第3話旗揚げ
『三道三志の試し』から、三日過ぎた早朝のこと。
帝国学院を占拠していた黒獅軍の騎馬隊を指揮するアイヴァン・ファーロスの元に、父である黒獅軍大将イヴァンからの伝令が合流していた。
「アイヴァン殿、これはどうしたことか」
「ハイドン、
「逃げられたのか、フォントーラの子に……」
ハイドンと呼ばれた伝令の将校は、悔しそうに手にした鞭を学院の柱に叩きつけた。
「徒労をさせてすまなかった。残念ながら、我らに盾突く諸侯らの子弟にも逃げられてしまった」
「なんと、それでは人質もなしか?」
自嘲の笑みを浮かべるアイヴァンに、自分のことのようにハイドンは悔しがる。
「モルグがいながら、どうしてそんなことに……彼奴は一体、何をしていたのだっ!?」
「ヤツなら、学院の病室で転がっている。例の若造に、一刀の元に打ち倒されたのだそうだ……」
「バカな……いくら神気が使えんとはいえ、モルグはハルトナーグ神殿にて槍士の免状を許された男だぞっ!?」
並みの武人では入門することすら許されぬ武術の本場で、得意の獲物の達人として認められた『士』の免状を持つことは、それだけでどの諸侯家だろうと諸手を挙げて師範として迎え入れてくれるだけの腕前の証明となる。
信じられぬという顔のハイドンに、アイヴァンは馬を並べて学院の中へと誘導する。
「……並どころではないぞ、ハイドン。何しろ、相手は先日の『三道三志の試し』で『最良』と取ったフォントーラの子なのだから」
アイヴァンは、まるで他人事のように淡々と、驚く同僚にそう語りながら歩きだす。
「まだ、彼奴は二十と聞く。第二のヴァーゼルとなる前に、何としても打ち果たしてやりたかったのだが……」
「討手は出したのかっ?」
「出したよ。全員、返り討ちにされたがね……」
ハイドンは、「うむむ」と唸るとそのまま黙り込んでしまった。
一番悔しいのは、それをみすみす逃してしまったアイヴァンの方だ。
もし、自分が指揮官でなければ、この手で討ち果たしてやったものをと……
「(次は逃さん……必ず、その首を挙げて見せよう……)」
アイヴァンは、その気持ちをぐっと堪えると、ハイドンから受け取った父の伝文を持って学長室へと向かった。
この帝国学院を、正式に閉校とする旨を伝える為である。
一方、アイヴァンの騎馬隊とは別の集団が、学院の裏手を慎重な足取りで歩いていた。
皆、狩人の様な身なりをしているが、野兎を見ても弓を構えず、ひたすら何かを探している。
中でも、彼らの主である痩身の男は一際鋭い眼光を持ち、只者ではない雰囲気を感じさせていた。
「ありました。こちらです」
その男が部下に案内された場所は、一見、何の変哲もない地面。
地面がむき出しになっている以外は、周囲と何ら変わりなく、この小高い丘ではありふれた光景だ。
無論、見る者が見れば不自然に思える箇所が一つある。
それは、いくつかの野兎の巣穴が、大小織り交ぜた石で塞がれていたこと。
「この周辺に、妙な花の香りが微かに……」
言われてみれば、この丘に咲く花にはこんなひりつく様な甘い香りを放つものはない。
野兎の巣穴を埋めていた石を取り除くと、そこには乾いた血糊の跡……。
数人がかりでその周辺を掘り出すと、出てきたのはバラバラに千切られた人間の四肢。念入りに首と腰骨が折られて、胴体は小さく丸められていた。
「……間違いありません。我が里の者です」
この学院を監視させていた、老練の小者に間違いない。
痩身の男は頷くと、哀れな死体を大きな桶状の棺に納めさせ、手下に運ばせた。
「この手口、間違いなく『豺狼軍』が来ていたな」
「しかし、こうも容易く人体をばらせるものでしょうか?」
「フォントーラ家には、秘伝とされる
元々は、戦に敗れた武人達が隠れ里に潜み、生きる糧として編み出した裏社会の職である。
中原人との混血も多く、庶民の中にも容易に紛れられることから、中原の諸侯はこぞって彼らの隠れ里の庇護を約束し、自らの耳目として雇う様になった。
中でも、特にフォントーラ家には西方より持ち込んだ秘伝の技があり、それを自らの耳目となる優秀な闇士に伝えることで恐るべき闇士を生み出しているという噂が、まことしやかに伝えられていた。
「あれを見れば、あながち、ただの作り話と一笑に付す訳には参りませぬな」
「消息を絶った烏使い達も、おそらく生きてはいまい」
そんな無情の言葉に、密偵がその瞳に悔しさを滲ませながら返答する。
「……今、そちらの捜索も向かわせています」
「やはり、フォントーラ家を野放しには出来ぬ様だ」
痩身の男は黙って西の空を見上げると、山間から大きな黒雲が顔を出していた。
「一雨来そうですな……」
「嵐が来るならそれでいい。有象無象が流され、生き残った者が新たな天地を司るのだ」
「(無論、それは我が主君、ダルヴァ・ボーグタスでなければ困るのだがな……)」
痩身の男は、それを口に出さずに不敵な笑みを浮かべる。
「戻るぞ」
その号令を発すると同時に、痩身の男は風を巻いて駆けだした。
もうじき、この小高い丘の上にも、強い雨がやってくる。
忌まわしき血糊の跡も、ひりつく様な花の香りも、全て洗い流されるのだ……。
* * *
カゼル一向が山野を駆けて、父ヴァーゼルのいるトゥアルグ城市に入ったのは、それから二日後のこと。
「もう、こんなに兵隊が集まっているのね……」
いかに乱世と言っても、専業の戦闘員は実のところ、それほど多くはない。
例えば、一千人の里を領地に持つ領主がいたとする。
その領主が召し抱える直臣である『郎党』は、二人ないし、三人。一般的には、その領主の縁者や配偶者の一族から選び出された男子である。
男子がいない場合は、女子であっても選ばれたりもする。
また、その領主が若年だったり女子だったりする場合には、先代から仕える老臣だったり、一族の長老などが老体に鞭打って腹心を務めたりすることが多い。
但し、この乱世の時代となってからは、名のある浪人が郎党として召し抱えられることも珍しくない。
この郎党の下に、『兵士』と呼ばれる専業の戦闘員がそれぞれ五人つく。
それとは別に、領主直属の兵士もおり、こちらは『従士』と呼ばれ、普通の兵士よりも格が高い者として扱われる。
ちなみにカゼルの学友であるドラートは、アルトナー家の子息ラウロスを護衛する従士ということになる。
兵士、そして従士と呼ばれる者達が常備兵であり、一般的には武人と呼ばれる階級の者になる。
そして実際に戦が起きると、この一人の兵士の下に臨時の戦闘員である『兵卒』がそれぞれ五人つく。
臨時とは言っても、戦場では信頼を置かねばならぬ者なので、兵士達は普段から自分が率いる兵卒等の面倒を見てやらねばならない。
大抵は自分の出身の村で、家を継げずに悶々と暮らす三男や四男といった若手を村長から紹介してもらい、戦で死んだらその家族に僅かばかりの慰謝料を支払う。
そうしないと、その村からは新しい兵卒が紹介して貰えなくなるので、一兵卒とは言っても軽々しく見殺しにしたりは出来ないのだ。
こうして、人口一千人の里を治める領主が戦で率いる兵隊の数は、兵士が十~十五人、兵卒が五十~七十五人となる。
もちろん、頻繁に戦が起きる御時勢であり多くの欠員が出る為、実際には兵士・兵卒合わせて五十人にも満たないことが多い。
今、リーゼルが言った兵隊というのは、兵士に率いられて武装した兵卒の小隊を指す。それだけ出陣の時期も近いということだ。
「やはり、父上からのお叱りは覚悟しないといけないな……」
「それは、無用と言われていた『三道三志の試し』を受けたから?」
リーゼルが心配そうにカゼルの表情を伺う。
「まあ、『最良』の評価で合格してるんだし、大丈夫っしょ?」
ラウグがジィドに話を振るが、ジィドは黙したまま先頭を歩く。
「それは関係ないんだ。到着が一日遅いって叱られると思うよ」
カゼルは申し訳なさそうに、そう答えた。
この城内の様子を見るに、おそらく明日中には出陣するに違いない。
万が一、それにも間に合わなかった場合は、参陣を許されないどころか、謹慎を命じられるかも知れない。それほど此度の戦は重要な戦いなのだ。
「まあ、いざとなったらオレ達が取り成しますんで」
「我等が御主君は、お前の軽口で説得出来る様な相手ではないぞ」
「だから、ジィドの旦那も協力しろってぇの!」
ラウグが噛みつく様に抗議したが、ジィドは笑ってそれを受け流す。
父は本当にいい家臣を持った。この二人を見ていると、つくづくそう思える。
「あの子達も一日くらい、ゆっくり里で休めばいいのに」
「彼らは、これからが一番忙しくなるんだ。仕方ないよ」
カゼル達は、このトゥアルグ城市に入る直前にハーレンやガルムと別れていた。
彼等はそのまま、闇士としての仕事に向かったのである。ハーレンは、カゼルと同い年でありながら闇士隊の頭領でもあるのだ。
「もう少し愛想があれば、いい奴なんですがねぇ」
ラウグは、今回の任務で初めてハーレン達のことを知った。
愛想よく何度話しかけたが、結局まともに口を聞いてくれたのは、一言、二言。それも任務に関する必要事項に限られていた。
「彼は、常に我等とは違った厳しい生活の中にその身を置き、鋭敏な感覚を研ぎ澄ませているんだ。愛想などという、心のゆとりはなかなかね……」
「は~。そういうもんですかねぇ~」
カゼルは、学院に赴く三年前にハーレンとガルムに出会っている。
父ヴァーゼルに仕える闇士の頭領の子であり、カゼルの忠実な僕となるべき豺狼ガルムの世話役でもあった。
ちなみに『豺狼』というのは、ガイゼル卿が西方から持ち込んだ大型猟犬と中原の狼を掛け合わせたフォントーラ秘伝の種である。
外見は狼の様でありながら、成獣になると熊ほどの巨躯になり、疾駆する馬よりも早く足場の悪い山野を馳せることが出来、その巨躯から繰り出される爪や牙の一撃は、いとも簡単に鉄の鎧を引き裂く。
また、十分な訓練を積むことにより、主人としての絆を結んだ者だけに、自身への騎乗を許す。
そんなガルムに主人と認められる為に、カゼルは一年ほど山野で寝食を共にしたことがある。その時の世話役がハーレンであったのだ。
「(もう、五年以上も前になるのか……)」
一年間、父母の元を離れて暮らした山野の生活は過酷であり、たった三日で根を上げそうになったことを思い出す。
そんなカゼルは同い年でありながら、その生まれの境遇の違いに驚かされた。
自分もフォントーラの子として、厳しく育てられたと思っていたのだが……ハーレンの置かれた境遇は、尋常でなかった。
けっして失態は許されず、起きている間はもちろん、就寝の間すら修業を自分に課していた。
「そうでないと、自分の価値が下がる」
少年であったハーレンは、事も無げにそう言った。
三年前の別れの朝、一緒に過ごせた時間は一番楽しかったと言ってくれた。
その時、ハーレンが子供の顔で笑っていたと言ったら、ラウグはどんな顔をするだろうか……。
「どしたの? なんか楽しそうな顔しちゃって」
そんなカゼルの微笑に気付いたのか、横を歩くリーゼルが、覗き込む様な仕草を見せる。
「内緒」
「あら。私に内緒だなんて、生意気になっちゃって」
「若君もお年頃なんですよ。姉弟の間であっても隠し事の一つや二つ……ねぇ?」
明らかにラウグは男女の営みのことを示唆しており、ジィドも声を殺して笑っている。
「何、勝手な想像してんのよ!」
ラウグの意味ありげなニヤケ顔に鋭いリーゼルの拳が飛ぶが、ギリギリのところで躱された。
「おおっと、今のは惜しかったですな!」
「まだよっ!」
すかさずリーゼルの足蹴りがラウグの脛を捉えると、鈍い打撃音が炸裂!
奇妙な呻き声を上げてラウグが片足跳びで逃げ出すと、周囲で見ていた兵士達が喝采を上げた。
「気の強いおなごだと思ったら、姫様じゃないのか!?」
「おお、ジィド殿がお傍におられるってことは、やはりフォントーラの姫様に相違無い!」
「流石は姫様、御身足も実にお美しい!」
「ワシも、あの足でなら蹴られても本望じゃな」
「ワシもじゃ!」
「ワシもじゃ!」
「お前達、うるさーーーいっ!!」
リーゼルが顔を真っ赤にして下卑た笑いの兵士達に拳を振り上げると、皆、蜘蛛の子を散らす様にして逃げ出していく。
その調子が可笑しくて他の者達も笑い出すと、その輪はどっと広がりを見せた。
「姫様、お戯れはその辺に。御主君の堪忍袋の尾が切れぬ内に、急がねば」
ジィドが大きな手で口元を隠しながらそう諭すと、憤懣やるかたないリーゼルは怒り顔のまま、ずんずんと先頭を切って歩き出す。
すると、その迫力に気圧されてか、人だかりの中に自然と道が出来た。
もう、父の待つ屋敷はすぐそこである。
カゼルは、叱咤を受ける覚悟を決めると屋敷の門を潜っていった。
屋敷の中庭に通されたカゼル達は、縁側で書を読んでいた父ヴァーゼルの下へと通された。
「一日遅かったな」
三年振りに会う父の第一声が、それだった。
特に怒っている風でもなく、無事に学業を終えてきた二人を労う感じでもない。
「……二人は御苦労だった。今宵は存分にくつろいでおけ」
「ははっ!」
ジィドはヴァーゼルに一礼すると、足早に退出していく。
ラウグの方はというと、何か言いたそうな顔をしていたが、ヴァーゼルが頷いたのを見て納得したのか、立ち去っていく。
その間、カゼルは膝をつき、首を垂れたまま父の言葉を待つ。
堪え切れず、横からリーゼルが不意に口を開いた。
「あ、あの父上! カゼルは立派に……」
「カゼルに科したのは、『三道三志の試し』を受けることではない。それは入学前にも言ったはずだ」
「で、でも……」
「姉上、一日遅れたことは私の判断の誤り。だから……」
カゼルがリーゼルの言葉を遮ると、部屋の奥から別の声が聞こえてきた。
「おお、二人共、戻っておったのか」
ヴァーゼルの父こと、先代当主アイゼル・フォントーラである。
もう六十を過ぎていたが、すこぶる健勝な様子だ。
「……先代。まだ、報告の最中ですぞ」
「もう十分じゃろ。カゼルの神妙さに免じて、その辺で許してやれ」
アイゼルは、ヴァーゼルからの返事を待たずに縁側から降りると中庭で膝を付くカゼルとリーゼルを立ち上がらせた。
「お爺様も、お元気そうで」
リーゼルが嬉しそうに抱き付くと、アイゼルは好々爺の顔で応じる。
「おお、見違えたぞリーゼル! また、一段と美しくなったのではないか」
「お爺様ったら、お上手なんだから」
「まったく、ワシだったら他家に嫁など絶対にやらんのにな」
厳粛だった空気から一転、和やかな家族の輪となり、ヴァーゼルも仕方なしに顔を緩めた。
「……もう良い。よく戻ったな、カゼル」
「父上……」
カゼルは、ようやく父の顔を見ることが出来た。
「初陣は済ませてきたか?」
「はっ! 父上の手配に助けられました」
「ふふふ、正直なのはいい心掛けだ」
そう言って、ヴァーゼルに軽く肩を叩かれたカゼルは、思わずこみ上げるものを感じた。父は自分の帰還を、ちゃんと待ち望んていてくれたのだと。
「……証書はそれか?」
カゼルは、矢筒の様に背負っていた封書筒を取り外して、父に差し出した。
ヴァーゼルは、筒から取り出した三道三志の修了証書を一目した後、無言のままアイゼルにそれを手渡す。
「……ほう! 全て『最良』とは、やりおる。ワシらは越されてしまったぞ」
アイゼルは楽しそうに笑ったが、ヴァーゼルは少し不満げな顔を見せる。
「爪をさらけ出した鷹は衆目を集める。たとえ鳶や烏が相手でも、群には敵わぬと知れ」
カゼルは返す言葉もなく、頭を下げた。
「ふふふ。ならばその爪を更に砥げば良いのだ、カゼルよ。鷹と見せかけて、鷲であれば良い」
「先代、甘やかされては困ります」
孫にはついつい甘い顔をするアイゼルは、ヴァーゼルの苦言を笑って聞き流す。
「でも、母様はきっと喜んで下さるわよ!」
リーゼルはそう言って、祖父アイゼルから三道三志の証書を奪い取る。
「姉さん、まだ父上のお話は……」
「もういいじゃない。どうせ、あとはお小言だけなんだから」
そう決めつけると、リーゼルはカゼルの手を取って縁側から部屋へと上がった。
「おお、それがいい。奥方は素直に喜んでくれよう」
「お爺様ありがと! カゼル、いきましょ!!」
カゼルは父を振り返るも、ヴァーゼルは後で部屋へ参れとだけ言い、今は好きにしろと言わんばかりに背を向ける。
姉弟が屋敷の中に消えたのを確認してから、アイゼルは世間話でもするかの様に切り出した。
「……で、お主の評価はどうなのだ? 実際のところ」
「今のところ、カゼルに不満はありませぬ。あえて、文句を付けるならば、嫡男でなかったことだけ……」
「それを言ってやるな。テノア殿は、良い娘を残してくれたのだから」
テノアというのは、亡くなった正室の名……リーゼルの産みの母である。
「しかし、ここにいると、つくづく血の重さというものに思い知らされます」
アイゼルは、ふむと呻ると腕を組んで考え込んだ。
カゼルの兄である嫡男クーヴェルは、今年で二十三になる。
正室の子であり、性格は温和。カゼルの様に煌めく才能はないが、不思議と家臣の人望がある。
その人望の裏には、母がこのトゥアルグ城市の領主の娘であるということが影響していた。テノアの生き写しと言われるリーゼルがここの住人に愛されているのも当然のこと……。
三年前の戦でトゥアルグ家は、後継資格を持つ三人の子を失っており、家中ではせめて、現当主の娘の子を跡取りにという声が大きいのだ。
だからといって、本来の後継者であるクーヴェルをトゥアルグ家へ養子に出すと決めれば、家中であらぬ疑いが沸き、家を騒がせることにもなる。
しかし、これまでの二人を比較しても、フォントーラの志を継いでくれるのは、間違いなくカゼルの方である様にしか思えなかった。ヴァーゼルが、後継問題に悩むのは当然のことである。
「クーヴェルを聖職に付けるには、ちと遅すぎたか……」
「残念ながら、その教育も受けさせてはおりませぬ」
西方人の風習として、跡継ぎにそぐわぬ男子は聖職者として寺院に送り込むことが多々ある。
建前では病弱であるから、神にお仕えすることによって救われる為とされるが、一度聖職者となると俗世への復帰が色々と難しく、後継問題の比較的円満な解決策でもあった。
「仮に、御父上だったら如何されます?」
ヴァーゼルは、アイゼルと二人きりの時だけこの父のことをそう呼んでいる。
アイゼルは再びふむと呻り、そして自身の考えを口にした。
「後継問題でまんまと謀られたワシが言うのもなんだが……カゼルは、この家より解き放ってやる方が良いかも知れぬ。何、昔のワシが、お前様にしてやれなかったことよ……」
初めて、父がそんな風に思っていたことを知り、ヴァーゼルは、思わず父の顔をまじまじと見た。
「ヴァーゼルよ、お主にはすまぬことをしたと思っておる。ガイゼル卿の志など、ワシの代で忘れてしまえば良かったのだ。さすれば、お主は何の迷いもなく、自分の道を歩んでおれたものを……」
ヴァーゼルはそんな父の言葉に何も返さず、ただ空を見上げた。
トゥアルグ城市から見上げる空には、いくつもの小さな雲が流れている。
自分は、父の示してくれたこの道で良かったのだ。それ以外の道など考えたこともない……。
しかし、カゼルの将来のことを思うと、どうしても不安がよぎる。
あれだけの才を持った子は、望んでも恵まれるものではない。
だからこそ、ガイゼル卿の志を継いで欲しいと願うと同時に、先代アイゼルの言う様にこの家……ガイゼル卿の志から解き放ってこそ、その才が開花するのではないかとも思える。
「(自分は、繋がれた鷹だ)」
それに不満を感じたことはない。だからといって、自由にあの空を飛び回れる若鷹を縛ろうとするのは、愚かな父の独善に違いない。
仮に、この家から解き放たれたとしたら、あの子はどこまで高みに昇っていけるのだろうか……。
ガイゼル卿が目指した『中原の義将』というものが、ふと脳裏に浮かんだ。
それをカゼルに期待するのは、親の欲目かも知れぬ。
ヴァーゼルは、無言のまま空を見上げた。
「……余計なことを言ったようだ。年寄りの世迷いごとだ。忘れてくれ」
「いえ、お父上からのありがたきお言葉、このヴァーゼルの胸に沁みました」
それから二人は暫くの間、空を流れる雲を、黙って見上げ続けた。
「
リーゼルが元気よく扉を開けると、部屋の中には二人の妹に折り紙を教える母の姿があった。
「まあまあ、リーゼルったら、相変わらずせっかちなのね」
「だって、一刻も早く母様の顔が見たかったんですもの」
「リーゼル姉さま!」
「カゼル兄さまもいっしょだ!!」
二人の妹は、部屋に入ってきた二人の姿を見ると、折り紙そっちのけで二人の胸に飛び込んでいく。
「二人共、随分と大きくなって」
「サーリアは九つになったの!」
「ラセリアなんて、もう十三なんだから!」
この二人はカゼルと母を同じくする妹達であり、共に母に良く似て美しい顔立ちをしている。
特に上のラセリアなどは、学院で親しかったユノアよりも大人びて見えた。
「これこれ、そんなにはしゃがれては、お二方が母君にきちんと御挨拶出来ないではありませぬか」
大はしゃぎの妹達を、母の傍付きである女中頭のイルメラが
このイルメラは、フォントーラ家の宿老ディオルグ・マトーラの正室である。
かつてはヴァーゼルの乳母も務めたこともあり、カゼル達兄妹を自分の孫同然に可愛がっていた。
そんな姉妹達はイルメラのことを「おばば」と呼んで懐いており、母が留守の時などは、片時もそばを離れようとしない。
カゼルの母コーラルよりも二回り年上であるが、まだまだ元気そのもので、こうして姫達の世話をするのが長生きの秘訣と、日々口にしている女性であった。
「サーリアもすっかり大きくなったな」
そう言ってカゼルは、末妹のサーリアを抱き上げると母の目前に膝を進めた。
「母上。このカゼル、只今帰参致しました」
「お帰りなさい。カゼル殿」
母はサーリアを抱き下ろすと、カゼルの手に両手をそっと添えた。
「カゼル殿は、すっかり立派な男子になられましたね」
コーラルはそう言って瞳を潤ませる。
思えばハーレンやガルムとの修業以来、ろくに母とは顔を合わせていなかった。
それがフォントーラの志を継ぐ者の宿命であり、仕方ないとはいえ、子を思う母の気持ちを
「母様、カゼルったら凄かったのよ!」
「すご~い。最良だって!」
待ちきれない様子で、リーゼルとラセリアが二人で三道三志の修了証書を広げて見せた。
「まあ……流石はカゼル殿。母はとても誇らしく思います」
コーラルは手渡された証書を大事そうに眺め、心底嬉しそうに言った。
「御方様、今宵はお二人の御帰還を祝って盛大な祝宴を……」
女中頭のイルメラがそう切り出すと、急にコーラルは表情を曇らせ、その言葉を遮った。
「盛大に……という訳には参りません」
「しかし、御方様……」
「ここはトゥアルグ家の城内なのです。私共は、慎ましくあらねばなりませぬ」
イルメラはこの幸せな雰囲気に充てられて、大事なことを失念していたのを思い出し、はっとした顔になると、申し訳なさそうに膝をついて頭を下げた。
「私だって一緒なんだもの。父上も怒ったりしないわよ」
「ありがとう、リーゼル。でもね、私達母子は常に謙虚でなくてはならないの」
この母の心構えが、フォントーラ家の和を保っている。
カゼルは、この城が母コーラルや自分達兄妹にとって、決して居心地の良い場所ではないことを知っている。
このトゥアルグ家は、亡くなったヴァーゼルの正室の実家であるからだ。
そして、正室の子である兄クーヴェルが嫡子ではあるが、実際に跡目を継ぐまで何が起こるかわからないのがこの乱世という時代である。
当然、トゥアルグ家の者が、血の繋がりのない継室の子の活躍を快く思うはずがない。
現に家中でも、クーヴェルを可愛がる祖母ミレールは、継室のコーラルがカゼルを産んで以来、すっかりコーラルの奥部屋には顔を出さなくなった。
そう言った意味でも、ここにいる母子の立場は微妙なものと言えた。
母コーラルの言葉にリーゼルが項垂れると、コーラルはリーゼルの手をその両手で優しく包む。
「貴方の気持ち、母は嬉しく思います。さぁさ二人共、まずは旅の汚れを落としていらっしゃい。それから一緒に夕餉を頂きましょう。話の続きはまたその時に」
「ええ~。もういっちゃうの?」
心底残念そうな顔の妹二人に、リーゼルが声をかけた。
「母様、そしたらこの子達と一緒に外の浴場に行ってきてもよろしいかしら?」
こんな風に、すぐに気分を変えられるのがリーゼルの良いところだ。
「あら、それは楽しそう。どうぞいってらっしゃい。カゼル殿もそうしたら?」
「……自分は沐浴で十分です。後で父上とのお話がありますので」
「あら、久しぶりに兄妹水いらずで楽しめるかと思ったのに、残念……」
ラセリアが悪戯っぽくカゼルに腕を絡めると、リーゼルが少し驚いた顔になる。
無邪気に見えるこの妹だが、もう女の色香というもの備わっていた。
幼い頃、リーゼルやラセリアと一緒に風呂に入ったり、川遊びをしたこともあるが、流石にこの年でそれをするわけにもいかない。
「ラセリア様!」
「冗談ですよ~だ」
案の定、イルメラに叱られたラセリアは、逃げる様にして部屋の外へと飛び出していく。
「ラセリア、走らないの!」
リーゼルがサーリアの手を引いて出ていくと、姦しい姉妹のはしゃぐ声が屋敷中に響き渡った。
「ほんに、仲の良い姫様方だこと」
「兄弟仲が良いというのは、それだけで幸せなことなのです。カゼル殿」
「はい、母上。では、また後ほど……」
カゼルは、母の意味ありげな言葉に曖昧な返事をすると、部屋を退出した。
「(兄弟か……)」
明日になれば、きっと嫌でも顔を合わすことになる。
カゼルは、思わず小さく溜息をついた。
* * *
「……ラセリアったら、あんなこと言うからびっくりしちゃったわ」
リーゼルは、ラセリアの髪に灰汁を丹念に練り込みながら、小声で囁いた。
背後では、先に髪を洗い終えたサーリアが浴槽の中に足を入れ、ばしゃばしゃと遊んでいる。
「え、なんのこと?」
ラセリアは、きょとんとした顔で振り返る。
このトゥアルグ城市には、湧き出る温泉を利用した西方帝国時代さながらの豪奢な公衆浴場がそのまま再現されていた。
元々は南領公の保養地であり、一般的な湯治場以外にも、こうした贅沢な設備も整っている。
最もこの浴場は本城内にある為、城内に住む武人達やその家族しか利用することは出来ない。まだ昼前の時間帯とあってか、家族用の浴室が開いており、三姉妹はそこを使っているのだ。
こういった浴室は普通、幼子と一緒に奥方衆や乳母達が使うのだが、夜半になると妾や稚児と一緒に入る殿方衆もおり、この三姉妹とってはいささか早すぎる場所でもあった。
「……あなた、本気でここにカゼルを呼ぶつもりだったの?」
そう言いながら、リーゼルは灰を湯で溶いた濃い目の灰汁を片手で掬い取ると、ラセリアの亜麻色の髪に繰り返し塗り込んでいく。
木や藁の燃えカスから生じた灰を水で溶いた灰汁は、この中原世界での一般的な洗髪料である。
王侯貴族などが用いるものには、上等な香木の灰汁を使ったりするが、武人階級では庶民と同じく、飯炊きの竈で出来た灰汁が一般的であった。
「あら、ちょっと前まで皆で一緒に入っていたじゃない?」
リーゼルが、その白い指先を櫛の様にして優しく毛先の先までとかしていくと、ラセリアの長い髪に灰汁が均一に刷り込まれていく。
「ちょっとじゃない。もう七年前のことでしょ!」
それはたまたま母の体調が優れず、まだ幼子だったサーリアの入浴の世話をしていた時のこと。
何食わぬ顔で、突然カゼルをこの浴室に引っ張りこんできたのが、このラセリアだった。
リーゼルは、その時初めて男女の体のつくりの違いを認識した。
それを思い出すと、急に顔が熱くなってくる。
「……兄妹なんだから、別にいいんじゃない?」
「ちっとも良くありません!!」
「わかった。姉様は、カゼル兄様に裸見られるのが恥ずかしいんだ」
「当たり前でしょ!!」
リーゼルはそう言うと、たらいに張っていた湯をラセリアの頭上からかぶせた。
「うぁっぷ!?」
「あははは! なにそれ、わたしもやりたい~」
蚊帳の外だったサーリアが楽しそうに笑う。
「姉様、ひどい!」
ラセリアの少女特有の艶のある髪を見て、リーゼルは自分の髪と見比べる。
そして、リーゼルは無言のままラセリアに背を向けると、自分の髪に灰汁を塗し始めた。
「姉様、まだ髪に油塗ってないよぉ」
油というのは、髪のつやと香りつけの為に用いる整髪料だ。こちらは灰汁と違い、贅沢品である。
「いつまでも子供じゃないんだから、あとは自分でやりなさい」
ラセリアが口を尖らせて、ぶぅとふてくされる。
こうしていると、学院でのユノアのことを思い出す。
今更ながら、あの娘はこのラセリアと良く似た性格をしていた。
「(だから、カゼルに惹かれたのかしら……?)」
そんな風にぼんやりと考えことをするリーゼルに、突然、頭の上から滝の様な湯がかぶせられた。
「ちょっとぉ!?」
「えへへ、お返しですよ~だ」
振り返ると、ラセリアとサーリアが二人でたらいを抱え、笑っている。
「……こんにゃろ~。やったなー!!」
「キャーーー!!」
そこからは、三姉妹によるお湯の掛け合い合戦となった。
そして、ここの主である湯女に見つかり、散々に叱られてしまった。
一方、沐浴を終えたカゼルは屋敷の書院にて、父に学院生活の報告をしていた。
「……なるほど、良く調べてある」
父がそう言って目を通しているのはカゼルが個人的に調べ、書き記した学生名簿である。そこには氏素性だけでなく、その人物の人柄や得意科目、親しき学友なども記されていた。
もう一冊は、リーゼルから聞いて作った女学生の名簿。
こちらも内容はほぼ同じだが、それ以外にも、彼女らの間で流れた少々下世話な噂話なども記されている。しかし、父はそこから、その家の事情や縁戚関係などを読み取っていくのだ。
「ほう。東藩王家からとは珍しいな」
ヴァーゼルが、ふと、目を留めたのは、レイナード・フェリアスの名。
カゼルの追記には、養子に出された王族の庶子とある。
藩王家とは、帝室の血脈を引く有力諸侯がこの中原大遠征での働きにより、広大な領地と自治権、その継承権を与えられた家であり、帝国内に設けられた臣下の王国である。
中原帝国内には、東西南北の四方家、北辺の異民族に面する各辺境家、そして、西方帝国時代から今も伝わる大藩王家があり、東藩王家はその中でも広大な平野と水運に恵まれた大国であった。
かつて東藩王家は、後継争いを発端に激しい内戦状態となり、数代を経た今でも多くの火種が燻っていると噂されている。
「お前が、普段から親しくしていた学友の一人だな」
「はい、それが何か……?」
「このレイナードという人物。その名に覚えはないが、おそらく現東藩王の弟だな」
父の言葉に、カゼルは一瞬言葉を失った。
「しかし、藩王の弟にしては、あまりにも扱いが軽すぎませぬか?」
普通、藩王の子弟ともなれば大勢の家臣に守られていなければならず、帝国学院の様に学生以外の付き人は許されぬ場所に寄宿するなど、到底考えられないことであった。
「庶子の存在は、あまり公にはされないものだ。しかし、そういう人物がいたことは確かで、丁度年齢も合致する。確か、あそこの王太子はお前とそう変わらぬ年頃のはずで、それより年上の王子となると他に該当する人物は思い当たらぬ……」
ヴァーゼルは、愉快そうに口に笑みを浮かべた。
「この人物と知り得ただけでも、学院にやった甲斐はあったようだ」
思いもよらぬことで褒められたカゼルは、驚きつつも一礼をする。
「他にも多くの良き友を得た様子だな。ワシの世代よりも層が厚いと見える」
乱世が人材を求めている……。
ヴァーゼルは、ひしひしとそれを感じていた。
「明日は、日の出と共に出陣となる。夕餉の前に、鎧合わせをしておけ」
そう言ってヴァーゼルは、新たにカゼルの傍付きとなる一人の家臣を紹介した。
「カゼル様の傍付きを命じられました、ライン・ディストナーと申します」
年はカゼルと同い年で二十。若手ながらに落ち着きがあり、実直そうな青年である。
「お前の母の実家から呼んでおいた者だ。もう一人は、明日になればわかる」
「父上、御心遣い感謝致します……。ライン、これからよろしく頼む」
そう言ってカゼルは自らも膝を付き、ラインの手を取って声をかけると、そんな対応を嬉しく思ったのか、ラインは口元に笑みを浮かべる。
二人はヴァーゼルに一礼をすると、一緒に屋敷の土蔵へと向かった。
「……ライン、君のことを少し聞かせて貰ってもいいかな」
「はっ、なんなりと」
廊下を歩きながら、カゼルは初めての家臣にその出自などを訪ねた。
ラインは、母の実家であるレイアン家に代々仕える重臣ディストナー家の庶長子であり、カゼルの入学後、父ヴァーゼルの依頼によって招聘されていた。
「……それから二年ほどの間、ヴァーゼル様の従士として鍛えて頂きました」
「なるほど、それで武術では何が得意だ?」
「どれも、あまり得意とは言えませぬ」
「正直だな」
カゼルはすでに、その身のこなしから、ラインの腕前は人並み程度でしかないと見抜いていた。
「事実ですので。それに家臣の務めは、それだけではないと思っております」
「では、何が得意だ?」
「実家では写本を任されておりました」
この乱世の時代、きちんと読み書きが出来るというのはそれだけで有能である。
諸侯の子弟ならともかく、家臣の子等には、その読み書きを教える講師すら恵まれぬことがほとんどであるからだ。
「それは丁度良かった。では、暇がある時でいいから、これを頼みたい」
無論、先ほど父に見せていた学生名簿である。
原本は父に渡し、写本は自分用に持っておく為である。
その後、カゼルは新調されたばかりの鎧の試着を行い、ラインに手伝ってもらいながら、自身の体に合う様に調整を行った。
銅板の姿見の前に立つと、まだ着慣れてないせいもあり、多少ぎこちない感じがするものの、若々しい武人の姿がそこにあった。
「まだまだ、鎧に着られているか」
「戦場に出れば、すぐに体に馴染みます」
「そういうものか……」
「自分がそうでしたから」
なるほど、若いながら戦場経験もあり、事務能力も高そうに思える。返答が的確であるのもカゼルは気に入った。流石は父ヴァーゼルが、直々に仕込んだ家臣である。
自分一人を鍛錬する少年時代は終わり、これからは家臣と共に家の為に働く武人となっていくのだと、カゼルは改めて実感するのだった。
その夜、カゼルとリーゼルの二人は、久しぶりに家族団欒を味わっていた。
主な話題はカゼルやリーゼルの学院生活の話であり、カゼルの三道三志の試しの話になると、妹達だけでなく母やイルメラまで、その活躍振りを聞きたがった。
それをリーゼルが、身振り手振りを交えて大仰に話すものだから、逐一カゼルがそれを訂正していく。
その様子が可笑しいのか、父や祖父も終始上機嫌のまま、ささやかな家族の晩餐は終わった。
明日の朝は出陣なので、カゼルは夕餉を済ませると早々に床に着く。
しかし、眠いはずなのに、なかなか眠りにつくことが出来ない。
気晴らしに庭へと足を運ぶとそこには先客が一人。リーゼルであった。
「あら、どうしたの。明日は出陣なんだから、早く寝なくちゃ駄目じゃない」
「姉さんこそ、どうしたのさ。こんな時間に……」
リーゼルは黙って、空を見上げる。
釣られる様にカゼルも空を見上げると、月が煌々と輝いていた。
「学院で見ていた月と、何も変わらないわね」
「そうだね」
「なのに、私達は明日から変わってしまう……」
カゼルは、その姉の言葉に何も返さず、静かに縁側に腰を下ろした。
「カゼルは……怖くないの?」
そう言ってリーゼルは、カゼルの背後からそっと首に両腕を回す。長い栗色の髪から漂う香油の香りが、ほのかにカゼルの鼻腔をくすぐった。
「……怖いさ。でも、今は父上と一緒に、戦場に立てる喜びの方が大きいんだ」
「アンタは、いつもそう言ってたもんね」
リーゼルは、カゼルの首筋に口元を寄せると、囁く様にして言葉を続ける。
「私は怖い。どうしてだか分かる?」
触れ合った肌から、リーゼルの鼓動が伝わってくる。
カゼルは月を見上げたまま、首に回されたリーゼルの手に自分の手を添えた。
「姉さんのことは、僕が守る。いつだってそうだろ」
「そうね。私だってカゼルのことを守るわ。いつだって、そうしてきたもの」
不意にリーゼルは、カゼルをすり抜ける様にして立ち上がった。
「姉さん……?」
月の光を求める様にして庭へ跳び下りたリーゼルは、くるりと振り返る。
栗色の髪が月光に照らされ、眩い輝きを放つその姿は、まるで月の女神の様にも見えた。
「もう寝ましょう。カゼル」
「ああ、そうだね。姉さん」
差し出された手を取ると、リーゼルは軽やかに縁側に舞い戻ってくる。
そして、互いにおやすみと手を振りあうと、二人は暗い廊下の中へ吸い込まれる様にして消えていった。
その夜は、満天の星の中、煌々とした月がトゥアルグ城市を照らしていた。
* * *
長いようで、短い夜が明けた。
カゼルは、眠気の残った体に活を入れんと、日課である武練を始める。
すると、間もなくして父と祖父、リーゼルも起きてきてこれに加わった。
フォントーラ家伝統の武練とは、ただ闇雲に剣の素振りや弓の試射を行うのではなく、主に心身の鍛錬を基本とするものである。
呼吸、脈拍といった体内の調整から始まり、そこから自身の筋肉や骨を通して発する『神気』の張り具合などを、軽い組手の様な形で確認しあう。
この朝は、カゼルと父ヴァーゼル、リーゼルと祖父アイゼルの組み合わせで無手による武練を行った。
祖父アイゼルはもう六十を過ぎているが、まだまだ覇気に衰えはなく、学園での三年間で見違える様に力を付けたリーゼルとも互角の『神気』で打ち合っている。
その横で、ラセリアとサーリアも見えぬ相手を描いては、可愛らしい気合いの掛け声を上げ、その小さな拳や蹴りを繰り出していた。
一方、カゼルはというと、必死の形相で父ヴァーゼルに食らいついていくのが精一杯……。
「どうした? この程度で根を上げる様では、ワシの背中は任せられぬぞ」
手数でも、拳圧でも打ち負かされたカゼルは、片膝をついたまま呼吸を必死に整える。
こんな早朝の武練だけで、全ての力を使い果たすことなどあってはならない。
しかし、密かな自信をあっさりと打ち砕かれ、カゼルの心に焦りが生じていた。
「(……父に認められたい)」
たった一撃でいいからと、力を全身から振り絞る様にしてカゼルは身構える。
「……二人共、その辺にしておけ。武練としては十分過ぎるほどに打ち合ったぞ」
アイゼルからそう声を掛けられて、カゼルと対面していたヴァーゼルは、緩やかに構えを解く。
目の前の重圧から解放されたカゼルは、軽い眩暈でふらついたところをリーゼルに支えられた。
「まだまだ……と言いたいところだが、最後の気迫だけは認めてやろう」
ヴァーゼルにそう声を掛けられて、カゼルはようやく口元に笑みを浮かべることが出来た。
「流石は父上。まだまだこのカゼル、遠く及びませぬ」
「いらん世辞は随分と上達したな。まあ、それも人付き合いには必要なことか」
カゼルが「はい」と返事すると、横でアイゼルとリーゼルが笑った。
「しかし、リーゼルの腕前も、女にしておくには惜しいほどじゃな」
「私だって、別に花嫁修業の為、学院に行っていた訳ではないんですもの」
リーゼルが自慢そうに胸を張ると、祖父はふむと考え込む素振りをする。
「惜しいかな。もう少しお前様に胸があれば、どこぞの藩王でも落とせそうなものだがのう……」
「お爺様!!」
間髪入れずにリーゼルが放った拳をアイゼルは両手で受け止めるが、その勢いに押されてのけぞった。
「うぉっと! 今のはいい一撃だった」
「リーゼル、もう武練は終いだ。先代も戯言はその辺に」
アイゼルはカラカラと笑い飛ばすも、リーゼルは膨れ面のまま屋敷の中に戻っていく。
こうして朝靄の中で始まった武練は、日の出の終わりと共に終了した。
「カゼルよ。朝餉を済ませたら、すぐに登城するぞ」
ヴァーゼルはそう告げると、イルメラを呼んで湯漬けの仕度をさせた。
フォントーラ家では、前日炊いた飯の残りに野菜の漬物と味噌を少し載せ、その上から乾燥させた茸や山菜で取った出汁をかけたものを湯漬けと呼んでいる。
もちろん、出汁殻となった具もそのまま食べる。
元々、この湯漬けは米が主食の中原庶民の食文化であったのだが、すぐに食事を済ませられることから、一気に武人達の間に広まった食文化である。
ちなみに、出汁の代わりに野草を炒って作った茶をかけた場合は、茶漬けと呼ばれている。
出汁を取っているのは贅沢というより、フォントーラ家独自の工夫であり、茸や山菜は婦人や子供達が山遊びをする際に採ってくるもの。漬物用の野菜や味噌も、無論自前で作る。
カゼルやリーゼルも、幼少の頃は母コーラルやイルメラに連れられて、良く山菜摘みに行ったものだ。
今では、ラセリアやサーリアの仕事となっているのだろう。
湯漬けで手早く朝食を済ませると、カゼルとリーゼルは父や祖父と共に登城していった。
「いいな。リーゼル姉様はお城に入れて」
見送りのラセリアは、少し不満そうに遠ざかる兄姉の背中を見つめる。
「いいのです。ここのお城は、私共には無縁であった方が幸せなのですから……」
「わかっております。私だって、あのお城は嫌いです」
繋いでいた母の右手を離すと、ラセリアは屋敷の中へと駆けだした。
「ラセリアねえさま、おこっちゃった?」
「そうじゃないの。
「ふぅ~ん。わたしはおやしきがすき。かかさまも、おばばもいるもの」
コーラルは、そんな風に無邪気な笑顔を見せてくれるサーリアに、優しく頬擦りする。
今回の出陣がいつになく大きな戦になることは、ヴァーゼルやアイゼルの言動を聞いていれば、軍議とは無縁な女の身であっても感じている。
戦の前は不安になるものだが、今回はいつにも増して不安であった。
「かかさま、どしたの?」
頬擦りされて嬉しそうにしながらも、普段とは違う母の仕草にサーリアは何かを感じ取っている。
「ううん、何でもないのよ。さぁさ、お腹空いたでしょう? 私達も朝餉に致しましょうね」
可愛らしく「あいっ」とサーリアが応えると、急かす様にコーラルの手を引いて歩き出す。武人の家では、こうして男達が食事を済ませて家を出てから、ようやく女達が食事にありつける。
大抵は雑穀をついた餅と菜っ葉の味噌汁、または野草の雑炊の類。偶に手に入る里芋や大根などは、贅沢と言ってもいい代物であった。
こうして、少しでも倹約するのが武人の妻の務めであり、その分、戦場から無事に帰ってきた男衆に可能な限り贅を尽くした食事を振る舞ってやるのが、女衆の美徳とされた。
全て、男達の身勝手な理想に過ぎないのだが、その点コーラルは、申し分のない女性と言える。
そんな彼女が願うのは、ただ我が家の平穏だけ。しかし、それは夫ヴァーゼルの志とは相反するものなのだ。
「今は、乱世なんですもの。言っても仕方ないこと……」
コーレルはそう言って、眩しい日差しに背を向ける様にして屋敷の中へと戻っていった。
「……こちらが御当主、レアンドル・ブリアス南領公であらせられる」
登城したフォントーラ親子が南領公家の当主に面会出来たのは、随分と日が高くなってからのこと。
それまで、脇の控室にて数刻も待たされており、リーゼルはその不満そうな顔を何度も祖父に窘められていた。
「ほう、そちがカゼルであるか。思ったよりも若いな」
その若者は城主の座に腰かけたまま、壇上の下で拝礼をしたままのカゼルに声を掛けてきた。
カゼルはその姿勢のまま、僅かに頭を下げてそれに応える。
「すると、隣の娘はリーゼルであるか。どれ、顔を上げてみよ」
リーゼルが毅然とした顔をゆっくり上げると、目の前の若者の顔が見えた。その左右にはこの城の主である宰相ロズナー・トゥアルグ伯、そして書記官のユーグ・ベルトラン卿が控えている。
フォントーラ家の親子と併せ、南領公家の首脳一同が顔を揃えたことになる。
「ほう、流石はフォントーラの娘。気は強そうだが、中々に美しいではないか」
「勿体なきお言葉に。我が家の方針として、娘と言えども嫁入り前までは、こうして自分の郎党を務めさせております」
リーゼルの隣で膝を付くヴァーゼルが、壇上の若者に応対する。
その若者は口上こそ立派であるが、まだ二十そこそこでしかなく、威厳や風格といったものも感じられない。
そのくせ、名家特有の尊大な態度だけは立派であり、学院にも良くいた類の諸侯の子弟と何ら変わりはない様に思えた。
「(こんな男が、私達が命を捧げる御主君だと言うの……?)」
リーゼルは失望した表情を見せぬ様、あえて無表情のままこの場を貫き通すことにした。
「緊張しておるのか? はは、まあ良い。カゼルも顔を上げよ」
顔を伏せたまま、横目でリーゼルの危うい態度を案じていたカゼルは、小さく息を吐くと毅然とした表情で顔を上げる。
「ほう、なかなかに肝が据わっているな。三道三志の試しに合格しただけのことはあるか」
「……左様にございます」
レアンドルは、傍に控える書記官ユーグ卿の広げた証書を一目すると、それを下げさせた。
権威には大人しく従うところは、典型的な貴族主義である。
「(父や祖父からある程度、その人となりは聞かされていたが、これは……)」
カゼルは、それ以上考えるのをやめた。
姉弟の左右には父と祖父が、普段見せぬ様な無表情な顔で片膝を付いている。
なるほど、そうなる訳かとカゼルは変な関心をしつつ、父や祖父の態度を見習うことにした。
「ふむ、二人共なかなか見栄えもする様だし、働き次第によっては余の近習にしてやっても良い。せいぜい、父の下で励むがよかろう」
「……ははっ」
姉弟は、声を揃えてそれに応えると、父に促されて起立する。
「閣下。それでは、御出陣は明朝ということで……」
念を押す様にヴァーゼルが口を開くと、少し鼻白んだ顔で鷹揚に主君レアンドルは頷く。
そして、主君の代わりに宰相のロズナー伯が、ヴァーゼルに主命を伝える。
「ヴァーゼル卿。御主君は此度、貴殿を仮の
「ありがたき幸せ。早速、トラス城市の攻略に取り掛かります」
レアンドルに拝礼を行うと、ヴァーゼルは書記官ユーグから割符を受け取った。
割符というのは、文字通り『二つに割られた符』である。その片割れは、トラス城内の軍本部に置かれている。
この割符を持つ者は、主君から主力軍の指揮を許された証であり、独自の判断で戦闘を行うことが出来るのだ。
この措置は事前に宰相や書記官、そしてフォントーラ親子の間で取り決められていた。
本来、南領公自身は、周辺諸侯の上に立つ『大総督』と呼ばれる帝国軍の中でも最高位の武官でもあるのだが、『大総督』自身が実際に戦闘指揮を行うことは、まずないといっていい。
通常はその下に『帥将』を置き、南領公軍の総指揮を委任している。
彼のガイゼル卿以降、歴代のフォントーラ家当主がその重責を担ってきたが、現フォントーラ家当主コーゼルは病弱であり、満足に出仕すら出来ぬことから、これまで帥将は空席とされていた。
仮とは言え、ヴァーゼルがその帥将に任ぜられたことは、主君レアンドル自身がフォントーラ家の当主は、ヴァーゼルであると認めたことにもなる。
颯爽と外套を翻して謁見の間を出ていくヴァーゼル等をよそに、主君レアンドルは浮かぬ顔をしていた。
「……本当に、あの親子に任せておいて大丈夫なんだろうな?」
「アイゼル卿は先代の帥将。そして、ヴァーゼル卿はその副将としてこの中原に名を馳せた武人です。当家において、彼の親子に勝る者などおりませぬ」
宰相のロズナー伯にそう言われても、レアンドルは今一つ、ヴァーゼルを帥将に任じたことに納得した様子ではなかった。
当初はレアンドル自身が大総督として、全軍指揮することを強く望んでいた。それをアイゼルやロズナー伯が、主君の役割とは後方で全軍の動きをよく見て、将軍達が上手く働ける様に采配することであると懸命に説いた為、とりあえず先鋒としてヴァーゼルを送りだすことを了承したのだ。
「(亡き先代様に似て、自尊心や猜疑心といったものが強すぎる……)」
三年前、先代の南領公が一敗地に塗れた遠因もそこにあったことなど、この若者は未だに気付く気配もない。
大総督である父が敵に討たれたのは、守り切れなかった家臣の怠慢にあるとしか思っていないのだ。
また、家庭教師などからレアンドルは軍略の天才など煽てられて育ってきた為、どうもそれを真に受けるふしがある。
それゆえ、フォントーラ親子の武名にも半信半疑なのだ。
レアンドル自身、すぐにでも全軍の指揮を取れるつもりでいるが、その実、家柄以外は何の才覚を持たぬこの青二才が、南領公家の後継者であることを知る宰相ロズナー伯の気は重かった。
それでも仇敵である摂政家が代替わりした今を置いて、この南領公家が再興する機会などそうそうあるはずがないのも事実。
今はただ、フォントーラ親子を信じ、この戦いの全てを任せるしかない。
宰相ロズナー伯は、未だ昨夜の酒の匂いを残しながら、次の謁見者の相手をしている主君レアンドルを横目に、密かな溜息を付くのだった。
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