿は失われており……ガイウスは半壊した天幕を一瞥しつつ、溜め息を吐く。
「まあともかく、これで本陣の無力化は成功したな。サーシャリア君に伝えねば」
隻眼の王は後頭部を掻きつつ、霊話兵を探し始めるのだった。
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