162:物資は消毒だ
162:物資は消毒だ
ザカライア軍の作戦行動を支えているのは、巨費を投じてこの情勢下で掻き集めた膨大な物資群だ。
優に一月半は兵を養いうるその兵糧は、森から一里ほど南下した野営地内に集積所を設けられていた。むしろ集積場所を守り囲むように、野営地がつくられていると言っても良い。
一箇所に集中保管するのは、管理と輸送の効率面を考慮してのこと。警備の面から言っても、駐屯兵と立ち並ぶ天幕の威容がそのまま防衛力となるだろう。ここ人界ノースプレイン領では山賊盗賊が跋扈しているが、そうそうこれに近づけるものではない。全ては森中の前線へ、効率的に、円滑に補給を送るための構成だ。
そういった意味でザカライア=ベルギロスは、貴族階級が陥りがちな兵站軽視論者ではない。決してなかった。
彼はただ、ほとんどの将兵と同様にある一点を錯覚していただけなのである。
◆
「……だーっ!」
「消せー!」
「水を、水を汲みに行かせろ!」
「フゴゴ!?」
簡易寝台からはみ出しイビキをかいていた【跳ね豚】はその怒声で目覚め、そして同時に地面へ頭から落下した。
「ブヒッ」
一悶えしつつ、ぽよんと転がって剣を掴むと、天幕の外へ躍り出る。
月明かりだけの夜半のはずが、周囲は赤く揺れる光で照らされているではないか。
「あ、ピックルズ卿! 火事です!」
慌てた様子で声をかけてきたのは、ケイリーから派遣されている案内役の貴族だ。
「えっと、マクイーワン殿か。燃えてるのは?」
「集積所のようで」
はっとして光源を向く【跳ね豚】。確かにそれは、兵糧を始めとする軍事物資が集められている方角であった。
「今、グリンウォリック伯の近衛隊や軍属が消火にあたっていますが、念のため我々は安全なところに退避しておくよう、近衛隊長から言われました」
「そうか」
「何の不始末が火元でしょうね」
「集積所つっても、まとめて固めて防水布を掛けてあるだけの代物だ。そんなトコに火の元なんか、あるもんか」
「え、まさか付け火とでも?」
「敵襲だよ。もう帰っただろうがな」
豚子爵が顰めっ面で、股間を掻いている。
「森から離れたここを、コボルドがですか? そんな馬鹿な」
「ああホント馬鹿みてえなもんだ、先入観ってのはな。俺もだよ、畜生」
舌打ち。
「連中だって足がぴょっこり生えてんだろ? 交互に動かしゃあ、そら森の外へだって歩いて来られるわな」
「で、ですが、この野営地はどの陣地よりも近付き難いはずです。御覧下さい、この数百人分の天幕を。これだけの兵が警戒する場所、それも平地に乗り込んでくるなど自殺行為ではありませんか。連中は、森の中で待ち構えてこそ地の利を得られるのです」
「ああそうだな、それで合ってるよ。そして確かにここの守りが一番堅かっただろうさ。昨日まではな」
「あっ」
マクイーワンが息を呑む。野営地守備の部隊が前線に送られていく光景を思い出したのだろう。
当初野営地守備に残されていた第八、九、十の三部隊……約百二十名は連日の戦力再編で既に森の中へ入っており、補給部隊を護衛する第六部隊の約四十名も今夜はどこかの森中陣地で夜を明かしているはずだ。
つまり現在野営地を守る兵は十六名にまで損耗したため後送されてきた近衛隊と、満足に動けぬ怪我人だけなのである。軽傷の兵は手当を受けた後、すでに前線へ復帰済みだ。数だけ言えば重傷者は七十余名にのぼるものの、流石に彼らを戦力として数えるわけにもいかず、当然夜警にもあたらせていない。非戦闘員は言うまでもないだろう。
立ち並ぶ天幕は今やほとんどが無人の張りぼてに過ぎず、夜闇に乗じた少数のコボルドが破壊工作のため侵入するのは容易いはずである。
「思考誘導みてえなもんだ。連中、本当ならいつだってここまで来られたのさ。対策を講じられて破壊工作が失敗しねえよう、今まで敢えて全く手出ししなかっただけなんだよ。野営地が空になるのを、ずーっと待ち続けて、な」
「そんな。コボルドが、【大森林】の原住民がそこまで」
「俺も毎日毎日コボルドコボルド言っててついそんな気分になってたが……ああクソ、昼行灯は俺の方だな。随分鈍っちまってる……率いてんのは遊撃大好きベルダラスと謎の魔女【欠け耳】とやらだぞ。単なるワン公の群れじゃねえ」
「……そうですな、そうでした。そもそも私も以前、特使で赴いた身でした」
「なんだ、そうなのか」
頷くマクイーワン。
しかしそこまで深刻な衝撃を受けたように見えぬのは、あくまでこの被害はザカライア軍にとってのものであり、ケイリー陣営の損失ではないためだろう。
「そういやマクイーワン殿、あのグランツ野郎はどうしたんだ?」
「それが……私も最初はトムキャット殿を起こしに向かったのですが、いくら揺すってもお目覚めにならなくて……」
「はああー? こんな騒ぎなのにか!?」
「はい……」
「あ! おやっさん! 何やってんですか! 早く避難して下さい!」
会話に割り込むように、背後から豚子爵を怒鳴りつける声。
貴族二人が振り返ると、そこには寝間着のまま鞄を担いだヘティーの姿があった。
「消火、うまくいってねえのか」
「水かけても収まらないわ、風も吹くわ、で火の勢いが止まらないみたいなんです」
風魔法による支援と、数種の妖樹から採取した樹脂樹液の混合した秘伝の【ゴブリン火】による火計である。これはゴブリン村で老人らが用いた焼夷油と同じものだが、一連の背景を知らぬピックルズらにそこまでは分からない。
「皆とっくに延焼阻止に切り替えてて、今では周りの天幕を必死こいて畳んでます。私たちも火の粉が飛んでこないトコまで避難しましょうよ~」
確かに彼女の言う通り、喧騒は集積所からその周囲へ移っているようだ。
【跳ね豚】は、顎を擦りながらしばらく考え込んでいたが。
「いや、着替えて馬を借りてこい。ヘティー。すぐにグリンウォリック伯へこの件を知らせに行くぞ」
「えー!? まだ夜中ですよ? 暗くて馬も走れませんよぉ。大体おやっさんデブすぎて乗れないじゃないですか」
「阿呆。馬ってのはあんな面だが夜目が利くんだ。見えねえのは人間よ。体重のほうも気合いで何とかするから、ほれ早く行け」
「はーい」
肥満上司は溜め息で部下を送り出すと、傍らの貴族へ向き直る。
「マクイーワン殿、悪いが近衛の隊長に事情を説明しておいてくれねえか」
「それは構いませんが……本当にこれから森へ入られるのですか」
ああ、とピックルズが一言おいて面倒臭げに肩を回した。
「非常の事態だし、前線へお知らせに駆けつけたとしても、まあ文句は言われねえだろ」
「それは、そうでしょうが」
「それにグリンウォリックのご隠居から頼まれてるんでな。あの伯爵クンが殺されちまう前に、とっとと連れ戻してくらあ」
◆
『ぶわーっはっはっはっはっはっはっはっは! あーっはっはっっは! ざっまーみやがれーーーー!』
『燃えたな! 全っ部燃えたな! わはははは!』
『連中これで、明日の朝飯もねえぜーッ!』
『草でも食ってろってんだ! ぶはははは!』
『ヒャッハー! 火の精も大喜びだったな!』
鼻水を垂らすほど大笑いしながら、レイングラスと猟兵隊が月夜の草原を駆けている。
その後を追うのはウーゴらゴブリンの魔法使いたちに、荷運び役のマイリー号。
「我々ハ、【大森林】から出たのは初めてダ。まさかこちらから人界へ打って出るとハ……」
『ぶわーははは! お前そう思ってたんだろ? 思っちゃうだろ? 俺たちだって前はそうだったさ。でもな、だからこそこの時のために、ここら一帯をちょくちょく走り回っておいたのさ』
王国軍は既に、ガイウスやダークが直接指揮を執らずともコボルドのみで平野での作戦行動を可能としていた。当然、周辺地形も把握済みである。
買い出しや度重ねての行軍訓練で外界に慣らした成果が、ここにきて活かされたのだ。
『しかし助かったぜウーゴ。【ゴブリン火】と火魔法が無けりゃ、焼き討ちにはもっと時間がかかってただろうからな』
「……これデ、連中は逃げ出すのカ?」
『ああ。食い物が無けりゃどんな戦士も戦えねえ。もう一日凌げば、敵も帰るだろ。後は森の陣地へ運び込んだ分が少しあるだけだろうからな。人数があれだけいれば、狩りをした程度じゃ足しにもならねえさ』
「でハ、明日は徹底的に防御を固めるのだナ?」
『まあそうだが、守るだけじゃねえよ』
「ヌ?」
首を傾げたウーゴに、横向きに走るレイングラスがニヤリと笑いかけた。
『うちのボンクラ王と嬢ちゃんは、これでコボルドとヒューマンの戦いを終わらせるつもりなんだ。後の奴がビビって喧嘩を考えなくなるように、連中にはもっと吠え面かいて帰ってもらおうじゃねえか』
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