第66話本当の望み
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
息を切らせながら、みなもは廊下を道なりに走っていく。
早く行かなければと心は焦るが、足に疲れが貯まってしまい、動きは思いのほか鈍い。
思うようにならない体が、歯がゆくて仕方がなかった。
先の方に固く閉ざされた扉が見えてくる。
立派な鉄製の扉には百合らしき花が彫られており、無骨な印象を和らげていた。
(ここに姉さんがいるのか……)
急に訪れた非常事態に怯え、青ざめた顔で体を震わせるいずみの姿が頭に浮かぶ。
傷つけたい訳でも、怖がらせたい訳でもない。
目的のためとはいえ大切な――生き残った唯一の家族を追い詰めている自分が、腹立たしくもあり、悲しくもあった。
近くまでいくと、みなもは扉にそっと手を当てる。
ナウムの部下から、いずみは自室の隠し部屋にいることも、部屋への行き方も聞いている。
この中へ入れば、間もなく姉と再会できる。
きっとここまでやった自分たちを、彼女は許してくれないだろう。
もう引くに引けない状況なのに、まだいずみに憎まれたくないと願う心があった。
みなもは躊躇いがちに扉を押した。
扉に鍵はかかっていなかった。
ゆっくりと、もったいぶるように開いていく。
落ち着いた臙脂色の絨毯と、純白のカーテンから差し込む光が、真っ先に視界へ入ってきた。
部屋の隅には薬草を栽培した鉢が並べられ、瑞々しい緑が壁に彩りを添えている。
そして部屋の中央には、凛とした佇まいで正面を見据えるいずみの姿があった。
まさかここにいると思いもせず、みなもはその場に立ち尽くす。
「ね、姉さん、どうしてここに?!」
予想とは違い、いずみは申し訳なさそうな微笑を浮かべた。
「騒ぎが起きたと分かった時、きっとみなもが来るんじゃないかって思ったのよ」
「じゃあ、姉さんは自分が狙われているのを知った上で、隠れずに俺を待っていたの?」
「ええ。どうしても貴女に会いたかったから」
いずみは深呼吸し、意を決したように眼差しを強めた。
「ナウムの屋敷で貴女と会った時に渡してくれた手紙……あそこに書いてあったことが、みなもの望みなのね?」
柔らかい声で静かに問われ、みなもは大きく頷く。
あの時いずみに伝えたのは、もう毒を作らないで欲しいこと。
そして、薬師として――自分が久遠の花となって生きること。
ここまで来た以上、もう迷いはない。
みなもが揺らがぬ視線を投げかけていると、いずみはフッと顔を綻ばせて手招いた。
「ちょっとこっちに来てくれるかしら? みなもに渡したい物があるの」
そう言うと、いずみは部屋の脇にある本棚へ近づいていく。
後に続こうと一歩踏み出してから、みなもは立ち止まる。
このままついて行ってもいいのか?
俺の姉さんである前に、バルディグの王妃だ。国のことを考えるならば、毒を作ることは止められないはず。
もし、こちらを油断させて、何か仕掛けてくるとしたら――そんな考えが頭を過る。
大好きな姉を信じられない自分に気づいてしまい、胸が締め付けられた。
(姉さんと会えるのは、これが最後なのに……)
信じたいと願う心とは裏腹に、腰の短剣をいつでも抜けるように手を柄へ持っていく。
そして辺りの気配を伺いながら、慎重にいずみの方へと向かっていった。
いずみは無防備な背中をこちらに向けたまま、本棚から爪一つほどの分厚さがある本を数冊取り出す。
振り返ってみなもの顔をジッと見つめてから、いずみはそれを差し出した。
「ここに私が知っている限りの久遠の花の知識を書き記したわ。みなものこれからに役立てて」
「えっ……」
思いがけない話に、みなもは目を激しく瞬かせる。
お互いに薬と毒の知識を持っているが、それぞれにしか伝わっていない知識もある。
いずみから記憶を奪えば、その知識は失われる――浪司もある程度は知っているだろうが、彼も守り葉。知らないこともあるだろう。
いくつか久遠の花の知識が失われるかもしれない、という覚悟はしていた。
それだけに、いずみの書いた本はとてもありがたかった。
これを受け取らない理由はない。
みなもは手を伸ばし、本を受け取った。
「……ありがとう、姉さん。大切にするよ」
小さく頷いてから、いずみは愛おしそうに目を細めた。
「実を言うとね、この国のために毒を作っていたのは確かだけれど……貴女に会ってこれを渡すことが、私の望みだったの」
「もしかして一族の人間がいると分かる毒を作っていたのは、それが目的?」
「そうよ。毒を作れば、みなもが私を止めに来るだろうと思ってた。たとえ記憶を奪われることになっても、貴女に一目会いたかった。久遠の花の知識を譲りたかった……多くの人を苦しめることになると分かっていても」
言いながらいずみは本棚の隣にあった机の引き出しを開けると、中から何かを取り出す。
見覚えのある包み紙――それが前に渡した記憶を奪う薬なのだとすぐに分かった。
「前にこれを渡された時は、手元に本がなくて、誰が見ているか分からない状況だったから受け入れられなかったけれど……今なら心置きなく飲むことができるわ」
ゆっくりとした手つきで、いずみが包み紙を開いていく。
咄嗟に机へ本を置き、みなもは前へ出ようとする。
けれど一歩踏み出して、足は動かなくなってしまった。
これを飲んでしまえば、久遠の花の知識だけでなく、自分たちが姉妹だったことも忘れてしまう。
離れていても確かにあった繋がりが、絶たれてしまう気がした。
まだ飲まないで欲しい、と言いそうになり、みなもは無理に言葉を呑み込む。
一刻も早く、ナウムを足止めしているレオニードの元へ行きたい。
間違えてはいけない。これから一緒に生き続けたい人は、彼なのだから。
みなもは微動だにせず、いずみの動向をただ見守ることしかできなかった。
いずみは上を仰ぎ、すべての薬を口の中へと送り込むと、固く口を閉ざす。
ごくり、と大きく喉が鳴った。
もう後戻りはできない。
頭では分かっていたのに、いざ目の当たりにしてしまうと激しく心が揺らぐ。
瞳が潤みかけていたみなもへ、いずみは腕を広げて近づいてくる。
そして昔へ戻ったように、優しく抱き締めてくれた。
「お願い……私の記憶が消えるまで、このままでいさせて」
バルディグの王妃ではなく、たった二人きりの家族として向き合ってくれている。
悲しくて胸は苦しくなるばかりなのに、いずみからその言葉を聞けて嬉しかった。
みなもは「うん」と頷いてからそっと腕を回すと、いずみを抱き締め返した。
「俺のことを忘れてしまっても、姉さんが好きだって気持ちは変わらないから」
「ありがとう、私も貴女のことが好きよ。……できることなら、ここでずっとみなもと一緒に過ごしたかった」
耳元でそう囁くと、いずみは腕の力を強めた。
「みなもだけに一族の使命をすべて背負わせてしまってごめんなさい。これから貴女がどれだけ苦しい思いをしても、助けてあげられない……それがすごく心残りだわ」
「心配しなくても大丈夫だよ。守り葉の熊オジサンもいるし、これから一緒に生きてくれる人もいるから――」
話の途中で、フフッ、といずみが小さく笑う声がした。
「良かった、まだ生き残っていた人がいたのね。それに貴女にも大切な人がいるなんて……どんな人か見てみたかったわ」
元来た道を戻ればレオニードに会わせることはできるが、ナウムと死闘を繰り広げている姿を見せる訳にはいかない。
記憶を失う間際に、いずみに悲しい思いをさせたくなかった。
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