95:決着

95:決着


 ……果たして。虫の肉体とは、このような感覚なのだろうか。


 最早身体を支えているのは、骨でも肉でもなく。それらを包む赤く薄い装甲に依っている。ワイアットはそう錯覚した。

 この戦いが終わった後、傷が癒えても以前のように歩くことも叶わないかも知れぬ。


 だが、それがどうしたというのだ。

 構わない、構わない、構うものか。


 呪詛の如く口中で繰り返しながら、一歩、また一歩と進む。

 身体を蝕む苦痛が、剣戟の動悸が、宿敵を打ち倒した高揚が、彼の精神を原初へと回帰させていく。

 戦の敗北など、どうでも良かった。己の破滅など、知ったことではなかった。

 今の彼は利と理で動く騎士ワイアットではなく、剣に生きる戦士ワイアットへと還りつつあり。

 それ故に、その感動は尋常ならざるものであったのだ。


 そう。

 ワイアットは、それまで積み上げてきたものと、手に入れてきたものと、そして未来の全てをこの対決に捧げることによって。

 確かに今、戦士としてガイウス=ベルダラスを凌駕したのである。

 彼の魂は、幸せな熱で満たされていた。


 歩く度に感覚も薄れていく脚を動かし、地を踏みしめ。ワイアットはようやくガイウスを捉える。

 コボルド王はその背を丸めるようにしたまま、斬首を待つ罪人のように地に跪いていた。


 ワイアットは、声を掛けない。舌を動かす力も惜しく、その間すら待ち遠しかったのだ。

 だがそれでも相手が組み付いてくる間合いははかりつつ、無言のまま【ソードイーター】を構える。それは理性というよりは、身体に染み付いた反射と類すべき行動であった。

 次いで、足を踏み込んだ瞬間。


「借りるぞ、フォグ!」


 ガイウスは身を捻りながら立ち上がり、腕を突き出してきたのだ。

 されどその反撃は、ワイアットが想定していた範囲であった。例えその手に、一振りの小剣が握られていたとしても。

 事実ワイアットの精神は瞬時に加速し、肉塊へと変わりつつあったその腕へ防御の指示を下したのである。


「貫け(スティング)!」


 咆哮と共に伸びた刀身が喉を目指した時も。

 全く想定外の事象に対して、彼は刹那に応じ。【ソードイーター】をずらして正確にその切っ先を受け止める。

 ガイウスの膂力で繰り出された美しく脆い刃は、複合魔剣の腹に衝突して崩壊していく。

 神速と言うべき領域の反応であった。剣士ワイアットの技量は。その人生で、この時極みへと達したのだ。


 ……だが、それで十分であった。

 その一瞬で、十分だったのだ。


 赤鎧の戦士の、己の刃に塞がれた視界が回復した時。既に宿敵は眼前に迫っていたのである。

 時間を歪めた神経が平常へと戻る前に、その右手は篭手ごと、柄を掴まれていた。

 そしてガントレットを緩衝として剣を押さえたガイウスは、刃をワイアットの首へと押し込んだのだ。


 ずぐり。


 視線が交差し。


 ぶちり。


 何かが断ち切られる。


 心臓の脈動とともに脱力した手から、【ソードイーター】が奪われた。

 数瞬もせず。空気が切り裂かれる気配と共に、ワイアットに刃が打ち込まれる。

 肩の骨を砕き、赤鎧を押し斬りながら抜き身は胸の下辺りまで食い込むと。そこから捻りを加えた動きに耐えきれず、半分程の刀身を残したまま二つに折れてしまった。

 この闘いで限界を迎えたのか、振り撒き続けた呪いが自らに返る頃だったのか。あるいは、敗れた主に殉じたのだろうか。


「……3対1だ。道理だな」


 膝から崩れ落ちた戦士に、王が告げる。

 ワイアットはそれを小さく鼻で嗤った後。


「だが確かにあの瞬間、私の剣は」


 絞り出すように吐きながら、地面へと沈み込んだ。


 身体が動かない。一鼓動毎に意識が薄れていく。

 命がどくどくと流れ出していくのが、ワイアットには感じられた。


(貴様を上回ったのだ)


 声は出ない。舌も回らない。

 ゆっくりと暗転する視界の中で、思考と記憶が混濁し始める。


(そう言えば、私はどうして剣を手に)


 ……ワイアット、いい子にしていたかな? 王都に行ってきたお土産だよ。お前の好きな戯画本の続きだ。

 ……【鋼鉄騎士イワノシンと水晶の姫巫女】!? すごいや父さん! ありがとう! 友達もまだ、誰もこの巻は持ってないよ!

 ……はっはっは。それは良かった。しかし、お前は本当に、このお話が好きだなぁ。

 ……そりゃあそうだよ! だって父さん、イワノシンはかっこいいんだもの!


(ああ、そうか)


 喉が熱いもので満ちる。だがもう、咽ることすらない。

 闇に閉ざされる意識の中で、ワイアットは一人。忘れ物を思い出したかのように呟いていた。


(私は、イワノシンになりたかったのだ)



 ワイアットが戦っている間にその支配から逃れたシリルは。引きつった笑いを浮かべつつ、森の中を走っていた。


「やっと、やっと! これで僕はやっと、解放されるんだ!」


 とにかく一刻も早く戦場を離れて、そのままノースプレイン侯爵領を離れる。自由を取り戻す!

 手枷が重い。だが構わない。長い時間を経てやっと掴んだ自由の感触に心を踊らせながら、シリルは駆け続けるが。


 ずぼぅ。


 右足が何かを踏み抜いた感触を得たシリルは、捩るようにしてその身を転がした。

 無理な体重移動で左足を捻りつつ地面へと倒れ込んだ彼は、安堵の溜息とともにその足元へ視線を向ける。


「あ、危なかった……」


 そこには、コボルド達が仕掛けた落とし穴が口を開けており。恐る恐る覗き込んでみたところ、中には鋭く尖らせた木の杭が何本も牙を剥いていたのだ。

 あのまま落ちていれば、もうシリルは動くことも叶わなかっただろう。


「あつっ!?」


 肝を冷やして後ずさりしたシリルが、遅れてやってきた左足の痛みに顔を歪める。どうやら先の緊急回避で、足首を挫いてしまったらしい。


「痛てて……でもこの程度で済んだのは、運がいいと思わなきゃなぁ」


 確かに、あの凶悪な罠に嵌まるより遥かにましと言えるだろう。

 シリルは自分を助けた幸運に感謝すると同時に、落ち着きを取り戻した。


「ここまで来て罠に掛かったらそれこそ馬鹿だ。冷静に、慎重に行こう。大丈夫、僕は運がいいんだ」


 セロンも死んだ。ヒューバートも死んだ。ワイアットもおそらく死ぬ。

 シリルを悩ませる者は、彼が手を汚すことなく次々と排除されていったのだ。


「これを強運と言わずして何と……」


 と、そこまで口にしたところで、シリルはある者と目があった。

 つぶらな瞳をした【彼女】は激しい運動の疲れから、たまたまそこで休んでいたのだろう。お互いに意図せぬ遭遇は、奇妙な対面時間を作り出した。


 しばらくして。


 ひい、とシリルの口から悲鳴が上がる。

 ぐわお、と六本足の乙女も驚きの声を発した。


「嘘だ、嘘だ、嘘だ」


 シリルは涙と鼻水を垂れ流しながら、痛む足首を庇いつつ走り去っていく。一方、毛皮を纏った彼女はしばらくぼんやりとその姿を見つめていたが。

 あれだけ暴れたのに食事の用意をしていなかったことを思い出したのだろうか。元狩人の背中を追って、気怠げに歩き始めるのであった。

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