第4話一族の長
ようやく謁見を済ませたヴァーゼル一行は、南領公軍本部にて割符の提示を済ませると、足早に練兵所へと向かう。
何か言いたげなリーゼルに対し、父ヴァーゼルはこの本城にいる間は口を開くなと厳しい口調で申し付けていた。
言わずとも、かの御主君に対する不満であることは明白だったからだ。
代わりにカゼルが、もう一つの疑念を口にする。
「父上。本隊は出陣されないのですか?」
「先ほど宰相殿からそう知らされた。もう、決まったことだ」
不機嫌かと思えば、ヴァーゼルは思いのほか平然とした顔をしている。
「最初の目標はトラス城市だ。我等だけの方が、やりやすいというものよ」
祖父アイゼルが、ヴァーゼルの言葉にそう付け足した。
トラス城市はフォントーラ家の居城であり、カゼル達の生まれ故郷でもある。
現在は、摂政側に着いた当主コーゼル・フォントーラが城主であり、此度の南領公家、再興の旗揚げに参加せよと再三の使者を送ったが、まだ何の返答もない。
「コーゼルめ。よもや、この期に及んで抵抗など考えておるまいな?」
「我等の旗印を見れば、城内の兵士達も本気で戦おうとは思わぬでしょう」
父と祖父のそんな会話に、姉のリーゼルが口を挿みたくてやきもきしているのを見かねたカゼルは、代わりに疑念となる点を聞いてみた。
「父上。それは、我等も同じことなのでは?」
父ヴァーゼルが率いる軍は、父や祖父を慕って付いてきた者達であり、その大半がトラス城市の中に家族や親類縁者がいる。当然、互いに血を流したくない相手である。
「無論、手は打ってある。それと、家の外にあっては父と子でないことを忘れるでないぞ」
「は、はいっ、失礼いたしました。帥将殿っ!」
カゼルが緊張した面持ちで父のことをそう呼ぶと、隣でアイゼルが笑いを堪えているのが見えた。
「帥将とは言っても仮のものだ。家中の者と同じく、ただ殿と呼べばいい」
「了解しました。殿」
そのやり取りを見てか、ようやくリーゼルの表情も少しだけ和らぐ。
そうこうする間に、ヴァーゼル一向は練兵所に着いた。調練の指揮を行っているのはフォント-ラ家の分家、マトーラ家のリアルグ、レアルヴの兄弟。
二人共、女中頭イルメラの子であり、ヴァーゼルとは乳兄弟でもある。
近くに見える兄のリアルグが一向に気付いたが、ヴァーゼルが手旗で続行せよと合図すると、それに応える様に一礼をして目の前を通り過ぎる。
二人の兄弟は実戦さながらに陣太鼓や旗印を使って、進軍と転進の演習を行っていた。
兵は足並みを揃えたまま、早足のまま練兵所内を縦横無尽に動き回る。特に中央で行軍する一千の部隊の動きは見事であり、左右に付く一千の部隊が、遅れまいと必死に食らいついているのが見えた。
「クーヴェルも頑張ってはいるが、もう一歩といったところだな」
アイゼルが、左手に見える部隊を見てそうつぶやく。
「(兄上は、もう部隊の指揮を任されているのか……)」
カゼルも学院の講義で、何度か部隊指揮の演習経験はある。
しかし、それは学生達が兵士役となって、交代で指揮官役を務めるというものであり、目前で行われている実戦さながらの演習と比べたら、お遊戯も同然である。
周囲の大人達から兄クーヴェルとは事あるごとに比較されてきたが、もしかしてこの三年間で差をつけられたのは、自分の方ではないのか……?
カゼルは三つ上の兄に対し、初めて焦りというものを感じていた。
「よーし、そこまで!」
リアルグの号令と共に、調練終了の銅鑼が打ち鳴らされる。
三つの部隊はあっという間に整列を行い、対面するヴァーゼル親子を出迎えた。
「皆、中々の調練であった。一刻の休息の後、この三部隊で出陣する。兵達に食事を取らせておけ」
休息を許された兵士達は、続々と兵舎に戻っていく。その中を縫う様に、一人の士官がヴァーゼルの下へとやってきた。兄のクーヴェルである。
「殿、お待ちしておりました」
少し上気した顔のまま、髪から滴る汗も拭わずに拝礼をする。
「半拍、動きが遅れている。戦場では、その一瞬の判断の遅れが命取りとなるのを忘れるな」
厳しい言葉の様に聞こえるが、ヴァーゼルの機嫌が悪くないことにクーヴェルは安堵していた。
「ははっ! 次は、もっと早く動きます!」
「次は実戦だ。そうでないと沢山の兵が死ぬ。心しておけ」
ヴァーゼルはそう言い残すと、マトーラ兄弟の下へと向かった。
「クーヴェル兄さん、お疲れ様」
「リーゼル、すっかり見違えたな。それに、カゼルもか」
「兄上、お久しぶりです」
久しぶりに会う兄に、掛ける言葉を探していたカゼルだが、先に声を掛けられたことで、幾分楽に挨拶を交わすことが出来た。
「二人共、学院生活はどうだった?」
「私には退屈だったけど、仲の良い娘も出来たし。それなりに楽しかったわよ」
「はは、リーゼルにはそうだろうな。カゼルの方はどうだ?」
「自分も似た様なものです。しかし、得難い友と知り得たことには、感謝しております」
「そうか、友か……。二人共、羨ましい限りだ」
そう言うと、クーヴェルは少しだけ寂し気な表情になる。
カゼルの記憶に、いつも出てくる兄クーヴェルの顔がこれだ。
父と母、そしてリーゼルや妹達に囲まれたカゼルを、いつも少し離れた場所から眺めていた兄。
なんて声をかけたらいいか分からず、その悲し気な視線を気にして、目を併せることが出来なかった。
逆に、トゥアルグ家に縁のある大人達に愛された兄と裏腹に、カゼルにはいつも値踏みをする様な視線が向けられていた。
そんな大人達に、いつか自分を認めさせてやろうという思いが、常にカゼルの中にあった。
「(ああ、まただわ……せっかくいい感じだったのに)」
リーゼルは話が途切れてから、いつもの兄弟になってしまったことにやりきれない気持ちになる。
そんな微妙な空気を読んでか、祖父アイゼルが別の話題を口にした。
「ところでクーヴェルよ。ミレールはどこにいる?」
「婆様なら、城の御婦人方と御主君の出陣仕度を手伝いに行かれております」
「そうか、ならばワシも顔を見せに行ってくる」
「先代様も、此度の出陣に参加されるので?」
「勿論だ。ワシは、おそらくこれが最後の出陣になるからの」
アイゼルの遠くを見つめる様な仕草に、リーゼルがすかさず食いついた。
「お爺様! そんな縁起でもない言い方、よしてくださいまし!!」
「ははは、そう怒るな。これからはお前達の時代なのだ。それにワシだって、余生の楽しみもある」
祖父アイゼルは、鷹が好きだった。それも鷹狩りではなく、自然の鷹が自由に大空を飛び回る姿が好きだった。
カゼルは幼い頃、一緒に山歩きをした時にそんな話を聞かされたのを思い出す。
ふと気が付くと、もうアイゼルは練兵所の外へと向かっていた。
「それじゃ、オレも小腹が空いたから、何か口に入れてくる」
クーヴェルはそう言い残すと、カゼル達を残して立ち去った。
「兄さん、随分と大人になっていたわ。だからカゼル、貴方も大人になりなさい」
「僕はまだ、大人になれてないのかな?」
「……僕、と言っている内は、まだまだ子供よ」
カゼルが照れた様にしてそっぽを向くと、リーゼルはくすっと笑う。
自分といる時にしかみせないカゼルのそんな素振りが、この先、段々と見れなくなっていくのだと思うとリーゼルは寂しかった。
それでも、こうして一緒に居られる間はまだいい。
その内、顔を合わすことすら出来なくなってしまうのだ……。
「若君、姫君、少しよろしいですかな?」
不意に声を掛けてきたのは、父の郎党頭を務めるジィド・ローハンである。
「本日付で、お二人の傍付きとなる者を紹介いたします。これに……」
ジィドが顎で合図すると、後ろにいた四人の男達が一歩前に進む。
「まずは、カゼル殿付きの二人がこちらになります」
その二人のことは、すでにカゼルは知っていた。
一人は昨日、父から紹介されていたライン・ディストナー。
しかし、もう一人は予想外の人物。カゼルの弓の師匠、ラウグ・ラームであった。
驚くカゼルに、ラウグは目だけで笑って応える。
「こちらが、リーゼル殿付きの二人になります」
弓の師匠であったラウグはともかく、すでに面識のあるラインに比べ、リーゼル付きとなる二人の方は、やや緊張した面持ちのまま名乗りを上げた。
「じ、自分はカミル・ベニートと申します!」
「セリオ・カルバハルです! 自分は姫様付きに選ばれて、光栄であります!!」
ベニート家は本家が西藩王家麾下の小領主であり、カミルの家は数代前に別れたその分家である。フォントーラ家の家臣としては、なかなかの名門と言えた。
カルバハル家の方は数代前にフォントーラ家の娘を貰い受けており、若き一族衆の一人でもある。
無論、この二人もヴァーゼルの下で鍛えられた若者であり、リーゼルの嫁入り先がどこになろうと付き従うことになるのだ。
「カミルにセリオね。私、こう見えて結構じゃじゃ馬らしいから、覚悟しておいてよね!」
「い、いえっ! 姫様は、若衆の憧れのお方です!!」
「我等二人、姫様の為ならば、火の中水の中! どこまでも、お供する所存に御座います!!」
「そんな、二人共、ちょっと大袈裟すぎ……」
大仰に捲し立てる二人に対し、ラウグなどはもう吹き出す寸前といった様子。
ラインに脇を小突かれると、すかさず後ろを向いて咳込んでいる。
「ラウグ? 何がそんなに可笑しいのかしら?」
リーゼルが半開きの目で睨むと、カゼルがそれを庇う様にまあまあと宥めた。
「お二方共、食事でもしながらこの者達と色々話されるがよろしかろう」
ジィドがそう告げるとリーゼルはツンとした顔のまま、早足で歩き出す。慌ててカミルとセリオもそれに続いていく。
「ジィド殿、お手数お掛けいたした。それでは、我等も行こうか」
カゼルはそう告げると、新たな二人の部下と共に兵舎へと向かった。
「……しかし、まさか貴方が、私の傍付きなどに」
「なに、オレが自分で願い出たんですよ。どの道、ヴァーゼル様の下で働くことに違いはないし、何しろあそこにいると、どうにも浮いちまってね……」
ははっと、相変わらずの軽い調子のラウグ。
カゼルとしては、どんな理由であっても、これほどの人材は願っても得られないものである。
出自が武人の家であれば、すぐに百や二百の弓隊を率いる部将に抜擢されていいほどの腕前であり、そうでなくてもフォントーラ家お抱えの弓術師範のままであれば、相応の待遇でいられるのにだ。
「カゼル殿の下なら一番の古株になるから、大きな顔出来るじゃないですか。周囲の目とか気にするの、性に合わないんですよ。どうにもね」
「……カゼル様は近い将来、将軍にもなろうというお方。貴方は少し、言葉遣いに気を使って頂きたいですな」
「早速、出鼻を挫かんでくれ。カゼル殿が偉くなったら、ちゃんとするって」
「あはは、それで構わない。今の我々は、ただの郎党と従士の間柄だ。立場が人を変えていくのだから、今はそれでいい。ライン、君もそれで構わないから」
「カゼル様がそう申せられましても、急にラウグ殿の様にはなれませぬ」
「彼を真似する必要はないさ。どの道我等はこの先、四六時中一緒に過ごすんだ。もう少し、気楽に接してくれればいい」
そう言って、カゼルは手にした餅を半分に千切る。その中に味噌を練りこんだ菜っ葉が入っていた。
「出陣前は、こうして旨いものが食えるのがいいな」
ラウグは一口でそれを平らげると、少しだけ物足りなそうな顔をする。
「お城の御婦人方が、早朝から総出で用意してくれたのです。もっと味わって食べないと罰があたりますよ」
カゼル同様、餅を半分に割って食べていたラインは、物欲しそうなラインの視線に気付くと、澄ました顔で残りの半分も口に入れた。
こんな素朴なものでも、ラウグやラインなどの武人にとって、滅多に口に出来ぬ代物なのだ。領民の生活など、もっとひもじい暮らしを強いられているに違いない。
せめてこのような餅くらい、毎日、皆の口に入る様にしていかねば……。
その為には、一刻も早くこの乱世を終わらせねばならぬのに、現実にはこうして今から主家の復権の為に、戦を起こそうとしている自分達がいる。
その矛盾を噛みしめる様にしてカゼルは残りの餅を平らげると、茶碗の湯を一気に飲み干した。
半刻ほどの休息を終えたカゼル達は、父ヴァーゼルの号令の下、一路トラス城市に向けて出陣した。
ヴァーゼル率いる先鋒隊は、総勢三千。内、二千は本軍の主力であるトゥアルグ家から借りたものであり、フォントーラ家直属の部隊は一千に過ぎない。
対するトラス城市のコーゼルが保有する軍勢は、約三千。
一般的に中世の戦いでは、籠城戦になった場合、攻城側が勝利するには最低でも三倍は必要と言われている。
しかし、それはあくまで机上での計算に過ぎない。
カゼル兄弟は、父ヴァーゼルから幼少より、兵力とは士気・練度・装備がものを言うと教えられている。
兵数の差などは、五倍だろうが十倍だろうが問題ではない。後は、味方の被害を如何に抑えるか、それが指揮官の役割であり作戦と言うものなのだと。
少なくともヴァーゼル率いるこの先鋒隊の士気、練度は申し分ない。装備も全部隊、同等であると思われる。
万が一、戦場経験など皆無に等しいコーゼルが直々に城を打って出れば、一刻も経たずに決着は付くだろう。
しかし、ヴァーゼル達の思惑としては、出来ればここで同族同士の無益な血は、流したくはないのだ。
カゼルは馬に揺られながら、自分が父の立場であるならばどうするかを考えていた。そんなカゼルの様子を見て、リーゼルが馬を寄ってくる。
「ねえ、
「……姉さん、今は行軍中だよ」
郎党頭のジィドが、カゼル達を睨む様にして振り返るのを見て、リーゼルは首をすくめる。
「……だって、気になるじゃないの」
小声でカゼルにそう言い残すと、リーゼルはすぐに離れて隊列に戻っていく。
カミルとセリオの二人が、慌ててリーゼルの左右にぴったりと付いた。
「まあ、姫のお気持ちもわかりますけどね」
カゼルのすぐ後ろから、ラウグの声が聞こえる。
ヴァーゼル直属の従士隊は、全て騎馬で編成されており、ジィド隊以下、カゼル隊やリーゼル隊も同様に全員騎乗していた。
ヴァーゼルとジィドが、それぞれ四騎率いており、他に二人の郎党が同じく二騎づつ、カゼル達六騎と併せると全部で二十二騎となるが、この部隊が一丸となって戦うことはまずない。
実際の戦闘時には、ジィド以外の郎党は、主に伝令を務める為である。
おそらく緊急時には、カゼルやリーゼルにもその役目が振られるに違いない。
そもそも軍馬というものは高価であり、フォントーラ家の様に、三千ほどの兵を率いる諸侯には、百や二百といった数の騎馬隊を揃えるのは資金的にも無理な話であるのだ。
それゆえ、代々フォントーラ家では歩兵戦術を磨くことを重点にしており、その練度は中原一を誇るとされている。
しかし、摂政家をはじめ、西藩王家や北辺公の下では、騎馬だけで一千を超える部隊を持っていると噂されており、カゼルは、自身も機動力のある精鋭部隊を率いたいと考える様になっていた。
「そういや、あいつら戻ってきてませんね」
不意にラウグが、そんなことを口走る。
あいつらとは、ハーレンとガルムのことだろう。彼らは父からの命を受け、すでに行動を起こしている。
おそらく、このトラス城市の物見に……いや、そうではない。
ふと、カゼルの脳裡に、父の描いた此度の作戦が見えた様な気がした。
「なるほど、そう言うことか」
「どうかされましたか?」
ラインが馬首を併せる様にして、横に並んできた。
「……いや、こちらのことだ」
カゼルが微笑を浮かべたまま、なんでもないといった風を装うと、小首を捻る様な仕草をしてラインは元の位置へ下がっていく。
「(おそらく、トラス城市は無血開城する……)」
父ヴァーゼルは、その先の先まで手を打っているに違いない。
ここからは、一気に時勢が動くのだ。カゼルは自分の中で、何やら獣の様なモノが目覚めた気がした。
それは乱世の終結を願う志に反し、更なる乱世を望む獣の胎動……。
きっと、戦場を前にして昂ぶっているせいだ。カゼルは、一瞬心によぎった邪念を振り払う様に、父の背中を追った。
自分の目指すものは、この父の背中なのだと言い聞かせる様に……。
* * *
その頃、ヴァーゼル隊出陣の報を受けたトラス城市内では、不測の事態が起きていた。当主の暮らす本殿が、城内の兵によって取り囲まれていたのである。
本殿を取り囲むその部隊は、フォントーラ家の親族ユヴァーグ家の旗印を掲げていた。
そして本殿内の寝所内では、巨躯の獣の前で夜着のまま、震える男女が一組。フォントーラ家当主コーゼルとその妾である。
「だだだだ、誰かっ! 誰か早く参れっ!! 誰か早くっ!!」
妾に縋り付かれたままのコーゼルは、引っ切り無しに助けを呼ぶが、一向に誰も姿を現すことはなかった。
「何故、誰も参らぬのじゃっ!? 早く、この曲者を何とかせいっ!!」
哀れな叫び声を上げるコーゼルの前に、片膝を付いたまま微動だにしない男の影が、揺らめく様に口を開いた。
「無駄です、御当主。いくら喚こうとも、貴方様の家臣は、誰一人として来ることはありませぬ……」
怯えるコーゼルの悲鳴に反応するかの様に、巨躯の獣がその大きな口を開くと、コーゼルの妾は、恐怖のあまり、歯の震えが止まらなくなっていた。
「き、きき、貴様は、余をどうしようと言うのだ!?」
「どうもいたしませぬ。どうぞ、落ち着いてこの書簡をお読みになられませ……」
巨躯の獣の影から、ぬっと突き出る様に伸ばされた書簡を、コーゼルは震える手で受け取る。その書簡の中には、こう書かれていた。
『無条件で開城せよ。さすれば、城主としてそのまま城に残す』
送り主は、もちろんヴァーゼルである。
そして、コーゼル達を威圧する様にして寝所に居座るのは、闇士ハーレンと豺狼ガルム。彼らは本殿を取り囲む部隊に紛れて、堂々と城の正門から侵入を果たしていたのであった。
「む、無条件でだと!? なななな、何を勝手なことを……」
「飲めぬというのであれば……まずは、その妾を引き裂くことに致します」
「ひ、ひぃぃいいいいっ!?」
そんな悲鳴を上げた妾は、恐怖に耐え切れずに失神してしまった。
「ままま、まてっ! こ、この妾が何をしたと……」
「……貴方様がこの寝所に引き籠ったまま、御主君の下にも出仕せず、領内の政務すら怠っているのは、その妾のせいだと聞いておりますゆえ」
闇士ハーレンは、このトラス城市について、ありとあらゆることを調べ尽くしていた。
コーゼルは、フォントーラ家の当主となった御礼にと摂政家に赴き、その宴の席で妖艶な舞を披露していた白拍子であった妾を見染め連れて帰って以来、この妾にすっかり骨抜きにされてしまっていた。
おそらく、これも摂政家の策略の一つであり、見事にコーゼルはその美人局に引っ掛かったわけである。
先代の南領公が討たれたのも、コーゼルが出仕せず、精強を誇るフォントーラ軍が飼い殺しとなっていたことも大きな要因であった。
どの道、ヴァーゼルはこの妾をこのまま放置するつもりはない。
いかに美しかろうとも、毒婦は存在するだけで国を危うくする。この妾は、まさにそういう女であった。
一方、本殿の外ではトラス城内の家臣同士が睨み合っていた。
本殿を取り囲んだ兵達を率いていた将ドルガン・ユヴァーグは妹をヴァーゼルの側室としており、その妹の産んだ男子を養子に迎えていたフォントーラ家の一族衆でもある。
そんなドルガンが、今まで大人しくコーゼルに従っていたのは、この様な時の為でもあった。
フォントーラ家の主君、南領公家が再興の旗印を掲げたにも拘わらず、摂政家と天秤にかけて、日和見を図ろうとする当主コーゼルに愛想を尽かした兵が反乱を起こしたりする前に、ドルガン自身が決起する為だ。
トラス城内のフォントーラ家の家臣達は、当主一家を人質に取られた形となり、ただ、その成り行きを眺めるしかなかった。
そんな騒ぎの中、ヴァーゼルの母、ミレールの兄であるディオルグ・マトーラが駆けつけてきた。
「お主等は一体、何をしておるのじゃ!? まさか、御当主を人質にこの城を敵に明け渡そうというのかっ!?」
「ディオルグ殿。敵とは一体、誰のことを指すのです? 三年前、南領公を討った摂政家ですかな? それともガイゼル卿に手を掛けた南領公家のことですかな? まさか、この城に向かってきているヴァーゼル殿とは言いますまいな……?」
武装した兵士の中から一歩進み出てきたのは、壮年の武人ドルガン・ユヴァーグその人である。
本殿での異変にとりあえず武器を手にして集まった郎党達も、ドルガンの言葉を聞き、大いに動揺しているのが伝わってくる。
このトラス城内では、けっして、そのことには触れてはならぬと、暗黙の了解にされていたからだ。
「それは……口にしてはならぬのじゃ、ドルガンよ」
「この城の老人は皆、そう言って現状の異常さに目を瞑ってきた。その結果がこの体たらく。今、我等を排除したところで、この本殿の中で妾と引き籠っている愚か者のことを、誰が本気で当主と認めようか!?」
悲痛な声のディオルグに対し、ドルガンは達観した顔でその言を跳ね除けた。
「……しかし、先代アイゼル殿も、ヴァーゼル殿も納得してこの城を出ていかれたのではないか。今更、家臣である我等がそれを蒸し返して何とする?」
「全てはフォントーラの家名を守る為……。ならば尚のこと、何故に、主家からの参戦要請に答えぬのだ? 当主が病床にあるからか!?」
ドルガンの言っていることは、誰もが感じていた不満であり、不安でもあった。
主家である南領公を見殺しにし、かと言って摂政家に鞍替えを表明したわけでもない。
ただ、じっと周囲の喧騒の中、何もせず日和見を決め込むことが、武家の名門と謳われたフォントーラ家が為すべきことであるのかと。
「……ここで我等が手を下さなくても、そのうち、他の誰かが必ずことを起こす。その時は、この城内一面に我等フォントーラ一族が鍛えあげた兵達の骸が、空しく転がるのかも知れぬのだ。ディアルグ殿!!」
そのドルガンの叫びに、ディアルグ周囲の郎党達にはもう、ドルガンの兵と戦う意志など残っていなかった。
「宿老殿……いかがなされるのです」
「我等は、誇り高きフォントーラ家の武人でありたい……」
「このまま、今の御当主に命を捧げたいとは、誰一人として思っておりませぬ!」
郎党達は皆、手にした武器を投げ捨てると、ディオルグを取り囲む様にして膝を付いていた。
「お前達には、解っておらぬのだ。摂政家の本当の力も、その恐ろしさも……」
そう言ってディアルグは、肩を落としてその場にしゃがみこんだ。
幼少の頃に仰ぎ見たガイゼル卿の雄姿も、今は遠い昔の夢……。
ガイゼル卿亡き後のフォントーラ家の混乱と、一族の分裂。
フォントーラの名を冠する城市も、今は摂政家の支配下にある。
それでも、あの頃の自分達には確かに志があった。
正統なるガイゼル卿の志を継ぐフォントーラの家を再興するのだと……。
若くして跡目を継いだアイゼルに従い、摂政家の勢力下にあったこのトラス城市を奪ったのが、およそ四十年前のこと。
以来、ディアルグは、このフォントーラ家第一の将として、支え続けてきたはずだった……。
しかし、今の自分にはもう、この事態を収める力もそんな気力も残ってはいないのだと思い知らされた。
「(ワシの人生とは、何だったのか? 一体、何の為の戦いであったのだろうか)」
悄然とするディアルグのその問いに応えてくれる者など、どこにもいない。
ただ、虚しい現実が目前にあるだけであった。
「……好きにしろ。ワシはもう疲れた」
ディアルグは、それだけ言うと、その場で大の字となって寝転んだ。
視界には、一面の青い空。西の彼方に夏雲が遠ざかっていくのを、ディアルグはただ眺め続けた……。
トラス城内の混乱が収まったのは、翌日の朝になってのこと。
夜通し、家中の主だった者で合議が行われた結果、ヴァーゼルの申し出通り、無条件で城を明け渡すことに決した。
当主コーゼルとその妻子は、本殿から宿老ディオルグの館へと移され、妾は領内の修道院へと送られた。
その処分に反対する者は居らず、コーゼルの妻子等も黙って、その合議の決定に従ってくれた。夫であるコーゼルの近年の所業には、妻子も鬱憤やるかたない思いが溜まっていたのである。
城内の要所は、一時的にユヴァーグ家の管理下に置かれた。
そうしてその日の正午、予定通りヴァーゼル隊はトラス城市に無血入城を果たす。
城市内では、先日の城内での騒ぎなど知らぬ市民達が、ヴァーゼルの帰還を一目見ようと沿道に並び歓声を上げていた。
「流石は殿。此度の見事な諜略、このカゼル感服いたしました」
「馬鹿者。気を抜くでない。こういう時こそ、刺客が潜んでいるかも知れぬのだぞ?」
思いもしなかったことを注意され、カゼルは慌てて周囲の気を探る。
幸い、怪しげな風体の者はいなかったが、もし自分が狙われていたら危うかったに違いない。
父ヴァーゼルは、この様な時にも、周囲に万全の注意を払っているのだと知らされた。それだけ、摂政家から脅威として怖れられているのだ。
沿道からの声に笑顔で応えていたリーゼルも、今の父ヴァーゼルの言葉を聞き、僅かにその美しい顔を強張らせる。
そうこうする内に、ヴァーゼル隊はトラス本城内への入城を無事に終えた。
城内では、今回の作戦の立役者であったドルガンと、養子である副将のソーゼルが拝礼のままヴァーゼル達を出迎えた。
「二人共、顔を上げよ。見事な手際であったな、ドルガンよ」
「何、全ては兄者の采配に従ったまでのこと。褒めるなら、このソーゼルを褒めてやって下され」
ドルガンはそう言って立ち上がると、養子のソーゼルをヴァーゼルの前に一歩進ませた。
「すっかり見違えたな、ソーゼルよ。見事に初陣を飾ったな」
「は、はいっ! 有難き幸せに!!」
緊張した面持ちであったソーゼルは、父ヴァーゼルから優しく慰労の言葉を掛けられると、思わず涙を浮かべて喜んでいた。
幼少の頃にユヴァーグ家に出されて以来、年始の挨拶くらいしか父ヴァーゼルとは顔を併せることが出来なかったソーゼルは、義父や義母、実家に戻った母から、毎日の様にヴァーゼルの話を聞かされて育ってきた。
それが、こうして敬愛する父から初陣の働きを褒められたのだから、感極まるのも無理はない。
「おお、若君や姫君も御一緒とは! 若かりし頃の我等のことを思い出しますな」
ドルガンはそう言って、嬉しそうに嫡男クーヴェルを始め、カゼルやリーゼルを歓待する様に両手を広げて出迎えた。
「お久しぶりです、ドルガン殿。ソーゼルも元気そうだな」
兄弟を代表する様に兄クーヴェルがドルガン、そしてソーゼルと握手を交わしていく。
そんな中、ソーゼルはカゼルの姿を認めると、その表情を急に曇らせた。
「……では、私は一旦、兵達のところに戻ります。義父上はどうぞ殿の御案内を」
そう言い残し、ソーゼルは、カゼルには目もくれずに足早に立ち去っていく。
「はは、すみませぬ。どうも気真面目に育てすぎた様でして……」
「アレが気真面目なのは、生まれついてのものだ。お主が気にすることはない」
すまなそうにソーゼルを見送るドルガンに、ヴァーゼルが声を掛けた。
今の言葉はドルガンではなく、カゼルに向けられたもの……それに気付いたカゼルは、父に向けて静かに一礼をする。
ソーゼルの、カゼルに対する態度は今に始まったことではない。
それがソーゼルにとって、どうしようもない感情であることも知っていた。
ソーゼルも他の兄弟同様、中原に比類なき忠義を持つ武人の鏡として称えられた父ヴァーゼルの姿に、強い憧れを抱いている。
兄クーヴェルは長兄であり、やがてヴァーゼルの後を継ぐ嫡子でもある。だから仕方ない。それは、自然と諦めがついた。
しかし、カゼルは違う……。
同い年であり、自分の方が先に生まれたのに側室の子であったが為、自分が弟とされた。
カゼルには兄クーヴェルに次ぐ継承権を与えられ、養子に出された自分は、物心つく前にその権利を失っていた。
母エレノアは、フォントーラ家の分家、ユヴァーグ家の出身であり、けっして卑しい身分などではない。
しかし、ソーゼルが養子に出されると、同時に母エレノアも、ソーゼルの養育を理由にこの城を出ることになった。
今でも、母エレノアは、夫ヴァーゼルのことを慕っている。
それどころか、離れてから十年も経つというのに未だに恋焦がれ、時折一人で涙を流しているのだ。
たとえ、継室に迎えられたコーラルが南領公麾下の諸侯レイアン伯の娘であったとしても、カゼルさえ生まれてこなければ、自分や母が城を出ることはなかったのだ。
今でもソーゼルは、何故、自分だけ父の下で暮らせなかったのかと思っている。
そして美しい姉リーゼルが、まるでカゼルを守るかの様に、片時も傍を離れようとしないことにも苛立っていた。
「(どうしてアイツだけが、全てを持っているのだ……!)」
ソーゼルは、そんな目でカゼルを見ていたことをある時、母エレノアに強く窘められた。その時の母エレノアは泣いていた。
『貴方がそうなるくらいなら、母は死にまする』
醜い嫉妬で、我が子の心がねじ曲がっていくことは耐えられないと……。
それ以来ソーゼルは、カゼルや姉妹と顔を会わせる機会があっても、近寄らなくなった。カゼルやリーゼルが父や祖父と楽しそうに話していると、その場から逃げ出す様に遠ざかった。
そんな少年時代を送ってきたソーゼルに、カゼルを快く思わぬのを責めるのは、酷というものであろう。
周囲の大人達は、そのことを暗黙の了解とし、また実母を亡くして寂しい思いをしているであろうクーヴェルと併せて、同情する者が自然と増えていった。
その裏返しに城の大人達からは唯一、カゼルだけが白い目で見られる様になった。
姉のリーゼルがそれに気付き、常にカゼルの傍にいる様になったのもその頃からのことである。
「(ソーゼルは、まだカゼルのことを恨んでいる……)」
足早に立ち去っていくソーゼルとすれ違った瞬間、リーゼルはそう感じていた。
そんなソーゼルと入れ違う様にして、ヴァーゼルの下へと姿を現したのは、闇士ハーレンと豺狼ガルム。
「おお、ハーレン。此度も見事であったな」
「……御報告が一つ。御客人と思しき御仁をお連れしました」
「何、客人だと?」
ヴァーゼルの郎党に連れてこられた二人の若者の顔を見たカゼルとリーゼルが、同時に声を上げた。
「ラウロス! それにドラートも!?」
「どうして二人共、こんなところに!?」
いつもの様に、頭を掻きながら歩いてくるラウロスと、物珍しそうに周囲に目をやるドラートの姿がそこにあった。
「やあ、御両人。お久しぶり」
「どうしてって……そりゃ、こっちが聞きたい話だわ」
カゼルとリーゼルが二人を出迎える様にして前に出ると、周囲の郎党達は一歩、後ろに下がった。
「ほう? 二人はカゼル達の学友であったな。アルトナー家の御子弟だったか」
声を掛けてきた武人がヴァーゼル・フォントーラであると気付いた二人は、流石に緊張した顔で拝礼をする。
「顔を上げられよ、御客人。家臣が無礼をした様で済まなかったな」
ヴァーゼルは、そう言って面白そうに、この二人の珍客を眺めるのであった。
* * *
ヴァーゼル隊がトラス城市に入城していた頃、隣領アルトナー城市の当主ガロス・アルトナー伯は、家臣一同を集めて軍議の真っ只中にあった。
争点はもちろん、摂政家と南領公家のどちらに着くかである。
しかし、軍議を始めた途端、延々と激しい言い争いが続くばかりで一向に決着が着かず、皆、疲れ果てた顔をしていた。
現状のアルトナー家を始めとする南領公麾下の諸侯は、帰属の変更を強制されてはいなかった。それには、この中原帝国に割拠する複数の陣営に、次の様な経緯があった為である。
三年前、南領公家の当主を奇襲で討ち取り、その本拠地ブリアス城を奪った摂政ボーグタス家だが、なぜかそれ以上の侵攻は行わなかった。
実は、したくても出来ない大きな理由があったのだ。
摂政家の西隣に位置し、同盟国である大藩王リュウブラン家に御家騒動が起こった為である。
今まで摂政家が、東に隣接する南領公家や北に隣接する西藩王家と戦ってこれたのも、全ては強固な同盟関係を結んでいた大藩王家があったからに他ならない。
摂政家としては、当然その御家騒動を見過ごす訳には行かなかった。
広大な版図を持つ大藩王家が分裂に至った経緯は、こうである。
名君と呼ばれた大藩王ロベール・リュウブランの亡き後、三年も経たぬ内に、後を継いだ嫡男、そして補佐役の次男がほぼ同時に亡くなるという悲劇に見舞われてしまったのだ。
その結果、正室の末子と側室の子である庶兄による後継者争いが勃発。
両者にはそれぞれ支持する有力諸侯が付き、抗争の拡大と共に、当初は傍観していたその他の諸侯等も次々と参戦した。
摂政ジルヴァ・ボーグタスがようやく帰還した頃、すでに大藩王家の分裂は決定的となっており、最早、仲裁出来る状態になかったのである。
摂政家はやむなく縁のあった庶兄側を支援するも、巧みな作戦を展開した末子側により、摂政家の援軍が到達する前に、庶兄は討ち取られてしまう。
摂政家は、中原の中央部への進出という絶好の機会を逃しただけでなく、後背の大藩王家をも敵に回したことになり、踏んだり蹴ったりの結末となってしまったのだ。
これに落胆したのか、高齢であった摂政ジルヴァは病に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまう。
ヴァーゼルは、闇士ハーレンを始めとする密偵を使ってこの情報を正確に掴んでおり、絶好の機会として此度の旗揚げに至った訳である。
ヴァーゼル隊が出陣したとの報が、隣領のアルトナー家に入ったのは昨日の夜のこと。
戦力は三千と見られ、堅固なトラス城市を落とすのはいかにヴァーゼルが名将であろうとも無理な話であると、アルトナー家の面々は考えていた。
おそらくこのアルトナー家の協力を仰ぐ為、進路からもそう外れていないこの城に立ち寄り、合流してトラス城市の包囲するというのが妥当な作戦であると。
南領公家から来た参陣要請には、火急の為、出陣は遅れるが必ず参陣するとだけ伝えてある。
しかし、このアルトナー家は、未だにその去就を迷っていたのである。
ヴァーゼル隊が到着するまでは、早くともあと二日。それまでにどちらの陣営に着くかを決めねばならぬと言うのに、当主ガロス自身の考えは、実はそのどちらでもなかったのだ。
「……であるからして、摂政家を討つのは、今を置いて他に無いではないか!」
延々と続く話し合いの中、一人、気を吐いているのは、当主ガロスの弟ドラス・アルトナー。家中で南領公家を支持する筆頭であり、武闘派でもある。
「そうは言っても、摂政家が戦いに敗れた訳ではない。中原最強と言われる軍団は無傷のまま! 対する南領公家は、現状フォントーラ軍以外、寄せ集めの様なものではないか!!」
一方、摂政家を支持する筆頭は、同じく当主ガロスの弟でもあり、摂政家と縁の深い名家に養子入りをしていたこともある庶兄トルス・マールロウ。養子縁組をしたはずのマールロウ家の家臣団と衝突し、今は実家に出戻りとなって仕方なく弟のガロスに仕える身となっている。
彼ら二人の言い分は共に筋が通っており、余計に結論が出そうにない。
かれこれ、三刻は延々と平行せんのままであり、終いには直接関係のない以前の戦いに話を遡ってまで、この論争は続いた。
「……二人共、一旦その話は置いておけ! もう夕刻もとっくに過ぎておる。このまま続けてもどうせ結論は出ぬ。ならば、皆、一晩持ち帰ってよく考えるが良い。明日中に結論が出ないのであれば、あとはワシが裁決する。良いな?」
疲れた顔で当主ガロスがそう告げると、家臣達は皆、心なしかほっとした表情となる。
当主を始め、主だった家臣に軍議を続ける意志がないことを悟ってか、トルス、ドラス兄弟もそれに従い、その日の軍議は閉幕した。
自分の屋敷に戻ったドラスは憤然としたまま出汁のない湯漬けをかき込むと、そのまま寝所に入って寝ころんだ。
「まったく面白くない。我がアルトナー家もフォントーラ家に劣らぬ武門の家。なのに、毎度こうして無為な時を過ごし、何もせずに事が終わる……」
ドラスは、ヴァーゼルが羨ましくて仕方なかった。
ヴァーゼルは動くべき時は瞬時に動き、一気に片を付ける。
当主になった訳でもないのに、常にそれが許され、この中原に名を馳せてきた。
自分だって、似た様な立場であるのに、それが許されることはなかった。
「……こんなことなら、いっそオレが養子に行けば良かった」
今日の軍議で延々と言い争った庶兄のトルスは、マールロウ家を追い出された身とはいえ、それを哀れんだ兄ガロスから分家を認められており、一千の兵を保有している。
その気になれば、自分だけでも軍を動かすことが出来るのに、あの庶兄はそれをやろうとはしない。
常に、一族の長である兄ガロスの顔色を窺っているのだ。
だから、余計に腹が立つ。
そんな兄ガロスは、最初から自分が決議するつもりで、だらだらと軍議をさせているのが見え見えなのだ。明日の夕方にはきっと、こう言うに違いない。
『……此度の戦、どちらが勝つかは分からぬ。よって、勝ちそうになった方に加勢するぞ!』
それは、このアルトナー家がまた何もしないで終わるというのと同じことだ。かと言って、自分が兄や庶兄を討って当主になる気もない。
それはドラスの憧れる、ガイゼル卿の志にも反することであるからだ。
おまけに兄ガロスは、あれで不思議と憎めないところがあり、家臣からの人望もそこそこにはある。
それに反して、自分には武名はあっても融通が利かず、人望はあっても兄ほどの政治力がない。仮に強引に当主となったところで、家臣団が分裂するだけであり、アルトナー家の為にはならない……
「くそっ! こんな時に、奴がいてくれれば……」
ドラスは、ふと、我が子ラウロスの顔を思い浮かべた。
いつも飄々としていながら、時折、不意に妙案を口走ったりする。
正直、武人の腕前としては少々頼りないが五千、いや一万ほどの軍を与えたら見事な用兵を見せるに違いない。これでも、自分の見る目は確かだと自負している。
そう思って、わざわざ高い入学金を払って学院へ送り込んだのはいいが、こんな肝心な時にいない。
「(オレには、ツキというものがないのだろうか……)」
ふと、部屋の外を眺めると煌々とした月が赤みを帯びて見えていた。
翌日も、朝からアルトナー城内では軍議が開かれていた。
昨日と違い、南領公派筆頭のドラスは不機嫌そうな顔のまま、当主ガロスや庶兄トルスを睨みつけるばかりで、自分からは発言しようとはしなかった。
かと言って、摂政派筆頭の庶兄トルスが摂政側に組する利点を上げようとする度に、決まってこう言うのだ。
「……そんなに摂政家がいいのなら、兄者だけでそっちに着けばいいだけの話だ」
トルスは顔を真っ赤にして詰め寄ろうとするも、ドラスが鋭い睨みを利かせると、途端に顔を青ざめて大人しくなる。
ドラスは家中一の武人であり、華美な貴族主義に憧れ、家名だけ立派な家の養子となったトルスとでは、戦う前から勝負は見えている。
両者の間を宥める様に仲裁役を買って出ているのは、当主ガロスの末弟テオーズである。
テオーズは、兄ガロスに似て事なかれ主義なところがあり、いつもこういう役回りをしていた。
損な役回りに見えて、自分は何に対しても責任を取る立場には、決して立とうとはしない小心者で、戦の時はいつも留守役になりたがる。
自分の世代の兄弟は、揃いも揃ってこんな連中ばかりであり、一人くらいマシな者がいなかったものかとドラスは、腹立たし気に頬杖をつく。
ドラスがアルトナー家を代表して、帝国学院に入学したのはもう二十年以上も前のこと。
同期の筆頭であったヴァーゼルは別格にしても、他家の子弟達だって、もう少しマシだった様に思える。
ここにいる連中は、あの頃の自分達が、こうは成りたくないと嘆いていた大人の姿そのものだった。
先代の頃には南領公家麾下の武家の名門として、フォントーラ家と双璧の様に語られていたこのアルトナー家が、今では何の志を持たず、只々家名の存続だけを願う凡庸な家になってしまっている。
ドラスには、それが情けなくて溜息しか出てこない。
「……少し早いようだが、各々、もう議論は出尽くした様にみえる」
正午も過ぎてから、ざわざわと個人的な談義しか行わなくなった家臣達の様子を見て、当主ガロスはここぞとばかりに、自分の意見を発表しようと切り出した。
ちらりとドラスの様子を窺うが、頬杖を付いたままドラスはガロスの方を見ようともしない。
「(どうせ、大仰な言葉を使って、日和見するって言うだけだろうが……)」
結局、こうなったかとドラスはこの大事な数日間を無為に費やしたことを、心底馬鹿馬鹿しく感じていた。
当主ガロスが立ち上がり、自分の意見を述べようとしたその瞬間、一人の郎党が駆け込んできた!
「何事かっ! 今は軍議中であるぞ!!」
「た、大変です! トラス城市には、すでにヴァーゼル隊が入城し、南領公家の旗が立てられたとのこと!!」
「何だとっ!? それは真の話か!!」
「先ほど、戻ってきた物見からの報告です!」
夜通し馬を走らせてきたのか、その郎党に抱えられた物見は言葉を発することも出来ず、ぜぇぜぇと荒い息を吐いている。
昨日から一向に進展しない軍議にだれていたアルトナー家の家臣達は、この突然の報に驚愕した。
そもそも、ヴァーゼル隊の出陣の報が届いてから、まだ三日も経っていない。
アルトナー家が考えていた展開と、まるで話が違ったのである。
「馬鹿め! 何故、もっと早く知らせぬのだ!!」
命懸けで戻ってきたであろう物見に対して当主ガロスは激昂するが、即座にそれを超える大音声に遮られた。
「兄者、物見の姿をよく見てみろ!! その者が全力を尽くしてないと、誰が思うか!!」
次の瞬間、この間にいた者全員が、目を丸くする出来事が起こっていた。
遂に堪忍袋の尾を切らしたドラスが、当主ガロスの首根っこを掴み、吊し上げていたのである。
「部下の忠節を無にする者など、我が家の当主とは……」
それ以上言わせまいと、二人の兄弟が必死に押しとどめる。
「わ、わかったっ! いぃぃ、今のはワシが悪かったっ!!」
「ドラスっ、それ以上はいかん!」
「と、とにかく、一度冷静に……」
その光景に、家臣達は青ざめた顔で総立ちとなる。
ドラスは、ふんっと鼻息を荒げたままに、ようやく当主ガロスの首から手を離すと物見の方に振り返った。
「良くぞ、そこまでして知らせてくれた。お主こそ我がアルトナー家の忠臣だ!」
ドラスのその言葉を聞き、ようやく気が抜けたのか、物見の者は崩れる様にして気を失った。
何人かの郎党が、物見の者を抱える様にして外へと運んでいく。
「そ、それで、あの……」
物見を連れてきた郎党が、決まり悪そうに言葉を濁す。
「まだ、何か!?」
「たった今、フォントーラ家からの御使者が到着しました……」
「な、なんだとっ!?」
立て続けの報に驚くアルトナー家臣団の前に現れたのは、学院に行っていたはずのラウロスと、その従士ドラート。更に、その二人に案内される様にしてやってきたのは、カゼルとリーゼルであった。
「おい、ラウロスよ。どうしてお前がここに!?」
驚く父ドラスや家臣団を前に、少し、決まり悪そうに頭を掻きながらラウロスが答えた。
「あ~~~話せば長くなるので、まずはこちらの御二人の紹介を。我が学友で、ヴァーゼル殿の御子息であられるカゼル殿と、その姉のリーゼル姫に……」
あまりの驚きに、その場にいた者全員が言葉を失っていた。
「ここに、南領公軍帥将ヴァーゼルからの親書を持って参りました。そしてトラス城市領主の御方様、ミウス様よりの書簡もお預かりしてきております」
「な、何? 我が妹ミウスからの書簡もだと……?」
カゼルは、当主ガロスの前まで歩みを進めると、片膝を付き、左手は背中で拳を握り、顔を上げたままの姿勢でヴァーゼルの親書、次いでミウスからの書簡を差し出すと、一礼の姿勢を取った。
その若さで使者の経験などなかろうに……見事な立ち振る舞いを見せるカゼルと、その横でカゼルに習う様にして諸侯に対する礼をとるリーゼルの美しさに、一同は思わず溜息を付く。
一瞬、魅入られた様にして固まった当主ガロスは、その背中を末弟のテオーズに小突かれ、ようやく我を取り戻してカゼルの手から書簡を受け取った。
「よ、良くぞ参られた。いやいや、流石はヴァーゼル殿の御子息と姫君だ。書簡は確かに受け取った。実は今、丁度この軍議の場で、出陣の号令を出さんとしていたところでな……」
「一応、失礼ながらお聞きいたしますが、どちらに対しての御出陣で?」
リーゼルが真顔のまま、意地悪にも思える質問を投げかける。
「む、無論、ブリアス公の御為に一働きせんとな……ヴァーゼル殿もお人が悪い。我がアルトナー家にも一声かけて下されば、すぐにでも駆けつけたというのに……なあっ?」
当主ガロスのその言葉に、蒼白となった家臣団一同も首を揃えて頷く。
ただ一人ドラスだけは、そのあまりの調子良さに吹き出しそうになるのを堪え、無理矢理怒った様な顔のまま、当主ガロスのことを睨みつけるのであった。
カゼル達は、ヴァーゼルの親書を渡した後、半刻とたたずにガロス伯からの返書を受け取り、その足で再びトラス城市へと向かっていた。
ガロス伯はカゼル達を引き留めようと、一晩だけでも歓待させて欲しいと申し出てきたが、カゼル達はそれを丁重に辞退した。
すると、今度はせめて返礼としてアルトナー家からの使者を同行させたいと言うので、そちらの方は快く受け入れることにしたのだ。
要するに、必ず参陣する証として、人質を送りつけてきたという訳だ。
その人質に選ばれたのは、当主の甥であるラウロスと従士ドラート。そして、なんと当主自らの嫡男であるヴァイス・アルトナーまで同行させてきた。
トラス城市が落ちた今、このアルトナー城市は、海原に浮かぶ孤島の様なものである。
たとえ、カゼル達を人質にしてもヴァーゼルは一切躊躇せず、この城を包囲することだろう。どこからの援軍も期待出来ぬとあっては、籠城する意味もない。
咄嗟に調子を合わせただけとはいえ、アルトナー家の当主ガロスも、流石にそれくらいは察していたのである。
また、コーゼル正室である妹のミウスからの書簡には、当主コーゼルのこれまでの乱行が色々と書き連ねてあった。
内紛寸前であった家中を正し、正室である自分や子を丁重に扱ってくれて、更に望むならアルトナー家の去就に拘わらず、実家に帰してくれると言うのだ。
このヴァーゼルの計らいには、流石のガロス伯も心に響くものがあったらしい。
それだけに、日和見を図ろうとしていたガロス伯には気まずいものがあり、僅かであろうとも、ヴァーゼルの心象を良くしたいと必死であった。
「いやぁ~、しかしなんだね。君のところの密偵……闇士って言うんだっけ? 彼は凄かったね」
そう言ってラウロスは、ゆっくりと馬で併走するカゼルに顔を向けた。
ラウロス達は気付いてはいないが、実は闇士ハーレンと豺狼ガルムは、万が一、アルトナー家がカゼル達を捕縛しようとした場合に備えて、アルトナー城市に潜入していたのだ。
出来ればアルトナー家には、味方であって欲しいと願っていたカゼルは、何事もなく済んだことを素直に喜んでいた。
「……彼等のことは、ここだけの話として欲しい。一応、我がフォントーラ家でも秘中の秘伝とされているのでね」
「了解……君の家とは仲良くしていたいから、忘れておくことにするよ」
「そう言って貰えると、助かる」
ラウロスとドラートの二人が闇士ハーレンに発見されたのは、丁度ヴァーゼル隊がトラス城市に入城している頃……。
学院を出た後、二人は摂政家の追手を警戒して不慣れな山野に入り込み、丸一日迷った挙句、どうにか街道に出れたと思ったらそこがトラス城市のすぐ近くだったという訳だ。
「誰かさんが、方角は合っているはずだとか、いい加減なこというから」
従士ドラートは、トラス城で再会して以来、ずっとこんな調子である。
不意を突かれたとはいえ、まったく手も足も出ず、闇士ハーレンによって捕えられたことに、少なからず自尊心を傷つけられていた。
「二人共、怪我をしていなくて安心したよ。何せ、彼らに狙われたらよほどの達人でもないと勝負にはならないから……特に、山野や森の中、闇夜ではね」
そう、例えばあの人……剣聖リックハルドであるならば、たとえ闇士ハーレンと豺狼ガルムであっても、返り討ちにしてしまうに違いない。
それは、両者の腕前を直に体験したことのあるカゼルだけにしか、分からぬこと……。
「しっかし、ラウロス殿も大変ですな~。せっかく無事に帰れたというのに、休む間もなくこれですからなぁ」
「いやいや、これでアルトナー家の不手際が、少しでも大目に見て貰えるなら安いものですよ」
カゼルに付き従うラウグは、従士であるドラートが主人であるラウロスに乱暴な口調であることに驚いたが、それはお互い様であり、すぐに彼らと打ち解けることが出来た。
「それより、そちらの嫡子殿……あれって、どうなんでしょうね?」
ラウグがそう言って後方を振り返ると、アルトナー家の嫡男ヴァイスとリーゼルが並ぶ様にして駒を進めていた。
特に会話が弾んでいる様には見えないが、少なくともヴァイスがリーゼルに大変御執心であることだけは、誰の目にも明らかであった。
リーゼルに軽くあしらわれても、憤慨するどころか一旦しょげてはまた気を取り直して、懸命に話しかけている。
姉の気性を良く知るカゼルは、そんなヴァイスに同情すると同時に、つまらぬことを気にしていた。
もし、アルトナー家から嫡男ヴァイスの正室にとリーゼルが求婚された場合、父ヴァーゼルはどう答えるのであろうかと……。
現当主のガロスやその兄弟が頼りなくとも、武名を馳せるドラスや、その息子でありカゼルの友人ラウロス、ゆくゆくは重臣となるであろうドラートと、次世代の面子は悪くない。
父ヴァーゼルも、有力な元南領公貴下の諸侯として、アルトナー家は今後の為にも誼を結んでおきたいと考えているに違いない。
しかし、人質として赴くのが分かり切っているのに嬉々としてそれを引き受けたヴァイスは、あのお調子者の父親にしてこの子ありという感じで、どうにも頼りなく感じてしまう。
そんなヴァイスが自分の義兄になったらと思うと、カゼルは釈然としない気持ちになるのであった……。
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