⑨君を描写する
教室を俯瞰して見た時、窓側から三列目、黒板からも三番目になる位置に着席している。
すらっと下ろした後ろ髪が物憂げに艶やかで、じっと見ていると吸い込まれそうな印象を人に思わせる。
学校指定の制服は群青色に色付けられていて、胸元にはリボンの着用を許されている。多くの女子は彩色に赤やピンクの系統色を抜擢するけど、南弓は真っ白な色柄を選んでいる。色柄と呼ぶかどうかも慎重になるくらいの純粋な白色。仮にその布の上に塵や埃が乗ってしまえば、たちまち消失するかもしれない。それほど潔白かつ純白なリボンの存在感は、まさに白眉と言ったところだろうか。
また南弓自身も特質な人間だ。南弓の周囲には約一メートルの厚みのオーラが流れているようなイメージを抱かせる。南弓の近くに存在するものは全て南弓の所有物に変わってしまうような雰囲気。南弓以外のその他大勢は制服の群青色という圧力に支配されているに過ぎないと言えるかもしれないけど、南弓だけは自身の内側から濃い青色を滲み出すような荘厳さと強靭さを持っていると言える。
南弓の強さは外装だけに留まらない。先程も軽く触れた頭髪についても、南弓の優良さを形作っている。雲一つない夜空を見上げたような黒色と、音楽室に添えられたオルガンを覆う黒茶色を数段階レベルアップさせた色合いが混じり合い、見る者へ感銘と感嘆を授ける。髪の毛一本一本の芯がくっきりしているので、微かな体の動きを受けて揺れる様は高級な弦楽器の一弦が音を振り撒くのと等しい。それゆえに体育の授業などでは、南弓が活発に動くことで漂う空気の対流に柔らかい旋律が乗り、空中に連続した楽譜を可視するほどだ。
このように数あまたある南弓の特徴の中でも、特に目立つのはその目元だ。鋭さと弛さが調和しているのか、はたまた不安定に安定しているのか、何とも言葉に収めるのが難しいが、「美」その一文字を頭に焼き付かせる目の形だ。この世の光という光を司っていても不思議ではない深淵な瞳の上で清廉な瞼を備えている。宝石よりも綺麗な輝きを封じるのもまた、特別に栄える南弓自身だということだ。
南弓の目線の矢に貫かれた人は、その経験を一生の思い出として宝箱に収納するだろう。そして時々箱を開けて嬉々としながら心を浮かれさせるのだ。
南弓の素晴らしさに結論など存在しないと思いつつも敢えて一括すると、南弓はとても美しい。
すると必然的に、南弓に思いを寄せる人間も一定数いる。公言はしていなくとも、態度や言葉遣いから明らかに心の内が漏れている人もいる。そして好意を向ける人の身体的性別は女、男を問わない。要するに、南弓には誰の意識をも引き寄せる力があるのだ。誰からも好かれるという状況は客観的な立場を取ると至極良い響きに聞こえる。
しかし当人、南弓はどうだろうか。南弓は周囲からの熱意、期待、願望を浴びるように受けて、その精神を落ち着かさせていられるのか。当然これは「舞い上がる」ではなく「押し潰される」という恐れを意味しているわけだけど、実際の南弓は少したりとも感情の機微を表さない。自己の思想で全てを開始し、洗練し、完結させるのが恐らく南弓のデフォルトだ。他人の助けを必要としない一方、他人からは必要とされる存在となっている。小学校においてはそれが顕著だ。思慮の深追いと無知の間で迷える子供達は、自分を認めてくれる群れを求める。いや、認めれていると思いたくて集団に加わる、と言った方が正確か。どちらにせよ、安定性の欠ける幼子は強きモノに頼るのだ。
南弓はその点集団ではない。南弓という個人でしかない。独りの個人、ただそれだけであるはずなのに、南弓の特殊性は常識を凌駕する。時に弾圧され時に分離される孤高の精神が、幸いなことにも南弓の不動の価値を高めているのだ。けれどそれは偶然ではなく、南弓の生まれながらに得た才能に尽きる。美麗だとか、崇高だとか、独特だとか。南弓の振る舞いの合計による自然な結果だ。
南弓を忌み嫌う感情は教室の何処にも有り得ない。過去も現在も未来も一貫してこの場所で南弓の「自由」に「不」がつくことはないはずだ。南弓の生命は確約されているのだ。
極論言えば、南弓は実質このクラスを牛耳っていると言える。平和な舞台裏の独裁者だ。
人を魅了するとは、そういうことなのだ。
その南弓が唯一表舞台に上がる機会がある。それはクラス日直の順番が回ってくる時だ。そして今日はちょうど南弓が当番の日。
日直の仕事は授業前後の号令と帰り際の発表になる。発表とは一日を振り返って体験した出来事を教壇上でスピーチするというものだ。その内容はどの生徒も似通っていて、時間に関しては数分以上話すのが一般となっている。この発表習慣は新たな担任によって提案されたものなのでまだ学校生活の板についていないが、既にクラスの人間は一通りこなした。達成していないのは南弓だけだ。
南弓の日直としての振る舞いは無難なものだった。神秘的な声質であるという点を除けば、他の人間のやり方と変わらない。ただ他と大きく違うのは、最後の発表だ。
六時間目のチャイムが鳴り終わると、南弓は教卓を回り込んで皆の前に出た。
そこで南弓が教卓越しに吐き出した言葉は、クラスに強大な衝撃を与えた。
「私のことが好きな人はいますか?」
南弓はこう言った。質問口調で放った台詞は、クラスの隙間を通り抜ける。単独で高級なオーラを纏う南弓に見合う返答を差し出せる者は誰一人としていない。各々それを自覚しているから、尚更空気が重くなる。
問いが空振りした南弓は、何処か残念そうに「そうですか」と言うと再び席に戻ってしまった。南弓が表情に変化を表すのは珍しいことなので、クラスの連中も不可解さと気掛かりを覚えていた。
結局帰宅前の発表はこれにて終わったらしく、それぞれがそれぞれの家に向けて歩みを進める。だが南弓は一人、最後まで自分の席に座っていた。居残りを命じられるような生徒ではないだけに、南弓に何があったのかと案じられる。
すると南弓は唐突に後ろを振り向き、述べた。
「君、私のことが好きじゃないの?」
南弓が、今度はクラスに向けてではなく誰かに向けてそう言う。どういう意図の会話が交わされるのだろうか。
「ねぇ、聞いてる?」
続けて南弓は話しかける。後ろを向いて、執拗に迫る。そこまで南弓の関心が向く人間なんて、このクラスに果たして存在するのか。南弓以外が空虚で埋まる教室に、未知なる事実が生まれる。
「君……」
南弓の音が孤独に漏れる。捻る制服がより一層寂しさを強調し、本当に南弓は「どうしても無視するなら」
チュッ。
「目、覚めた?」
南弓は誰かに、キスした。誰か、誰か、誰、誰、誰誰誰かに、キキキキ、キ、キスを。
誰?誰か、誰?キスした?誰に?誰の頬に?
誰って、誰って、誰と言うと、目の前、南弓の前。
……あ、「わたし」?
「わたし」って、存在したんだ。
「わたし」とか、意識したことなかったから初めて気付いた。
そうか、「わたし」にも「わたし」があったのか。
新発見。
「私は、君のこと好きだよ。」
意外にも挑戦的な南弓が「わたし」に告げる。そうか、だからさっきのような発言をしたのか。「わたし」をあわよくば釣り上げるために。今思えばこれまで「わたし」はあからさまに南弓のことを見つめ続けていた可能性もあるから、南弓は南弓が好きな「わたし」を挑発したわけだ。いやしかし仮に好きだとしても、クラスの前で告白できる人間なんているだろうか。それにどのみち「わたし」の無い「わたし」には無理な願いだった。
だけど、「わたし」のある今は。
「……『わたし』は、」
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