第2話豺狼軍

 カゼルの『三道三志の試し』が終了し、学院内から興奮が冷めやらぬ頃、小高い丘の上からそれを見つめる二つの影があった。

 一つは、人の形をした影。

 もう一つは、熊ほどはあろうかという獣の影。

 その二つの影は、静かに時を待っていた。

 不意に、巨躯の獣が耳をぴんと立てる。

 次の瞬間、もうその丘の上に二つの影はなかった。

 残されていたのは、何かをかき消す様に撒かれていた花の匂い……。

 まるでその匂いを避けるかの様に、その丘の周辺に住む野兎がすぐ近くの森へと駆け込んでいく。

 そして、その丘の上は、いつもの様にそよ風だけが吹いていた……。


 丁度その頃、帝国学院の学び舎では、先ほど終わったばかりの『三道三志の試し』の合格発表が公布されていた。

 この十年、誰も成し得なかった快挙であり、これでフォントーラ家からは四代に渡って『三道三志の試し』の合格者を出したことになる。

 しかも、此度の結果は、彼のガイゼル卿に唯一比肩する『最良』であった。

 カゼル自身、誰もが認める優秀な学生ではあっても、今までどの部門でも筆頭となったことは一度もない。

 それ故、誉れ高きフォントーラの子ではあっても、今までそれほど衆目を集めることなどなかった。

 カゼルと親しくしていた学友でも、此度の試しに挑んだのを内心、無謀に思っていたものは少なくない。

 その他大勢の学生となると、よもや合格するなど考えもしていなかった。

 それは、花婿候補探しに躍起になっていた女子達にとっても同様である。

 つい先ほどまで、陪臣の子で嫡子でもないカゼルのことなど眼中にもなかった娘達が、三道の試しを見た後、黄色い声でカゼルの姿を追い求めている。

 そんな中、一人面白くもなさそうにセラン・アゴーストは、その騒ぎの輪から目を背けていた。

 自身の取り巻きであったはずの女子達が、カゼルを捜して右往左往しているのを見ると、落ち着きかけていた黒い感情がゆっくりと鎌首を持ち上げてくる。

 そんなセランの不機嫌そうな顔に驚いた学友達は、祟りを恐れる様にしてセランから距離を置く。

 そんな連中の態度も、いちいちセランの癇に障った。

「(この不愉快さを紛らわす為には、どうすればいいか……?)」

 一番いいのは、カゼルの無様な醜態を見て嘲笑うことだ。

 しかし、これほど見事に『三道三志の試し』に合格してしまった今、それを望む術はない。

「(何でもいい……有頂天の最中にあるカゼルを、どん底に叩き落とす方法はないものか?)」

 ふと、セランはあることを思い立つ。

 そして、丁度目に止まった自分の取り巻きであった女子の一人を捕まえると、引きずる様にして自室に引き込んだ。

「あれ……ど、どうか、お許しを……」

 その女子は、セランの癇に障ったことを恐れる様にひたすらどうかお許しをと繰り返し、そして、いつもの様に媚びてしなを作る。

「(……つまらん女だ)」

 そのあからさまな態度にセランは鼻で笑って突き放すと、カゼルの姉リーゼルをここに呼んで来いとだけ命じ、部屋の外へと追い出した。

 これまで、セランは自分の傍をうろつく女子しか抱いたことはない。

 自分のように将来を約束された者が、特定の相手など作る必要も感じず、わざわざ女をその気にさせる為、口説くのも面倒だったからだ。

「そうだ……女など選び放題の私がわざわざ指名してやるのだ。リーゼルとて、喜んで我が元にやってくるに決まってる」

 女を袖にしたことはあっても、されたことなどないセランの頭の中では、指名されたことを感謝し、涙さえ浮かべて頬を染めるリーゼルの顔が描かれていた。

「クックックッ……あの生意気そうな姉を手篭めにしてやれば、カゼルの奴め、一体どんな顔をするかな?」

 この中原世界の武家の娘としては、行かず後家と呼ばれる年頃だが、交合を愉しむには最高の頃合だろう。

 いつもカゼルの傍にまとわりついてることを考えたら、もしかしてあの妙齢にして、男をまだ知らぬのかも知れない……そう考えただけでも、セランの背筋はぞくぞくしてくる。

 セランはどうにも劣情を抑えきれずに、手近なの女子を自室へ引き込むと、否応なしに衣服を剥ぎ取り寝台へと押し倒す。

 顔を隠し、熱い吐息に時折漏れる媚声に嗜虐心をそそられたのか、セランは名も覚えていないその娘に跨ると、執拗にまだ幼さの残る白い肌を嬲り続けた。


「……あの……セラン様……?」

 先ほど用事を言いつけた女子の声に。セランが反応して目を覚ましたのは日も陰り始めた頃。

 いつの間にか、寝台で転寝うたたねしていたらしい。

 先ほど抱いた女子の姿はすでになく、乱れていたはずの寝床もきちんと整えられていた。どうやら中々気の利く娘だったらしい。

 扉を静かに開けて、部屋に入ってきた女子はセランの上半身がはだけているのを見て、恥じらう様に顔を袖で隠してみせる。

 そんな彼女のことなどお構いなしに、セランは枕元に置かれていた上掛けに袖を通して立ち上がった。

「それで、リーゼルはどうした?」

「そ、それが、ロアンヌと買出しに出掛けた様で、まだ戻っていません……」

「……ロアンヌ? 誰だそいつは」

「そ、その、リーゼルさんお付きの……」

 当然ながら、セランにとっては覚える価値のない人間の一人。そんな輩もいたなとようやく思い出す。

「買出しだと? 夜には弟の合格祝いと送別会があるだろうに……」

「は、はあ……」

 基本的に、学生の私的な祝い事などは、学生達で有志を募って、自ら様々な準備を行う。

 いくら名門の子弟とはいっても、この学院では学生以外の従者などは認められていないので、買出しから祝宴の支度まで、全て自分達で行うしかない。

「妙だな……あのリーゼルならば、自ら祝宴の陣頭指揮を買って出そうなものだが?」

「はあ、それでどうやらトラヴィス殿が仕切りをされている様でして……」

「トラヴィス? カゼルといつも一緒にいる剣豪気取りの生意気な若造か」

 正直、あれだけ高ぶっていた感情も、今は落ち着きを取り戻している。

 セランは、リーゼルの件はもういいとばかりに、女子を手振りで追いやることにした。

 少しばかり期待していたのか、軽くあしらわれたことに憤然としながらその女子は部屋を出て行く。

 セランは、まだ気だるさの残る体を持て余し、再び寝台へと寝転がった。

「ふん……オレとしたことが、どうかしていた。あんな主人を無くした犬ころの顔など、どうせ二度と見ることはないのだ」

 セランは、つまらぬことを気にし過ぎていたと鼻で笑い飛ばす。

「(そうだ。自分はこの学院を卒業すれば、すぐにでも父の跡目を継ぎ、大帝の側近としての輝かしい晴れ舞台が待っているのだから……)」

 セランは、そう自分に言い聞かせると、再び、浅い眠りの中に沈んでいった……


 一方、そんなセランのことなどまったく眼中に無いリーゼルは、親しい女子らと共に学院の麓にある村落を訪れていた。

 荷物を載せる為の小さな荷車を驢馬に引かせ、リーゼルの従者である少女のロアンヌがその御者を務めていた。勿論、リーゼル他、女子達は皆歩きである。

「いいなぁ~リーゼルさんは、あんな凄い弟君がいて!」

「ズルイわよ! カゼル君の実力、ずっと黙ってるなんて……」

「ねえねえ! カゼル君って、まだ決まったお相手はいないんでしょ?」

 三道の試しが終わってからリーゼルの周りは、ずっとこんな調子である。

 カゼルへの賞賛や祝福には、快くお礼を返していたが、明らかにカゼルと親密になりたがっている彼女達の態度に、内心呆れ果てていた。

「(今まで無関心だった癖に、ホント調子いいんだから……)」

 この帝国学院での格付けは、一に家柄、二に才覚、三に勇壮な外見。

 他の体格のいい男子達に比べ、カゼルはどちらかというと華奢であり、しかも母に似た優男顔。

 見た目のよい近習として侍らせるならともかく、ここの女子達が嫁ぎ先として求める伴侶の姿ではない。

 ところが、この武人の栄誉である『三道三志の試し』にて『最良』の証を頂いたとなれば、話は別。

 何しろ、平時であれば即、大帝陛下にお褒めの言葉を頂き、本人がそれを望めば大帝直臣となることだって可能なのだから。

 フォントーラの一族でなければ、誰もがその道を選び、栄光の未来を目指すに違いない……。

「(まあ、カゼルはそんな道、選ばないんだけどね……)」

 フォントーラ家の事情も知らずにはしゃぐ女子達を見て、リーゼルは小さく溜息をつく。

「そういえばリーゼル。貴方の妹分、連れて来てないんだ?」

「あの娘、カゼル君にかなりお熱だったわよね~」

「え、やだっ! もしかして抜け駆けしてるんじゃない!?」

 キャアキャアと女子達が騒ぎ立てる。

「……ユノアは、何だか調子が悪いみたいだから、置いてきたの」

 無論、嘘である。

 リーゼルは、ユノアにだけ自分達がこの学院から退去することを伝えている。

 そんな彼女は黙って、同室であるリーゼルの荷物をまとめ、カゼルに渡す役目を引き受けてくれた。

 社交的なリーゼルだが、この学院で本当の意味での友達と呼べるのは、ユノアただ一人である。

 そんなユノアとも、これで今生の別れになってしまうに違いない。

 この三年間、実の姉妹の様に過ごしたユノアとの別れは、リーゼルにとって唯一の心残りであった。

 男達の様に、戦場で再会することがないのは幸いかも知れない。しかし、武家の女達にはそんな機会すらない。

 そのほとんどが家の為に、好きでもない男に嫁ぎ、子を産めれば良し。

 石女うまづめであったならば、実家へ追い返される。

 ……それでもまだいい。

 万が一、嫁いだ家が滅んでしまえば、幼子を抱えて身投げするか。それとも夫を殺した者達に、家畜の様に金銭で買われて妾となるか、雑兵共の慰み者にされるだけ。

 ここで知り合った女子達の誰がいつ、そうなってもおかしくはない。それがこの乱世という時代なのだから……。

 父や祖父達は、そんな悪夢の様な時代を終わらそうと戦っている。その為にも、自分姉弟には、ここで為さねばならぬ大事な任務があるのだ……。

 リーゼルは余計なことを思い出さぬ様、夏雲の浮かぶ晴天の空を見上げた。


 それから半刻ほど費やして、リーゼル達は村落で宴に必要な食材や酒の買い付けを行った。

 代金はそれぞれが持参した木綿の生地などである。

 この乱世の時代、城市などの大きな街以外ではこうした物々交換がまだまだ主流であった。一度凶作が起これば食糧が高騰し、金銭価値が暴落するからである。

 特に、この様な村落では、多量の交易品を扱う商人も居らず、対価として労働力や物々交換で支払われるのが常である。

 幸いにも女子達が持ち込んだ木綿の古着などは村人達にも好評であり、無事に多くの良い酒や食材との交換が行えた。

「……それじゃ、貴女達は先に戻って宴の支度をお願い。私は女将からの言付けを済ませてから戻るから」

 そう言って、女子らと別れると、リーゼルは従者の少女ロアンヌと共に村長の家へと向かった。無論、女将からの言付けなど建前で過ぎない。

 空に一匹の鷹が、ゆっくりとリーゼル達の頭上を旋回していた。

 それは、狼達が村落周辺の狩りを済ませた合図……。

 周囲に異変あらば、即座にあの鷹はどこかへ飛んでいく。

 つまりは、あの鷹が空にいる間にこの任務を終わらせなくてはならないのだ。

「もう少しの辛抱です。目線はまっすぐのまま、足並みを崩さぬ様に……」

 リーゼルは自分のすぐ後ろに隠れる様にして付き従っていた少女にそう声を掛けると、ロアンヌは声を出さずに、小さく頷いた。

 その顔は心なしか青ざめており、怯えた表情のまま固まっている。

 すっと、リーゼルがロアンヌの手を握ると、少女は震えるその手でぎゅっと握り返してきた。

 ……無理もない。

 この子は物心ついた頃より、安住の地というものを知らないのだ。

 政敵は勿論、親族にもその存在を知られてはならず、リーゼルやカゼルをはじめとするフォントーラ家の一握りにしか、その正体を知る者はいない。

 両親はすでに亡く、乳母もこの子の眼前で殺された。

 それ以来、自分を親身に世話してくれるこのリーゼルの存在だけが、少女の心の支えとなっていた。

 そのリーゼルと、もうすぐ別れの時が迫っている。そうすることで、初めて自分に安全が訪れると聞かされていた。

 きっと、嘘ではない……。

 それでも、不安で胸が一杯だった。

 拒否することは許されない。

 それが許されたことなど、今まで一度もなかったのだから。

 少女ロアンヌは、不安で張り裂けそうな気持ちを震えるその手で伝えることしか出来なかった。

 リーゼルは、そんな少女に掛ける言葉を何も持たなかった。何を言っても気休めでしかないことが分かっていたから。

 その代わりに、小さな声で歌を口ずさむ。

 それは、いつもロアンヌに聞かせていた子守唄。この学院に入ってからもそれは続けられていた。

 この歌声を聴くと、不思議とロアンヌは体の震えが治まってくる。

 同室だったユノアにしてみれば、主人であるリーゼルが従者のロアンヌに子守唄を歌ってあげるなど、不審に思えたに違いない。

 それでも、ユノアはロアンヌについて、何も聞いてこなかった。

 勘のいい彼女のことだ。きっと、自分が深入りしていいことではないと気付いていたに違いない。

「(……もう、この子守唄を聴かせることもないのね)」

 リーゼルがふと目線だけを向けると、少女は声も上げずに泣いていた。

 自分と離れた後、この子はどんな生活を送るのだろう……。

 そんな二人が目指す村長の家が見えてきた。

 村長の家の前には、三道三志の試しに訪れた来賓のものであろう立派な馬が数頭繋がれている。

 リーゼルは村長の家の門を潜ると、懐から取り出した薄桃色の小布で拭った。

「……ここから先、貴方は本来の御自分に戻らなくてはなりませぬ。どうか立派な男子として、この乱世を生き抜いて下さい……ロアンデル様」

 リーゼルは真剣な面持ちで、ロアンデルと呼んだその子の髪留めを外す。

「……私は……ずっと、ロアンヌのままが良かった……」

 彼にとってはそれが、精一杯の抵抗だった。

「……中原にはこれから、大きな嵐がやってきます。その嵐が治まった時、必ずや貴方様の安住の地を、我がフォントーラ家が用意しておきます。どうか、それまで御身を大事になさって下さい」

 ロアンデルは、力なくこくんと頷く。

 そんな彼の小さな手の中に、リーゼルから渡された薄桃色の小布が固く握りしめられていた……。


 村長の家についたリーゼル達は、そこに滞在していたある来賓の一行と合流を果たたす。

 庭先に繋がれているのは、優雅な帝国式の馬車ではなく、見ただけで駿馬と分かる馬達……。

「流石は名馬の産地。北方の馬はどれも見事なものですね……」

 思わず、感嘆の声をあげるリーゼルに、不安気な公子ロアンデルは、三度目となるその言葉を口にした。

「どうしても、一緒に来てくれないのですか?」

「申し訳、ありません……」

 最後の望みとばかり、幼き公子ロアンデルはリーゼルにすがり付く。

 しかし、リーゼルは何も答えず、静かに首を振るだけ。

 そんなロアンデルを、そっと抱き上げたのは初老の貴人、オーグス・クロンヘイム。

 彼は、帝国学院に招かれた来賓の一人で、中原から離れた北方にある有力諸侯に使える重臣であり、ヴァーゼルの父アイゼルと同期の学友にあたる。

「公子様、もう時間がありません。我らは急いでこの地を去らねば……」

「うぅぅ……リーゼル、リーゼル……」

 女子のようにか細い声で涙を流すそんなロアンデルに、リーゼルは目を伏せたまま拝礼をした。

「この中原が平和になった時、再び会えることもありましょう。どうかそれまで、ご自愛下さい」

 公子ロアンデルが欲しかったのは、そんな他人行儀な言葉ではない。

 家族として、自分を愛する我が子の様に、泣きながら抱きしめてくれる優しい母の言葉だった……。

「クロンヘイム卿……此度のご好意、我がフォントーラ家は決して忘れることはありません」

 毅然とした麗人の顔となったリーゼルに、オーグスはうむと頷く。

「流石はアイゼル殿の孫娘殿。まったく女子としておくのが惜しいくらいですな」

「フフッ……フォントーラ家には、男子も女子もありません。誰もが我が一族の誇り、ガイゼル卿の偉名に恥じぬ者として、研鑽しているだけですから」

 すっくと立ち上がったリーゼルは、薄っすら浮かべた涙を拭い、居住まいを正す。

「まったく、アイゼル殿やヴァーゼル殿が羨ましい。我が家にも貴女のような女子がいてくれたら、どんなに心強いことか……」

「お戯れを。刀を履いて馬を乗り回す女子など、他家では嫁の貰い手もないと親を嘆かせるだけでしょう」

 リーゼルは、女子には似つかわしくない腰に下げた太刀の柄を軽く叩いて笑う。

 無邪気で心地良いその笑みに、思わずオーグスはくつくつと笑い出した。

「確かにそうですな……ハハッ、まったくそれだけの器量をお持ちでありながら、どうして天は貴女に二物を与えたのでしょうかな」

 自身の家系ではとても望めぬ美しい顔立ちと、その才器を心底羨みながら、一礼をする。

「では、貴女もお気をつけて。『最良』の彼にもよろしく……」

「必ずや。次にお会いする時はきっと、彼の者とご一緒することになるでしょう」

「フフッ……その時が、今から愉しみでなりませんな」

 そんな愉快そうなオーグスの笑い声に、何も分からぬ公子ロアンデルはただ、愛しいリーゼルとの別れを嘆くことしか出来なかった……。


        *         *         *


 その頃、カゼルの学友達はトラヴィスを中心に、それぞれが手持ちの酒や肴などを持ち寄り、早くも合格祝いの宴を始めていた。

「しかし、主役抜きで始めていて本当にいいのかい?」

 トラヴィスにそう確認しつつ、すでに三杯目の杯を空にしているのは、仲間内で一番の酒豪であるラウロス・アルトナー。

 飄々とした見た目通り武芸は苦手であるが、カゼルと軍略談義で張り合える、数少ない学友の一人。

 常に軍学書を持ち歩き、暇さえあればそれを暗誦しているこの男子は、元南領公麾下の諸侯の一族であり、フォントーラ家と領地が隣接していることもあって、カゼルとは幼い頃からの顔見知りでもある。

「流石に疲れたんだろう。部屋を出た時も、寝台で大の字になって寝ていたぞ」

「トラヴィスじゃあるまいし。あのお行儀のいいカゼルが、そんな寝方するかよ」

 カゼルの様子を伝えたトラヴィスを茶化しながら酒を注いでいるのは、仲間内でも一番の騎射の使い手でもあるドラート・バンデラス。

 アルトナー家の重臣の子であり、幼き頃からのラウロスの良き理解者でもある。

 本来、ラウロスとは主従関係にあるドラートであるが、幼少の頃からの喧嘩友達をしているせいか、カゼル達ともかなりくだけた調子で会話している。

 騎馬が不得手なラウロスの鬼教官でもあり、カゼルとは、普段から良く追い比べなどをしている良き競争相手でもあった。

「……リーゼル殿は、随分遅いようだが?」

 そう尋ねたのは、東藩王家一族のレイナード・フェリアス。

 眉目秀麗の男子であり、いかにも貴公子然とした佇まいだが、文武両道で弁も立つ。

 将来的には、東藩王家の重鎮にもなりうる逸材と評される若者だ。

 唯一、女癖の悪いところが玉に瑕であろうか。

「ふふ……レイナード殿は、どうにもあのお転婆娘が気になる様だな」

「よせよせ。あんな出来た女を嫁にすると一生頭が上がらんぞ」

 声を揃えてそう茶化すのは、イクセルとハンネルのホールソン兄弟。この時代、珍しい双子である。

 大抵、双子のうち一人は虚弱であり夭逝することが多いのだが、彼ら兄弟は幸運にも二人揃って健康な体に恵まれていた。

 彼ら兄弟は、有力諸侯の一つであるホールグレン家の一族だが、主家が西藩王家によって滅ぼされた後は、縁者のバラーシュ家に庇護されている。

 境遇としても、岳父の家に庇護の身となっているカゼルの家に良く似ていることもあり、この双子の兄弟とは学院で知り合ってすぐに意気投合した。

 兄のイクセルは学者顔負けの知識を持ち、軍学においてはカゼルが自身よりも上と認める才人である。

 また、弟のハンネルは武術や馬術に秀でており、特に槍術に長けている。トラヴィスやドラートの良き稽古仲間だ。

「そういう兄者も、ああいう気の強い女が好みだったのではないか?」

「ふふ……だとしても、あそこまで腕っ節が強いと、閨での戦いでも圧倒されそうでな」

 そういってホールソン兄弟が、声を揃えて笑い出す。

「それは確かに、男としての沽券に関るかもな」

 真面目な顔でレイナードがそう呟くと、一同は釣られて噴き出す。

「お前達……後で、リーゼル姉にひっぱたかれても知らんぞ」

 いつもの悪戯な笑みを浮かべたトラヴィスがそう締めくくると、一同の笑い声は更に大きくなった。

 トラヴィス自身はこの豪華な顔ぶれの中で、一番小身の家の出になるが、ここにいる彼らは皆、そんな些細なことは気にしていない。それはトラヴィス自身の腕前が、本物だからである。

 おまけにトラヴィスの父はその剛勇を恐れられた剣豪でもあり、将としても軍学を修め、周辺諸侯からも一目を置かれる一流の武人であった。

 また、トラヴィス自身もその父譲りの優れた体格と豪腕に、師範すら稽古相手を避けるという戦棍の使い手であり、その腕前は間違いなく同期の中で一番であろう。

 彼等は、同期の中でも特に目立った存在といえた。

 カゼルがいかに優秀であっても、今まで影に隠れていたのは不思議ではない。

 そんな彼等であっても、三道三志の試しに挑むのはなかなか勇気のいること……。

 皆、カゼルが実力を隠しているのは知っていたが、ここまでとは思っておらず、内心ではその自尊心を少なからず傷つけられると同時に、素晴らしき友を得ていたことを誇らしく思っていた。

「そういえば、今日はアイツ見掛けないね」

 ラウロスが辺りを見渡しながら、なみなみと注がれた盃に口へ持っていく。

「いつも偉そうに、カゼルの兄貴面してくるイヤミ野郎か」

「今頃、カゼルの本当の実力を知って、不貞腐れているんだろうさ」

 ホールソン兄弟が、含み笑いを堪えながらそう続ける。

「そいつの話題をすんじゃねえって。せっかくの酒が不味くなる」

 不機嫌そうに、ドラートがそっぽを向く。

 彼等が噂しているのはもちろん、セラン・アゴーストのこと。

 カゼルは、セランの様に家柄を鼻にかけた嫌味な男でも気さくに応じていたが、ここの仲間内からは、すこぶる評判がよろしくない。

 自分よりも出自の良いレイナードには丁寧に挨拶をするが、没落したホールソン兄弟など、眼中にないかの様に傲慢な態度をとる。

 トラヴィスにも同様で、アルトナー家家臣の子であるドラートになると、ここの学生であることすら認めようとしない。

 同じ講義などで顔を合わせると、いちいち言い掛かりをつけてくるのでドラートはセランと同じ講義には参加しなくなった。本人いわく、そのうち打ち殺してしまうからだと……。

「しっかし、カゼルはともかくリーゼルまでいないんじゃ、女が寄り付かなくて困るな」

 ドラートが食堂を見渡すと、遠巻きに様子を窺っていた女子達が恥ずかしそうに顔を隠して逃げていく。

「こーらっ! 若造共が、日暮前から酒宴なんか開いてるんじゃないよ!」

 厨房から怒鳴り声を上げながら川魚の塩焼きを持ってきたのは、恰幅のいい食堂の女将おかみだ。

 実はこの女将、学院でベラルディ学長に次ぐ地位を持つ講師の一人であり、普段は女子に武人の嫁としての心得や料理の教えている。

 女将自身も武家の出らしく、見た目の通り腕っ節も滅法強い。

 血の気の多い若衆の扱いにも慣れていて、喧嘩の仲裁など日常茶飯事だ。

 武術師範ですら、その拳骨で涙を流すという噂すらある女豪傑だが、料理の腕も一流である。

「ほら、差し入れだ。肴も無しに酒は飲むもんじゃないよ!」

 皆、苦笑いで頭を掻きながら、女将から突きつけられた川魚の塩焼きを各自受け取っていく。

「おおっ! 香魚あゆとは随分と豪勢ですね」

「流石、育ちがいいと分かってるね」

 女将が嬉しそうに、レイナードの整った髪を乱暴に撫で回す。

「ほぉ~、これが香魚か。確かに独特な香りがするな」

 イクセルとハンネルが、初めて口にする香魚の香りに感嘆の声を上げる。

「女将、これはらわた抜いてないぞ?」

「馬鹿だね。この辺で取れる香魚あゆは、腸の苦味が旨いんだよ!」

 そう言われて、半信半疑のままトラヴィスが香魚の腹にかぶりつく。

「……確かに旨い」

「上流だと川底に泥がないから、はらわたに臭みがないのさ」

 合点がいったらしく、トラヴィスはそのまま一気に香魚を一匹平らげた。

「そうか……もう、香魚あゆの遡上の時期だったか」

 故郷を思い出すかの様にドラートが呟く。

 ドラートの父は、彼がこの学院に入学する直前、亡くなっていた。

 三年前の戦で受けた傷が悪化したのが原因である。

「親父さんが得意だったっけ……」

 ラウロスも、ドラートの家に良く出入りしていたので彼の父のことは良く知っている。幼少の頃、川釣りに連れて行ってくれた昔が懐かしい。

「我等の子が出来たら、またやろう」

 ドラートが静かに頷きつつ、盃に残っていた酒を一気に飲み干した。

 ふと気が付けば、夕餉の時刻も近い。彼らの周囲には、他の学生達が集まって、女将から振る舞われた香魚を頬張っている。

 どうやら、このままカゼルの送別会になだれ込む腹づもりらしい。

 彼らを遠巻きで見ていた女子達も、いつの間にか、女将の手伝いをさせられていた。

「ふうん。やはり、今、ここにいない連中は、そういう輩になるのかな?」

 レイナードが周囲を見渡しながら、何の気なしにそんなことを呟くとホールソン兄弟は顔を見合わせ、なるほどと苦笑する。

「んっ? 何の話だ」

 早くも少し酔いが回っているのか、ドラートの反応は鈍い。

「周囲の顔ぶれ、見てみろって」

 少し呆れた調子でラウロスが顎で合図をすると、ドラートもようやくそれに気付いた。


 この学院にいる学生達は、大きく三つに分かれている。


 一つは、摂政派に属する者。

 もう一つは、当然ながら摂政派に属さないもの。反摂政派と言ってもよい。

 そして、最後の一つはどちらにも属さぬ中庸派。


 摂政とは、この中原帝国の絶対君主である大帝に代わって、政治、軍事の全権を与えられた役職であり、事実上、臣下の最高位となる存在である。

 中原帝国は現状、摂政家に牛耳られた傀儡政権であることは彼ら学生達にも周知の事実である。

 従って、この学院内でもそれぞれの家の思惑により、自然と派閥が作られている。

 今夜の送別会の主役であるカゼルの家、フォントーラ家にとって、その摂政家は主君の仇敵であった。

 三年前、摂政家の突然の奇襲によって南領公が討たれた一件はあまりにも有名であり、この中原では知らぬ者などいない。

 先ほどの『そういう輩』とは、もちろん摂政派を指している。

「トラヴィス、どうした?」

 空になったままの盃を持ったまま、黙ったまま唸っていたトラヴィスは、レイナードにそう声を掛けられると、不意に我にかえった様子で立ち上がった。

「そろそろ、カゼルを呼んでくる」

 そう言い残すと、トラヴィスは他の酒宴の卓をすり抜けながら食堂を足早に出ていった。

「……なんだか、少し変だったな」

「おい、お前もちょっと行ってこいよ」

 赤ら顔のドラートが、そう言ってラウロスを軽く小突く。

 やれやれといった顔でラウロスは卓に飲みかけの盃を置いた。

「まったく、君らの関係が羨ましいよ」

 完全に主従逆転しているこの二人を見て、レイナードは妙な関心をした。

 彼の実家である東藩王家で、家臣が主筋に当たる者を小突くなど、たとえ無礼講であっても度が過ぎている。

 アルトナー家は伝統ある武人の家柄だが、どうやらかなりくだけた家風らしい。

「もう酔ってるのかい? それじゃあ、今夜も女子を口説けないな」

 ラウロスはそう言って、ドラートが投げつけた空の盃をひょいとかわすと、笑いながらトラヴィスの後を追って食堂の外へと出ていく。

 残されたドラートの怒声は、沸き起こった周囲の笑い声によって、すぐにかき消された。


「……相変わらず、早足だな」

「なんだ、来たのか」

 トラヴィスは、追ってきたラウロスに振り向きもせずに、学び舎の回廊を足早に歩き続ける。

「さっきから、何か様子が変だぞ?」

「……そう見えるか?」

「ああ、見えるね」

「……なら仕方ない。黙って着いてこい」

 少し緊張した面持ちのトラヴィスを横目で確認すると、ラウロスは言われたまま黙って歩く。

 トラヴィスが、カゼルとの相部屋の扉を開けると意外な先客がいた。妹のユノアである。

「あっ……兄さん」

 ユノアは目元を細い指先で拭うと、初恋草の鉢を大事そうに抱えて立ち上がろうとする。

 遅れてトラヴィスの後ろからひょいとラウロスが顔を見せると、ユノアは少し驚いた表情を見せた。

「悪い、驚かせるつもりはなかったんだ」

「いえ……どうぞ、お気になさらずに」

 頭を掻いて詫びるラウロスに、ユノアは笑顔でそう答えるとお辞儀をして、部屋を出ていこうとするが、それをトラヴィスが留めた。

「兄さん?」

 トラヴィスは、自分と一緒にラウロスを部屋の中へと押し込めると、扉を静かに閉めた。

「丁度いい。お前に確認したいことがあった」

「えっと……」

「いいから、ラウロスもそこで聞け」

 ラウロスは、オルトナーグ兄妹の微妙な空気に、少し遠慮して部屋の隅に立つ。

 はたと気づくが、カゼルの姿は部屋に見えない。

 それどころか、カゼルの使っていた寝台や机など上の生活空間が、がらんとしていることに気付く。

「お、おい、カゼルは一体どこに行ったんだ……!?」

 ラウロスが小声でそう口にすると、ユノアの肩が小さく揺れた。

「カゼルは、あれからこの部屋には戻ってはいない。そうだな?」

 トラヴィスにそう言われ、ユノアはちらと目線で部屋の隅にいるラウロスの様子を伺う。

「こいつは、これで口は堅い。心配は無用だ」

 そう言われたラウロスは、少し頼りなさげな笑い顔を浮かべてみせると少し安心したのか、ユノアは小さな微笑を見せる。

「カゼル様、リーゼル姉様、それとロアンヌさんも……もうここには戻りません」

「やはり、お前もリーゼル姉から聞かされていたのか」

 兄の問いに、ユノアはこくんと頷く。

 部屋の様子を見る限り、ユノアの言ったことは本当なのだろう。

 しかし、いくらなんでも急過ぎる。

 カゼルが、何の理由もなしに自分ら学友に別れも告げずに、この学院を立ち去るはずがない。

 ラウロスはそこまで思考を走らせたところで、いくつか不測の事態を予感した。

「おいおい、トラヴィス。お前は何があったか知っているんだろう!?」

「知らん。ただ、頃合いでこれを開けろと言われただけだ」

 トラヴィスが懐中から薬籠を取り出すと、慎重な手付きで蓋を開けた。薬籠の中から出てきたのは、一枚の小さな紙片。

 ラウロスとユノアは固唾を飲んで、それが開かれるのを待った。

 トラヴィスは取り出した紙片を広げ、ゆっくりとした口調で読み上げる。

「……老いた獅子は、果てなき夢路へと旅立った……」

 読み終えた後も微動だにしないトラヴィスから、即座にその紙片を奪い取って、自分の目で読み直すラウロスの体は、小刻みに震えていた。

「兄さん、今のはどういう……?」

 今一つ、ぴんと来なかったのか、ユノアだけは対照的な二人を見比べて、小首を傾げる。

「まあ、お前が分からんのは仕方ないことか」

 ユノアが特別、世情に疎い訳ではない。

 リーゼルの様に、男と変わらぬ教育を施されているのは、フォントーラ家独自の家風なのだ。

「おい……これって……」

 トラヴィスは、いつもの飄々とした姿は影もなく、体を震わせたままのラウロスの手から紙片を取り上げると、何でもないことの様にその意味を口にした。

「老いた獅子というのは、摂政ジルヴァ・ボーグタスのことだ」

「摂政……様が亡くなったら、もしかして……」

 それ以上、口にするのが恐ろしくなって押し黙ったユノアの続きを、トラヴィスが続ける。

「無論、三年前よりも遥かに大きな戦いが起こる」

 トラヴィスがそう言い切るには、十分過ぎる根拠があった。


 中原の獅子とも呼ばれた摂政ジルヴァ・ボーグタスは二十年の長きに渡り、この中原帝国で絶対君主である大帝の名を後ろ盾に、長年この帝国を牛耳ってきた人物である。

 そして三年前、最大の政敵であった南領公家の当主を討ち、その本拠地であったブリアス城市を奪い取っていた。

 その当時、南領公家の軍を統括していたカゼルの父ヴァーゼル・フォントーラは摂政ジルヴァの仲介によって、摂政側についた本家筋の人間を当主とするという工作により、まさかの失脚に追い込まれていた。

 建前は、分裂していたフォントーラ家を一つにするということだが、新当主となったコーゼル・フォントーラは病弱で、とても軍を指揮することは適わず、フォントーラ家が抱えていた精強な軍団は瓦解することとなった。

 ヴァーゼルという求心力を失った時点で、摂政家に匹敵する大勢力であった南領公家は、もはやその時点で烏合の衆も同然であったのだ。

 結果だけを見れば、フォントーラ本家の帰属という、見え透いた罠に乗せられた南領公が愚かだったに違いない。

 それでも忠烈を持って鳴る名将ヴァーゼル・フォントーラは、必ずや南領公家の復権を果たし、亡き主君の仇を討つ為、立ち上がることは誰もが分かっていた。それが、フォントーラ家の志なのだから……。

 そんなヴァーゼルが、摂政ジルヴァの死により、摂政家の求心力が落ちる今を逃すはずがない。

 彼の名将ガイゼル卿の再来とまで言われたヴァーゼルが兵を上げれば、摂政家に恨みを持つ多くの諸侯らが参戦することだろう。

 そう……間違いなく、この中原全てを巻き込む大きな戦いが起こるのだ。


 三人は、暫く押し黙ったまま、その紙片に書かれていた言葉を頭の中で反芻していた。

「……さて、どうする。一旦、皆のところに戻って、酒でも飲み直すか?」

「ばかな! 冗談ですむ話じゃないだろ、これは!!」

 真顔で言うトラヴィスに、呆れた調子でラウロスが紙片を突きつけた。

「で、でも、皆さんにこの事をお知らせしないと……」

「ああ、それはダメだ。大騒ぎになるだけなんでね」

 ラウロスが急に難しい顔をして、一人で問答しはじめる。

「……そうだ。下手に騒ぐと、余計にここを出にくくなる……じゃあ、何で一刻を争うはずのカゼルは、わざわざ『三道三志の試し』を受けたんだ?」

「それは、フォントーラ家の誇りを守る為じゃないのか?」

「そうじゃない。『三道三志の試し』を受ければ、来賓達が来る。護衛の兵士達だって当然増える。逃げたのがばれたら、沢山の追手が差し向けられるじゃないかっ!」

 ラウロスとトラヴィスの不穏な会話に、思わずユノアが口をはさんだ。

「そ、そんな! どうしてカゼル様達が追われるの!?」

「摂政家にとって、フォントーラの人間は目障りだからさ」

「そんなこと言ったら、摂政派の家でない我等だって同じじゃないか!」

「まあ、確かに。ここには反摂政側の家の子弟が、わんさといるからな」

「例え、次男三男でも脅しには十分。可愛い娘や末子なら、尚のことか……」

「だから、カゼルが囮になってくれたんじゃないか?」

 ラウロスは、トラヴィスの何気ない言葉に思わず絶句する。

 そして、すぐさまその言葉を反芻し、思考を巡らせた。

「……なるほど、三道の試しであれだけ目立っておけば、絶対捕えたくなる。カゼルが追手を引きつけている間に、俺達にも逃げろってことだな。そうか、だからお前に送別会を仕切らせたのか!」

「んっ? そこはよくわからんが」

 ようやく合点がいったのか、少し落ち着いた様子でラウロスが説明を始める。

「まず、カゼルと同室のお前が、カゼル不在を隠したまま我等を集めても、疑問に思う者はいない」

「まあ、そうだな」

「次に、我等が送別会を開けば、集まる面子はだいたい決まってくる」

「…………」

「そして、カゼルの合格を喜ばない連中は、当然、送別会には参加してこない」

 察しのいいトラヴィスは、そこまで聞くと理解した。

「なるほど。伝えるべき人間は、もう集まっているか」

「そういうことだ。あとはこれを見た各自が、それぞれ自分の判断を下せばいい」

「ま、そういうことになるか」

 平然としたままのトラヴィスに、ラウロスは、はぁぁ~と深い溜息をつく。

「まったく……カゼルは。トラヴィスにくらい、ちゃんと言っといてくれよ……」

「オレが分からずとも、お前達がいる。頭の切れるヤツが、必ず気付いてくれるってな」

「信用されてるってか? まったく、ありがたいことで……」

 二人はそう締めくくると、愉快そうに笑いだす。

「わ、笑いごとじゃないです!」

 不安を吐き出す様にユノアが叫ぼうとするが、すぐさまトラヴィスの手で、その口は塞がれた。

「悪かった。だから、落ち着け」

 巨漢のトラヴィスが、小さな子供でもあやすかの様にユノアを優しく宥める様子が可笑しくて、ラウロスは噴き出しそうになるのを必死で堪える。

「……笑ってもいいぞ」

 そう言って拳を握りしめるトラヴィスから逃げだす様にして、ラウロスは部屋を飛び出していった。

「明日、朝一でここを出る。今夜の内に卒業届を用意しておけ」

 トラヴィスは、持っていたカゼルの薬籠をユノアに託すと部屋を出ていく。

 一人、残されたユノアはその場にへたり込むと、手にした薬籠を見つめ、そして小さな胸で抱きしめる。

「カゼル様、リーゼル姉様。どうか御無事で……」

 今のユノアは、ただカゼル達の為に祈ることしか出来ない。

 窓の外はすっかり日も暮れて、烏の鳴き声が空に響き渡っていた。


        *         *         *


 翌日、帝国学院ではまるで戦でも始まったかの様な騒ぎが起きていた。

「こ、これは何事かっ?」

「なぜ、昨日の今日でこんな事に……」

 学生達を指導する側の大人達が、学院内を右往左往しては、悲痛な声を上げている。

 学び舎の中には、完全武装した騎馬隊が何百人も押し寄せては、学生達を一番大きな講堂の中に集めていく。

 漆黒の鎧と外套に身を包んだその姿を見て、誰もが怯え、顔を青くする。

「黒獅軍の騎馬隊だ……」

「ど、どうして……この帝国学院は、摂政家の庇護下に置かれているはずでは?」

 一人の男子が、不安そうに隣の訳知り顔のセランに尋ねた。

「……要するに、我等諸侯の子弟を拘束しにきたのだろう」

「何の為にっ!?」

「もちろん……人質にする為に決まってる」

「そんな……まさか、あいつら……知っていたのか?」

 人質と聞いて、蒼白となった男子がこの窮地を逃れた者達を非難するかのように口走る。

「昨日の『三道三志の試し』のお祭り騒ぎも、全てこうなることを知っていたから……そうなんだな、陪臣の子め」

 セランは、ギリギリと歯を鳴らして己の迂闊さを……いや、この事態を招いた一人の男子の所業に怒りを覚えた。


「おい、貴様らもこっちに来いっ!」

「他の連中はどうしたっ! 男子も女子も、数が合わぬではないかっ!」

 恫喝する騎馬将校に、一人の政治師範がしどろもどろになって答える。

「そ、それが……一部の学生達が日の出前に突然、卒業届けを出して、出て行ってしまったのです」

「なんで、そんなことを勝手に許すっ!?」

 政治師範の胸元を掴んだ騎馬将校が、怒りのままに状況の説明を求めた。

「ほ、本学院は、入学も卒業も、ご本人達の意思で行われるものですっ! 我らには、去り行く彼らを留めることなど……」

 帝国学院には、その身元の保証と高額な年間学費さえ支払われさえすれば、何人でも入学が出来、また本人の意思でいつでも学院を去ることが許されている。

 もちろん、そんなことは当の騎馬将校も知っている。

 だが、主君の命を受けてきた彼等にとっては、捕縛対象の多くを取り逃がしたことは失態でしかない。

「ライヴァン殿っ! ダメです、やはり彼奴はどこにも見当たりませんっ!」

 駆けつけてきた騎馬隊の一人が、それが現実であったことを報告する。

「来賓の中にまぎれたのではないのかっ?」

「いえ、そうした者もおりましたが、皆、中庸派の子弟達で……」

「……南領派や北領派の者達だけ、まんまと逃げおおせたということか」

「はっ……残念ながら」

 他の隊員からの報告を受けると、更には東南諸侯の子弟達の多くも見当たらないという。

「くそっ……まさか、こんなに早く気付かれるとは……流石はフォントーラの血を引く者ということか」

「それで、捕らえた諸侯の子弟や、来賓はいかが致しましょう?」

「解放しろ。味方の縁者だけ捕らえたところで、意味はない」

「しかし、今だ去就を明らかにしていない諸侯の縁者もいる模様ですが……」

「くどいっ! 我らの判断で、無用な政敵を作ってなんとするかっ!」

 騎馬将校ライヴァン・ファーロフは、苦虫を咬んだような顔でそう吐き捨てる。

「も、申し訳ございませんっ! 思慮が足りませんでした」

「……もうよい。我等には、次の任務がある」

 そう言って騎馬将校は、すぐさまその隊員に伝令を命じる。

「父……我らが僧帥そうすいに、彼奴が遁走したことをお伝えしろ。我が隊は、学院の後始末をする」

 ライヴァンは、かつて自身も席を置いたこの帝国学院の終止符を自ら打つことになった悲運を噛み締める。

「これで、再びこの中原は戦火に塗れる。次に学院が開かれるのは、いつになることか……」

 それでも自分は偉大なる主君の為、そして、それを補佐する僧帥イヴァン・ファーロフの志を引き継ぐ為に、自らの青春時代の思い出を封じるしかない。そう自身に言い聞かせるのだった……。


 その頃、カゼルとリーゼルは二人で山野を駆けていた。

 身軽な服装だが、手先から足先までしっかり覆いをつけており、藪の中でも一向に構わず、疾風の様に駆け抜けていく。

 いや、正確には二人の先を行く大きな影が一つ。

 そして、二人の背後に付き従う影が一つ。

 この前後の影によって、カゼルとリーゼルは守られていた。

 そんな一向の前に、小さな灯が一瞬揺らめいては消え、また揺らめいては消えていく。

 それを合図にカゼルは振り向きもせず、後ろのリーゼルに手を伸ばす。リーゼルは、それに応える様に速度を上げてその手を掴んだ。

 カゼルからの神気が互いの手を通して伝わると、限界を感じつつあったリーゼルの脚力に、再び力が漲ってくる。

 二人はそのまま更に速度を上げると、目の前に大きな森が見えてきた。

 不意に、後ろから迫ってきたのは馬蹄の音。

「逃がすな! 殺しても構わんっ!!」

 カゼル達を追ってきたのは、七騎。どれも駿馬であり、その乗り手も只者ではない。

 少なくとも学院の馬術師範に匹敵する巧者が揃っており、振り返った瞬間、その手に持つ槍で串刺しにされかねない。

 一対一ならともかく、二人三人と同時にこられたら、流石のカゼルでもかわしきれるかどうか……。

 そんな刺客達が、密かに学院を抜け出した二人を追跡し、一気に捉えんと襲い掛かってきたのだ。

 リーゼルのすぐ背後まで迫った先頭の騎手が、槍を逆手に構えた瞬間、その手首から先が跳ばされる。

「がぁぁああっ!?」

 もんどり打って落馬した刺客に黒い影が襲い掛かり、血飛沫が噴き上がる。

「伏勢かっ!?」

 それに気を取られた一人が振り返ろうとした瞬間、口の上から上が千切れ、そのまま駆け抜けていく。

 転がる騎兵の半頭を地面に縫いつけたのは、一本の矢……。

 しかし、それを見ても残った五騎は怯まずに、カゼル達を追う。

「構うな! 獲物を逃すなっ!!」

 素早く横に展開して的を散らそうとするが、その間、更に一人が射貫かれて草叢の中に落ちる。

「あと四つ、いや、二つか……」

 彼らの行く手に立ちはだかる巨木の上で、次の矢に手を伸ばした長身の男がそう口にする。

 次の瞬間、森の中に逃げ込もうとするカゼルとリーゼルの左右から、刺客の馬が迫った。 

 すると、左側に回り込んでいた一騎が足を取られ、騎手が投げ出される。

 ゴキリとイヤな鈍い音が一つ。

「何っ!?」

 驚いて棹立ちになった馬からもう一人、草叢の中に突き落とされた。

「まだだっ!!」

 右から回り込んだ二騎の前に、カゼルがリーゼルをかばう様にして身構えた。

 しかし、その手には何の獲物もない。

 おまけに、神気を練る余力も残されてはいない。

 それでもカゼルは肺から全てを吐き出す勢いで、己の体に気を張り巡らせる。

「カゼルッ!!」

「おうっ!!」

 姉弟が互いに声を掛けあった直後、馬上に掲げられた二本の槍がカゼルに迫る。

 その瞬間、カゼルは二騎の狭間へと身を躍らせた。

「馬鹿めっ!」

「死ぬがいい!!」

 刺客の二人が繰り出した必殺の槍と、跳躍したカゼルの体がすれ違う。

 交錯した瞬間、切り裂かれたカゼルの左袖が宙を舞う。細見の体が幸いしたのか手傷はない。

 振り向き様、二の槍を繰り出そうとした刺客の目に、カゼルを囮として、横っ飛びに跳ねたリーゼルの手から放たれた太刀が突き立つ。

 そう、カゼルが三道の試しで使った模擬刀の太刀だ。

「ぐあぁあっ!?」

 辛うじて落馬をこらえた刺客は、そのままカゼルとリーゼルの脇を駆け抜けていく。

 そして残った目で仲間の姿を求めたが、横を併走していたのは、壊れた人形の様におかしな方向にだらりとこうべを垂れた者の姿だけ。

 カゼルと交錯した時に、その鋭い蹴りで首をへし折られていたのだ。

「くっ……まさか、あんな若造と小娘にっ!」

 生き残ったのが自分一人と悟った刺客は、どうにかこの場を逃れる為だけに行動した。

 目前の森の中に逃げ込めば、もう弓は使えまい。あとは……。

 次の瞬間、横から飛び出してきたのは巨大な顎!

 刺客の首は一瞬にして食い千切られ、空馬だけが狂った様に暗闇の中へと走り去っていく。

 刺客を襲ったその大きな影は、食い千切った首の髪のもとどりを咥え直した。

 一方、森の外では大きな矛槍を軽々と肩に担いだ巨漢の武人が、草叢の中に倒れたままのカゼルとリーゼルの前で、乗り手のいなくなった馬の手綱を掴んで、落ち着かせていた。

「……だから言ったのです。最初から、我等を護衛に付けるようにと」

「すまない、ジィド。僕等の様な子供相手に、まさかこれほどの討手を出してくるとは思わなかったんだ」

 差し出された巨漢の手を取ると、カゼルは立ち上がる。

 この巨漢の武人の名は、ジィド・ローハン。

 代々フォントーラ家に仕える武人の出自であり、若手ながら、家中随一の腕前を持っている武人だ。

 カゼルの様に神気は使えないが、その剛腕から繰り出される一撃は易々と鉄兜を両断する。

 少なくとも、今のカゼルにはその一撃を受け止める自信はない。

「……何言ってんのよ。アンタ達が呑気に構えてるから、こんな目にあったんじゃない!」

 不貞腐れた調子で、リーゼルは巨漢のジィドに向かって悪態をつく。

 ジィドは愉快そうに笑いながら、リーゼルの手も引いて立ち上がらせる。すると、その背後にもう一人、長身の弓を持った男が現れた。

「これは姫。相変わらずの見事なお転婆振りで」

「余計なお世話よ! この適当男!!」

 軽薄そうな男の声に、即座にリーゼルが噛みつく様に答える。

 その男の名は、ラウグ・ラーム。彼もジィドと同じく、フォントーラ家の武人であり、カゼルの弓の師匠でもあった。元々は狩人で、カゼルの父ヴァーゼルにその弓の腕前を見込まれて、仕える様になったという。

 ラウグは、カゼル達の様な純粋な西方人ではなく、中原人の血が混じっており、それもあってか常人を超越した視力を持つ。

 リーゼルが言った通り、任務以外のことは、全てがいい加減であり、生活態度もだらしないことからいつも女衆に叱られているが、不思議な愛嬌もあって、他人に嫌われない得な性格をしている。

「しっかし、こう派手に散らかしちゃ、何にもなかったことには出来ませんな」

 ラウグは周囲の死体を見て、肩を竦ませた。

 落馬していた一人も確認するが、馬に胸を踏み抜かれ、すでに息絶えていた。

「やだやだ、こんな死に方。どうせなら惚れた女の上で逝きたいね」

「……姫の前だ。それ以上は、鼻先が無くなっても知らんぞ」

 ジィドが睨むと、ラウグが両手で鼻を押さえて後ずさるが、不意にその背中を手で止められる。

 いつの間にか、ラウグの背後に一人の男が立っていた。その脇には熊の様な巨躯の狼が静かに伏せており、更にその足元には刺客の首が一つ転がっていた。

「うひょあ!?」

 ラウグが素っ頓狂な声を上げて飛び退くと、足音も立てずにその男はカゼルの前まで進み出て臣下の礼をとる。それに続いて巨躯の狼も近寄り、伏せをした。

「ハーレン! ガルムも!!」

 カゼルがそう言って熊ほどあろうかという巨躯の首元に抱き付くと、ガルムはまるで飼い犬の様な鳴き声を上げて頬擦りしてきた。

「ありがとう、ガルム。お前のおかげで、道に迷わずまっすぐここまで来れた」

 鮮血に塗れたガルムの巨躯を労わるように、頭や顎下をカゼルが撫で回すと、ガルムは気持ち良さそうにその身を委ねる。

「まったく、大きくなっちゃって……びっくりしたわよ」

 リーゼルもまたそう言って、ガルムの労をねぎらう様にその背中を撫で回してやった。

「お二人共、よくもまあ、あんな風に触れるもんだ……」

 さも、恐ろしいモノでも見る様に、ラウグが距離を置いてその様子を眺めていると、カゼルの前で片膝をついていた男が、いきなり何かを投げつけてきた。

「うおっと!?」

 咄嗟に右の掌で受け止めると、それは、角が削り落とされた小石。

「あっぶねぇな! 何すんだよ!!」

 ラウグの文句に対してハーレンは黙ったまま、すっかり暗くなった空を指した。

 すでに夕雲は遠く、空には烏の鳴き声が聞こえるだけ。

「……なるほど、烏か」

 そうつぶやくと、ラウグの顔は急に引き締まる。

 そして、絶妙な狙いと速度でその小石を空に放つと、暗い夕空にギャアと悲鳴が上がった。

「おい、落ちてこないが?」

 ジィドが、ギャアギャア喚きながら南へと逃げていく烏を見上げる。

「わざとだよ。って、早いなオイ……」

 ラウグが気付いた時には、すでにハーレンとガルムは駆けだしていた。

「連中は、烏使いも連れてきていたのか」

「私達二人に、どんだけ本気出してるのよ。まったく!」

 カゼルの言葉で、ようやく状況を理解したリーゼルが憤然として立ち上がる。

「ここからは馬で走れる道もありますので、我らは先に行きましょう」

 そう言ってジィドは、すっかり大人しくなった馬の手綱をリーゼルに手渡すと、ラウグと共に、森に繋いである自分達の馬に向かった。

「あの子達は大丈夫かしら」

「彼らなら、すぐに獲物を仕留めて追いついてくるさ」

 心配そうなリーゼルにそう声をかけると、カゼルも刺客が乗っていた馬を宥めて跨る。

 自分達は、もう学生ではない。そして、子供でもいられないのだ……。

 ここから先は乱世に行きる武家の者として、常に死と隣り合わせの人生を歩んでいく。足元に転がる骸達が、すでに始まっていることを示している。

 草叢を吹き抜ける冷たい風に、思わずリーゼルは細い肩を震わせた。

 押し寄せる不安を振り払うかの様にリーゼルも馬に跨ると、先を進むカゼルの姿を追う。

 草叢には、残された馬の嘶きだけが、いつまでも寂しげに響いていた……。

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