229:戦線崩壊

229:戦線崩壊


 ぎゃおおおん。


 天から響いた咆哮を合図として、イスフォード軍は全面攻勢へ出た。

 これまで輪番を組み疲労と消耗回避に腐心してきた兵一千三百名の内、約一千名が両翼を大きく広げつつ殺到したのだ。


『く……さっきの一報以来、指揮所へは繋がらんのか!?』

『駄目です! 応答ありません!』

『小隊長ーっ! た、大量の敵が押し寄せて来ます!』

『応戦しろ! 各個に応射開始!』

『ですが、このままでは時間の問題です! どこまで足止めしてから退きますか!?』

『それは……れ、霊話兵! 隣の隊へ連絡だ! 隣と連携をとって後退先を調整する!』

『じ、時間を下さい! 霊話が錯綜していて、対応が難しいんです!』


 こういった場面が、コボルド軍前線各所で見られることとなる。

 本来であれば霊話通信で寄せられる膨大な情報は指揮所が人数の力で集約整理するのだが、それが急停止してしまうと末端の霊話兵個人では処理しきれないのだ。

 それどこか悲鳴に近い大量の通信が当てもなく乱発されることで、むしろ霊話の存在で混乱に拍車が掛かったのである。「届かぬはずの叫びが全て聞こえてしまう」とでも例えれば、その心情を理解できるだろうか。


 それは強みが、脆さへ転換された瞬間であった。まるでロープを踏み外した綱渡り芸人のように、コボルド軍は一瞬で転落したのだ。

 一撃で指揮系統が壊滅したと言えば、危機管理欠如や想定力不足と思うやもしれぬ。しかし霊話警戒網と防御線を飛び越え竜が空爆する事態など、天上の視点を持たぬ者では想定困難に違いない。


『こ、後退! 支え切れん、後退するぞーっ!』

『ここからの経路は二つの陣地に分かれますが、どっちに向かいますか!?』


 コボルド軍の後退戦術は、高度な連携により必要最小限の兵数で最大効率の遅滞戦闘を行えることが強みと言えよう。

 指揮所の地図が霊話戦術で現実と同期することで必要時間と必要場所、そして必要戦力を割り出す。そうして敵を縦深陣へ引きずり込み包囲や挟撃を加えたり、あるいは相手の進路を限定することで防御陣地数を絞るのだ。

 これによりコボルド王国軍は、寡兵ながらも最大稼働で大軍相手の戦線維持を可能とし続けてきたのである。今までは。


『う……あ、あっちだ! あっちの陣地へ下がれ!』

『『『りょ、了解ーっ!』』』


 だがその連携が破綻し、各隊が勝手な判断で敗走を始めれば……どうなるか?

 無秩序に後退した戦線は穴だらけとなって、各部隊が逃げ場も定められぬほどズタズタに寸断される。稼働している陣地も、兵を集約できねばヒューマンの侵攻を止められぬ。張り巡らされた罠がささやかな時間を稼ぐが、それも妨害できなければじき除去されるのは明白だ。

 ……しかし救いであったのは、妖精犬には【イグリスの黒薔薇】が居たことである。


「指揮所復旧まで、国王付以外の全霊話を封鎖せよ!」

『と霊話で連呼して黙らせるんじゃな、了解了解』


 ガイウス=ベルダラスは戦場以外では不器用でボンクラな木偶の坊に過ぎぬが、戦争に関わることにつくとそうではない。加えてこの元騎士団長は、幸か不幸か昔から劣勢や負け戦というのものに慣れていた。


「全軍負傷者を回収しつつ、【緑の城】中程まで全力後退! 他部隊と霊話無しで連携がとれる位置まで、大きく下がれ!」


 普段の愚鈍さが嘘のように……背負った長老から与えられた断片情報を組み立て、現状をほぼ正しく認識するガイウス。

 彼は混乱の極みにある霊話の相互通信を、不利益を承知で禁じて一方通行にした。そして明確な目標と目的を与えて、各指揮官を現場判断のみに専念させている。

 これにより前線各所は辛うじて士気崩壊と潰走を免れ、現場規模の統制を維持しながらの敗走を可能にしたのであった。


「放水開始! 枯れ川を通らせるな!」

『うむ。静かになったから、湖の連中にもちゃんと届くじゃろ』


 奥の手である、枯れ川への放水。だがガイウスは躊躇せず、道路に等しい川底を潰しイスフォード軍の速攻を封じると、全軍の撤退指揮を執りながら国王自ら後退の殿を引き受ける。

 やはり彼の戦働きはすさまじく、受け持ち方面の敵兵約二百を、自身と手勢十名による奇襲でむしろ後退させる働きを見せた。長老は後に『ワシと木偶の坊の二人だけで、三十人以上斬った』と語ったという。

 そして同様と言うべきか。他の戦場においても、旧コボルド村壊滅という辛酸を舐めた第一世代コボルド古参兵は、劣勢に飲み込まれず友軍の撤退支援に奮戦している。


 だがそれでも全体としての圧倒的不利は覆らず……彼らが【緑の城】領域をも半分放棄して再編を果たすまでにはなお多くの時間、そして犠牲を必要としていた。



 戦線が崩壊したことにより、本来接敵するはずの無かった後方集団がヒューマンの攻撃を受けてしまった例もある。その一つが、今なお懸命の治療が続くある救護陣地であった。


『まずいなあ。まずいなあ。早く下がらないと』


 若いコボルド霊話兵が、魔杖を手にオロオロと周囲を見回している。

 ここは完全に安全な領域であるはずだったため……護身用に魔杖を持った彼しか、この陣地で戦える者はいない。


「黙レ! 静かにしていロ! こんな状態の怪我人を動かせるものカ!」

「応急処置がまだ終わっていなイ! そんなに下がりたいなら、お前だけ帰ってロ!」

『俺たちのことは……置いて……逃げてくれ……』

「お前も黙ってロ! 馬鹿たレ!」


 コボルド負傷兵らの脇で手を動かしつつ怒鳴るのは、ゴブリン族の衛生兵たちだ。彼らはゴブリン族伝統の治癒魔法に治療魔術、そして外科療法まで組み合わせて必死に救命措置を行っているのだった。


『そんなこと言うなよぅ』

「いいから若造は新しい包帯でも準備しておケ!」

『はいぃぃ』


 涙目で薬箱へ駆け寄る若年兵。

 その脇では、たまたま物資の輸送で来ていた泥ゴーレムのマイリー号と、親方の老馬サンディがいた。例によってサンディは、マイリー相手にガシガシ腰を振っている。


『はぁ……お前らは気楽だよなー……あああー!』


 目玉が飛び出さんばかりの顔で、突如驚愕の叫びを上げる妖精犬。


『ててて敵だーっ!』


 視線の先には、木々の間を移動する十名程度のヒューマン部隊。その敵集団も救護陣地に気付いたらしく、罠を警戒しながらも着々と近付いてくる。

 そして一部の敵魔術兵からは、早くも攻撃魔術が放たれ始めたのだ。


 バシュウ! バチン! バシュウ!


 至近をかすめ、木の幹で弾けるマジック・ボルトの嵐。

 嘶き慌てるサンディ号、悲鳴を上げて尻餅をつく霊話兵。衛生兵らは負傷者を庇い、身を伏せるのがやっとのこと。

 しかしその射線を塞ぐように、即座に割って入ったのはマイリー号だ。


 ……【彼女(マイリー)】は、普段から国民を守るよう命じられている泥ゴーレムである。

 だからマイリー号としては不死の身を挺すのは当然であったし、時間稼ぎの壁となるのは必然であった。そこに、特別なものはなにもない。


「ブヒィィン!?」


 一方庇われたサンディ号は、何の変哲も無い老いた馬に過ぎぬ。

 流石にこれだけコボルド村で暮らせば魔杖射撃の恐ろしさは分かっているし、訓練された軍馬でもない彼はここで駆け出そうと不思議はなく、むしろそれが自然と言えよう。

 しかしこの老馬は、自分の女を置き去りにするなど思いもよらぬ男でもあった。


 バシュウ! ズン! ズバシ! ズン!


 そして盾となった泥の馬体を魔弾が次々抉った時、老馬の精神は沸騰した。

 サンディにはゴーレムの概念も仕組みも分かりはせぬ。ただ一点この馬が認識していたのは、大事な女が傷つき殺されようとしていることだけである。


「ヒヒィィン!」


 サンディ号は生まれてより、一度として怒ったことのない馬だ。それこそ母馬の胎内へ怒気を置き忘れてきたのだと、飼い主たちが表するような。

 親方の娘が幼少時に彼の陰嚢を全力で引っ張り悪戯した時ですら、ただ悲しい瞳で抗議したのみで、蹴りも噛みもしなかった馬なのである。

 そんな彼が初めて怒りの嘶きを上げ、ヒューマンらに襲いかかったのだった。


「う、うわ!? 何だコイツ!?」


 何故か突撃してくる老馬に、狼狽えるイスフォード兵ら。

 先頭で叫んだ兵は体当たりを受け、一撃で動かなくなる。慌てて剣を抜いた隣の魔術士は袖を噛まれたまま持ち上げられ、振り回されて骨折した。迂闊にも後背に回った剣歩兵は、後ろ脚の蹴りで顔面陥没だ。


「ここここの馬をまず何とかしろ!」

「ビヒィィン!」

「このおおお!」


 いくつもの刃と魔弾に身体を貫かれながら、それでも跳ね、噛み、蹴り続けるサンディ号。さらに二人の戦闘力を奪ったところで、若年兵とマイリーがもう一人ずつイスフォード兵を倒していた。形勢逆転だ。


「ブヒン! ヒンヒン!」


 残る敵兵が逃げゆく背中を睨み付け鳴いた後、馬体は地に沈む。

 衛生兵が急ぎ駆けつけサンディを診るも、「内臓がやられすぎていル。肺も駄目ダ」と首を振っていた。


「ン? どうしタ」


 そんな中、神妙な顔で黙り込んでいる霊話兵へ、問うゴブリン。

 若いコボルドは『静かにして』と掌でしばし制した後……へなへなと座り込みながら、泣き笑いの表情を浮かべたのだ。


『き、来たんだ。指揮所から霊話が来たんだよ! 将軍の意識が回復して、司令部機能を復旧させたって! 索敵網も復活したから、これで敵を避けて【緑の城】まで帰れるぞっ!』


 おオッ! と歓声を上げるゴブリンたち。

 そのどよめきをぼんやりと聞きつつ……サンディ号は霞んでいく視界の中、歩み寄るマイリー号の姿を認めていた。

 愛しき泥のゴーレム馬は、いつもとまるで変わらぬ様子で彼を見下ろしている。


 ……何だかよく分からんが、俺の女は無事らしい。


 緩やかに瞼を閉じるサンディ。

 老馬は、満足であった。

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