⑭小学生の季節
偶にはプールに遊びに行って思い出でも持ち帰るかと思い立ち、地元の旧くからある運動施設に自転車で駆け出す。夏の割には乾いた風が汗ばむ前髪を踊らせ、「ひゅーい」と剽軽な感想を空気に流し込みながら自転車のサドルにウエストのウェイトを乗せる。かつて使用して以来カゴの中に放置しているダンボールが、揺れの調子に段々と乗っていく。近所の区切られた草むらから突出している木々の木漏れ日が走行と通過により生滅を繰り返し、年甲斐もなく季節感を感受する。信号機と横断歩道のペアリングをペダリングで直進し、歩道橋横の曲がり角を緩やかに曲行していくと、正午の時報を知らせる館内鈴が敷地を超えて響いた。漕ぐ速さと音速の帳尻合わせを図って車輪を稼いだ先に、微妙に薄汚れた黄色の建築物が雑木の中央で直立している。窓が金属バットで破損されている世紀末な様子も、十字架を
額に浮かぶ体液を退役させ、入館口に失礼すると、真っ直ぐ先に窓口が設けられている。両脇に並べられた貸出用の水着やウェットスーツを視界に交ぜつつ、カウンターのお姉さんの案内に準じて料金を支払う。こちらです、と指先で指示された部屋の方へ入る。来館経験は過去に何回もあるが、直近数年は来ていないから記憶が曖昧。入ってまず目にも入る内装は、高層マンション一室一室の如く区割されたロッカーの鈍色と、所々壊れた蛇口が行列を作る水道の錆色。入口と水道の中間地点に進むと、カーテンで仕切られているシャワールームも三室ほどあった。意外と利用者の少ないシャワー室は他と打って変わって明るめのオレンジ色に光を放っている。全貌を把握してみれば、あぁそういえばこんな雰囲気だったと記憶を取り戻す。中学生なので流石に童心までは復活しない、と背伸びしつつも無意識に子供時代と同じ位置のロッカーを開けてしまった。開けてから気付いたけど。
一般家庭の冷蔵庫の製氷室と肩を並べる容量を持つその空間にコンパクトに纏めた手荷物を収納し、水着と平服を入れ替える。今日のプールに備えて持参してきたのは、濃いピンクとその周りを白で囲う色のビキニ。半袖で薄手のTシャツから順番に脱ぎ、買いたてぴちぴちの瑞々しい水着を胸と腰につける。ホルターネックを通して鎖骨から肩甲骨付近にストラップが収まると、悪くない感触を覚える。 重くて疲れるから本心は小さい方がいいのに主張する一部(二部?)が負担で仕方ないのはさて置いて、外と接続する通路に向けて足下の
ぬるま湯のような温度と水溜りのような水位で浸水した通行口を抜けた先、近所の川くらいは深みを感じさせる水没地帯があった。ここで身体を慣らせとの御達しだろうと推測し、足湯気分で浸かる。十数えるまで出ちゃいけませんと教育してきた母の言いつけを遵守して二三秒でその場を後にし、いよいよプール本体をお目にかけてみた。
早速飛び込むのは景色の水色と砂色、それと幼い小学生女子達。わーきゃー叫ぶ元気百倍の子供達は顔が濡れることも厭わず水遊びに夢中のご様子。雑踏の奥にはいくつものパラソルが地面に突き刺さっており有機物無機物問わないお客様満足度が伺える。自分も客の一員として地面を歩き出すと、陽射しを全面に蓄えた熱感が母指球を中心に展開され「あちち」と声が出た。足も跳ねる。懐かしの触覚に喜びを堪えきれないのは幻想で、地上に舞い降りた金魚の気持ちでどたばたするだけだった。足裏を冷静にして、プールに臨む。大中小(=)深中浅(=)広中狭と三種類|(ややこしい)ある水瓶を見渡した上で、とりあえず虚実皮膜の淡い(言葉遣いも淡い)真ん中、君に決めた。
側溝を跨ぎ水面にちょぽんと触れ、うぇるかむ水中。肋骨まで達すると、底が見える綺麗な水ですねと心にもないことを
大小の相反する水槽の方も、季節移動に邁進する回遊魚のように経験し、安全のための強制休憩時間を二回斡旋させた時、プールサイドに上がって壁際に佇んでいた。びちょびちょな湿地帯と化したプール近く、特に排水路からは過剰な距離を置く。自分特有かもしれないけど、中途半端な水気が人の皮脂や髪の毛の残留感を助長して、生理的に耐えられない。ちなみに今寄り添っている壁は入館室の反対側に値し、この上には自動販売機で買える乳飲料片手に一杯酌み交わせられるテラススペースがある。小さい頃は一日一本定期吸飲していた。今日は泳ぐだけで充分だし、子供の見る前で波に飲まれて度々塩素水を誤飲してきたから喉も景気が良い。
外の限定的な森林を遠望し、
瞬間、監視員からの怒声も飛び込んできたけど、夏の暑さのせいにして逃げ泳いだ。
そして捕まえられた。
一通り楽しめたと自負に傾倒し、冷たい足湯を経由してロッカールームに着いた。おやつ時も回った時刻なのに、まだ子供連れの客は多い。幼児、幼女がぬるぬるした床を滑るように走っている。幼女があって幼男がないのは何故だろう、と思うほど男に興味の無い自分は、若かりし頃の夏休みを偲び、これからの夏休みに思いを馳せつつ、いつもの一角に手を伸ばす。着替えて帰ろう。
「あ。」
その前にシャワーで塩素を洗い流さないと。お肌のケアが第一。
立ち返ってキッズ達のぬるぬるを継承していき、シャワー室の前で肌にまとわりついた水分を何となく払う。そして横に延びるカーテンを開けた。誰もいないとした潜在的な胸算で室内を外気に晒した。
その時、予想していたはずもない偶然が起こる。
目線の下側に、一人の少女が地面に座り込んでいた。
顔を俯かせて、橙色の
「…………」
それでも無言の無反応を厳守する少女に、次は軟弱な三角筋へのソフトタッチを交えて話しかけてみる。
「や?やや……あれ、ママ……?」
すると面を上げた少女が林檎の色味に腫れた瞼を見せつけて、宇宙よりも不可思議な言葉を吐き出した。加えてどういう訳かお姉さんからお母さんに昇格した。嬉しい、か?
「ママだぁー!」
釘も刺せない
「……んぅ、なんだ、ママじゃない、これぇ」
偶発の安らぎも束の間、少女もとい幼女は光の生えた目で自分から離れた。離れたけど後退ることはなく、近距離を維持したまま視線が衝突する。
「えーと、気分の盛り上がりと沈み込みに一役買って本意無いし、聞くのは二度あることは三度あると三度目の正直の臨界点なんだけど、君、どうしてここにいるの?迷子?」
「んんんー、どうしよう。ママに、知らない人とは会話を最小限にするよう言われたしなー。」
「大丈夫。怪しい人だったらとっくに拉致したり監禁したり色々しているから。」
「なるほどー。一理ある。じゃあいっかー」
遂行しないにしてもこの幼女、チョロ過ぎないか。おまけに幼女の割には語彙が偏っている。体格から伺うに小学生三、四年生と判断できるのに。こんなもんだろうか。七年近く前になるから記憶に薄い。
「あのね、まりね、お母さんと離れちゃったの。」
そう言って微妙に嘘臭い
「一人で……帰れないから、ここにいるんだよね」
「そうなの。だからここでしくしく泣いていたのー。」
発言通り
どうしよう、自分も子連れという名の路頭に迷う。
「しばらくは一緒にいて、あげよっか?」
「わお、ほんとっ?やったー」
提案した直後、子供のようにはしゃぐ子供が、子供っぽく胸に再突撃してきた。迎撃するのも手間なので、大人の自分は大人しく大人ぶる。きゃっきゃっと顔を磨り寄せる(もちろん幼女が)と、繊維の細い髪が鳩尾をまさぐってこそばゆい。逆の立場だったら即通報。
向きの違うヘドバンに没頭して数刻、幼女の動きが止まる。充電切れかなと機械的に想像している時、純粋な意味での腹上死に近似した体位にある幼女の鼻腔からすぅすぅと爽やかな音色が聞こえてきた。ひょっとして、寝付いた?
「おーい」
「……」
死んだように梨の
「ちょい、起きて起きて!」
ソフトから転じてハードモードで肩をノックし、追撃で頬をむにむに摘んでいると、
「……ぁゃ、やあやは?」
やっと意識の確認が取れた。
「ここで寝るのは止めておこう、ねっ?」
寝る子は育つとしても寝られる側の身にもなってほしい。水温と気温が中和してうとうとするのは共感できるけれど。
目を擦る幼女は説得を受けて、
「ぅーむにゃやにゃ、だったら家に連れてってくらされ……」
一歩間違えれば誘拐紛いのお願いをしてきた。
幼女は幼女自身の自宅を知らないから、現時点で安全なのは母の再来が期待できるこの場と、自分の家しかない。自分が小学生を襲わないことは、幼女からして善意という動機で成立している。傍から見ても寝落ちしかけの子供を救う様は明白だ。仕方ない仕方ない。
「分かった」と言って水着から着替えさせようとする際ロッカーが分からないことに気付き、問いかけると「んにゃぁ、分かりゃない」と仰ったので、よく見ると手首に巻き付けてあった鍵を借用して「あー、あったー」とお言葉を頂いた。対応するロッカー番号から替えらしき衣服を抜き取り、意識も脱げそうな幼女の水着をばんざーいさせて脱がせ、十分水気を切った後、頭から衣服をすぽっと被せる。幼稚園児の頃熱中していたおままごとに似ている。
着替えをしても惚けている幼女は自律歩行を捨てたようなので、諦めて自分がおんぶに抱っこすることにした。おんぶと抱っこ、どちらを選ぶかで罪の重さが変わるかなと適当な物思いをした結果、持ち運びやすい抱っこにする。
とその前に自身の更衣等が未完了なことに思い当たり、一旦幼女を置き去りにして自分のロッカーに戻る。来た時の姿形に召し替えて、濡れないように
しばらく振りに再会した幼女は離れた時と変化のないポーズで顎をかくかくさせている。思惑通り眠そうだ。いざ抱擁してみると、幼女の身長は頭何個分も違うのに、重量感はしっかりしている。幼女の持つ細い手足から、その原因は自分の非力さであると自覚した。こちらの幼女の実母にも勘違いされそうだと思いつつ、お尻と背中から幼い身体を抱き支える。幼女は腕の中でコアラのように寄り付き、早速すーすー寝息を奏で始めた。甘いお菓子の香りの染み込んだ口元に鼻を近付けると、何とも言い難い反道徳的な夢見心地に囲われる。乾きかけのふわりとした髪の毛を鑑賞すれば、頬の内側から歓喜が吹き上がる。
そんな幼女を抱えて、久し振りのプールから逃げ帰った。
ダンボールに入れた幼女を、自転車のカゴに乗せて。
帰る途中で今更、施設の人に保護してもらえばよかったなぁと思い至る。
まぁ、それは冗談として。
あ、そうだ。
ついでにお菓子の買い足しもしておこう。
次の機会に備えて。
間を空けると、恋しくなるから。
部屋に着いて、檻の中へまた一人投げる。
やっぱり、せりちゃんの方が幼くていいな。
まりちゃんは、また今度。
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