235:錯覚の川底

235:錯覚の川底


≪発:枯れ川三 宛:指揮所……敵軍 枯れ川 遡上中 騎兵 約 百 歩兵 約 百 以上≫


「連中かかったわ!」


 急造の戦術地図上へ置かれた石を見て、サーシャリア=デナンが胸の前で手を空振る。ぺすりという情けない音は、不慣れな指鳴らしに失敗したためだ。


「コホン。偵察兵を森の外、敵本陣の予想位置へ送り込んで! もっと詳細な本陣の状況と残存戦力を探らせるの! もう騎兵隊の警戒巡回なんかほとんどないから、潜入できるはずよ!」

『了解しました!』


 高揚する上官に、副官ホッピンラビットも尻尾を振り振り応じる。


『これで作戦の第一段階は成功ですね!』


 捕虜の脱走。無論それ自体がコボルド側の仕込みであった。

 竜の遺体焼却をイスフォード騎士に聞こえるよう看守らに芝居させた上で、警備の隙を敢えて作ったのだ。単独で夜の森に放り込めば遭難必至のため、前線の兵が気付かぬ振りして追い立て誘導するという、苦心の一幕も途中見られはしたが。

 そしてキノン家家臣団の性格上、すぐにこの報は主に届くという予測も的中。こうして脱走捕虜に持たされた情報が、【剥製屋】オジー=キノンから激しい焦りを引き出したのである。


「ええ。ガイウス様の見立て通りよ」


 遺体の乾燥前にコボルド村を陥落させねばならなくなった皮剥ぎ伯爵は、本陣守備隊や騎兵隊までも前線へ投入する決断を下したに違いない。

 森中の前線では騎兵の出番は村突入時までないため、無理矢理歩兵として戦わせるつもりなのだろうが……そんな運用を完勝直前の局面で行ってしまうあたりからも、【剥製屋】の焦燥が透けて見えるだろう。


「オジー=キノンはこの兵を前線へ追加することで、明日に決戦を仕掛けるつもりなのね。層を厚くするのか、それともこっちが人員を割けないくらい両翼を広げてくるのかは分からないけど……この状況でそんなことをされたら、私たちはもう持ちこたえられないわ」


 軽装の増援部隊は朝一番から、かなりの強行軍で前線を目指している。まるで個人旅行でもしているのかという勢いだ。

 だから彼らは本日中に前線へ辿り着くだろうが、それでもこの日は移動のみで終わるはず。しかし明日になれば二百人以上増強されたイスフォード軍前線戦力が、【緑の城】を落城させてしまうだろう。

 予備戦力投入による決定打という点において、キノンの選択もそれほど筋違いではない。端から見れば勝敗は既に明らかであり、コボルド側に防御を削る余力があるなどと普通は考えられまい。現に今も、毛皮の兵らは防戦で釘付けではないか。

 だが、それでもなお。


「でも今日だけは保つの。今日だけ、保たせればいいのよ」


 いや、それだからこそ。


「だから今日は、【緑の城】を葉っぱ一枚残して使い切れるわ! 全軍にこのことを連絡! 味方の損害を、極力抑えるわよ!」

『はいっ!』


 この状況は第五次王国防衛戦における、コボルド側最後にして最大の好機なのであった。



 夜になったイスフォード軍、枯れ川前線。

 強行軍で砂底を遡上し前線に着いた本陣防衛隊は、翌日の総攻撃に備えて森中の陣地へ分散配置されていった。騎兵隊八十七騎は馬の面倒もあるため枯れ川に留まり、明日はそのまま攻勢へ参加の予定である。


「馬を休ませたら、俺たちも早く寝ようぜ。明日は大変だしよ」

「まさかまた歩兵をやらされるとはなあ」

「そう言うなよ。伯爵様に逆らえるか、お前?」

「違いない、ハハ……んん?」


 ぱしゃん。

 月明かりの中で馬を撫でていた兵が、水を踏む感触に片眉を上げた。


「おい! 誰か、水桶倒したか? 前線連中の厚意を無駄にするなよ」

「いや違うって……こいつは上流から流れてきてるんだ」

「あ、ホントだ。何かチロチロと川底を」

「よせよ、鉄砲水の前兆じゃあるまいし……」

「「あ」」


 互いの輪郭も禄に見えぬ状況だが、はっとした顔で見合う騎兵たち。


「コボルド側の放水!?」

「俺たちの野営中を狙って来たのか!?」

「前回からそんなに日数経ってないんだろ!? そんなすぐに溜まるものかよ!? まさか雨のせいだっていうのか!?」

「馬鹿そんなことはどうでもいい! おい馬を連れて岸へ上がれ! 早くしろ!」

「急げ! 急げーっ!」


 付近にいる歩兵の手も借り、馬を連れ大慌てで避難するイスフォード兵。


「念のため、もっと離れるんだ!」

「馬を怯えさせるなよ! 下がらせろ!」


 すぐに水は増し、濁流と化すだろう。誰もがそう思いつつ、枯れ川を眺めていたのだが。


 だかだっだかだっだかだっだかだっ!


「「「なっ……!?」」」


 しかし予想に反し川底を迸ったのは、水ではない。

 唖然とするイスフォード兵の眼前を横切っていくのは、ゴーレム馬の集団なのだ。


「おい見たか!? さっきの人影、【イグリスの黒薔薇】じゃなかったか?」

「それより水が止まってるぞ!?」


 然り。砂底を伝ったあの水は欺瞞。多少雨が降った程度では、敵を押し流せるほどの再充填など間に合わない。これはサーシャリアが、かねてより建造していた溜め池から流し込んだ水であった。

 これまでの戦いで幾度も敵に放流を強いられたのは、それだけ水計が恐れられている裏返しだと欠け耳将軍は認識し……相手を錯覚させるためだけに川底を濡らす水を、別途用意していたのだ。

 イスフォード兵はまんまとそれにかかり、コボルド騎兵集団が戦線中央を突き抜けるための花道を作ってしまったのである。


「クソッ、騙されたのか!?」

「まさか……あいつらまさか、本陣を狙いに!?」

「いくらなんでも、そんな無謀な。何人あそこにいると」

「だって今の本陣には、治療中の重傷者は沢山居るけど……無傷の防衛人員は三十ぐらいしか残っていないんでしょう?」

「き、騎兵隊はこれからすぐに奴らを追う! 歩兵連中は他の部隊へ連絡を入れておいてくれ!」

「わ、分かった! 頼んだぞ!」


 慌てて準備を整えた騎兵八十七騎が、夜闇の中を出発していく。

 後に残された歩兵らは、その背を見送っていたが。


「なあ。もしかして今攻撃に移れば、相手を一息に打ち破れるんじゃないか?」

「無茶な、夜の【大森林】だぞ。それに他の部隊と連携をとるだけで、朝になっちまう」

「ねえ隊長! うちらは本陣の救援に向かわなくていいんです?」

「どのみち騎馬相手に歩兵では追いつけん。それよりお館様の指示無く戦線を勝手に崩せば、間違いなく殺されるぞ」

「うっ……確かに」

「もうこうなったら、騎兵隊の連中に任せるしかない。ざっと見、相手騎兵はこっちの半数以下だ。追いつけばどうとでもなる」

「そ、そうですよね」


 蹄の音が遠ざかる闇を、見やる一同。

 だがイスフォード騎兵は、結局ガイウスらに追いつくことはなかったのだ。

 先行潜入済みのコボルド偵察兵が連携し、追撃部隊の通過に合わせ不意に黒縄を張ったからである。


「「「ヒヒィィィン!?」」」

「「「うわああ!?」」」


 一回目だけで先頭十五騎が転倒させられ、戦闘不能に。

 さらにその後も数回張られたことによりイスフォード騎兵は追撃速度が大幅に低下し……やがて休憩無しで走り続けるゴーレム馬へは、追いつけぬ差を付けられてしまう。


「わはは、サーシャリアのインチキがうまくいったな! オッサン!」

「オホホのホですわー!」

「うむエモン、ナスタナーラ君。このまま本陣を目指すぞ」

「「おうよ!」」


 所々に設けられた馬継場のイスフォード兵を驚かし砂道を行くのは、マイリー号のガイウス。銅のゴーレム馬はナスタナーラ。

 そしてダーク、エモン、レイングラスなどの白兵戦に長ける面々を木馬に同乗させた親衛隊二十四騎とアンバーブロッサムが選別した白霧隊八騎だ。

 流石に最精鋭の親衛隊でも森を夜に駆けるのは困難だが、道路同然の枯れ川ならば話は別である。親衛隊長ブルーゲイル先導の元、ぐんぐんと彼らは進み……半刻(約一時間)少々で森の出口にまで辿り着く。


「ケツが痛えー!」

「流石にこれだけ乗り続けていると、ワタクシもお尻ががが」

「ううむ……私も痔が悪化しそうだよ」

「オッサン痔なのかよ!?」

「エモンだって歳を取れば、他人事じゃないぞ……」

『陛下ーッ! 見えてきましたぞーッ!』


 そして草原を南へ駆け続けた一行は、篝火に照らされたイスフォード軍天幕群をようやくその視界に捉えたのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る