60:撃退

60:撃退


 ヒューバートが取り出したのは、緑色の液体が入った小さな瓶であった。


「これはな、【シロツノ海蛇】っていう、西方の海に棲む魔獣の毒だ。聞いたこと、あるか?」

「……麻酔の研究に……使われた物でしょ……」


 ほお、とヒューバートが感嘆の声を上げる。


「よく勉強してるなぁ、お前!そうさ。毒の効果から痛み止めにならないかって、当時は期待されたそうだ。でもすぐに、一般ではほとんど使われなくなった。どうしてか。これも知ってるか?」

「し……神経が……死ぬからよ……」

「そう!そうだぜ!痛みは確かに止まるが、それは毒が入った辺りの神経がごっそりバッチリくたばるからなのさ。だから医者は、手足をノコギリでちょん切る時位にしか使わねえ」


 手足を切るというヒューバートの言葉に、サーシャリアの背筋が凍りつく。


「ゲハハ!心配すんな!そんなことすると、興奮しにくくなるだろ?だから俺はそんなことはしねえ」


 そう言いながら彼は。サーシャリアの左脚、ふくらはぎのあたりに短剣を浅く突き立てると、そのまま刃を滑らせた。

 細い身体が痛みで痙攣し、苦痛に顔が歪む。必死に押しのけようとするが、ヒューバートは体重をかけ続け、それを封じてしまう。


「で、この毒を切り口にだな」


 傷口に何か粘液が垂らされる感触。

 しばらくの時間をおいて、そこからぼんやりと温かいような温感が膝と足首まで広がっていく。


「よしよし。残りの手足にもやってやるからなー。いやあ、これを使うと、楽でいいんだよ。かといって、身体の反応も無くならないしな!お前もその方」


 がっ!


 ヒューバートがサーシャリアの顔を覗き込もうとした瞬間。

 その体重移動の隙を突いてサーシャリアは拘束を解くと。素早く上体を起こし、頭突きを食らわせたのだ。

 彼女はここまで追い詰められても。殴打されても、組み敷かれても。それでもなお、闘志を失っていなかったのである。

 全力の一撃を顎に叩きつけられたヒューバートは、自らの歯で舌の先端を噛み千切ってしまい。口を閉じたままくぐもった悲鳴を上げて、後ろへと倒れ込む。


 好機とみたサーシャリアは、即座に逃げ出す……逃げ出そうとしたのだ。

 だが、左脚が動かない。感覚もない。立ち上がれない。

 それでも必死に手を動かし、足を引きずって這いずる。


「ころくろがきがあああああああ!!」


 目に涙を浮かべながらヒューバートが大声で叫び、立ち上がる。

 噛み切った舌のせいで、呂律が回っていないようだ。


「もうやめら!ほまえのはらをはいて、ほこに突っこんでやふ!」


 そして舌を動かした激痛で、またひとしきり悶え苦しむと、


「まぶは、てあひをぶっつぶひてからら!」


 左手で口を押さえたままよろよろと足を進め、右手でメイスを取った。

 サーシャリアも懸命に身体を動かすが、逃げ切れるものではない。

 一歩。二歩。三歩。着々と、ヒューバートが迫ってくる。

 腕か、肩か、膝か。あの鉄塊でどこを潰すつもりなのか。


 ……今度は避けられぬ。


 追われる方と、追う方が共にそう思ったその時。


 猛然と吹いた突風が。いや、まるで嵐のような何かが。

 サーシャリアの頭上を飛び越え、あの男との間に立ちはだかったのだ。


 腫れ上がった瞼が、それでも限界まで開かれる。

 鼻の奥が、血ではないもので熱くなった。


 サーシャリアの全力の抵抗が、彼が辿り着くまでの時間を稼ぎ。

 必死の一撃で上げさせた叫びが、彼に向かう場所を知らしめたのだ。

 彼女は決して諦めぬことで、生命を繋いだのである。



 そして、勝負は一瞬でついた。


 ヒューバートが振りかぶったメイスは握られた両手ごと切り離され。

 続く一閃で、その胴は腰下のあたりで分断される。

 まさに、瞬く間のことだ。


「おべああいやあああ」


 という奇声を発しながら上半身は転がり。

 少し離れた地面に胸像のような姿勢でちょこん、と立ち、止まった。

 やや呆け気味なその顔は、どうやら状況を認識出来ていないと思われる。


「サーシャリア君!」


 そう叫んで彼女を見たガイウスの顔を、サーシャリアは生涯忘れないだろう。


 言いたいことは沢山あった。

 縋り付きたい思いも。

 だがそれらを全て押し殺し、彼女は叫ぶ。


「私は大丈夫ですから!それよりエモンの支援を!避難民への追手も出ています!そちらを優先して下さい!」


 ガイウスは一瞬だけ躊躇した。

 だがすぐに頷くと、胸像の首を瞬時に跳ね飛ばし。猛烈な勢いで駆け出していく。

 しばらくの間を置いて、上がる断末魔。また続けて。さらに続けてもう一度。そしてあと一回。


 サーシャリアはそれを耳にしながら地面へと倒れ込む。

 精神も、肉体も。全てが既に限界だ。

 閉じた瞼はそのまま彼女の意識を闇の中に押し込み。

 気絶とも眠りともつかぬ泥濘へと、沈み込ませていくのであった。



 避難民を追った冒険者達はその後ガイウスに捕らえられ、村人達は無事に守られた。

 狩人風の男だけはそのまま逃げ去ってしまったらしい。おそらくは、後退した冒険者本隊に合流したのだろう。


 その後調べたところ。

 枯れ川にいた本隊と合わせて、確認出来た冒険者の死体は18。


 一方防衛側も。

 成功したあの作戦でも、逃げ切れなかった者、止む無く応戦して倒された者がやはり出ている。

 コボルドの死者は6名であった。


 ……こうして、決して少なくない損害を出しつつも。

 コボルド村は、冒険者ギルドによる討伐部隊を退けたのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る