第1話 逆賊、逃げる
1
明和四年、長月始め。
その日の昼は、雨雲が立ち込めていたせいで、ひどく暗く、寒々しかった。
戸を激しく叩く音。次いで、許可もなく、物々しい雰囲気をした二人の侍が、平石(ひらいし)久平次(くへいじ)時光(ときみつ)の家に押し入ってきた。
「おい、爺。唐突で済まぬが、この手配書の人物に見覚えはあるか?」
侍の一人が、紙を引っ提げ、ぶっきらぼうに尋ねた。
「はて、存じねえな」
居間に寝そべっていた久平次は、手配書を一瞥すると、欠伸混じりに返事した。侍は、居丈高な口調を強める。
「少しは考えろ。まったく思い当たらぬのか」
「おう、これっぽっちもねえや。そいつは、いったい何処の誰で、何をしたんだい?」
久平次は全く動じず、煙管を口に咥え、問いかけた。すると、侍は義憤に満ちた表情で答えた。
「天下に仇成そうと企んだ謀反人、山縣大弐を知っているか?」
「お~、最近、どっかで聞いたな。確か、藤井右門とかって野郎とつるんで、江戸攻略の方法を練ってた、とか。ずいぶんと愉快な噂だったが、本当だったのか?」
久平次は口元を綻ばせ、嘲った。途端、侍に鋭く睨まれる。
「笑い事ではない。公儀転覆を謀った不敬罪で、山縣は打ち首、藤井は磔刑となり、処罰されたが……」
「が?」
言い淀んでいた侍は、忌々しく目を細めた。
「山縣の門下生が、山縣の首を盗んだのだ」
「へ~え、慕われてたんだな。羨ましいこった」
久平次が感心すると、侍は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「そのような生温い話にされては困る! 首を奪った奴もまた、謀反を企てているおそれがあるのだぞ。必ずや捕え、処罰せねゲフンゲフン!」
使命感に燃える侍に、久平次は思い切り煙を吹きかけた。
「おのれ、何をする!」
「躍起になるのは結構だが、生憎、儂とは無縁だよ。山縣とかって野郎と会ったことは、一度もねえし、その門下生の……、えっとぉ、なんだ」
「薗部(そのべ)文之進(ぶんのしん)という名だ」
後ろで寡黙を貫いていた、もう一人の侍が呟いた。
「そいつに関しては、初耳だ。知るわけねえよ」
たん、と、炉端に煙管を叩きつけ、久平次は断言した。前方の侍は、凄みを利かせて躙り寄る。
「真であろうな。耄碌して、忘れたなどとは」
「失礼な。儂は、まだ七十だぞ。あれ、七十一だっけか?」
「しっかりせぬか!」
久平次の冗談に、前方の侍は声を荒げた。一方、後ろの侍は呆れた様子で、前方の侍を諭した。
「もう行こう。ふざけた爺の相手をしていても、始まらぬ」
「し、しかし、もし、この爺が手掛かりを持っていたら」
「薗部が、この辺りを通り掛かったのなら、他にいくらでも探しようはある。下手に時間を食われるほうが、問題だ」
「ぐっ、承知した。致し方ない」
言いくるめられた前方の侍は、渋々、久平次の追及を諦めた。説得した後方の侍は、久平次に短く頭を下げた。
「邪魔をした。もし、薗部の顔を見かけたら、是非、連絡してくれ。我等の威信が懸かっている」
「御苦労様なこった。せいぜい、頑張れよ」
背を向けた侍たちは、もはや久平次の減らず口に、いちいち言い返したりはせず、戸を乱暴に閉め、姿を消した。
侍たちの足音が、完全に聞こえなくなった頃、久平次は腰を浮かせ、戸に用心棒を立てかけた。
「まったく、とんでもねえ悪党だな、客人。持ち逃げした生首は、まだ持ってるのかい?」
久平次は、家の奥に、皮肉混じりの声を掛ける。すると、床板がゆっくりと持ち上がり、手配書の男、薗部文之進が這い出てきた。
「まさか。とっくに埋めてきたよ。俺の故郷だった、根小屋に」
文之進は、特に何の感慨もなく答えた。人相書きよりも、遙かに穏やかな相貌からは、山縣大弐の死に対する、憎悪や悲しみといった感情は、一切、読み取れない。
「かたじけなかった、久平次殿。ついさっき会ったばかりの俺を、事情も訊かずに匿ってくれて」
恭しく礼を述べる文之進に、久平次は笑って返した。
「がっはっは、いいってことよ。儂も、お上には、ちいとばかし文句があってな。不本意どころか、気分が晴れて、良かったぜ」
「そう言ってもらえると助かる。では、俺はこれにて」
ほんの一瞬、安堵の微笑を浮かべた文之進は、無表情に戻るや否や、隠していた足袋を持って、玄関へと急いだ。
あまりの早々しさに、久平次は不満を覚える。
「おいおい、もう出て行くのかよ」
「もちろん。お尋ね者に、長居されたくはなかろう。久平次殿に、これ以上の迷惑は掛けない。あ、そうだ、お礼を」
失念していたとばかりに、文之進は懐に手を伸ばした。久平次は、激しく首を横に振って拒否する。
「要らねえよ、ば~か。銭なんて貰ったら、後ろめたくなるだろうが。それに、追手の連中は、まだ近くにいる。少しは、ゆっくりしてけって」
せっかくの珍客を逃すまいと、久平次は、半ば強引に文之進を引き止めた。文之進は、少々、戸惑う。
「嫌ではないのか? 生首泥棒が家にいて」
「構やしねえよ。どうせ、女房も子供もいない、年寄りの一人暮らしだ。たまには刺激ってもんが欲しくなる」
久平次は愉快に心情を吐露し、文之進を床に座らせた。恩人の親切を、無下にできなかった文之進は、呆れながらも、大人しく従った。
「変わった人だな、アンタ」
「へへ、昔っから、言われ慣れてるぜ。でも、お主よりはマシだと思うぞ。師匠の志を継いで、公儀転覆を狙ってる奴よりはな」
久平次が、追手の侍たちの受け売りを、そのまま話したところ、文之進は遠慮がちに笑った。
「俺に、そんな大それた野望はない。山縣先生の首を埋めたのは、単なるケジメだ」
文之進の口振りに、嘘や強がりはなく、久平次は不思議に思った。
「えらい、あっさりしてやがるなあ。師匠の無念を、晴らしたくはねえのかよ?」
久平次の疑問を、文之進は、ばっさり否定した。
「山縣先生と藤井先生の目的は、公儀転覆じゃない。今の統治の在り方に、疑問を投げかけたかっただけなんだ。でなければ、頭でっかちの弟子ばかりを、集めはしなかったはずさ」
文之進の意見は、至極、もっともだった。山縣の門下生は、延べ、三千人を超えていたという。もし、武闘派が三分の一でも含まれていたら、大規模な反乱は避けられなかったかもしれない。
文之進は、悔やむ素振りすら見せず、爽やかに説いた。
「山縣先生も藤井先生も、役目を全うしたんだ。考えるきっかけを蒔くという、大事な役目を」
「洒落た物言いをするじゃねえか。うをちちっ」
久平次は、からかいつつ、沸かしたての茶を啜った。文之進は、気にせず続けた。
「公儀の連中は、皆、不敬罪だって罵っていたが、人は考えを止めたりはできない。山縣先生の思想は、いずれ広がり、やがて芽吹いて育つだろう。多くの人々が抱える不服を、糧として」
「で、花咲くときが、公儀の世の終わりってか?」
文之進は、出された湯飲みに口を付け、満足げに頷いた。
「いつになるかは不明でも、訪れる末路だけは、確実さ。俺が捕まろうが打ち首になろうが、それは変わらぬ」
「おお、おっかねえ。お主には悪いが、花というよりは、病魔だな。徐々に相手を蝕んでいく辺り、そっくりだ」
久平次の悪口にも、文之進は怒らないばかりか、同意を示した。
「公儀にとっては、重苦しい大病だろうな。もっとも、その死に様を拝めないのは、少し残念だが」
文之進の瞳に、仄かな憂いが帯びる。淡い期待と、少なからぬ懸念が混ざった、複雑な顔色だった。
「なんだよ、急に弱音なんぞ、吐きやがって。お主は、まだまだ若いんだから、頑張って長生きしろよ。花咲まで」
横柄な喋り口調で、久平次は文之進を励ました。文之進は苦笑を浮かべて、首の後ろを掻いた。
「忘れたのか? 俺は、お尋ね者の身だ。公儀の手が届く場所に、安住はできぬ」
「山奥にでも、引っ込んでりゃあ――」
「老いさらばえるまで、延々と隠れん坊を続けるなんて、俺の性に合わぬ。まっぴら、ごめんだな」
きっぱりと、久平次の案を却下し、文之進は茶を飲み干した。追われる身であるにも拘わらず、やはり、異常なまでの落ち着きようだ。
久平次は、新たに沸いた疑問を発した。
「じゃあ、どうすんだよ。外洋にでも出るってのか?」
「当たりだ」
「やっぱり、違ったかぁ~。って、なんだと!?」
久平次は目を剥いて仰天した。ほんの軽口で言った冗談が、まさか的を射ているとは、予想だにしなかったため。
「久平次殿は、変わってるが、楽しい人だな。初対面だというのに、ついつい、喋り過ぎてしまう」
朗らかな微笑を溢す文之進に、久平次は興奮を隠せないまま、詰め寄った。
「本当かよ。どこだ、どこを目指すつもりだ? 清か? 琉球か? 呂宋(るそん)か暹羅(しゃむ)か? 爪哇(じゃわ)か印度か? それとも、別のところか?」
「矢継ぎ早だな。何を、そんなに喜んでるのやら」
「いいから、聞かせろって! どこだ! どこなんだよ!」
胸躍るあまり、久平次は文之進の肩を掴んで、ぶんぶんと揺さぶった。文之進の笑みが、若干、引き攣った。
「なるべく遠くに行こうと考えてる。どうせ、片道だ」
ふすっと、品性を損なわない範囲で自嘲した文之進は、多少、申し訳なさそうに、久平次を引き剥がし、立ち上がった。
「そろそろ、お暇させてもらうとする。邪魔をして、すまなかった」
「おいおい、もったいぶらねえで、教えてくれよ。頼むぜ」
久平次は、尚も執拗に尋ねてきた。文之進は肩を竦め、降参の意を示す。
「がっかりさせて悪いが、俺自身、まだ決めかねてるんだ。適当な船に乗り込んだら、気ままに流れるつもりさ」
「政変の香りがするほうに、ってか?」
久平次の指摘に、文之進は驚いて、黙った。
「図星だったか。なら、ちょっと待ってろ」
久平次は確信するとともに、ある展望を抱いた。ひょっとしたら、文之進に『あれ』を託せるのではないか、と。
迷っている暇はなかった。久平次は、意気揚々と腰を浮かせると、すぐ傍の床板を持ち上げた。
先程、文之進が潜んでいたところとは、別の床下に、ぎっしりと、風呂敷に包まれた何かが納められていた。
久平次は一心不乱に、次々と、床下のものを掘り起こし、散らかしていく。文之進は、ちょっと心配になった。
「久平次殿。悪いが、漬け物なら要らぬぞ」
「そんな、しょっぱい餞別じゃねえよ。この儂が生涯を捧げたもんを、一つ、お主にくれてやる」
久平次は自信を持って、奥から、一冊の書物と、小さな葛籠を取り出した。
「いったい、何だ? そもそも、俺は物を貰う義理など――」
「頼みがある」
久平次の真剣な申し出に、文之進は二の句が継げなくなった。久平次は、深い哀れみを胸に、葛籠の中身を披露した。
取っ手の付いた、木製の多重歯車が、姿を現わした。
「こいつは、陸舟奔車(りくしゆうほんしや)に組み込んであった、一番、重要な部品だ」
「りくしゅうほんしゃ? 聞き覚えがないな」
文之進の反応は芳しくなかったものの、久平次の熱意は冷めなかった。
「構わねえ。車輪も車体もなくした、今となっちゃあ、いくら話したって伝わらねえよ。それよりもだ、文之進。お主には、こいつの有用性を証明して、評判を広めてもらいたい。使い道は、きっとある」
久平次は大いに笑って、大事に抱えた歯車を、文之進に渡した。恩人の頼みとあっては、文之進は受け取らざるを得なかった。
2
文之進が去って、しばらくした後。
「ごめんくーっださい!」
バゴン!
明るい挨拶と、乱暴な衝撃音が、ほぼ同時に響いた。虚を突かれ、煙管を落としかけた久平次は、反射的に目を向けた。
蹴倒された戸板の先に、一人の若い女が、腕組みをして佇んでいた。
声に違わぬ、はつらつとした器量と、動きやすそうな纏め髪。五芒星が散りばめられた、群青色の召物と相まって、非常に強い存在感を放っている。
「ずいぶん不躾な真似をするじゃねえか。誰だい、お嬢ちゃん」
久平次は眉を顰め、女に尋ねた。女は満面の笑みで、元気いっぱいに答えた。
「お初にー、お目に掛かりまっす。私はヤズ。ごめんね、お爺ちゃん。扉がすごーく汚くて、お手々で触りたくなかったから、足で開けたかったんだけどー。見ての通り、失敗しちゃった」
ヤズと名乗った女は、可愛らしく舌を出し、謝罪してきた。
ふざけた態度の裏にある、明確な悪意に、久平次は怒りを覚えた。
「年寄りの家を、面白半分で、ぶっ壊すんじゃねえ。直すの、大変なんだぞ」
「あら、そーお? かなり風通しが良くなったことだし、むしろ、もう、このままでいいんじゃないかしらん」
「ふざけんな、奇天烈女。今すぐ、元に戻しやがれ」
久平次は叱りつけたが、ヤズは小指で耳を掻いて、聞こえないフリをした。
「とっころでさー、お爺ちゃん。この辺で、優男っぽい雰囲気の殿方を、見かけちゃったりした?」
「さあな、知らねえよ。とにかく戸を――」
ズガン!
久平次がシラを切った途端、戸板が宙を舞い、真っ二つに割れた。ヤズが放った、二発の蹴りによって。
凄まじい威力に、久平次は呆気に取られた。
「とーぼっけないでくんないかな? 難訓ちゃん、ここに来たんでしょー?」
己の所業を棚に上げ、ヤズは気楽な調子で、問いを重ねた。これ以上、家を壊されたくなかった久平次は、歯噛みしつつ、正直に話した。
「難訓っていうのは、文之進の渾名か」
「そだよーん。父ちゃんたちの間で付けられた通称だから、良い意味じゃないんだろうけど、文ちゃんよりは個性があって、私は、お気に入り」
ヤズは嬉しそうに目を細め、呼び名の由来を語った。行動が粗野すぎるため、和める余地など、微塵もないが。
「お主も、追手なのかい?」
「ごっ明察ー。さ、教えて教えて。難訓ちゃんが、どこに行ったのかを」
ヤズは両手を合わせ、片足を軽く上げた。とっとと白状しなければ、今度は家の壁に穴が空くぞ、という、暗黙の脅しだった。
「分かった、話してやるよ。まったく、とんでもねえ女だ。前に来た侍どもが、大人しく思えるぜ」
久平次が漏らした愚痴を、ヤズは一笑に付した。
「なはは、私なんかより、難訓ちゃんのほうが凶暴だよー。千倍くらい」
「けっ、どこがだ」
謙遜には見えなかったが、久平次は一顧だにせず、吐き捨てた。
「たかが、生首一個、盗んだくれえで、ギャースカ喚きやがって。人の家、ぶっ壊した奴のほうが、よっぽど迷惑だぜ」
久平次の精一杯の皮肉に、ヤズは、
「やっだなー、お爺ちゃんってば、おばーかさん。面子塗れの役人さんたちなら、ともかく、私は、物盗りなんていう、つまんない理由で、動いたりしないよーん」
かなり不快な物言いで、人差し指を振った。苛立った久平次だが、次のヤズの一言で、思考と息が止まった。
「知らなかったんなら、教えてあげるー。難訓ちゃん、一回、お城を落としたんだよぉ。し・か・もー、たった一人でねん」
3
京に近い、中山道の一角。
「これは、僥倖。よもや自分から姿を現わすとは。逃げるのに疲れたか、或いは気が緩んだか。どちらにしろ、我等には都合が良い」
先程、久平次の家を訪れた侍二人が、文之進の行く手を阻んだ。
「観念しろ、生首泥棒。大人しく縛に就くがいい」
久平次とよく喋っていた侍が、鯉口を切り、一歩、近付く。捕まるつもりなど、髪の毛一本分もなかった文之進は、即座に提案した。
「わざわざのご足労、恐縮だ。ものは相談なんだが、見逃してくれまいか。もし、聞き入れてくれたら、十両、贈呈しよう。もちろん、一人につき十両だ」
「おいおい、そんな大金、貴様が持ってるわけ……へ?」
文之進が懐から覗かせた小判に、お喋りの侍は目を奪われ、唖然となった。
「すぐ見破られる嘘など、吐くものか。ほら、れっきとした慶長だぞ」
文之進は小判を一枚、噛んで、歯形を付けた。お喋りの侍は、動揺して振り返る。
「ど、どうする、源蔵(げんぞう)。ありゃ、本物だぜ」
「笑止。下らぬ誘惑に躍らされてどうする。三吉(さんきち)」
お喋りの侍、三吉の狼狽を、後ろにいた侍、源蔵が諫めた。
金に食い付かないとは、なかなか忠義に厚い男だな、と、文之進は胸中で、源蔵に感心を抱いた。しかし、
「性根が腐り果てているな、文之進。大方、その大金は、謀反を企てるのに使う腹積もりだったのであろう? ならば、悪用される前に、全て我等が没収しなければならぬ。貴殿を逃がす理由など、どこにもありはしない」
源蔵の嘲笑で、全てを理解し、落胆した。
「おー、切れているな、源蔵。適当な言いがかりをつければ、金も手柄も、拙者たちのものだ」
感銘を受けた三吉は、喜び勇んで太刀を握り直した。源蔵もまた、得意満面に、腰の業物を抜き放ち、身構えた。
「確かに、賢い。いや、小狡いの間違いか」
意気消沈しかけていた文之進は、考えを良いほうに改めた。
すなわち、金を払わずに済んで幸いだった、と。
「さあ、降参しろ。でないと、腕の一本は貰って――」
文之進は、三吉との間合いを一気に詰めた。三吉は慌てて振りかぶるも、文之進は難なく、剣筋を潜り抜けた。
文之進の掌底が、無防備な三吉の鳩尾に叩き込まれる。
「うべぇっ」
膝を折った三吉の顔面に、文之進は膝蹴りを見舞い、地面に沈めた。
「三吉! おのれ、難訓・文之進」
渾名を添われた文之進は、初めて源蔵に怒りを覚えた。
「『訓(おし)え難い』のは、どっちだ。既存の権威を振り翳し、固持することしか頭になく、瓦解しかかった現況から、必死に目を背けてるばかりの輩が、この俺を」
「ほざけ!」
源蔵の袈裟斬りを、紙一重で躱した文之進は、
「難訓などと!」
渾身の力で、頭突きを喰らわせた。
脳天を打った源蔵は、後方の岩に身体をぶつけ、動かなくなった。
「片腹痛い限りだ。畜生」
少し切れた額を拭い、文之進は悪態を吐いた。と、間を置かずに、背後から駆け足の音が聞こえてきた。
次いで、童のように陽気な声が、文之進の耳に届く。
「おっひさしぶりー、難訓ちゃん。会いたかったぜい。さっさと死ねい」
言葉の脈絡については、皆目、理解できなかった。だが、とりあえず、文之進は急ぎ、しゃがみ込んだ。
間髪入れず、襲撃者の跳び蹴りが空を切った。
「うななっ、避けおっただとうー? 小癪な」
襲撃者は、残念がるどころか、心から楽しそうに、芝居がかった口上を垂れた。
相変わらずの鬱陶しさに、文之進は辟易しつつ、立ち上がった。
「こんな場所で何をしてる。幸徳井(かでい)の式神」
出会い頭に蹴りを放ってきた、無礼で傍若無人な女、ヤズに、文之進は詰問した。ヤズは、馴れ馴れしい態度で、肩を竦める。
「をいをい、余所余所しい呼び方、しないでよー。私と難訓ちゃんの仲じゃーん」
「生憎、お前と親しくなった覚えはないし、親しい間柄の者は、俺を四凶の名で呼びはせぬ。用がないなら、俺は去る」
今度は回し蹴りが跳んできた。受け止めた文之進の手に、鞭で叩かれたかのような、鋭い痺れが走る。
「痛いだろうが。危うく、指の骨が折れるところだったぞ」
文之進が睨み付けるも、ヤズは飄々と嘯いた。
「またまたぁー、弱がっちゃって。ワタクシめの、軽くて、ゆっるーい足蹴なんて、金玉に貰ったって平気なんでしょ?」
「無茶を抜かすな。男の急所を、なんだと心得……おい、俺の股間に狙いを定めるんじゃない。殺すぞ」
視線を落とし、片膝を曲げたヤズを、文之進は全力で脅しかけた。ヤズは構えを解いて、腹を抱えた。
「なっはっはー、冗談だってー。でも、ほら、私って女の子だから、金玉を蹴られたときの痛みって、いまいち分かんないんだよねーん。悶絶死するほどの大激痛って、本当? 教えてー、金玉ぶら提げてる、難訓ちゃん」
「女を主張したいなら、まず金玉連呼を控えろ。品性を疑われるぞ」
打たれてもいないのに、文之進は頭が痛くなった。
「いい加減、用件を話せ。この俺と、ふざけた問答をしたくて、わざわざ出向いてきたわけではあるまい」
「つーれーなーいーなー。これから私と、二六時中、一緒だってのにぃ」
ヤズの冗談は、正直、笑えなかった。しかし、文之進は頑張って、痙攣する口角を吊り上げた。
「ははは、起きている最中に寝言を言うんじゃ――なんだ、それは」
渇いた笑いを溢す文之進の眼前に、一通の書状が差し出された。
ヤズは、期待に満ちた瞳で、文之進に請うた。
「読んでみてー。私の父ちゃんが書いたんだ」
「暦博士からか。いいだろう。が、その前に、俺の股間を凝視するのは、もう止めてもらおうか」
悪戯を見抜かれたヤズは、びたん、と、動きを止めた。
「隙ありーって、不意打ち金玉に喰らわせたら、怒る?」
「叩き斬る」
厳しく言い聞かせ、文之進は書状を開いた。
要約すると、内容は以下の通り。
『文之進さん。貴方が江戸で無茶苦茶をしたせいで、趨勢を占わされた土御門家と、我が幸徳井家は、役立たずの誹りを免れなくなりました。呪ってやる。幸徳井家随一にして、最も厄介で手に負えない我が次女を、式神として送り、取り憑かせます。ざまあみろ。苦しみやがれ』
読み終わった文之進は、迷わず、怨恨塗れの書状を破り捨てた。
ヤズは嬉々として、文之進に躙り寄った。
「ほらねん? 私の言った話、正しかったでしょ?」
「どこがだ! なにもかも間違ってる。俺は認めないぞ」
文之進は地を蹴って、駆け出した。が、あえなくヤズに、背中から飛びつかれ、乗りかかかられた。
「さー、取り憑いちゃうぞー。死んだ一族の恨み、晴らさでおくべきかー」
「俺は、お前の身内など、誰一人として殺しておらぬ! くっそ、離れろ」
文之進は必死に身体を揺すり、ヤズを振り落とそうとした。が、単にヤズを喜ばせただけに過ぎなかった。
「なっはっはー、無駄な足掻きだぜい。さあ、京で豪遊しまくろーう。重たい小判は、残らず使って、身軽にしてあげるー」
「それは式神じゃなくって、貧乏神の役目だろ!」
文之進の悲痛な叫びが、道中に響いた。
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