02:イグリスの黒薔薇
02:イグリスの黒薔薇
騎士学校一年生のヘティーはその日、衛士として王城の外門に立っていた。
生徒は交代で休日を返上し門衛を「自主的に手伝う」という、創立当初からの美しく腹立たしい伝統に則ってのことである。
思春期の若者達の貴重な休みを無償奉仕にて磨り潰すという、まことに過酷な習わしではあったが、生徒達にとって全く利点が無い訳でもない。
門衛を手伝うということは、王城に出入りするほぼ全ての人物と顔を合わせるということでもあるからだ。
出入りの商人や業者だけではない。高級官吏や騎士、将校、大臣、貴族。場合によっては王族とも言葉を交わすことが「職務の必然」として発生する。
騎士見習いの存在である彼等からすれば、天上人に等しい相手から直接面識を得る好機の場でもあったのだ。
目当ての貴族や軍人が登城する日付をわざわざ調べておいて、その日の「手伝い」を買って出る、出世欲の旺盛な生徒もいるくらいである。
ただ、見習いの身にて自ら弁舌をもって売り込んだりするのは良しとはされない。
だが、身なりをいつも以上に整え、この日のために練習した立ち振舞いをもって貴人の目に留まる……という淡い望みを抱くのは、立身出世の大志を抱く少年少女達にとって無理からぬことであろう。
実際、王族の知遇を得たことがきっかけで、ただの雑用係が最終的に騎士団長にまで上り詰めた例すら、過去にはあったのだ。
万に一つ、億に一つよりささやかなる可能性とは言えど、お伽噺のような期待をせずにはいられないのが人というものである。
勿論、今日が初めての手伝いとなるヘティーにしても、それは例外ではなかった。
表情を引き締め、身体はまっすぐ凛々しくと。敬礼は速やかに、それでいて滑らかで、美しく。
……行おうとするのだが、緊張のあまりその動きはたどたどしくぎこちない。
ある青年貴族はそれを鼻で笑い、次に来た老いた官僚は微笑ましげに目を細め、その後の太った職人からは励まされ。
それでも何とか格好をつけようと、必死に気を張るのであった。
ふと門の反対側を見ると、同じく今日が「自主的手伝い」の当番である同級生のポールも、顔を強張らせつつ客人への誰何や受付業務を行っている。
時々手順を間違えそうになり、脇についた本職の衛士から、その都度指導されているようだ。
緊張しているのは、やはりヘティーだけではないのだろう。
修繕業者の一団が下城した後は、新たに訪れる者も途切れ、急に手持ち無沙汰になった。
どうやら時間帯によって波があるらしい。
人目が無くなったことで緊張も緩み、思わず出てきた欠伸を必死に噛み殺す。
そんなヘティーを見て、壮年の衛士は笑いながら、
「嬢ちゃん、もう少しで詰め所の連中と交代時間だ。それまで頑張……」
と、そこまで口にしたところ。彼の表情が突如として固まってしまった。
その視線を追うと、どうやら門へと続いている舗装路の方向を見ているらしいのだが。
途端、目にも留まらぬ早さで槍を持ち直し、背筋を正し。直立不動、気を付けの姿勢をとって、きりりと表情を引き締める。
ごくり、と彼が唾を飲み込む音が、ヘティーの耳にまで入ってきた。
ぽかん、とした顔でその様子を見ていたヘティーとポールであったが、もう一度衛士の視線の先を見て、その理由を理解することとなる。
男だ。男が歩いてきているのだ。
マントを羽織り、革鎧のようなものを着込み、腰に帯剣した人物。
ただし、身の丈は七尺近い。まるで岩塊が人の形を成したかと錯覚するような巨躯である。
その者は、まさに凶相と言うべき相貌をしていた。
睨めつけるかのような厳しい眼光。滾る怒りを堪えるかのように結ばれた口元。人間というより獣、それも獅子のような肉食獣を連想させる造形だ。
さらには刃物傷と思われる無数の跡が彼の顔上で盛んに自己主張しており、頬にはご丁寧に入れ墨のようなものまで刻まれている。
どのように贔屓目に見たとしても、真っ当な人物とは思えなかった。
人というより。魔獣、悪鬼の類と言われた方がまだ納得がいくだろう。
恐怖感から、思わずヘティーが腰の剣に手を伸ばしてしまった矢先。
「お勤めご苦労にございます!ベルダラス卿!」
衛士が、上擦ったような声を上げた。
(ベルダラス卿!?)
その言を聞き、ヘティーとポールが顔を合わせる。
(あれが、ベルダラス男爵!)
ガイウス=ベルダラス男爵。鉄鎖騎士団団長。
十五年近く昔に隣国の連合軍と繰り広げられた、【五年戦争】にて勇名を轟かせた大物騎士の一人だ。
騎士学生になりたての二人とて、その名を耳にしたことは、ある。
【五十人斬り】【人食いガイウス】【ベルダラスの試し斬り】【味方殺し】。様々な呼び名、数々の逸話。
だが、一番有名なのは、左頬の呪術刻印からなる【イグリスの黒薔薇】の異名だろう。
入れ墨のような紋様は、卿が殺めた多くの人々からの呪いによるものだとも、彼の獣性を抑えるために東方諸国群から呼んだ魔法使いが刻んだものだとも噂されている。
怒りの精霊を身に宿して産まれた狂戦士とは違い、人間の凶暴さや残虐性、狂気が鍾乳石のごとく晶出した男……それが、あのベルダラス男爵だというのが、世間一般での認識であった。
(しししし、失礼のないようにしないと!)
震える下顎の動きを必死に抑えようとするが、彼女の意志とは無関係に奥歯はガチガチと鳴り続ける。
見ると、反対側に立つポールも蒼白な顔色をして小刻みに震えていた。
卿の機嫌を損ねた若い騎士が一刀のもとに叩き斬られたという恐ろしい話は、そもそも彼から聞かされたものなのだ。
そんな若者達の心情を知ってか知らずか。
すぐそこまで迫ってきていたベルダラス卿はゆっくりと衛士に対し、首を振る。
「いつも、ご苦労。だが【卿】は不要だ。私は昨日をもって、貴族でも騎士でもなくなったのだから」
ゆっくりとした、低い、厳かな声だ。
だがすっかり恐怖に支配されていたヘティーとポールの耳に入ったその声は。墓所内の様な反響を繰り返して、彼女等の精神を荒く粗く削り取っていくのであった。
「は!申し訳ありません!」
「では、受付を頼みたい。今日は管理部門へ、役宅の鍵を返却に来たのだ」
「はい!畏まりました!ではこちらに記入をお願い致します。おい、用紙を持ってきてくれ!」
「は、はい!只今」
衛士はポールに声をかけた後、くるりと振り返ると。
「ヘティー!ベルダラス卿のお腰のものをお預かりするのだ!」
「いやその、だから私はもう貴族では」
(いぃぃぃやああぁぁあ!名前呼ばないでえぇぇええ!)
こんな恐ろしい人物に私の名前を覚えられたら、どうしてくれるの!
心の中で恨み言を呟きながら。ヘティーは震える足を必死に動かし、前へと進んだ。
ベルダラス卿は腰に吊っていた剣をゆっくりと取り外すと、背を屈め、彼女にそれを差し出した。
「少々重いかもしれぬ。気をつけてな」
「ひゃ、ひゃい!」
まともに動かぬ唇で、それでも何とか返答し、卿から渡された剣を両の手で受け止めたヘティー。鞘の感触が、ずっしりと掌に伸し掛かる。
だが、緊張からなのだろうか。それとも、彼女にとって予想外の重量だったからなのだろうか。
彼女は盛大に、その剣を落としてしまったのである。
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