⑩ナイフの矛先
「ねぇねぇフシミンのこと今も好き?」
ボブヘアーを振り上げて優しそうに尋ねる伏見。
「あ、ごめんね気持ち悪いねあたし」
一秒も置かず伏見は筆箱からカッターを取って手首に刃を向けた。
「ちょ、ちょっと待った待った。」
慌ててそれを阻止する。いつ来るか分からないそのタイミングに不健康な冷や汗を掻きながらも懸命に伏見を注意する。
伏見は右手に握った刃物を手首の五センチ上まで近付けていたが、割り込まれた言葉により動きを止める。あと数秒遅かったらその地を血の海に開拓していたであろう腕を見ると、既に数え切れない傷跡が刻まれていた。何度と無い過去の失敗が脳に再起され、自分まで手首を切りたい衝動に陥る。
「ん〜?何〜?」
当事者の伏見は野菜を切ることに疑問が無いのと同様に手首も切ることも躊躇わない無垢な表情でこちらを見上げる。伏見は座っていることで頭の位置が低いため、その純粋な自傷の意欲が可愛らしく伝わってくる。だが当然伏見が自身を傷付けるのは許せない。
「それ危ないよ、カッター止めて。」
「えぇだってあたし気持ち悪いもん死ななきゃダメだもん
「大丈夫、伏見は気持ち悪くなんてないよ。むしろ気持ち良いよ。この間のだって良かったし。」
おっとうっかり花も恥じらう乙女を忘れて言ってしまった。まぁでも秘め事を自慢するのは乙女的に已むを得ない。本人の目の前だけど。
「もんもんもんもんも……そう?嬉しい〜!ありがと~フシミン、嬉しいっ!大好きっ!」
どうやら切断未遂前の状態に戻ったようだ。それについてはこちらとしても嬉しい。この部屋で血飛沫を撒かれても後で苦労するし。フローリングに入り込んだ血液は意外と跡が残って大変なんだ。元から行動に出ないのが一番だよ一番、伏見。
「うふふっ」
大好きへの返しとして曖昧に濁した言葉を並べる。言葉と言えるかも微妙だけど。
「あはぁっ」
伏見も同じ系統の発音を繰り出す。比較すればいくらか喜びの質が違うな。重々しいか晴れやかか。思いの違いかもしれない。
伏見はそのぬいぐるみみたいな顔面を散らかした布団みたいに可愛らしく曲げてお茶目オーラを醸しながら目の前でにこにこしてる。にこにこ、ずっとにこにこ。会話が途切れるとにこにこタイムに突入するのが常だ。それも恋人と言えば恋人なのかなと納得した。ただあまりに話すことがないとさっきみたくなるので適度にアクションを起こさねば。伏見ももちろん大事な人だからね。
「伏見、リモコンとってくれない?」
「リモコン?任せろやい!」
伏見は空気で出来た背もたれに上半身を捧げ、頭と床をごっつんこさせる間際で受け身を取ってリモコンとの仲を深める。支点となる肘をナメクジのように後進させ、得意か不得意かは知らないがともかくバックハンドで手頃な文明を手にした。次に反動を使って勢いそのままにリモコンを渡してくれる。
「どうも。何観たい?」
受け渡ったコントローラーをピコピコするついでに聞いてみる。
「そりゃあもう!」
伏見は蒟蒻みたいに唇を弾くと同時にこちらを指さしてきた。まぁそうだわな。
「それ以外では?」
「んー、何でもいいよっ」
ほとんど悩む素振りも見せず暇潰しの選択を一任された。
「じゃあ、これで。」
『じゃじゃーん!!』
その音と光を放ったテレビに映るのは幼児達が気持ち悪いほど集まって楽しそうにしてるものだった。あぁ、なんたらさんといっしょってやつか。未だにやっていることに懐かしさを禁じ得ない。今はお歌のコーナーみたい。
「じゃ、じゃ、じゃ、じゃ!」
突如伏見がテレビ出演を果たして喜んでいる子供達に負けじとも劣らない熱演を始めた。お茶の間のちゃぶ台に膝や腕が当たることを気にもせず隣の座布団上でダンシングし出す。中腰で手を左右に動かすという面白い運動とともに声まで出していて一石二鳥と言った感じである。鳥は死んだ。
「『じゃ、じゃじゃーん!!!』」
ついに伏見は画面の向こうのチルドレンとシンクロを果たしてしまう。夢であって欲しい夢の共演という夢の無い話だ。伏見の精神は次元を超越した節操の無さにあるのかもしれない。それが伏見の強みというか、今に至る理由なのか。
すると伏見が鶴の舞を中断して角度をこちらに曲げた。
「ねぇねぇ、いっしょにやろう?」
ほぉ、なるほどそう来ましたか。そうかそうか。ならばそう行くしかあるまい。伊豆の踊子という言葉を聞いたことがあるこちらとしてはこの程度のダンスなど御茶の子さいさい。画面で二次元になったお姉さんお兄さんの心を打ち砕くような勢いでやってみよう。
「おういえい」
伏見にいつでもいける心構えをアピールする。
「よし、じゃあ入るよっ」
ちょうどお歌のサビになるところで、れっつ、ごー。
「「じゃ!じゃ!じゃ!じゃ!」」
そんなこんなで番組放送中、二人で童心に帰ってみたら。座布団と机上が錯乱したけどそこそこ楽しかったから良かったと思うところ。伏見のあどけなさもたんと味わえた。
「はぁー」
「はぁ〜〜」
良い汗かいたぜと袖を拭いながらほっと一息。運動後の一杯は格別だろうなぁとわくわくしながらテーブル上の冷水を飲み、普通という感想と気分に落ち着いた。隣の伏見もぐびっと喉を鳴らす。
伏見の天然由来な清涼感が近距離から伝わる。伏見の長所は何と言っても純粋さだからそれをこれからも活かしてもらいたい。短所は強いて言うなら行き過ぎた思考回路か。
「疲れたぁ、フシミン」
「だね」
言った直後、伏見はその背中をリクライニングよりも速く傾ける。起き上がる様子もないので腹筋に目覚めた可能性は見込めないなと推測していると、伏見がそのままごろごろと回転と接近を試みてきた。ロールケーキみたいだなぁと転がる石には苔も生えぬような虚しい比喩を思い浮かべていたその時、太ももの下先を指で突かれる。伏見の人差し指が下半身を拠点を置いて股の周りを攻める攻める。
「フシミンのこれ、どう?」
撫でてるのか弄んでるのかよく分からないちょっかいを出されて怒りの頂点に達する、はずもなく然るべき返事を考える。それじゃ、引き続きこれで。
「気持ち良いよ。」
うんやっぱりこれがベストアンサー。恋人同士の触れ合いは、快楽と快感あってこそ。内なる心も悦びに喜ぶだろう。
「え?気 持 ち 悪 い ?」
あ、まず。
そう思った時には手遅れで、伏見は懐から腕の血管へとカッターナイフを移して刺した。
「あ、あはははははっ、そうだよねっ、気持ち悪いよねっ、フシミン。こんなスキンシップしかできなくて嫉妬深くて鬱陶しくて女々しくて自意識過剰なやつなんて死んだ方がいいし死ぬべきだし死ねば町ちゃんも嬉しいし死んだ後も楽しいしとにかく死ねば死ねば死ねば、殺されればいいんだこんなやつこんな腕なんか。あ〜浄化するぅ〜。腕を手始めに消そうね、手だけに。あはっ、上手いなぁ。なわけあるか死ねよこんな腕、無駄な血ばっか垂らしてるんじゃ、こんなんじゃ、町ちゃんに悪いよ。町ちゃんごめんね。町ちゃん、今刺してるからね。町ちゃんね。町ちゃんね。」
あっという間に伏見の血流は天に昇り、ついでにこっちにも飛来してきた。唇についた血を舐めると鉄の味がして吸血鬼か製鉄業者にでもなった気分だ。てかそれより止めないと。
「伏見、止めて止めて。気持ち悪い、じゃなくて、気持ち良い、だから。聞き間違いだから。ね、刃物止めて。」
このように必死に制止してみても、聞く耳持たずでカッターの手を止めない。カッターナイフと言ってもホームセンターで売ってるような強靭な刃であるので、切れ味はミシュランで星を獲れるくらいである。だから気を付けないとこちらまで傷を付けられてしまう。取り返しのつかないことになる前に伏見に声を届かせないといけない。
「伏見!」
今度こそとファイトを振り絞って声出ししてみても、ぴくりとするだけで他の反応を見せない。困ったな。今や伏見の半径約一メートル以内は刃の残像が飛び交うほど危険で、座布団三個分の距離を取るのが精一杯だ。
しかし立ち往生していれば伏見の体液が溢れるばかりなのも確か。こうしている間にも伏見の血が壁紙や座布団に染みついて、卓上の冷水に色付けをしている。伏見の足元は小規模な血の池地獄のようだ。
……だったら、行くしかないか。
あまり、というか全く気が進まないけど、未然に防げなかった責任もある。責任感が強い性格ではなくとも、人命を喪うことへの危機感は少なからずあるのだ。
というわけで、伏見の元へ走り出した。
体当たりの衝撃で、運良く武器が解離すれば良い。
そう思って身体を前進させる。
刃先に当たるか否かは賭けだった。
そしてどうやら、その賭けに負けたみたい。
伏見の武器が、一瞬で首元を抉る。
身から出た血流が目前を横切る。
痛覚が神経を通じて頭の中を占めて、全身に司令が行き渡り、再度脳が活性化する。
そして。
自分が何を言うのか分からなくなる。
「は?痛い。は?私、痛い。は?何。は?お前今私に何した。は?お前今私を傷付けやがったな。は?お前私を誰だと思ってんだ。は?お前、私だぞ。は?お前の好きな私だぞ。は?好意はどうしたお前。は?敬愛はどうしたお前。は?傷はお前の中に留めておけよ。は?私まで傷付けるなよ。は?ていうかお前自傷すれば許されるとでも思ってんのか。は?自己犠牲とかそれこそ気持ち悪いんだよ私に押し付けんな。は?勝手に悦に浸ろうとするな。は?は?は?私なんかお前なんかに何にも感じないしむしろ相手してやってるんだから感謝されるべきなのに自分を世界の中心だとでも思ってんのかお前。おい、伏見。伏見お前に生きる意味を与えてやってるのは誰だ生きる希望になってるのは誰だ誰のおかげで今のお前があると思っている。お前がお前であるためには私の存在が不可欠だと言うのに自暴自棄な精神を理由に理性を放棄するな馬鹿かお前。そうだ馬鹿だお前は伏見は。私の有り難みとお前の自己を天秤に掛けているだけでも重罪なのに傾かせるなんて以ての外ださっさと死ね。そうだ死ね。私が私の価値を知るよりお前は私の価値を知る点においてあまりに無知だから死ぬべきさ。気持ち良く血を出したいなら私が協力してお前の血液全部抜いてやる。甘ったるい甘えた身体を少しは鉄分で味付けしてあげるから、早く死ね。ほら、さっさと死なんかい。さぁ死ね。死に損ないのマゾ女。」
言葉の意味も分からずに口を動かし音を溶かし、自分の声を自分で聞く感覚って一周回って新鮮だなぁと思いながら、相変わらずな伏見からナイフを奪い取って胸に刺した。
何回か、刺した。
刻んでやった。
無事終わらせると、ふと血が暗転した。
目が覚めると行きつけの病床で仰向けになっていた。ベッドで寝ていたことを鑑みても夢オチですらない現実に、少し頭が痛くなる。またやってしまったなぁと悔いのない感想を浮かべて、首元まで覆う布団をめくる。傷は……まぁ、そこまで深くは無いっぽい。所詮一回切られただけだから痛手は最低限で済んだみたい。安心して息を吐く。
そういえば肝心の彼女はどこだろうときょろきょろしてみるが、当然目に見える範囲にはいない。そりゃそうだ。互いに刺し合った仲だもの。
あぁこれからまたしばらく伏見と会えない入院生活を送るのかと思うと些か気が沈む。伏見と会えないことに、というよりは伏見と会えないことによって起こることに、だけど。常々思っていることだし。
そうして数日が過ぎ、晴れて退院することになった。実際軽傷だったこともある。何にせよいつもより早く家に帰れて嬉しい。病院も通い慣れてるとは言え、心の居所でもある我が家が一番ですな。
だがしかし伏見は致命傷を負ってしまったためまだ入院が続くらしい。帰り際に看護師さんから聞いた、信頼できる情報である。ちなみにその看護師さんはご近所さんで、一一九に通話してくれたのもこの人だ。よって命の恩人と言っていい。軽い命に成り下がっているけど。
昼の日差しを受けながら我が家に到着する。「節民」と書かれた表札を横目に、屋内へ入場。
あ、そういや血痕とか大変なことになっているのでは、と危惧する心配も一瞬で、部屋の内装はいたって清潔なものだった。もしかしてこれもご近所看護師さんが掃除してくれたのか。圧倒的感謝。フローリングも自分でやるより綺麗になっている。
後先考えない自分の過去を情けなく思うよ。
まぁだからと言って私を卑下するつもりはないんだけど。
でもこの前は流石に言い過ぎちゃった。
だから早く会って、慰めないと。
出来るだけ早めに傷を直してほしいなぁ。
自分が大好きな私。
そんな私が大大だぁーい好きな、伏見に。
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