05:犬じゃない
05:犬じゃない
森へ、飛び込む。
声のした方角へ、ガイウスが駆ける。
まるで岩が転がるかのように木々の間を縫って走ると、すぐに目に入ってくるものがあった。
獣の背。
八尺ばかりの背丈の獣が、二本脚で直立している、その背中だ。
二本の後ろ脚で立ち、四本の前脚を広げる、その魔獣の姿に、ガイウスは見覚えがあった。
【蟲熊】と呼ばれる、【大森林】に生息している魔獣の一種である。名前の由来は単純に、虫と同じで脚が六本あることと、「卵で増える」生態からだ。
普通の熊ですらヒューマンにとっては十二分に脅威である。
その腕で殴られれば人はたちまち肉塊と化す。一本一本生えた爪はナイフの様なもの。その分厚い毛皮と肉は、天然の装甲とも言える。
だが本来、熊は積極的には人間へ絡んで来ない。本能的に警戒しているからだ。人と熊が遭遇するのは主に不幸な偶然が重なった場合か、熊が人肉の味を覚えた時である。
しかし、蟲熊は違う。蟲熊は積極的に狩りに来るのだ。何か、本能のタガが外れているのかもしれない。
熊が蜜を舐めるために、蜂の巣に手を入れるのと同じ感覚で。人を、人里を襲うのだ。
ガイウスの育った開拓村が、そうであったように。
「おい!」
ガイウスが、吠える。
奇襲の機会を潰してまで注意を引くのは、襲われていると思われる子供から、注意を逸らす為である。
素早く視線を動かし、周囲を確認する。
子供の姿は見えない。どこか木の陰にいるのか、それとも既に致命の一撃を受けて、倒れているのだろうか。
だが、探すにしても、ガイウスは目の前の魔獣を退ける必要があった。
両手で剣を持ち、刀身を頭上に掲げるガイウス。
所謂「屋根の構え」と呼ばれる、上段の構えだ。
ぐるるるる。
声に反応して、相手がゆっくりと振り返る。
蟲熊は、四本の太い前脚を持つために重心が悪い。立ったまま方向転換をすることが出来ないのだ。
だから一度前脚を降ろし。四つん這い、いや、六つん這いになってガイウスの方へと向き直り、威嚇の唸りを上げると。
猛然と、突進を開始した。
◆
声の主を見つけて、蟲熊は歓喜に震えていた。
……ああ、こんな所で『平地猿』に出会えるとは。
丁度、追い詰めていた獲物は「小物で食い足りない」と思っていたところだ。
平地猿。森では滅多に出会えないが、たまに森から出て探しに行く。足が遅い。弱い。食いやすい。
時々甲羅がついている奴もいるが、多少食べにくいだけで、甲羅を剥けば中の肉は柔らかい。
前の前の秋に、食べた奴等がそうだった。
今回の奴も、甲羅付きの時と同じように、棒切れをこっちに向けている。
あの甲羅付きは棒で俺の頭を叩いたが、それだけだった。
大して痛くもなく、それで終わり。
体当たりでふっ飛ばした後は、前脚で撫でてやればすぐに動かなくなる。
ほら、今度の奴もあれで俺を叩くつもりらしいぞ。
馬鹿な平地猿。
俺の頭の骨はお前たちごときの力では、び
◆
「びくともしないのだ」と思う間もなく、蟲熊の頭は叩き割られていた。
突進して来る蟲熊に対し、ガイウスは相手の反応を上回る速度でむしろ踏み込み。
低い位置の頭部へと、上段からの一撃を加えたのである。
身の丈七尺近いガイウスの膂力を持って振り下ろされたその重い刀身は、「屋根から落ちてくる」という構えの由来通り、猛烈な衝撃をもって蟲熊の強固な頭骨を粉砕し、脳を潰し。
瞬時にその意識を絶ったのだ。
地面に叩きつけられた頭部から、つんのめる様に倒れる蟲熊。
ガイウスは斬撃を加えた直後に素早く身を翻し、突進に巻き込まれるのを、躱す。
ず、ずん。
と音を立て、蟲熊の身体が木にぶつかって止まる。
ガイウスはすぐに歩み寄り、その剣を三度ほど振り下ろす。蟲熊の頭部は完全に砕かれて脳が飛び散り、首も切断された。
巨獣、特に魔獣は人の基準からは信じられぬ生命力を見せることがある。
念を入れての、とどめ。
開拓村の戦士として生涯を終えた、母親からの教えであった。
ガイウスは剣……フォセに付着した血と肉片を振り払うと、周囲を見回し。
他に脅威が無いのを確認して、一息ついた。
(この剣で正解だった)
フォセ、というのは鎌を連想させる逆反りの曲線を持った剣である。
刃は先の方だけが両刃になっており、先端部の反対側には切り立った山脈を思わせる切り込みが刻まれていた。
本来、肩越しに構え、重さに任せて振り下ろしたり、トゲに引っ掛けるようにして斬りつけたりするための武器である。騎馬の脚を斬るのにも使える。
自身の体躯に合わせて刀身を三尺まで伸ばし、より分厚く重くしたものを、ガイウスは作らせていた。もし手に取っていたのが細身の剣や槍であったなら、今のような使い方は到底出来なかったであろう。
見かけは不格好だが、彼の膂力を活かすのに向いた武器なのだ。
多少扱いが乱暴だろうと壊れにくい点も、ガイウスの性に合っていた。
……さて。
「もう、大丈夫だ」
と、未だ見つからぬ相手に向け、周囲を見回しながら声をかけるガイウス。
きょろきょろと頭をあちこちに向けるが、返事も無く、子供の姿も見当たらない。
もう既に命を奪われ、どこかの陰で斃れているのではないか、という想像に胃を苛まれた。
(返事が出来ないような状態なのか。まずいな)
地面に倒れているという想定で、木の陰を探して回る。
いない、いない。と呟きながら歩く彼の耳に。
うーっ。
という獣の唸り声が、届いた。
頭が判断する前に身体が反応し、瞬時に剣の切っ先が対象を捉える。
その先に居たものは。
(……犬?)
そう。それは、白い犬であった。
ひょっとしたら狼なのかもしれないが、大きさからすれば犬の可能性の方が高いだろう。
まぁとにかく、犬のような生き物なのである。
それが木の根本に背を預けるようにしながら、歯を剥いて唸り、ガイウスを威嚇しているのだ。
……ガイウスは、いつも犬に嫌われる。
王都にいた頃はすれ違う犬、見かけた犬から、よく吠えられたりしたものだ。
というよりは、成人してから犬に懐かれた経験が全く無い。
いつも撫でたい、触りたいと思うのだが。何故か犬という犬は皆、彼が近寄ると怯えて逃げるか恐慌状態になるのである。
恐怖のあまり失禁して気絶されたことすらあった。その後数日、ガイウスはひどく落ち込んだものだ。
だからこの反応も、仕方のないものだと、受け止めている。
だがガイウスが気になったのは、その犬が脚に傷を負っていることと、獣皮の貫頭衣を着ている点であった。
服を着る野犬や狼など存在しない。
だとすれば、この犬は誰かの飼い犬なのであり、飼い主が近くにいる可能性が高いということなのだ。
先程の呼びかけに飼い主の返事がないのだから、危険な状態であることも考えられる。
すぐに探さねばならないが、まずこの犬が案内出来たりしないだろうか、という一縷の望みに賭けて。
彼の基準で精一杯の優しい声色を作り、話しかけた。
「だ、大丈夫、大丈夫だ。ご、ご主人は近くにいるのかね?」
犬に飼い主でもない人間の言葉が通じる訳もないが、ひょっとしたらこれで主人の元に逃げ帰るかもしれない。
膝をつき、首を傾げながら、ぎこちない笑顔を作る。
が、犬は変わらず歯を剥いて威嚇を続けたままだ。
それを見てガイウスは
「……犬に言っても、分かるはずもないか」
と一人呟き、がくりと下を向いて肩を落とす。
果たして、手遅れになる前に飼い主を見つけることが出来るのだろうか。
急がねばならない。
だが、再び顔を上げた瞬間に、彼は予想もしなかった声を聞くことになったのだ。
『アタシは、犬じゃない!』
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