211:山猫の夢

211:山猫の夢


「やほぉい! オージ!」

「うびゃあ!?」


 突如窓から入ってきた赤髪の女性に驚き、学者風の痩せ男はみっともなく尻餅をついた。


「アハハ! うびゃあだって! カッコ悪!」


 愉快そうに笑いつつ、窓枠を乗り越える彼女。スカートの裾が、ふわりと翻る。


「ねえ驚いた? 驚いたっしょ?」

「い、いきなり声を掛けられたら、お、驚くに決まってるだろう!」


 男は、ずり落ちた眼鏡をかけ直してから立ち上がった。


「そ、そもそもここは二階だぞ!? どうやって入ってきたんだ、アマーリエ!」

「どうやってもなにも。壁をね、ヒョヒョイとよじ登ってきたんだワ」

「そ、その格好でか!?」

「そうだけど……」


 アマーリエと呼ばれた女性が、首を傾げる。


「はーん……さてはうら若きオナゴのスカートめくれを想像したナー? したんでしょ? このスケベオヤヂ。あーやらし、あーいやだ」

「しし、していない! い、一般常識の問題としてだな……」

「アハハ! 言い訳はグランツのオージらしくないぞー?」


【王子】の眼前を横切った彼女が、長椅子にポスンと腰を下ろす。


「きょ、今日は非番で警備じゃないだろう? どうしてこ、大学(ここ)に来るんだよ」

「非番だから来たんだワ」

「な、何で」

「だってここが一番居心地いいんだもの」


 ブーツを脱いで、大きな伸び。


「えっ!?」


 狼狽えた拍子に、眼鏡がまたずり落ちた。


「……うっわーチョロい。反応がドーテーくさすぎでございますよ、王子のオジサマ」

「ま、またそうやって馬鹿にして。か、帰って何処か遊びに行けよ」

「きゃーっか。街へ遊びに行くお金も無いし」


 長椅子へ横になるアマーリエ。


「育った施設への仕送り、かい」

「まあね。あんまりいい思い出も無いし、それにあーしのお給金からじゃあ、たまのオヤツくらいにしかならないだろーけど……それでもさ、少なくとも年季明けまでは、ね」


 聖人教団圏を除けば、氏神信仰の南方諸国は宗教組織の力が弱い。そのため孤児の養育は地域社会に依存しがちなのだが、そんな中でもグランツ王国は、建国当初から各地に公営孤児院を設け積極的に保護していた。だからこの国では、浮浪児というものが存在しない。

 武断的性格の強過ぎるグランツ王家の割には先進的と聞こえるだろう。しかしこの制度自体が若く精強な兵を長期確保する国策であった。公営孤児院で育った者はもれなく三十才、もしくは妊娠出産まで軍役労役に就くことを強いられるのだ。

 彼女は、その長い年季をまだまだ残している。


「ここに来ればお菓子もお茶も出るし。ま、たまの休日を過ごすには丁度いい隠れ家なんだワ」

「堂々と、い、言うことか……」

「いいじゃないの。若いオナゴがこんな、埃だらけのむさ苦しいところへ来てあげてるんだから。有り難く思いなよ」

「な、何で上から目線なんだよ」

「は? グランツでは強さが全てっしょ。骸骨みたいなヒョロガリ王子より、あーしのほうがどう考えてもメチャクチャ強いし?」


 上半身を起こし、シュッシュ! と拳闘の素振りを見せるアマーリエ。

 反論に困った男は小さく唸ると、誤魔化すように机を片付け始めた。


「おや? 何、その石ころ」

「こ、これかい? エヒヒ、石ころか。石ころにみ、見えるかいエヒヒヒ。何を隠そうこれはね、く苦労して取り寄せたミスリルの原……」

「あー、まーた気色悪い笑い方してる」

「う、うるさいな」

「オージは顔立ちや骨格は悪くないんだから、もっと背筋を伸ばしてシャッキリすれば幾分まともに見えるのに」

「ぼ、僕は見た目とかそういうのには、きょ興味ないんだよ」

「そう? 勿体ない。まあでもとりあえずその変な笑い方だけでも変えてみたら? あーしみたいに元気良くやってみなよ。ホラ……アハハ! って」

「い、嫌だよ……」


……。……。……。


「に、兄さん! ねえ止めてよルーヴェ兄さん!」

「身分は低いのは残念だが、なかなかいい腰をした娘だ。側室として、健康なグランツ男(おのこ)をきっと沢山産めることだろう。私の子の予備をな」


 王宮の廊下で、男が第一王子に縋り付いている。


「アマーリエは関係ないじゃないか! や、止めてくれ!」

「安心しろ。この戦争中、あの娘は私の近衛に置いておく。死なせはせん」

「そそういうことじゃないよ兄さん! ぼ僕が、僕も今度はちゃんと戦争に行くから! グランツ王子の務めを、は、果たすから! 頼むからあの子は巻き込まないでくれよ、兄さん!」

「駄目だ。それではお前の本気は引き出せぬ」

「兄さん!」


 振り返ったルーヴェが、男の双肩に両掌を置く。


「ルクス、これはお前のためでもあるのだ。同じ母から生まれた唯一の弟が、これ以上腹違いどもから蔑まれるのを私は看過できぬ。立て。立って本気でグランツ王子の務めを果たしてみせろ。それこそ、私を上回るつもりでな」

「兄さん!」


 拳が男の頬を打つ。

 悲鳴と共に、痩身が磨かれた床を転がっていった。


「私に指図できるのは、私を上回る者のみ。止めて欲しくば、功を挙げてお前が王太子の座を奪え。それが、筋というものだ」


 ……。……。……。


「や、やあアマーリエ。久しぶり。元気にしてたかい」

「オージ? ……何だか随分、雰囲気変わったね」


 第一王子の軍と共同となった野営地で、男は彼女に再会した。


「た、鍛錬の成果かな、エヒヒ」

「嘘だってバレバレなんだワ。どうせオージが研究してた何かでしょ、しかもアブナイやつ」

「……で、でもなんとか、う上手くやってるよ」


 ばつの悪い顔を見たアマーリエが、溜め息を吐く。


「うちでも噂は聞こえてるよ。第三王子(オージ)の軍は随分頑張ってるって」

「そ、そうかい?」


 引き攣り気味に笑う彼。赤髪の娘は、唇を歪めもしない。


「ねえ……無理は止めなって」

「え」

「オージってさ、絶対こういうの向いてないんだから。素人が出てきたって、どこかでボロが出るよ」

「で、でもそれじゃあ」

「あーしはいいの」


 舌打ちしながら人差し指が左右に振られる。


「そもそも考えなよー? 第一王子の側室に加えてもらえるなんて、平民平兵士だったあーしじゃ有り得ない栄誉じゃん? これで裕福な暮らしも保証されるしー? お菓子も食べ放題だしー? なんて」

「う、うん」

「だからオージが無理する必要なんて全然ナイの。お節介もイイトコロ」

「うん」

「……付け焼き刃でこんなコトしてたら、いつか死んじゃうよ?」

「う……」

「そうなる前に帰りなって。だからさ、もう止めなよ、ね?」

「……」

「ぶっちゃけ迷惑なんだワ」

「うん……」


 ……。……。……。


 乏しい糧食に軍馬をも食い尽くし、骨髄まで引き出し終えてからはや十日。

 苔砦(フォート・モス)を遠巻きに囲むイグリス王国ノースプレイン侯爵の軍旗は、その間もずっとはためき続けていた。毎日崩れかけた防壁から様子を窺うが、包囲が解ける様子は無い。


「ルクス殿下、お食事です!」


 土気色の肌をした側近が椀を手渡す。雨水を沸かした湯の中に一つだけ浮かぶのは、一つまみにもならぬような苔の欠片。

 それですら最大限配慮された昼食であることは、男もよく分かっていた。


「なあに、大丈夫ですよ殿下! 食い物程度なくとも、我らグランツ男児は意気軒高! イグリスの弱兵なぞに遅れなどとりません!」


 落ち窪んだ眼窩の中、瞳が爛々と輝いている。この状況下でこの精神。男の【魅了(チャーム)】の呪いによるものなのは、言うまでもない。

 砦内のそこかしこには、同じ瞳をした半死人が笑みを浮かべて横たわっていた。


「辛抱強く待てば、か、必ず包囲にも綻びが生まれるよ。それを待って脱出しよう。味方の戦線が、こ、ここまで上がってくる可能性だって十分にある」

「その通りです! 我ら最後の一兵まで、殿下の剣となりお支え致しますぞ! ははは!」

「ありがとう」


 側近を下がらせた彼が、視線を敵陣地と砦との間へ向ける。

 そこには幾度目かの降伏勧告に訪れ、文字通り門前払いを受けたノースプレイン軍使の姿があった。


「降伏なんか……するもんか」


 そんなことをすれば、男は王位継承争いにおいて大きく遅れを取ることとなる。

 いや、脱落も同然だろう。


「待つんだ……脱出の機会を待たなければ」


 だが待つための食糧は、既に無い。


「いや……」


 無い、はずだったのだ。


 ……。……。……。


【魅了】は、極限状態の兵らによく効いた。

 実に、実によく効いてくれた。


 兵たちは哀れなほど素直で協力的で。

 進んで調理を請け負い、調理もされた。


 男は自身の望みのため、作り出した地獄に兵たちを引きずり込み。

 そして誰も、連れ帰りはしなかったのだ。


 砦が陥落した時に生きて脱出できたのは、この呪われた男一人だけであった。

 正気を失った男はそのまま森を彷徨い続け。味方に収容され意識を取り戻すまでに、約半年の月日を要することとなる。


 ……。……。……。


「ルクス殿下だけでもお戻りになられたのが、せめてもの慰めです。第一王子はルクス殿下の救援に戦力のほとんどを派遣されたのですが、増援軍指揮官が到着寸前に煙を見て陥落と勘違いし……」

「それより……兄さ……ルーヴェ殿下の軍は……いや近衛は! ……どうなったんだ?」

「第一王子は後方の戦力と合流する途上で敵遊撃部隊の襲撃を受け……」

「……近衛隊は?」

「ルーヴェ殿下も奮戦なさったそうですが、敵の刃に……」

「近衛隊は!?」

「は、はあ、はい。その、近衛隊は第一王子をお守りできなかった罪を贖うため、総員で追撃任務へ赴きました。連帯責任ですね」

「ど……どうなったんだ!?」

「全滅です。一人も、戻ってきておりません」

「何だって……」

「第一王子をお守りもできず、仇も討てず。近衛だというのに、不甲斐ない連中ですよ」


 ……。……。……。


 既にイグリス勢力圏深くとなったスノーケープ山へ単身乗り込んだ彼は、寝食も放棄し夏の山を捜索し続けた。


 幾日も探して、幾晩も探して、探し続けて。

 数々の近衛の亡骸を経てようやく見つけた彼女は朽ち果てており……そして、あちこちが不足していたのだ。


「……食われている」


 山野へ放置された屍に、当然の運命だろう。しかし、そんなことは彼に関係ない。


「食われた。食われたのかい? アマーリエ、アマーリエ」


 目から流れるのは、涙ではなく。


「僕がそうしたように、僕がそうさせたように」


 掻き毟る傷から滴るのも、血ではなかった。


「僕は結局、何もできなかった。誰一人として幸せにできなかった」


 黒く澱んだそれは、この時生まれた最も強くおぞましい彼の呪い。


「誰もが、誰もが皆、僕がいたことで不幸になった」


 それは自分という存在、そして自身の愛に対する、深い憎悪と拒絶から生まれた呪いである。


「僕は蟲だ、蟲なんだ。僕は、誰も愛してはいけなかったんだ。君は、君は僕が……」


 地に伏した彼の意識を、黒い澱みが塗り潰していく。

 ここに来て男はようやく、自身が数千回目の夢から覚めることを知るのであった。


 ……。……。……。


 簡易寝台から身体を起こしたトムキャットは、天幕内に座る灰色髪の男を見ると怪訝な表情を浮かべ……そしてしばらくしてから思い出したように頷いた。


「お早う……アッシュ?」

「首を……傾げるな……合っている」

「アハハ! ごめんね。ほら、数年ぶりにあった知人の名前が思い出せなかったりすることってあるじゃあないか。僕ももう歳だしさ。悪意は無いんだよ」

「分からん感覚……だ……俺はまだ……二十代だからな」


 少し咳き込んだアッシュに、もう一度謝罪する雄猫。


「今回も……夢の中で……何年も……過ごしてきたの……か」


 トムキャットは眠る度に必ず、アマーリエと出会い失うまでの数年間を繰り返し夢に見ている。一晩寝ても、数晩寝続けても。数年間を、必ず経てから目覚めるのだ。

 記憶が持ち込まれることは無いため、そこから学ぶことは何も無く……ただただいつも新鮮な天国と地獄の体験だけが、彼の魂を削り続けていく。


「毎回のことさ。君は不老を臨むんだろう? なら、同じ体験をすることになるよ」


 夢の中で施した強化の呪いは記憶の再現でしかないが、彼の彼自身に対する拒絶と嫌悪の呪いは現実のものだ。

 そうやって毎夜毎夜一塗り一塗り呪いが重ねられ続けたことにより、彼はいつからか老いるべき本来の自分をも保つことができなくなった。これが【不老】の正体である。

【魅了】の殻から漏れ出す瘴気が人々の心身を著しく苛むのも、自身への嫌悪と拒絶という呪いの性質によるものであった。ガイウス=ベルダラスが耐えられた理由も、だ。


「どうやら……調子……は……整ったようだ……な?」


 寝台から起き上がったトムキャットを見て、灰色髪の美男が小さく笑う。

 金髪猫はアハハ! とそれに応じ。


「うん、僕の人生史上最低の具合さ! これならこの間と違って、【人食いガイウス】をがっかりさせることもないと思うよ」


 心底嬉しそうな顔で、そう答えるのであった。

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