167:砂糖包みの菓子
167:砂糖包みの菓子
その言葉で、微かに眉を動かすガイウス。
「知っているさ【人食いガイウス】。君が五年戦争の時、スノーケープ山で何をしたのかをね」
今迄には微塵も浮かべなかった凄みを湛え、トムキャットが言葉を続ける。
「糧食を追っ手のグランツ兵から奪い、服を剥いで寒さを凌ぎ、その肉を食らって飢えを満たし……そうして雪の地獄を生き延びたんだろう? 僕は知っている。いや、分かっているんだ」
「概ねそれで相違ない」
コボルド王は、小さく首を縦に振った。
「そうか。あの雪山で私が斬った内に、貴殿の誰かがいたのだな」
「そうさ。君が食らったあの中に、僕の誰かがいたんだよ」
トムキャットの唇が歪む。
「知るまい。君が食い散らした中にいた、緑の瞳を持つ赤毛の娘など」
「……目が細く、癖毛で眉の薄い女性兵士か」
「何だって?」
処刑剣の丸い先端が、大きく揺らぐ。
「あの山で戦ったグランツ兵で、緑色の目をした赤毛の若い女性兵は一名だけだったはずだ」
「……斬った敵を、覚えているのか?」
「顔を見た相手は、な」
「そうかい」
ぎゅい、と。柄を握り直す音が小さく鳴った。
「貴殿の、恋人か」
「いいや。片思いでね」
その答えへ、緩やかに頷く凶相の男。
そして再び、両者を取り巻く空気が張り詰める。
「信じられん」
だがそこに、言葉を投げる者がいた。
「……ザカライア君、まだ逃げていないのかい」
「ルクス=グランツ。まさか貴公は本当に、その一兵士のためグランツ王家を、大公位を、領地も財産を捨てて今更出奔し、元敵国であるイグリスまでやって来たのか」
「そうだよ?」
「兵卒ならば所詮は平民であろう。臣籍降下したとはいえ貴公は、由緒あるグランツの血筋ではないか。それを妾でもない、とうの昔に死んだ平民女の仇を自らの手で討つため、全てを投げ打ったのだと?」
「うん」
トムキャットはガイウスとの距離を確保しつつ、ザカライアに応じる。
「……正気とは思えん。そもそも貴公ほどの重鎮であれば、自ら動かずとも、幾らもやりようのあったはずだ。何ならグランツ王を煽り再度イグリスとの戦端を開き、そこな愚物が鉄鎖騎士団長である間に戦場に引きずり出す手段も採れただろう」
「ええぇー? いやぁ、それは駄目だよ」
横に揺れる金の髪。
「そんなことをしたら、グランツに戦争孤児がまた出ちゃうじゃないか。それじゃあ僕は、あの娘に申し訳が立たない」
「無茶苦茶だ」
その言葉を受け、大げさに肩を落とすトムキャット。
「……何だい、がっかりだな。ザカライア君は僕に近いと思っていたのにさ。君だって損得や道理を度外視して、大好きな【人食いガイウス】に会うため無茶苦茶してきたじゃあないか」
「わわわ吾が輩のは、ベルギロス家当主の務めだ!」
「はいはい」
再び視線を、宿敵へ戻す雄猫。
「ま、確かに貴族としてはそれが一般的な意見だろうし、貴族でなくったって、どうかしてると笑うだろうね。なあ【人食いガイウス】、君だってそう……」
「笑わぬ」
コボルド王はその自嘲を、短く遮る。
「男の覚悟を、誰が笑おうか」
しばしトムキャットは黙ってガイウスを見つめていたが……嘆息を一つ漏らし、噛み締めるように呟いた。
「……そうかい。来て良かったよ」
そして剣を下ろすと上半身を捻り、改めて背後に語りかける。
「【跳ね豚】君」
「お、おおう」
ずっと成り行きを窺っていたピックルズが、しどろもどろに応じた。
「ザカライア君のとっておきも、大したことは無かったようだね。もう、皆が戻りつつある」
憤るグリンウォリック伯を他所に、豚子爵が視線を回す。確かに、両陣営の兵が少しずつ戻ってきている様子だ。
ほとんどの天使兵は迷子になったか、撃破されたのだろう。膂力と耐久力は確かに人外のそれだが、あの体たらくでは戦場にて使い物になるまい。
「外野は五月蠅いし邪魔も入りそうだから、僕はこれから【魅了】を解く。今僕はザカライア君の味方だから誠実に言っておくけど、すぐ逃げた方がいいよ。一応、今言ったからね?」
「は? 【魅了】? 舞踏会向けのオマジナイかよ、お前何言って……」
「おい……保つのか……!?」
初めて険しい表情を見せつつ、そこに割り込むアッシュ。
「約束は……果たされて……いないぞ」
「大丈夫、保つ保つ。それにちゃーんと術式は教えたはずだよ、アッシュ」
「機能した感触が……ない……まだお前に……死なれては……困る」
「本当に気の持ちようだってば……ああ分かった分かった。後でまた教えてあげるから」
「おいグランツ野郎、どういうことだ?」
「吾が輩は逃げたりなどせん!」
トムキャットは軽く手を振り彼らとの話を打ち切り、ガイウスへ向き直る。
そうして片手を自らの額に当てると、先の予告を果たしたのだ。
「解く」
瞬間。その単純な一言だけで空気は変わった。
気分が変じた、という話ではない。まるで大気が腐り果てたかの如く、周辺は毒で汚された……そこにいるヒト全てがそう思うほどの、強烈な悪寒と嘔吐感、恐れが皆を襲ったのである。
ザカライアは泡を吹き卒倒し、豚子爵と部下の娘は伏して地を掻いている。鉛髪の美青年ですら、苦痛に顔を歪め膝をついたではないか。
かつそれはコボルド王国側にも及んでいた。再編を指揮していた青毛の親衛隊長は白目を剥いて気絶し、転倒で頭を打ったドワーフ少年はぴくりとも動かぬ。熊毛皮を被った褐色少女は、木に寄りかかり嘔吐し続けている。同様類似の症状は両陣営の兵にも現れており、特に妖精犬らはヒューマンよりもその影響が濃い様子であった。
そしてその中心に立つのが、トムキャットだ。
これまで味方から、敵からすら抱かれていた爽やかさ、好ましき印象はとうに消え失せ。今はただ、彼を見る者全ての精神に耐えがたき苦痛を注ぎ込む何かへと変わり果てていた。
いや見た目は僅かにも変わらぬが、この男を視界に入れた者は、悉くそう感じざるを得なかったのである。
これはヒトではない。ヒトの形をした、もっとおぞましい何かなのだ、と。
「はいはい、皆頭がおかしくなる前に帰ってね。極力僕を見ないようにすれば、幾らか症状は軽いと思うよ」
トムキャットは微笑みながら、周辺へと呼びかける。
その声を聞くことで気を失った者も数名いたが、意識のある者は概ねそれに従い、這いずるように離れていく。特にザカライア軍の隊長班長格はその状態でも退避指示を懸命に出しており、練度の高さをこの局面で示していた。
その惨状を尻目に、アハハと笑いながら向き直るトムキャット。
「……グランツ王国には、こっちの氏神言葉で【坑道】っていうお菓子があるんだけどね。君は、知っているかい?」
「不勉強で申し訳ないが、知らぬ」
答えたのは、額に汗を滲ませつつも構えを崩さぬガイウス=ベルダラスである。
この場にいるヒトでは彼だけが、満ちる瘴気に耐え立ち続けていた。
「果皮や種を練り込み焼き上げたケーキに、粉砂糖をたっぷりとまぶしたものだよ。真っ白で分厚い層が、全体を包み隠すように。こうすることで内側が砂糖で外気から遮断され、日持ちがするという訳さ。ま、保存食の一種だね」
食べる時は中央から切り分けて両端をまた合わせ直すんだよ! と付け加えつつ美丈夫は語る。
「僕はそれの逆でね」
人差し指でトン、と自らの胸を指す。
「力を得るための呪い、速さを得るための呪い、強靱な肉体を得るための呪い。それらの反作用を抑えようと別の呪いを被せ、その埋め合わせにまた違う呪いを試す。そうして呪いを自分に重ね続けた結果、穢れが溜まり過ぎてね……強力な【魅了】で自分を常に包み隠しておかないと、挨拶も返してもらえなくなっちゃったのさ」
あの晩ナスタナーラが「化け物」と呼んだその理由、その正体だ。天才魔術少女は分厚い【魅了】の殻越しに、この男の中に潜むおぞましいものを漠然と感じていたのである。
周囲の者が意識を失うほどの呪いをその身に宿し続けるなど、ヒトの所業とは思えぬ。当人の精神と魂がどれほど苛まれているかは、余人の想像が及ぶところではない。
「ルクス=グランツ。貴殿はそこまでして……」
「うん、そうさ。ここまでしても僕は、何もできなかったんだ。ああまでしても僕は、何もできなかったんだ」
がきん!!
予告無く叩き込まれる、刹那の横薙ぎ。瘴気の中、辛うじて受けたコボルド王の巨体が、弾くように押し退けられる。
トムキャット本人も覚えていないほど積み重ねられた呪いと魔剣の相乗効果がもたらす、驚異的な一撃だ。その威力、速度、どちらもがやはりガイウスを大きく上回っていた。
「【人食いガイウス】。君はどうだ? 仲間と敵の屍肉を食らってまで、あの子を食らってまでどうして生き延びた? どうして生き延びようと思った? どうしてだ? どうしてだ?」
そこまで言って、ごふり、とトムキャットが咳き込む。
口と手の間から垂れる真っ黒な液体は唾か血か、漏れた呪いか。
「……続きをしよう【人食いガイウス】。僕はまだ、あの子の味を君に聞いていない」
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