一章:若き薬師と行き倒れの青年
第2話とある村の若き薬師
北の国々から漂う寒風を遮るように高い山々が連なり、西の海から内陸へと続くキリアン山脈。その南側では春の訪れを総出で祝うように森が新緑に萌えていた。
若葉溢れる森に方々を囲まれた名もない村は、暖かくなった日差しに包まれ、ゆるやかな時に浸っていた。
村人は体を温めようと、取ったばかりの山菜を外で干しながら、隣人とのお喋りを楽しむ。小鳥のさえずりに混じり、のんびりとした手つきで衣類を洗濯する音も聞こえてくる。街とは違い、あくせく働く者はどこにも見当たらない。
しかし村外れの小屋に住む若者は例外だった。
若者は小屋にこもり、摘み取ったばかりの薬草をハサミで刻み、壺へ詰めていた。
壺がいっぱいになれば、木蓋と重石を乗せ、部屋の隅に置いていく。ずっとこの作業を飽きもせずに黙々と続けていた。
小屋の中は数多の壺と草と、えぐみのある臭いに満ちている。常人ならば顔をしかめる環境だが、若者の顔は涼やかで顔色一つ変わっていない。
漆黒の柔らかな短髪は、作業する度にふわふわと揺れる。スッと横髪が流れ、若者は手をとめて髪を耳へかけ直した。
端正な顔に汗が一筋流れる。あどけなさを残した顔だが長い睫毛が伏せがちになると、ふわりと色香が漂った。
外から誰かが小屋へ駆けてくる音がした。
若者は黒い瞳を扉に流して来客をうかがう――バンッと元気よく扉が開いた。
「こんにちはー……うわ、臭っ。よくこんな所にいられるや」
現れたのは褐色の髪をあちこちで跳ねさせた村の少年だった。よく親のおつかいでここに来る小さな常連だ。
若者はハサミを机に置き、口元をゆるめて笑いかけた。
「そんなに臭う? 年がら年中やってるから慣れちゃってさ。悪いね」
「スゲー、オレだったら絶っ対ムリ……あ、そうそう。母ちゃんがさ、頭が痛いから薬をくれって」
「分かったよ。ちょっと待ってて」
若者は立ち上がり、後ろにある棚をジッと眺める。大小様々な壺を並べている中で、よく出ていく薬は棚の上から三段目に置いてあった。
青地の壺に手を入れると、予め取り分けて紙に包んであった痛み止めを取り出す。そして隣の緑地の壺にも手を伸ばそうとした。
「お母さんは他にも寒気がするとか、熱っぽいとか言ってなかった?」
少年は「んー」とうなって考えてからハッとなる。
「そういや、朝からずっと「寒い寒い」って言ってたや」
「きっと風邪だね。痛み止めの薬と一緒に体を温める薬も渡しておくよ。こっちは俺のおごりでいいから」
軽く若者が片目を閉じ、二つの薬を手渡す。
なぜか少年は頬を赤く染め、慌てて銅貨を一枚支払ってくれた。
「あ、ありがと、みなも兄ちゃん!」
力一杯に手を振ると、少年は来た時と同じように駆け足で小屋を出て行った。
(みなも兄ちゃん、か。俺が女だって分かったらどんな顔をするんだろうな)
小さな背を見送りながら、みなもは息をつきながら小さく笑う。と、すぐに新たな来客が扉を開けた。
「よお、みなも!」
中背でガッシリした体つきの男が、手を上げて小屋へ入ってくる。
たくましい顎に満遍なく生えそろった不精髭。まくられた袖から見える太く硬そうな腕にも剛毛が茂っている。 適当に縛った赤毛は、所々おくれ毛が飛び出して一見するとだらしなさそうな印象を受ける。ただ、丸くて艶やかな琥珀の瞳が妙な愛嬌をたたえており、不思議と不潔さを感じさせなかった。
みなもに目を合わせるなり男は豪快に笑った。
「相変わらず無駄に色気を振りまいてんなあ。しかも前に会った時よりも色気三割増しじゃねーか。さっき小屋の前ですれ違ったガキも、妙に顔が赤くなっていたしなあ……あんまりガキをたぶらかすなよ」
ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる男へ、みなもは腕を組みながら小首を傾げる。
「本気で俺なんかに色気があると思ってるの? こんな四六時中小屋に籠って汗だくの小僧なんかに……お前の目を疑うよ、浪司」
「無自覚かい。そこがまた罪作りだよなー」
呆れたように肩をすくませてから浪司は扉を閉める。そして数歩歩いてどっかりとあぐらをかいて座り、持ってきた手荷物を床に広げてみなもに見せてきた。
「そんなことより商売商売っと。なんか欲しい物はあるか?」
「……ふぅん。よく見つけてきたね」
素っ気ない口ぶりとは裏腹に、みなもの唇は弧を描く。
細っこい木の根や、乾燥しきってしおしおになった木の実――ゴミにしか見えない物でも、みなもから見れば使える物ばかりだった。
浪司は各地をさすらう冒険者だった。この地域で手に入れられない薬草を、たまに訪れては売りつけてくる。三年前に偶然この村へやってきて、「頼む! 金欠で困ってるから買ってくれ!」と泣きつかれて薬草を購入した時からの付き合いだ。
わざわざ辺境の村まで訪ねてみなもに売りつけるのは、それを薬草だと見分けて活用できる人間が少ないから。浪司からすれば数少ないお得意さんなのだろう。気づけば村人でもないのに度々訪れ、今では村人並みの顔馴染みだ。
みなもは一通り眺めて品定めをすると、にっこり笑ってみせた。
「俺が買わないと誰も買ってくれないんだろ? あるだけ貰うよ。その分――」
「安くしろって言うんだろ? しっかりしてるよな」
わざとらしく眉先をピクリと動かし、浪司は持ってきた薬草を別の袋に詰めこむ。それからみなもに袋ごと手渡した。
「ありがとう。代金はいくら?」
「いつも通り銀貨五枚と言いたいところだが、今回はちょっくら物々交換させてくれねぇか? ワシは今度、北方へ冒険しに行くんだ。それで凍傷やしもやけ用の薬が欲しいんだよ」
北方――。
一瞬みなもの目が鋭くなる。
だが、すぐに緊張を解いて微笑を浮かべた。
「これから使う機会が減ると思ったから、外の納屋に入れちゃったんだ。取ってくるよ」
「面倒かけるな。頼むぜ……あ、あと傷薬も多めにくれねぇか?」
快く手を振り、みなもは颯爽と小屋を出た。
ぐるりと小屋を回って裏手に行くと、木で組んだ自作の納屋があった。
小屋が陰となり、春の陽気はここまで届いていない。冷えた空気にみなもは震える。
(寒いな。早く薬を取って小屋に戻ろう)
冷えていく指に温かな息を吹きかけると、みなもは納屋の戸を開けて目的の薬を探す。
冬の間、毎日村人に求められていた物。薬の入っている黒い壺はすぐ手前にあった。
蓋を開けて小瓶に取り分けた軟膏を手にすると、みなもは動きをとめる。
(北方、か。あれから八年も経ったんだな)
八年前。久遠の花の隠れ里を襲われて姉に助けられた後、みなもは仲間の誰かが逃げ延びたかもしれないという一縷の希望にすがり、山を降りて姉たちの行方を捜した。
最初は女の子供というだけで襲われそうになったり、人買いにさらわれそうにもなった。
守り葉だったおかげで身を守る術はいくらでもあったが、頻繁に相手をするのは面倒な上に、姉や仲間の行方を探す時間が減るのは惜しかった。だから服の下に革の胸当てを着け、男のフリをするようになった。
おかげで襲われる回数が減り、どうにか各地を渡り歩くことができた。
――回数が減っただけで、男でも構わないという輩が意外と多いという現実に辟易もしたが。
様々な町に流れ、自分で採った薬草を売りながら仲間たちの情報を集めた。だが手がかりは未だつかめずにいる。
姉たちを連れて行ったのは北方の兵士だが、連れて行かれた場所が北方とは限らない。だから今は噂を聞いてすぐ移動できるように、大陸のほぼ中心にあるこの村を拠点とし、薬師として生計を立てていた。
(ずっと情報を集めているけど、姉さんたちの話は全く聞かない。少しでも話があれば今すぐにでも飛んで行きたいのに)
目を閉じると、みなもの瞼に凛として気品のある、四つ違いの姉の姿が浮かんでくる。
両親は仕事で里を離れることが多くて、姉が母親代わりとなって面倒を見てくれた。いつも優美で温かな笑みを浮かべて……。
いずみ姉さんに会いたい。
みなもの胸奥に、郷愁の思いがにじむ。
(……生きていればいいけれど)
ここで思いを馳せたところで、どうにもならない。
みなもはため息を一つ吐き、気を取り直してから納屋を閉めた。
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