第2話 船旅は、波乱に満ちて

        1

 ハンガリー王国首都、ブラティスラヴァ。

 改築して間もない宮殿、通称、『ひっくり返したテーブル』の門前で、リースルは憚りなく叫んだ。

「ミミの糞姉貴! 来てやったぞこらぁ!」

 リースルの口汚い怒号が、秋の昼空に響き渡る。近くにいた門番は、露骨に顔を顰め、付き添い女中のヘレンは、おろおろと狼狽えた。

「はしたない真似は、おやめください、エリーザベト様。クリスティーナ妃の機嫌を損ねたら、どうなさるおつもりですか」

 ヘレンの注意を、リースルは鼻で笑った。

「はっ、何を浮き足立ってやがる。姉貴に媚びへつらわなくちゃならねえほど、アタクシは落ちぶれちゃいねえ」

「ですが」

「うるせえ」

 リースルは、ヘレンの足を思い切り踏みつけた。

 ヘレンは言葉にならない呻きを上げ、蹲る。が、リースルは容赦なく、ヘレンの髪を掴み上げた。

「いぎっ、痛うございます、エリーザベト様」

 涙目で訴えるヘレンを、リースルは睨み付けた。

 顔のほとんどを覆う、黒いベールの内側から。

「いいか、ヘレン。よぉ~く、分かってると思うがよ。アタクシは今、不幸の底無し沼に両足を突っ込んでる。忌々しい痘瘡に、顔を潰されたせいでな」

「お、お労しい限りで」

 ヘレンは怯えきった様子で、目を背けた。リースルは嘲笑い、手を離した。

「そんな生温い言葉で済むかよ。痘瘡さえなきゃ、今頃、アタクシはフランス王妃だったんだ。アタクシは兄弟姉妹の中で、一番の不幸者だ。そうだろう?」

 ヘレンからの返答は、なかった。リースルは構わず、愚痴を続けた。

「で、だ。そんな不幸せの真っ直中にいるアタクシとは、正反対に、現在、幸せの絶頂を極めてる、おめでたい糞女がいる。それが、ここのミミ姉貴なんだよ。見てな」

 リースルが、『迫真の演技』で『嘘』を喋り終え、修道服に付いた皺を軽く伸ばしたところで、城の扉が厳かに開かれた。

 扉の向こうから、宮廷に相応しい豪奢な服に身を包んだ、ミミこと、マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ・テッシェン公アルブレヒト王妃が現われた。

 ネネは、見目麗しい相貌に満面の笑みを浮かべ、リースルに歩み寄った。

「お久しぶり、リースル。すごくお似合いよ、そのベール。修道服も真っ黒だから、統一感があるわ」

 おほほほほほ、と、ミミは上品に口に手を当て、からかった。ヘレンが戦々恐々とする中、リースルは無愛想に返した。

「いらっしゃいませ、ぐらい言えねえのか? 呼び出した客に対してよぉ」

「おっとっと、これは、ごめんあそばせ。嫁ぎ先のなくなった愚妹が、あまりに滑稽だったものだから、つい、挨拶を忘れてしまったわ」

 ミミとリースルの視線が、ぶつかり合う。周囲の人間は、誰もが息を呑んで、立ち竦んだ。

 ミミは恭しく腰を下げ、リースルの入城を歓迎した。

「ようこそ、我がブラティスラヴァ城へ。早速で悪いのだけれど、ワタクシの部屋に来て頂戴な。用件を先に済ませたいから」

「上等だ。ヘレン、お前は適当に暇を潰してろ」

「畏まりました」

 ミミとリースルの醸し出す雰囲気に、堪えられなくなったヘレンは、すぐさま二人から離れた。

 リースルは、長い廊下と階段を上り、ミミの私室に通された。

 部屋には、値の張りそうな家具や調度品、芸術品の数々が、所狭しと置かれている。偉大で強大なる母、マリア・テレジア・ワルブルガ・アマリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒが、ミミを心から溺愛していなければ、ありえない光景だ。

 椅子に腰掛けたリースルが、嫉妬と感心を覚えつつ、しばらく待っていると、ミミが戻ってきた。

「人払いはしたわ。醜い顔を晒したいのなら、ご自由に」

「そうかよ。なら、お言葉に甘えて」

 リースルは無遠慮に、頭部のベールを脱ぎ、髪を整えた。途端、ミミは大仰に驚いて、口元を押さえる。

「まあ、酷い。これじゃあ、最愛王も見放すはずね」

「お望みなら、移してやろうか?」

 リースルは怒らず、むしろ愉快に皮肉を飛ばし、部屋の大鏡を眺めた。

 痘瘡の痕など、どこにもない、姉のミミとよく似た、しかし、目つきはミミと違って鋭い、リースルこと、マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒの素顔が、そこに映っていた。

「良かったな、二年前に親父がくたばって。もし、母上が先に逝ってたら、選帝侯の六男坊なんぞとは、死んでも結婚できなかっただろうに」

 リースルは椅子の上にふんぞり返って、ミミに笑いかけた。

「やだわあ、僻む人って。仮定の話なんて、いくらしても、無意味よ」

 ミミは余裕の表情を崩さない……かに思えた。

「そう、もしもの話、ありえないことなら、楽だったのにね。本当」

 ミミの笑みに、翳りが差した。妙な反応に、リースルは訝しむ。

「なんだよ、姉貴。旦那と痴話喧嘩でもしたのか?」

「お生憎様。ワタクシとアルは、悩むほどの仲違いなんて、しないの」

「じゃあ、今の意味深な態度は――むっ」

 追及しようとしたリースルの唇に、ミミは指を押し当てた。

 悪戯か、と、眉を顰めたリースルに、

「ねえ、リースル。もし、亡くなった父様に隠し子がいたら、どうする?」

 ミミは、至って真面目に、ありえない疑問を口にした。

        2

 奇妙な老人、久平次の家に立ち寄ってから、十日が過ぎた。

 長崎に着いた文之進は、出島近くの岸辺で、長大な異国の帆船を見詰めていた。

「あれが外洋に向かう、阿蘭陀の船か」

「ほがほが、おにょおにょ」

 横から、ヤズが不可解な声とともに、文之進の袖を引っ張った。文之進は平然と無視して、思考に耽った。

「こっそり忍び込むなら、夜中だな。一度、出港してしまえば、こちらのもの。公儀の連中とは、永劫、おさらばだ」

「うみょみょー、むぐむぐ」

「問題は、船長を説得できるか、だな。金で解決できたなら、何も問題はないが、難癖を付けられた場合、海の上では逃げようがない。ある程度は、覚悟しておかねば」

「んっんっ、んーぅ!」

「喧しいぞ、さっきから」

 いい加減、鬱陶しくなった文之進は、ヤズに向き直った。ヤズは、名物の加寿帝良(かすてら)を咥えた状態で、苦しげに喉元を押さえていた。

「お前は、どれだけ食い意地が張ってるんだ。加寿帝良は、そうやって食すものじゃないだろう」

 文之進は、半ば唖然となりながら、水の入った竹筒を、ヤズに手渡した。

 受け取ったヤズは、急いで加寿帝良の残りを頬張ると、竹筒の水で一気に流し込んだ。なんとも豪快で、もったいない食べ方だ。

「うっへー、死にかけたぜい。にしても、美味かったー。ご馳走様」

「あんな食い方で味が分かったなら、幸いだ。ほら」

 文之進は、親切心というか、親心に似た心境から、取り出した手拭いで、ヤズの口元を拭いてやった。

 ヤズは恥ずかしがったり、嫌がったりはせず、さも当たり前のように、堂々とした態度を貫いた。

「うむ、御苦労なり」

「威張るな、阿呆。人に仕えるべき式神が、聞いて呆れる」

 文之進の毒舌にも、ヤズは全くめげない。

「今までは、父ちゃんや兄ちゃんに命令されてばっかりだったから、いいんだもん。これからは、私が難訓ちゃんを従えるのだー。ってわけで、加寿帝良、もう一個、欲しいなー。お金、寄越せ」

「ふざけろ。お前とは、ここで別れる」

 文之進は、きっぱりと告げた。おねだりの格好をしていたヤズは、固まって、瞬きを繰り返した。

「おやおや、なんでかなー? 私、難訓ちゃんに従きまとうって、宣言したじゃーん」

「俺も言ったはずだ。認めてたまるか、と。長崎までは、大目に見て同行を許してやったが、大海原の先にまで、くだらぬ茶番を持ち込む気は、欠片もない。お前など、ひたすら邪魔なだけだ」

 本心は、まんざら嫌でもなかった。ヤズの狂乱じみた騒がしさは、幸徳井家の策略に反し、文之進にとって、ある種の娯楽たり得ていた。出費は、少々、痛かったが。

 しかし、海の向こうは、どんな過酷な状況が待っているか、知れたものではない。いくらヤズが強いとはいえ、女の身では辛いに違いない。ここ長崎が、安全に引き返せるかどうかの、分水嶺だ。

 ヤズは納得がいかず、駄々を捏ねた。

「やだやだー、私も阿蘭陀の船、乗ってみたーい。連れてかないと、呪っちゃうぞー」

「やれるものなら、やってみろ。暦屋如きが」

 断腸の思い、とまではいかなかったものの、ほんの小さな名残惜しさを胸に、文之進は、小判を一枚、ヤズに握らせた。ヤズは驚いて、顔を上げる。

「え、加寿帝良、買っていいの?」

「馬鹿、帰りの駄賃だよ。手切れ金も兼ねてのな」

 文之進が注意すると、ヤズは再び機嫌を損ね、頬を膨らませた。

「もー、どうして我が儘、言うのかなー。今更、私が父ちゃんのとこに帰れるわけ、ないじゃん」

「そんなことは、あるまい。俺への嫌がらせに失敗したぐらいで――」

 突然、ヤズは膝蹴りを放ってきた。

 とっさに身体を反らし、避けた文之進の目に、儚げな笑みを浮かべるヤズが映った。

「駄目なんだってば。難訓ちゃんのせいで、私、用済みになったんだもん。責任、取ってくれなきゃ。それにね……」

 ヤズは言い淀んで、視線を逸らした。疑問を抱いた文之進は、問い詰めようとしたものの、ヤズが喋りを再開するほうが早かった。

「とにかく、難訓ちゃんがどんなに嫌がったって、私は従いてくよ。だから、この小判は加寿帝良になるのだー」

「こら、待て。なんで、そうなる」

 能天気に戻ったヤズは、文之進の制止を振り切り、福砂屋へ駆けていった。無論、文之進は腑に落ちず、受け入れ難かったが、今一度、真正面から別れようとは、言えなくなっていた。

 逃亡生活で、人恋しくなっていた文之進にとって、ヤズと過ごした十日間は、良くも悪くも、充実していた。一人で逃げ隠れしていた頃とは、比べ物にならないほど。

 明白な悪意を以て送り込まれてきた相手とはいえ、単純な理屈で片付けられるほど、人は単純ではない。少なくとも、文之進は無情に徹しきれなかった。

 いや、違う。文之進の身勝手が、ヤズに対する情を上回ったのだ。もし、文之進が本当に、ヤズの身を案じるなら、ぶん殴ってでも、実家に追い返すべきだろう。危険な船旅に同行させるなど、優しい奴のする所業ではない。

 しかし、文之進は思い止まった。ヤズの強引さに甘えて。

「ひょっとして、これが呪いか?」

 半分は冗談、もう半分は真剣に、文之進は悩んだ。心の隅で、ちょっとした安堵を感じながら。

 五日後。

 大量の貨物に紛れ、阿蘭陀船に乗り込んだ文之進とヤズは、出港からしばらく経った段階で、船長と御対面した。

 船長は、最初こそ仰天し、顔を強張らせていたものの、文之進たちが賊の類ではないと知るや、あっさり、乗船を認めてくれた。

 文之進は、丁寧に感謝の意を述べ、船長に小判数枚を差し出すと、ヤズを連れて甲板に出た。

「いやー、私の出番、なかったね。残念無念」

 曇り空の下、暢気に呟いたヤズを、文之進は窘めた。

「暴力で脅す手法は、こういった閉鎖的な場所で、するべきではない。反感を買った相手から、離れられぬだろう?」

「をうをう、誰が喧嘩するなんて言ったのさー。私は色気を使って、説得したかったんだよ。ほら、この、自慢の脚線美でね」

 ヤズは高慢ちきに笑って、着物をたくし上げた。太股が大胆に披露される。

 細く、しなやかに引き締まったヤズの柔肌は、少々、お淑やかさに欠けるものの、確かに、目を惹く艶やかさだった。

 文之進は、思わず食い入るように見つめ、

「そいりゃっ」

「舐めるな」

 危うく、蹴りの餌食になるところだった。

「まったく、油断も隙もない」

「なっはっはー、ごめんごめん。難訓ちゃんの顔が近かったから、つい、絶好の機会だなあって。ところで、この船、どこに向かってるんだっけ?」

 太股を隠したヤズは、飄々とした様子で、文之進に尋ねた。文之進は、呆れて肩を竦めた。

「乗る前に、再三、確認しただろう? 清の南にある、巴塔維亞(ばたびあ)というところだ。もっとも、俺は更に先を目指すが」

「ほほーん、どこまで行っちゃうつもりかねー?」

 答に窮する問いをされた。

「分からぬ。公儀の影すら見えない地なら、どこだって……ん?」

 ふと、大海に視線を移した文之進は、前方の彼方に、不審な船影を発見した。

 程なくして、渇いた発破音が響き渡る。乗組員の一人が、流暢な阿蘭陀語で叫んだ。

 敵襲、と。

 僅かな間隙の後、辺りは堰を切ったように慌ただしくなった。急に舵が切られ、船が斜めに傾き始める。

 異国語が、さっぱり分からないヤズは、文之進の横で、ぽけんと首を傾げた。

「みんな血相を変えて、どしたのかな」

「察しろ、疫病神。海賊だよ」

 文之進は、努めて平静に、かつ、幾ばくかの好奇心を交えて、答えた。文之進の頬に、ヤズの拳がめり込んだ。

「てやんでい、私は式神だぞー。で、かいぞくって、何?」

「海にいる、物騒な追い剥ぎさ。俺も実物を拝むのは初めてだ」

 文之進はヤズの手を引いて、甲板の後方に向かった。船が旋回したせいで、船影が見えなくなったためだ。

 青褪めた表情の乗組員から、望遠鏡を拝借した文之進は、船影の正体を覗き見た。

 真っ先に、目に飛び込んできた光景は、黒い帆と髑髏の旗。次いで、船体の横から生えた、いくつもの砲塔だった。

 形状そのものは、こちらの阿蘭陀船と似ている。清や李氏朝鮮、琉球の船舶と比べれば、同系統といっていい。となれば、おそらく乗っている人間も……。

 海賊船は、砲撃を盛大に鳴らしながら、真っ直ぐ、接近してくる。ますます騒然となる周囲とは裏腹に、文之進は、少々、もったいなさを覚えた。

「景気が、いいな。脅しのためとはいえ、火薬もタダではあるまいに」

「ねーねー、難訓ちゃん。私にも見せてよー」

「又貸しになる。俺じゃなくて、隣の人に頼め」

「私が阿蘭陀語、喋れねーの、知ってるじゃろがい」

 文之進の手から、望遠鏡が引ったくられた。開き直りも甚だしい。

 望遠鏡を使い、海賊船を視界に収めたヤズは、興奮して跳び上がった。

「うあーお、真っ黒尽くしで、格好良いじゃーん。ちょっと乗ってみたいかもしれん」

「どんな目に遭っても構わぬのなら、好きにしろ。どのみち、風向きから考えて、逃げられるとは思えぬ」

 文之進は、淡々と芳しくない状況を述べ、肩の荷を降ろした。ヤズは目を細め、ちょっと不満げに呟いた。

「難訓ちゃんてば、なーんか、余裕綽々だね。大砲が、おっかなくないの?」

「当たりはしないさ。どれも明後日の方角に撃ってる」

「おろろ、断言とは、これいかに」

 ヤズは文之進に詰め寄り、問い質した。

「簡単な話だ。下手に狙えば、積み荷を奪う前に、この船が沈む危険がある。追いつけると分かっていながら、みすみす獲物を潰すほど、海賊も馬鹿ではあるまい」

 文之進は、刀と脇差を仕舞う代わりに、十手と兜割を握った。すかさず、ヤズは食い付いた。

「ひゅーひゅー、暴力に訴える気、満々でござるねー。ついさっき、私に偉そうなこと、ほざいたくせに。なるべく穏便に解決しなさい、みたいな」

「相手の誠実さを信頼するなら、その通りだ。が」

 戦意を起こした文之進は、踵を上げ、両手を振るった。

「理不尽に、唯々諾々と従うつもりはない。俺は、潔くないんだ」

 ヤズが皮肉っぽい笑みを浮かべる。

「知ってるー。本当、武士の風上にも置けないよね」

「なら、風下で我慢しよう。お前は、どうする? 怖いなら、身を隠していたほうが賢明だぞ」

 文之進の苦言を、ヤズは一笑に付した。

「ぬはは、私に怖いものなど、五千と八つしかないのだ」

「多いな、随分」

 馬鹿げた冗談に呆れつつ、文之進は海賊を待った。

 しかして、時は訪れた。

 荒れ模様の天風を味方に付けた海賊船は、ほぼ真後から接近し、一発の砲撃も受けることなく(当てもしなかったが)、横に並んだ。

 騒がしかった船内は、一変して静かになった。緊張が恐怖を上回ったのだろう。撃ち合えば互いの沈没は確実、という状況下で。

 海賊船の奥から、頭目と思しき者が、身を乗り出した。

 現われた人物の意外さに、文之進は驚いた。

 紅の羽根があしらわれた、三角の布帽。派手な南蛮風衣装と、それを覆う長い外套。

 加えて、何よりも仰天させられた事実は、

「そちらの船長、及び乗組員に告げます。我が名はコンスタンティア・バーソロミュー・ロバーツ。大人しく積み荷を渡して頂けるのなら、手荒な真似は致しません。船には傷一つ付けず、帰りの航海に要する食料品、酒、遊興品の一切も、保証いたしましょう。返答を、お聞かせ願います」

 女だった。

 年の頃は、二十歳そこそこ。ふわりと膨らんだ、茶色い乱れ髪と、南蛮人特有の整った目鼻立ちが、黒い海賊船の中で輝いている。瞬きを、忘れそうになるほど。

 間違いなく、美人だった。いや、格好からすると、麗人が適当か。

 丁寧な口調と相まって、なんであんな奴が海賊やってるの? という疑問が、文之進の頭に沸いた。

「難訓ちゃーん。あの人、誰?」

「さっき、名乗った」

「いーじーわーるー。教えてよー」

 ヤズに激しく揺すられ、文之進は、漸く、コンスタンティアから視線を逸らした。

「それより、船長はどこだ?」

「無視とは良い度胸だ、てめえ。難訓ちゃんの隣にいるよん」

 文之進は、ヤズの指差したほうへ向いた。口髭を蓄えた阿蘭陀船の船長、マウリッツが、どこか懐かしさを抱いた様子で、コンスタンティアを凝視していた。

「あの艶姿と物腰。まさか、ブラック・バートの……」

 海賊を前にしているにも拘わらず、マウリッツは嬉しそうだった。文之進の、コンスタンティアに対する関心が強まる。

「もう一度、言います。返答を、お願いできますか? あくまで戦うというのならば、その意志に敬意を表し、我々も応えましょう」

 再び、コンスタンティアの畏まった恫喝が届いた。他の乗組員は、少なからず抗戦の姿勢を見せたが、マウリッツは首を横に振り、指示した。

「コンスタンティア嬢の乗船を許可する。全員、銃と剣を仕舞え」

「正気か、マウリッツ殿? いくら物腰は低くとも、連中は不心得者。あんな口上、信用に値せぬ」

 武具を握ったまま、文之進は忠告した。マウリッツは、感慨深げに髭を撫で、苦笑いを浮かべる。

「この船の砲塔は、片側に七門。だが、あちらは同じ幅で十二門もある。まともに戦えば、勝ち目はない」

「船の荷を狙う以上、連中は本気で大砲を使ったりはせぬ。甲板に誘き寄せて、叩けばいい。どうして、簡単に降参するんだ」

 文之進は、敢えて辛辣に追及してみた。すると、マウリッツは、若干、遠い目をして、懐かしむように述べた。

「昔、難破しかけた際に、助けられたことがあるのだよ。彼女によく似た、色男にな」

 船のあちこちに鈎爪が引っ掛けられた。次々と、海賊たちが縄を伝って乗り込んでくる。

 マウリッツは懐に手を忍ばせ、文之進に謝った。

「すまないな、客人。船出早々、厄介事に巻き込んでしまって。だが、彼女が本当に、ブラック・バートの血を引く者なら――」

「珍しいですね。ネーデルラントの船に、サムライがいるなんて」

 器用にも、縄の上を駆けてきたコンスタンティアが、華麗に甲板へ降り立った。間近で見るコンスタンティアの美貌に、文之進は息を呑む。

 マウリッツは、文之進の前に一歩踏み出し、コンスタンティアに挨拶した。

「ようこそ。船長のマウリッツだ」

 コンスタンティアは三角帽を脱ぎ、深々とお辞儀する。

「お招き頂き、ありがとうございます、マウリッツ様。貴方の賢明なご判断に、感謝の念を禁じ得ません」

「今どき、よく海賊など、やってられるな。君たちの栄華は、四十年も前に終わったというのに」

 マウリッツは、侮蔑ではなく、寂寥を含んだ声で、話しかけた。コンスタンティアは、一瞬、目を見開いたものの、すぐ、にっこりと微笑んだ。

「ご心配なく。海がある限り、我々は絶えません。祖父の時代も、今も、これからも」

 コンスタンティアの力説に、マウリッツは表情を綻ばせた。

「そうか、なら、これからも気を付けるとしよう。そら、持って行け」

 マウリッツが投げた、一枚の小判を、コンスタンティアは掴んだ。

「まあ、サムライの金貨ですね。ひょっとして、そちらの方が?」

 コンスタンティアは、好奇を孕んだ表情で、文之進を一瞥した。マウリッツは、朗らかに頷いた。

「運賃にしては、貰いすぎたと思っていた。惜しくはないよ」

「さすが、マウリッツ様。では、遠慮なく――」

 ふざけるな。

「ちょっと待て、泥棒」

 文之進は甲板を蹴り上げ、一気に飛び込んだ。兜割の一閃を、コンスタンティアは外套で払う。

「きゃ、客人!?」

 マウリッツは大いに驚愕し、

「いきなり仕掛けるとは、節操に欠けますね」

 コンスタンティアは機嫌を損ねた。当然、周囲の海賊たちも、物々しい雰囲気で身構えた。

「やーっと、動いたー。もー、退屈しまくりだったぞい」

 文之進の背後で、ヤズが不服を漏らした。

「俺は、マウリッツ殿に恩義がある。一宿一飯に等しい恩義がな。だから、お前と戦う、充分な理由がある。コンスタンティア」

 文之進は、十手をコンスタンティアに向け、言い放った。間髪入れず、マウリッツが怒鳴り散らした。

「やめるんだ! 君が彼女と剣を交えれば、この船がどうなるか、分からないんだぞ」

「船は、この際、関係ない」

 文之進は、マウリッツではなく、コンスタンティアに語りかけた。

「俺とヤズは、この船の乗組員ではない。ただの客人だ。この船と無関係の人間が、勝手に暴れたところで、マウリッツ殿に責があるわけではあるまい。そうだよな? 俺と同じ立場である、コンスタンティアよ」

 コンスタンティアは、含み笑いを返した。

「ふふふ、なるほど、なるほど。てっきり、粗暴な野蛮人かと思っていたら、なかなかどうして、聡明な方ですね。不思議な正義を持った、サムライさん」

 三角帽を被り直したコンスタンティアは、腰から一本の舶刀を抜いた。

 歪曲した片刃が、鈍く光る。

 マウリッツは怯え、竦み上がった。

「カットラスだ。切り刻まれるぞ」

 曇った空から、雨粒が落ちてきた。コンスタンティアは、舶刀を手品のように振り回し、文之進に尋ねた。

「お名前を、伺いましょうか」

「薗部……いや」

 文之進は、ちらと、背後のヤズを見遣り、改めた。

「忌むべき渾名だが、賊に呼ばれる分には、ちょうど良い」

 芝居臭くて、少々、恥ずかしかったものの、文之進は十手と兜割を振るい、全力で啖呵を切った。

「攪乱荒中、檮杌(とうこつ)。大逆を推し、小悪を喰らう者だ」

 応えて、コンスタンティアも声を大にする。

「威勢がよろしくて、大いに結構。では、トウコツさん。ここは正々堂々、一対一で勝負をしませんか?」

 自信に満ちたコンスタンティアの提案を、文之進は即座に受け入れた。

「願ってもない。ヤズ、助太刀はしてくれるな。大人しくしてろ」

「むむぬ、久しぶりに阿蘭陀語をやめたかと思ったら、我が儘かよー。つまらーぬ。私も活躍したーい」

 ヤズの抗議を、文之進は無視した。

 コンスタンティアも、周囲の部下たちに目配せで命じ、距離を取らせた。甲板の中央には、文之進とコンスタンティアの二人だけとなる。

 徐々に、風雨が激しくなってきた。船体が揺れ、姿勢の保持が難しくなった。

「先に、提示と宣誓をしてもらいましょうか」

「何の話だ?」

 文之進に促され、コンスタンティアは説いた。

「ワタシが負けたら、貴方の希望通り、強奪を断念します。トウコツ、貴方は負けた場合、どうしますか?」

 舶刀を突き付け、コンスタンティアは訊いた。半身を反らした構え、挙措から、否が応にも手練れだと判断できる。

 来る。

 直感に従い、文之進は腰を沈めた。

「煮るなり焼くなり、身包み剥いで海の肥やしにするなり、好きにしろ」

「そのような薄汚い戦利品は、好みではありませんね!」

 裂帛とともに、コンスタンティアは迫った。

 舶刀の軌跡が、文之進の胸元を掠める。

 コンスタンティアは鮮やかに舞った。淀みない斬撃が、次々と繰り出される。

 先手を取られた文之進は、防戦に徹した。

「速いな」

 だが、大振りだ。しかも、玄人な分、読みやすい。

 間隙を縫い、文之進は肩で体当たりした。コンスタンティアは、外套で衝撃を殺し、後退った。

「くふふ、良いものを貰いました」

 僅かに蹌踉めいたものの、コンスタンティアは笑みを深めた。感心した文之進は、称賛を送った。

「余裕だな。さすがは海賊の長」

「いえいえ、誰だって、こんなに頂ければ、抱かれても文句は言いません」

「こんなに? 喰らわせたのは、まだ一発だけ……あ」

 文之進は、間抜けな声を出した。否、実質、間抜けだった。

 なんと、コンスタンティアの手には、小判の束が握られていた。部下の海賊たちが、喝采を上げた。

「やはり、報酬は現物が一番ですね。いやはや、勝負を受けた甲斐がありました」

「こら、返せ」

「お・こ・と・わ・り、します」

 勝ち誇った表情で、コンスタンティアは小判を懐に仕舞った。ヤズが、怒号に近い野次を飛ばした。

「難訓ちゃんの阿呆! 両手に得物を持ってるから、懐が空いちゃうんだぞー。私に代わりやがれー。すぐさま取り返してやらあ」

「こら、お嬢さん。静かにしてるんだ」

 マウリッツに押さえられ、ヤズは悔しそうに身悶えした。

 雨風の強さは、嵐の領域に入った。甲板が面白いように左右へ傾き、雨粒が容赦なく、文之進の身体に吹き付けた。

 そんな最悪の天気とは正反対に、コンスタンティアは太陽より眩しい笑みで、文之進に一礼する。

「お恵み、感謝します。もはや、貴方と戦う理由は、なくなりました」

 無論、文之進は納得いかなかった。

「お前にはなくとも、俺には、ある」

「いいえ、ありません。この船の積み荷は、諦めることにしました。ご覧なさい」

 コンスタンティアが指差した先では、今にも衝突しそうなほど接近した、海賊船の姿があった。

「こんな大荒れで、長く船を近接させておくわけにはいきません。のんびり積み荷を運んでいたら、互いに縄で引っ張り合い、衝突した末、沈んでしまうでしょう。損得勘定は、大事ですね」

 気付くと、コンスタンティア以外の海賊たちは、全員、引き上げていた。運びかけていた積み荷を、残らず置いて。

 船同士を繋いでいる縄に、片足を掛けたコンスタンティアは、意気揚々と、文之進に別れを告げた。

「と、いうわけですので、ワタシは退散させてもらいます。御縁がありましたら、また、お会いしましょう。では」

 コンスタンティアは、乗り込んできたときと同様に、格好良く綱渡りを始めた。ところが、

「逃がすかあ! これでも喰らえ!」

 憤ったヤズが、あろうことか、文之進の荷袋を蹴りつけた。コンスタンティアは、とっさに回避したものの、体勢を崩し、海へ落下した。

 嫌な沈黙が降りた。僅かな間を置いて、コンスタンティアが水面に顔を出した。明らかに、藻掻き苦しんでいる。

 海賊たちは、大慌てで右往左往した。

「この馬鹿! 人の物を捨てる奴がいるか」

 文之進もまた、動揺を隠せず、船の縁(へり)へ駆け寄った。ヤズは高笑いして、誇らしく宣った。

「いやっははは、悪は滅んだなりー。めでたし、めでたしだぜい」

「勝手に締め括るな」

 口論している場合ではなかった。文之進の荷袋は、海賊船の波打ち際に引っ掛かり、今にも流されそうだ。

 金に、大した執着はない。だが、袋には、久平次の想いが籠もった品が入っている。一期一会で知り合い、恩を受けた久平次の、絡繰歯車が。

「後で覚えておけよ、ヤズ。マウリッツ殿!」

 十手と兜割を腰に差した文之進は、マウリッツに小判を投げ渡した。呆けていたマウリッツは、驚愕とともに受け取った。

「全部、盗まれたのではなかったのか?」

「盗られたよ。その一枚は、俺がくすねたのさ。コンスタンティアからな」

 打ち明けた文之進は、深く呼吸し、

「短い間だが、世話になった」

 迷わず、荒れ狂う海の中に飛び込んだ。

 すかさず、近くで溺れていたコンスタンティアが、文字通り、藁をも掴もうとする勢いで、文之進にしがみついた。

 通常、溺れた相手は錯乱しているため、絡まれると危険だが、コンスタンティアに限っては、違っていた。

「うえっほ、おほっ、やってくれましたね。貴方の娘さんには、あまり注意を払っていなかったので、不覚でした」

 盛大に噎せながらも、どうにか海賊の長としての体裁を保つべく、コンスタンティアは平静を装った。

 色々と訂正したい衝動を、ぐっと堪え、文之進は注意した。

「金槌が喋るな。水を呑む」

「わ、ワタシは別に、泳ぎが下手というわけでは。うぶぅっ、潮水が鼻に」

 まともに波を被ったコンスタンティアは、涙目で嗚咽を漏らした。見栄を張りたい気持ちは分かるが、いかんせん、説得力に欠ける。

「波が来たら、口を閉じて、鼻から空気を出せ。それで防げる」

 海賊船に取り付いた文之進は、フジツボを伝い、荷袋の元へ辿り着いた。コンスタンティアを、肩に乗せた状態で。

 荷袋は、なんとか流されたり沈んだりせず、文之進の到着を待っていてくれた。文之進は袋を手に取り、中身を確かめると、安堵の息を吐いた。

「良かった。久平次殿の歯車は、無事だ」

「トウコツさん、ワタシの部下が縄を降ろしました」

 コンスタンティアの指摘を受け、文之進は頭上を仰いだ。縄を握った海賊の一人が、大声で、「さっさと登ってこい!」と喚いていた。

 コンスタンティアは明るい調子で、文之進に催促した。

「さあ、早く引き上げてもらいましょう」

「分かった。しっかり掴まれ」

 腕に縄を巻き、コンスタンティアを脇に抱えて、文之進は海から浮上した。肩や腰の重みが、一気に増した。

「さすがに、少し辛いな」

「我慢してください。元はと言えば、貴方の娘さんが原因なんですから」

「……俺、老けて見えるのかな」

 微妙に噛み合わない会話をしつつ、ふと、文之進は背後を振り返った。

 マウリッツ船長の船は、既に遠く、退路は断たれていた。

「正念場かな。ここからが」

 文之進は小さく呟き、意を決した。

 途中、砲塔の覗き口から、船内が垣間見えた。砲撃主たちの羨むような視線が、文之進に注がれた。妙な気分だ。

 しかし、生温い雰囲気も、甲板に出るまでだった。

 文之進を、舶刀を構えた海賊たちが出迎えた。

「歓迎どうも。では、二戦目と行こうか」

 コンスタンティアから離れ、荷袋を置いた文之進は、再び、十手と兜割に手を伸ばしかけた。だが、

「やめなさい。客人に対する乱暴は、掟で禁じています」

 コンスタンティアが、居丈高な声音で部下たちを諫めた。睨まれた海賊たちは、たちまち戦意を解き、武器を仕舞った。

 肩透かしを喰らった文之進は、コンスタンティアに尋ねた。

「コンスタンティア。この俺を、客人として扱うと?」

「カテアで結構です。本来であれば、我々の業務を妨害した人間を、丁重に扱ったりはしませんが、貴方には助けられました。多額の寄付も頂きましたし」

 カテアは、くいっと三角帽の先を持ち上げ、笑った。文之進から盗んだ小判を、露骨に翳しながら。

「加えて、今は大嵐の真っ直中。貴方と遊んでいる余裕など、ありません。皆、配置に戻りなさい!」

 カテアの号令で、海賊たちは散り散りになった。

 風雨が勢いを増す中、文之進はカテアに手招きされた。

「ひとまず、部屋で暖を取りましょう。こちらへ、どうぞ」

「じゃあ、遠慮な――」

 話す途中で、文之進は尻を蹴られた。

「駄目じゃーん、難訓ちゃん。ちゃんとアイツから、小判を取り返さないとー」

「ヤズ。お前、いつの間に。というか、それは、どうした?」

 ヤズの両手には、小綺麗な荘重の施された箱が抱えられていた。ヤズは自慢気に、えっへんと胸を張った。

「まうれっと? ちゃんの部屋に置いてあった」

「意味が分からぬ」

「盗ってきたー」

 即、理解が及んだ。同時に、文之進はヤズの脳天に拳骨を見舞った。

「あいってえ! なにしやがんでえ」

「こっちの台詞だ。不届き者」

 文之進とヤズは、強く睨み合ったが、

「ワタシの船、口論は禁止なんです。仲違いの決着なら、陸の上でしてください」

 カテアに舶刀で脅され、もとい、仲裁に入られ、有耶無耶となった。

 嵐は長く続き、夜になって漸く静かになった。

 船の一室に案内された文之進は、いち早く服を脱いで、備え付けの布を被った。

 ヤズは、最初こそ興味津々に、辺りを見渡していたものの、しばらくすると横になり、健やかな寝息を立て始めた。つくづく、不用心というか、肝の据わった女だと、文之進は感心させられた。

「失礼します。就寝前に、少し、お話をさせて……。おっと、娘さんは、眠ってしまいましたか」

 戸が開き、燭台を持ったカテアが入ってきた。青白い女物の南蛮衣装に、着替えた状態で。

「そろそろ、訂正させてくれ。俺は、こいつの父親ではない。十七の身で、こんな大きな子供が作れるか」

 文之進の述べた事実に、カテアは少々、驚かされた。

「まあ、すみません。東洋の方って、どなたも若く見えるから、てっきりトウコツさんも、相当、お年を召しているものと。では、そちらの娘さんは?」

「ヤズという名の、赤の他人――ではなく、ちょっとした知り合いだ。とある事情で執拗に付き纏われてる。血縁関係はないし、結ぼうとも思わぬ」

 カテアの誤解を、文之進は、きっぱり否定した。カテアは僅かに訝った後、相好を崩して、文之進の傍に座った。

「なるほど。隷属や乱暴が目的で、ヤズさんを連れているのなら、処断しようと考えましたが、そういった間柄では、ないようですね」

「う~む、あながち間違いとは、断言しかねる」

 虐げられている側は、あくまで文之進のほうだが。

 カテアは可笑しそうに肩を揺らし、流し目を送った。

「お会いしたときから、なんとなく感じていましたが、トウコツさんって、不思議な人ですね。常に余裕があるというか、浮世離れしているというか」

「悪かったな。単に、以前と比べて、現状をマシだと判断してるに過ぎぬ。海に出るまで、嫌な連中に追いかけ回されてたのでな」

 清々しい気持ちが、文之進の胸中に根強くあった。カテアは好奇の眼差しで、文之進に詰め寄った。

「意外ですね。トウコツさんは、犯罪者だったのですか?」

「どうだかな。正直、自分でも分からぬ。が、少なくとも、処刑されるような謂れは、ないつもりだ」

 盗人に咎人呼ばわりされたくなかった文之進は、素っ気なく答えた。しかし、カテアは、ますます関心を強め、文之進に頼み込んだ。

「是非とも、お聞かせ下さい。どのような経緯で、貴方が住む場所を離れたのかを」

「聞いて、どうする?」

 カテアは、明瞭簡潔に理由を語った。

「知りたいのです。きちんと相手を知らなければ、怖いですから」

 今更ながら、文之進は少々、迷った。こうも易々と、海賊と打ち解けたりして、大丈夫か、と。

 だが、知りたい、というカテアの欲求に、親近感と敬意を覚えた文之進は、つい、饒舌になった。

「他所を知らず、進展を望まねば、天下の安寧は続かない。旧態依然の体制と権威だけで守ってる城など、簡単に落ちる」

「それは、どなたが?」

 文之進の口調から、カテアはすぐに、誰かの言葉だと見抜いた。

「俺の師だ。戸締まりをしっかりしなければ、泥棒に入られるぞ、というぐらい、至って普通の忠告だろう?」

 カテアは、黙って首肯した。

「しかし、公儀の連中は、師の忠告を嘲った。城は絶対に落ちぬ。馬鹿馬鹿しい妄言は大概にせよ、とな」

「え~っと、大丈夫ですか? その、公儀という方々は」

 カテアは眉を顰め、心配した。文之進は構わず続けた。

「師は、教示を諦めなかった。門下生の俺に頼んで、実際に城を落とさせたんだ。といっても、俺が上様の前に、刀を握って躍り出ただけだがな。城の周囲に煙を焚き、混乱した隙を突いて」

「証明してみせたんですね。では、公儀の方々も分かってくれた、と?」

 手を叩いて喜ぶカテアに、文之進は、まさか、と苦笑した。

「俺のしでかした行為は、跡形もなく抹消され、師は謀反の罪に問われた。俺は師に、何度も諭したよ。一緒に逃げようって。でも、師は最後まで聞き入れなかった。どうしても、阿呆どもの目を醒ましてやりたかったんだろうな」

 燭台が照らす明かりの中に、文之進は師の幻影を見た。かつて、様々な学問と志を教えてくれた、山縣大弐の横顔を。

「それで、トウコツさんの先生は?」

 半ば結末が読めているだけに、カテアの声は戦慄いていた。文之進も、あまり良い気分ではなかったが、なんとか口を動かした。

「師が首だけになっても、何も変わらなかった。公儀も民衆も、危機を知り、受け入れるのではなく、今の安泰に縋り、助言に対して耳を塞ぐ道を選んだ」

 気付くと、文之進は拳を強く握っていた。カテアの哀れんだ目つきが、地味に文之進の胸を抉った。

「だから、俺は見限ったんだ。師の首を埋めた日に。公儀の度し難い傲慢のために、死んでやる気には金輪際なれなかった」

「それが、トウコツさんの逃亡の理由ですか」

 文之進は深く頷くと、力を抜いて、明るく振舞った。辛気臭い雰囲気を、霧散させるべく。

「思い出話は、以上だ。どうだ、お前の尺度で、俺は極悪人か?」

 文之進の意図が伝わったのか、カテアもまた、真面目な表情を解き、肩を竦めた。

「図りかねます。ワタシは所詮、小悪党。政治に関する罪の定義を決める権利など、ありませんから。ですが」

 カテアは僅かに言い淀み、皮肉っぽく告げた。

「貴方には、未練があるように思えます」

「おいおい、俺は見限ったと言っただろうが」

 文之進の反論が、虚しく部屋に響いた。カテアは優しく、文之進の頭を撫でた。

「完全に執着しなくなったものを、辛そうに語る人はいませんよ。ワタシだって、貴方に奪い返された小判を、恋しく思っていたりします」

 急に、下世話な方向に話が逸れた。

「欲張るなよ。一枚だけだぞ」

「しかし、心に引っ掛かる。それが未練というものです」

 カテアの右手が、文之進の懐に伸びる。馬鹿馬鹿しくなった文之進は、敢えて自分から布を外し、ふんどし一丁の半裸を晒した。

「小判はマウリッツ殿に渡したよ。今の俺は、正真正銘、無一文だ」

「まあ、残念。ワタシ、貧乏人は嫌いです」

 言葉とは裏腹に、カテアは嬉々として手を引っ込めた。文之進も、天の邪鬼になって対抗した。

「願ったり叶ったりだ。いくら美人でも、海賊に好かれたくはない。ごめんこうむる」

「褒め言葉として、受け取っておきましょう。おや、もう八時ですね。就寝の時間になりました」

 懐中時計で確認したカテアは、いそいそと腰を浮かせた。

「規則正しいな。やはり、お前は海賊らしくない」

「よく指摘されます。では」

「待て。一つ訊きたい」

 乱れた茶髪を翻し、立ち去ろうとするカテアを、文之進は呼び止めた。

「なんでしょう? 朝食なら、七時に皆で摂りますが」

「違う。食い物の話ではない。この船は、どこへ向かってる?」

 文之進に問われた瞬間、カテアは目を見開いた。

「すっかり、忘れていました。ご説明します。嵐のお陰で、だいぶ南に流されたので、じきに、温かい地域に運ばれるでしょう」

「巴塔維亞(ばたびあ)には行かぬと?」

 文之進の疑問に、カテアは困り顔で肯定した。

「行きたくても無理です。太平洋の潮流は、帆風よりも強く、早い。このままでは、いずれ馬尼拉(まにら)付近に」

 カテアの表情が、更に曇る。嫌な予感がした文之進は、尋ねずにいられなかった。

「何か、危惧があるのか?」

「五年前、ブリテンとスペインが、馬尼拉で戦争をしましてね。それ以来、海軍がたくさんいるんですよ。ひょっとしたら、荒事になるかもしれません」

 カテアは、極めて面倒臭そうに答えた。

 大幅に狂った航海。

 先行きは不安満載。

 しかし、文之進は北叟笑んだ。

「好奇心とは恐ろしいな。楽しみが、杞憂を上回る」

「豪胆でよろしいですね。ワタシは怖くて、震えが止まりませんよ」

 口でだけ、臆病風を吹かせたカテアは、堂々とした態度のまま、部屋を後にした。

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