青雲の義将 カゼルの中原騒乱記

真樹 良成

第1話中原の風

 若者は、爽やかな初夏の風を感じていた。

 空を見上げれば、うずたかい夏雲が遠くへ流れていく。

 そこは、広大な大陸の中央部に位置する『中原』と呼ばれる一帯。

 かつて西方に栄えた大帝国が大遠征を行い、この中原を版図としたのも……今は昔のこと。

 もう百年も昔に母体であった西の大帝国は瓦解し、本来、占領地であったはずのこの中原だけが、今もその帝国の名をかろうじて維持している。

 若者が、現在その身を置いているのは貴族や武家の子弟が集い、学問と心身を鍛える為に開かれた帝国唯一の学院。

 彼の名は、カゼル・フォントーラ。今年で二十になる。

 親元を離れて早、三年の月日……。

 自分は一体、どれだけ成長したのであろうか。

 それを知る為にカゼルは今、この場に立っている。

 優しげな顔立ちに、後ろにまとめた長い黒髪で颯爽と立つその姿は、まるで絵画から抜け出してきた麗人の様。

 華奢にも見えるその体躯に帷子かたびらを纏い、一人静かに観衆の待つ舞台へと歩みを進めていく。

 ジャーン、ジャーン、ジャーン……。

 そんなカゼルを急かすがごとく、通路の左右から激しく銅鑼が打ち鳴らされていた。

 学院に身を置く者にとって、これは一世一代の晴れ舞台。

 だが、自分にとっては、この後に起こる出来事の前座にしか過ぎない。

「(逸るな……真なる試しは、この場ではないのだ)」

 誰にも聞こえぬ声で、そう呟きながら、カゼルは心を静めていく。

 やがて、銅鑼が鳴り止むと同時にカゼルは声高に宣誓を行った。

「ヴァーゼルが子、カゼル・フォントーラ! 此度、三道三志を持って、本学業を終えんと願います!!」

 観客席から、小さなどよめきが起こる。

 三道とはすなわち、武術の道・弓術の道・馬術の道を指す。

 また三志とは、この学院講師陣の面前で武人としての心構えである忠・孝・義に対する自らの志を示すこと。

 この『三道三志の試し』を許されるのは、最低でもこの学院で三年以上の修学後、先ほどの三道の他、思想、礼節、学識の全てにおいて認められた者だけ。

 この学院の真の卒業試験といえるこの『三道三志の試し』を行える者は、名門の子弟が集うこの学院に於いても、十年に一人いるかどうか。

 この試しに見事合格すれば、帝国中から賞賛されるのは間違いない。

 もし、無様にも万人の前で失格の烙印を押されれば、中原世界に生きる武人として、最早どこにも居場所が無くなってしまうだろう。

 しかし、カゼル自身にとっては、そんな些細なことはどうでも良かった。

 フォントーラ家は三代続けてこの試しに合格しており、カゼル自身も入学以前にこの試しと同等の厳しい修練をしてきている。

 合格して当然。

 問題は、偉大なる父祖と比べて優劣はどうであったか、その一点に尽きる。

 カゼルは、不遜ともいえるその考えを一旦、宙に振り払う。

 『三道三志の試し』を申し出てから、一週間が過ぎ……ついに試しの時はきた。

 開幕の陣太鼓が鳴り響く中、同じ学び舎の学生や講師達。急遽、来賓として招かれた諸侯の代理や帝国の要人といった大勢の観衆が見守る中、壇上に威厳を漂わせた高僧がゆっくりと立ち上がる。

 当代きっての賢人とも言われるこの帝国学院の学長、ベラルディ大僧正が、張りのある言葉で開幕の時を告げる。

「ヴァーゼルが子、カゼル・フォントーラよ。ここでお主が学んだ全て、存分に出してみるがよい!」

 老齢とは思えぬ凛とした声が発せられると、周囲から一際大きな歓声が湧き起こる。

 カゼルは、膝を付いて拝礼を終えると、静かに立ち上がった。

 しなやかに立つ凛々しきその姿、整った顔立ちは、否が応でも衆目を集めていく。


 ある者は、期待を胸に。

 ある者は、値踏みする様な視線を。

 そしてある者は、無様な失態を望んでいた。


 そんな観衆の中に、美しき眉を寄せて心配そうに見つめる娘が一人……カゼルの姉、リーゼルの姿があった。

 ヴァーゼルの後妻の子であるカゼルの二つ上の姉であるリーゼルは、同じ乳母に育てられたこともあって、姉弟は何をするにも一緒だった。

 姉リーゼルが、女だてらに帝国学院へ武人として入学したのも、カゼルが行くならば自分も行くと、祖父にせがんだから。

 いつの時代も、老人は可愛い孫に弱いものだ……。

 しかし、もうすぐそんな姉とも別れの時が来る。きっと、姉のリーゼルもそれを感じているのだろう。

 いつになく、真剣な眼差しで見つめてくるそんな姉に、カゼルはフッと笑みを返してやる。

『……自分は、偉大なる父祖の志を継がんとする者。どうか、黙って見届けてください』

 それが、昨夜リーゼルに伝えた言葉。

 その言葉に、一体どれだけの意味を込めたのだろうか……。

「(自分は、今日この場所より、一人の武人としてこの世界に羽ばたくことになる)」

 どこまで早く、高く飛べるか。

 それとも志むなしく、何もなさぬまま、この地の塵芥となった消えていくのか。

 全ては自分自身に掛かっている。

 まずは眼前の戦に勝つ。そして、次に襲い来るであろう危機を逃れること。

 たやすいことではない。しかし、自分はそれが出来る。いや、必ずなさぬばならぬことなのだ……!

「いざ、御照覧あれっ!」

 意を決すると、カゼルは目の前の台に置かれていた大弓を手に取った。

 すうっと息を吸い込むと同時に、カゼルは全身に気を張り巡らせていく。

 自身の背丈と代わらぬ大きさの大弓を苦も無く引き絞ると、舞台の端に置かれた的に、ひょうと音を立てて矢を放つ。

 それは、吸い込まれる様に的の中心を打ち抜き、快音を響かせた。

 遅れて沸き起こったのは、小さな拍手。

 カゼルはそこから立て続けに十矢を放ち、全て的の中心を打ち抜いた。

 拍手はざわめきとなり、大きなどよめきへと変わっていく。

「一同、静粛にっ!」

 壇上の学長からそう声が掛けられると、再び観衆は鳴りをひそめた。

「次っ!」

 合図と共に、カゼルは狩りや騎射に適した小弓に持ち替える。

 カゼルは、自身の体格に合うこの小弓が好きだった。

 新たな矢筒を背負い、カゼルは天を見上げる。

 ドドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドーン……!

 陣太鼓の音が止まり、壇上から鏑矢が唸りを上げながら飛んでいく。

 やがて、静まり返った舞台上に高く飛来したのは五つの凧。

 上空の風にあおられて左右にぶれる的を狙うのは、ある意味、飛ぶ鳥を落とすよりも難しい。

 それでもカゼルは躊躇することなく、次々を凧を打ち落としていく。

 四本目の矢で、二つの凧を同時に貫くと一際大きな歓声が上がった。

一箭双雕いっせんそうちょうをこの試しで見せるとは、やりおるわい」

 壇上の学長が、目を細めながら口元の笑みを隠す様に手をやる。

「さて、余した一矢をどうするやら……」

 学長の隣で見物している弓術師範が、愉快そうに呟く。

 するとカゼルは、舞台に置かれたままの的に向けて弓を構えると、気合一箭!

「はっ!」

 落下してきた凧もろとも的を射抜き、爆散させた。

 思わず来賓の一人が立ち上がって拍手する。釣られる様にして、観衆総立ちの喝采が沸き起こっていた。

「あやつめ、思いのほか役者じゃのう」

「その点についてだけは、すでに彼の父御を越えてますな」

 カゼルが最後に見せたのは、『神気』と呼ばれる武技の一つ。

 精神統一によって高めた気を一点に集約し解き放つその技は、刃に載せれば兜を両断し、矢に載せれば鎧をも撃ちぬく威力となる。

 達人ともなれば、刀剣の刃を振るうことで神気を放ち、離れた大岩すらをも切り裂く。

 カゼルが学院で神気を披露したのは、これが初めてのこと。

 それだけに、学友達には舞台の上のカゼルが、まるで別人の様にも見えていた。

 友人として誇らしく思う者もいれば、より憎悪の目を向ける者もいる。

「見せなくてもいいのに、カゼルってば仕方ないんだから……」

 リーゼルは喝采を浴びる弟の姿を誇らしく思いながらも、衆目を集めることで、今後は執拗に敵視されるであろうことが不安で堪らない。

 そんなリーゼルの呟きも、激しく打ち鳴らされる銅鑼の音にかき消されていく。次の試しが始まるのだ……。

 舞台前の広場に、一頭の駿馬が引かれて来た。

 カゼルは壇上に拝礼を済ませると静かに馬の前に立ち、馬のうなじを撫でながらその馬だけに伝える様に何事かを呟く。

 これは、カゼルが初めて出逢った馬と心を通わせる為の儀式。

 子供の頃から誰に教えられるでもなく、何となくこうして接することで、どんな馬とも打ち解けることが出来た。

 カゼルは馬と話せるのだなと、父の愉快そうに笑った顔が子供心に嬉しかったのを覚えている。

「さあ、いこうか!」

 自分を鼓舞する様にそう口にすると、宙を舞う様にして颯爽とその馬に跨った。

 観衆の中のうら若き乙女達から、思わず溜息が零れる。

 この学院には、良縁を求めて女子を学士枠で入学させる諸侯や有力豪族も多い。

 当然、この様な晴れやかな舞台に立つカゼルに、胸をときめかす乙女が居てもおかしくはない。

「陪臣の子のくせに……」

 不快そうに、学友の一人がそう呟いた。

 つい先日までカゼルとは親しく振舞っていたのにと、彼の取り巻きは不審な顔をする。

 セラン・アゴースト。それが彼の名……。

 代々大帝に仕える直臣の子であり、子爵位を持つ家柄でもある。

 しかも、この学院に入学する者の多くは跡目を継ぐことのない次子、三子以降であるのに対し彼は嫡子であった。

 セランの父は高齢であり、この学院卒業後には、彼がその跡目を継ぐことも決まっている。

 セラン自身が中原帝国の絶対君主である『大帝』の側近となる日もそう遠くないことは、周知の事実であった。

 そんなセランは、今までカゼルが優れた才覚を披露しても、それに嫉妬することなど一度もなかったというのに……。

 講師陣や学生達の間でのカゼルの評価は、全てにおいて『優』。

 これは、六段階評価の二番目にあたり、その順列は『特・優・秀・良・可・不可』となる。

 ちなみに『不可』は評価対象にならず、学院講師陣による厳しい補習により『可』と認められるまで、鍛え抜かれるのだ。

 総合評価でのカゼルは常に上位であり、『三道三志の試し』を受ける資格はあるも、どれも突き抜けた才能を見せたことはない。

 その為、学友達の間でも今回の試しに挑むのは正直、無謀だとも囁かれていた。

 それでもあえて挑むのは、三代に渡って『三道三志の試し』に合格者を出してきたフォントーラ家の矜持を守る為であろうと。

 しかし、たとえ合格出来たところで、カゼル自身の将来性が広がるとも思われてはいなかった。

 フォントーラ家の主君は先の戦いで戦死し、本拠地も失った今では、存在しないも同然だったからである。


 云わば、現在のフォントーラ家は主無き家に忠誠を誓う哀れな使用人の様なもの。

 なんなら将来の優秀な手駒として、手なずけておくのも良かろう。

 また、カゼルの美しく気丈な姉リーゼルも側室の一人としてなら悪くない。


 セランにとって、カゼルとは、その程度の男であるべきだった。

 たとえ、カゼルが帝国の重鎮達が来賓として見物している目の前で三道三志に合格し、この中原にその名を広めたとしても、セラン自身の優位性は変わらない。

 そのはずだった……。

「(だのに、何だっ、この不愉快さは……!!)」

 セラン自身、弓術においては同輩の中でも筆頭とされており、密かな自負でもあった。

 それが、格下に見ていたはずのカゼルが突然、晴れの舞台で自分よりも上位に立っていたのだ。

 カゼルは実力をずっと隠していた……。

 きっとセランのことを、陰であざ笑っていたに違いない。

「(許せぬ……)」

 カゼルへの屈辱的な敗北感、そして憤りがセランの思考を支配していく。今まで感じたことのない、どす黒い怒りが体の中を駆け巡っていた。

 ベキッ!

「……セラン殿?」

 取り巻きの一人から小声で名を呼ばれたことで、ようやくセランは我に返る。

 無意識の内に手にした扇子をへし折った音が、周囲から冷ややかな視線を集めていたらしい。

「……クッ!」

 気まずさにその場を立ち退くと、舞台の方から一際大きな歓声が沸き起こる。

 疾風の様に人馬一体となったカゼルが通り過ぎた後、鮮やかに五つの的が打ち落とされていた。

「(これほど正確な騎射が出来る者など、果たしてこの学院にいるのか……?)」

 これ以上、この場に留まることなど出来はしない。

「セラン殿、どちらへ?」

 そんな取り巻きの声に答えず、セランは黙ってその場を立ち去っていくことしか出来なかった。


        *         *         *


「……では、カゼルよ。次はそのまま馬術の試しを行うが、良いかな?」

 壇上の上から学長が、流鏑馬を終えたばかりのカゼルに声をかけてくる。

 馬上のまま、カゼルが拝礼でそれに答えると、再び銅鑼が打ち鳴らされた。

 次の試しは、馬の追い比べ。

 馬術師範が三人、騎馬で舞台前の馬場に現れた。

 どの馬も、指折りの駿馬であるのは一目で分かる。

「どうする。新しい馬に乗り替えても良いが?」

「いえ、自分はこの馬と合う様なので、このままでお願いします」

 カゼルは此度、戦友となったばかりの馬の首筋を撫でながら、そう答えた。

 余裕とも思えるそんな返事に、一人の馬術師範が声高に叫ぶ。

「ならば、遠慮はせぬっ!」

 カゼルは不敵な笑みを静かに浮かべると、馬首を返してそれに応じた。

「望むところ!」

 カゼルがそう元気良く答えると、陣太鼓がドコドコと静かになり始めた。

 カゼルと三人の馬術師範は横並びに整列して、開始の合図を待つ。

「では各々方、準備はいいな!?」

 学長が壇上から舞台の上に降りてくると、左右から法螺貝が吹き鳴らされる。

 一瞬の静寂の後、大太鼓が轟音を響かせると同時に四頭の馬は一斉に駆け出した!

 観衆の中から、学生達がワアワア叫びながら、競走の推移を眺めんと学院の壁によじ登っていく。

「こら、お前達! 御来賓の前であることを忘れるな!!」

 師範の一人が、学生を追い立てる様に走っていく。

 学長はその様子を、ただ愉快そうに笑う。

「さてさて、学生達は元気があってよろしいですな」

「では、我々もそろそろ始めるとしましょうか」

 来賓席の一人が左右の来賓達にそう声を呼びかけると、あっという間にその場に来賓席の輪が出来た。

「では、それがしはこの馬で……」

「自分は、この若き駿馬にいたしましょうかな」

「さあさあ、お決まりの方から、どんどん掛札を持っていかれよ」

 来賓一同は、今までの厳粛な雰囲気からはめを外さんと宴会の様に騒ぎ始める。呆れたことにこの神聖な学び舎で、堂々と賭博を始めたのだ。

「学長、よろしいのですか。あれは……」

 師範の一人がそう囁くと、学長は苦笑いを浮かべて手をひらひらと振る。

「御来賓方も、これが愉しみでお越し下さっているのだ。皆が戻ってくる頃には、お行儀良くして下さるだろうよ」

 学長もゆっくりと腰を上げると学院の四方を守る物見櫓へと歩き出す。どうやら、学生達に混じって競走を様子を眺めるつもりらしい。

 やれやれと溜息を付きながら、その師範も学長の後に続く。


 一方、四頭の騎馬は、早くも学院の一角を回っていた。

 三人の師範は示し合わせた通り、開始直後から全力で追い、カゼルの馬の進路を塞ぐ。

「くっ……!」

 前と左右から馬群に包み込んでしまえば、どんな達人でもそこから抜け出すことは出来ない。

 おまけに、左右で振り回される鞭の脅威もあった。

 カゼル自身もそうだが、馬の目にでも当たれば、当然馬は怯んでしまうし、最悪は棹立ちとなり、落馬の危険もある。

 それを避ける為、カゼルはやむなく馬の速度を落とした。

「はははっ! どうした、カゼル!!」

「それでもフォントーラの子か!」

「それっ! 一気に引き離すぞ!!」

 三人の師範は後逸するカゼルを後目に、嘲笑うかの様に馬に鞭を入れた。

「カゼル! 何してんだ!!」

「追え! もっと追いまくれ!!」

 塀の上によじ登った学友達が、ワイワイはしゃぎたてる。

 特に、一際大声を張り上げているのは親友のトラヴィスだ。

「カゼルーーーっ! しっかりーーーっ!!」

 続いて、一際甲高い声が聞こえてくる。

 目線を横に向けると、姉のリーゼルが物見櫓の上から手を振っていた。

 その脇から、ちょこんと顔を出して手を振っているのは、この学院で知り合った親友トラヴィスの妹、ユノア。

 入学時期も近かった彼ら兄妹とは、男女の兄弟同士、同室の方が色々都合よかろうと、学院側が気を利かせてくれたのだ。

 偶然の出会いだったにしろ、それぞれは思いの他、馬が合ったようで、すぐに親友の絆を結ぶこととなった。

 特に姉のリーゼルは、七つも年下のユノアを実の妹の様に可愛がり、いつも一緒に行動している。今もそんな二人に応援されると、無様な姿は見せられないと気合が入る。

 カゼルは、そんな親しき人に片手を上げて応えると、再び手綱をしごき始めた。

「(このままいけば、出足から無理に飛ばしている師範達の馬は、途中で息切れするに違いない)」

 しかし、自分の馬もそれほど余力が残っているわけでもない。

 そんなカゼルは、事前に勝負所と決めていたある場所一つに賭けていた。そこまで力を残しつつ、人馬一体となって前を行く師範達の馬を追っていく。

 そんなカゼルの動きに気付いたのか、師範達は再び取り囲む構えを見せる。

 カゼルは、その仕掛けにギリギリかからぬ距離まで、その差を狭めていく。

「若造っ、なかなかやるではないかっ!」

 師範達の馬もここに来てようやく脚色あしいろが鈍ってきたが、それでも見事な手綱捌きでカゼルの進路を塞いでくる。

「だが、我らの前に、出れると思うなよっ!?」

「(流石、師範の手綱裁きは見事……だがっ!)」

 眼前に迫るのは、学院の正門前の跳ね橋。

 ここを過ぎれば広場の終着点は、もう目の前。

 カゼルが勝負所と決めていたのは、まさしくここであった。

「いいな、跳ぶぞ!」

 カゼルは馬にそう合図すると、一気に内側へ進路を取る気配を見せた。

「させんっ!」

 一番内側を走っている師範の馬が、進路を塞ごうと、更に内側へ切り込む様にして鞭を入れる。しかし、カゼルの馬はその更に内側をすり抜けていた。

 カゼルの馬は、堀の上を跳んでいたのである。

「な、なんだとっ!?」

「どうした!?」

「若造は、どこへいった!?」

 僅かな隆起を踏み台にして、堀を飛び越えたカゼルの馬は、一気に師範達を抜き去り、跳ね橋の上へと着地した!

「なっ!? 一体どこから!!」

 突然、目の前に飛び込んできたカゼルの馬に驚いた師範の馬が、棹立ちになって橋を塞ぐ。

 辛うじて落馬を逃れるも、すでにこの時点で勝負は着いている。

「うぉおおおおーーーーっ!」

 正門の屋根によじ登っていた学生達が、その光景に飛び上がる様にして雄叫びを上げる。 

「くそ、若造にしてやられたかっ!」

 他の二人の師範も、その馬に進路を防がれて行き場を失い、門前で立ち往生していた。

「はいやーっ!」

 勇ましい掛け声と共に、颯爽と舞台前に戻ってきたカゼルの姿を見て、賭けに勝った来賓達が大喝采で出迎える。

 その後ろで賭けに負けた来賓達の賭け札が、ばらばらと宙に撒う。

「少々強引ではあったが、それは師範達も同じこと。己の身軽さを武器にしたお主の勝ちだな」

 物見櫓から降りてきた学長が、愉快そうに笑いながらカゼルに声を掛けた。

 学生達もワラワラと戻って、次々にカゼルの見事な跳躍を褒め称える。

 カゼルは舞台の上に飛び降り、観衆に応える様に膝を付いて拝礼をすると再び、大歓声が舞台を包んだ。

 そんな中、ようやく戻ってきた師範達が、渋い顔のまま舞台前に姿を現した。

「……生意気な若造め、やってくれたな!」

「忘れるなよ。お前が勝てたのは、俺達の教え方が良かったからだ」

「そうだ。毎度、あんな奇策が使えるとは思わんことだぞ」

 三人はそう言って、代わる代わる小柄なカゼルの肩や背中に手荒な祝福を贈っていく。

「いたたっ、痛いですよ。師範殿」

「馬鹿を言え! 俺達の自尊心の方が、よっぽど痛い思いをしてるんだ」

「そうだ。このくらい、なんだ!」

 最後は笑いながら、師範達はバシバシとその背を叩き続ける。

 その様子に、学生達は笑い声と共に喝采を送っていく。

 掛札でちらかった来賓席を、傍付きの従者達が片付け終える頃、ようやく騒ぎは収束した。

「……さて、先ほどの試しでは、ちと、羽目をを外しすぎた様だ。皆の者、昂ぶった心身を鎮められよ」

 壇上に戻った学長がそう言葉をかけると、舞台の周囲は再び整然となった。

「……では、いよいよこの舞台で行う最後の試しである『武道の試し』を執り行う。カゼル、よろしいかな?」 

「はい! よろしくお願いいたします」

 壇上の学長に拝礼をしたままカゼルがそう答えると、舞台の上に屈強な力士達が四人現れた。

 カゼルは瞑想でもしてるかの様に、その足音が所定の位置まで歩いてくるのを静かに待つ。

「始めよ!!」

 学長の合図と共に、ひときわ盛大な銅鑼の音が打ち鳴らされた。

 舞台の上段に並べられた陣太鼓が、否が応にも観衆の期待を昂ぶらせる。

 静かに構えを取ったカゼルの四方から、力士達が板を両手で掴み、静かに取り囲んでいく……。

「応っ!!」

 気合の雄叫びと共にカゼルの拳と蹴りが、力士達の構える板を寸分の狂いもなく次々と打ち割っていく。

 続いて、鎧をまとった大柄な兵士が四人現れた。

 カゼルをじりじりと取り囲む様に、兵士達が歩みよる。

「はぁっ!」

 次の瞬間、カゼルは獣の様に高く跳躍すると正面の兵士を蹴り上げ、一撃で昏倒させる!

 間髪いれずにその兵士を踏み台にすると、群がる兵士達を尻目に前方へ跳んで、ひらりとかわした。

「なめるなっ!」

 そう言って背後からカゼルを締め上げんと掴みかかってきた兵士をすかし、逆にその首を腕で絡めると、落下の勢いのまま薙ぎ倒した!

「ぐふっ!?」

 舞台にドウッという地響きが起きると、大きな歓声が沸き起こった。

 カゼルは、倒した兵士の横にすっと立ち上ち、息も乱さずに構えを取る。

「こ、こいつ……小兵のくせにっ!」

「まさか、無手でもこれほどやるとは……」

 残った二人の兵士は、驚きを隠せずに狼狽する。

「何をしとるかっ! 相手はまだ戦場経験もない小僧だぞ!!」

 師範の一人から苛立った怒声が飛ぶ。

「くそ、せめて一発はいれるっ!」

「おうっ!」

 二人の兵士はそう言って、雄叫びを上げながらカゼルに向かって突進する。

「フッ……!」

 カゼルはそんな一人の突進を軽くいなし、もう一人の脛に足払いを仕掛けた。

「おぐっ!?」

「ぐおぁあああっ!?」

 二人はもつれ合う様に舞台から転げ落ちていく。

 再び、大きな喝采が上がると同時に銅鑼が激しく打ち鳴らされる。無手による試しが終わった合図だ。

「ぷぅ……」

 カゼルは、少々乱れていた呼吸を整えると、涼やかな顔で壇上に向かって拝礼をした。

 気の早い観衆の中には拍手をする者もいたが、周囲の空気を察してか、再び舞台には静寂が戻る。

 ここまでの『武道の試し』は、言わば前座の余興。本番はここから……。

 カゼルは襟元を正すと、舞台脇に運び込まれた武器棚に目を向ける。

 どれも刃は潰してあるが、打ち所が悪ければ死ぬこともあるという危険な試しである。

「さて……獲物はどうするか」

 ベラルディ学長が面白そうに顎鬚に手をやる。

 すると、ここで思わぬことが起こった。

 最後の試しの相手を務める師範が、突然、舞台の上から突然引き戻されたのである。

「学長っ! 此度の試しが程度の低きものと見られるのは実に遺憾な事。ぜひ、我にお許しを!!」

 気がつけば、先ほど怒声を発していた師範が、代わって舞台の上に立っていた。

 どうやら予定外の様で、係の者が学長と師範達の間を右往左往する。

「(やはり、ここで来たか……モルグ師範!)」

 カゼルは驚きもせず、大柄な師範の姿に目を向ける。

 二十半ばでありながら、武術の本場であるハルトナーグ神殿の門弟であり、昨年から帝国学院での槍術師範を任されている男だ。

 普段からその自慢の腕前と豪腕を容赦なく生徒相手に振るっており、その傲慢さもあってか、多くの学生達に嫌われている。

「どうだねカゼル? モルグ師範がこう言っているが」

「はい、自分は構いません」

 学長の問いにカゼルがそう答えるや否や、モルグ師範は不敵な笑みを浮かべ、普段から自分が愛用する大槍を手に取り、水車のごとく振り回し始める。

「うわっ、槍術師範のクセに大人げねえの!」

「普通、師範は棒か、せいぜい打刀だろうに……」

 数人の学生が率直な感想を口走る。

 それを聞きつけたモルグ師範が、鬼の形相で睨みつけると、皆、一様に肩をすくませて大人しくなった。

「小僧、好きな得物を選べっ!」

 傲慢な笑みを浮かべるモルグ師範は、威嚇するように大槍の穂先をカゼルに向ける。

 そんなカゼルは迷うことなく、使い慣れた反身のある太刀を手に取った。

 しかし、いくら徒武者の持つ打刀よりも刀身が長いといっても、太刀は長柄武器ではない。

 大柄なモルグ師範が持つ長柄の大槍と、小柄なカゼルの持つ太刀とでは、明らかにその間合いに差がある。

「正気か? この大槍とやるのに、そんな得物を使う気か!?」

「はい、自分はこれに慣れておりますので」

 カゼルは自信ありげに立ったまま、モルグ師範に略礼をした。

「小僧がっ! 後悔するなよ!!」

 対するモルグ師範は、怒りの形相で大槍の石突をガンと舞台の床に打ち付ける。

「おいおい、マジかよアイツ……」

「ここで太刀を使うなんて、カゼルは何考えてんだ?」

 ざわつく観衆の中で、一人の学生だけが不敵な笑みを浮かべていた。

 カゼルの親友トラヴィス・オルトナーグである。

 その名が示すように、オルトナーグ家は、ハルトナーグ神殿を統括するハルトナーグ家の分家。モルグ師範とは同門の後輩ということになる。

 カゼルはその視線に気付くと、目線だけでトラヴィスに笑みを返す。

 すると、トラヴィスは意味ありげに、片手を手刀の形にして振り下ろした。

「(一太刀で決めちまえ!)」

 トラヴィスは、この難敵相手と立ち向かうカゼルに向かってそう合図したのだ。

 カゼルは、思わず噴出しそうになるのをどうにか堪える。

「(まったく、簡単に言ってくれる……)」

 このモルグ師範は、以前からカゼルを目の敵にしてきた男。

 その理由も大方の察しはついている……。

「早く構えろ! どうした、この期に及んで臆したか!?」

 苛立った様に、槍術師範がカゼルを挑発する。

 この男の言葉には、中原の西方独特の訛りがある。おそらくは主君の仇である『あの家』から派遣されてきた密偵の一人に違いない……。

 カゼルの目に冷酷な光が浮かぶ。

「(どの道、この男とはこの先、肩を並べることはないか……)」

 カゼルは静かに太刀を両手で持ち、中段に構える。

「はじめよ!!」

 学長の言葉を合図に、再び打ち鳴らされる銅鑼の音。

 観衆の多くは、この試しがただでは済むまいと感じていた。

 体格差はそのまま大人と子供の差。おまけにモルグ師範の持つ大槍の間合いが絶対的優位にあるのは、誰の目にも明らか。

 如何に武門で名高いフォントーラ家の子息とはいえ、戦場経験もないカゼルがこの悪条件で、腕自慢の槍術師範とまともに打ち合えるとは思えない。

 しかし、あくまでそれは常人の目で見ればの話……。

 トラヴィスを始め、カゼルを良く知る者は別の結果を予想していた。

「さて、この場に残れるのはいずれか……」

 壇上から見つめるベラルディ学長が、隣に立つ涼やかな風貌をした武人に囁く。

 その武人は何も答えず、初めて見る若者に鋭い視線を向けていた……。


        *         *         *


 予想に反して、静かな立ち上がり。

 怒涛の打ち合いを予期していた多くの者達は、不満げに顔を見合わせる。

「おい、どうしたんだ? 二人とも」

「動かないな。いや、動けないのか……?」

 始めの合図があったにも関らず、舞台の上の二人は、共に動こうとしなかった。

 ただ、血相を変えた槍術師範が一人、懸命に気合の声を発しているだけ。

 カゼルは静かに太刀を構えたまま、微動だにしていない。

 観衆も、思ってもいなかったこの展開にざわめき始める。

「(こんなはずは……? この俺が、一歩も動けんだと……!?)」

 モルグ師範は、必死に動揺を隠そうと気合の声を発する。

「双方共、打ち合えいっ!」

 審判役を務める別の師範から、叱咤の声が飛ぶ。

 その瞬間、カゼルの口元に微かな笑みが見えた。

「こいつ!!!」

 モルグ師範は焦りと怒りのあまり、勢いに任せて怒涛の突きをカゼルの顔目掛けて放つ!

 次の瞬間、くるくると宙を舞っていたのは、柄から断ち切られた槍の穂先……。

「な、な、なんっ……!?」

 驚愕したモルグ師範は次の言葉を発することも出来ず、ゆっくりと前のめりに崩れ落ちていく。

 その額には、くっきりと鈍い刃を打ち付けられた跡……。

 カゼルの放った剣風が、モルグ師範の大槍ごとその傲慢な顔面に鉄槌を下したのである。

 果たして、この場にいる何人の者がこの一瞬の出来事を理解出来たことか……。

 静まり返った舞台の上で、カゼルは壇上を向いて膝を着き、拝礼をする。

「カゼル・フォントーラよ。見事な剣風であった」

 ベラルディ学長に代わり、その横の武人から感嘆の言葉が贈られた。

 その武人が何者かを知る者達が、飛び上がらんばかりに席を立つ。

 その男こそ、当代きっての『剣聖』と謳われた中原最高位の武術師範、リックハルド・カールレラであったのだから……。

「くそ、こんなことならオレも出るんだった……」

 人一倍、悔しがったのは腕自慢のトラヴィスである。

 ハルトナーグ流に学び、今は独自の編み出した剣の道に進む『生ける伝説の男』にその腕を認められるなど、めったにあることではない。

 他にも、腕に自信のある若者達が、同様に悔しがっていることだろう。

 しかし、観衆の多くは未だに何が起きたか分からず、騒然とし始める。

「勝負あった! これにて三道の試しをしまいとする!」

 ベラルディ学長の宣言により、そのざわめきは、大きなどよめきへと変わっていく。

 涼しげな顔で舞台から降りるカゼルに対し、顔面に剣風による衝撃を受けたモルグ師範は、意識を失ったまま力士達に運ばれていった。

「おい、今のはやりすぎだろ」

 そう言いながら、トラヴィスが悪戯な笑みを浮かべたまま片手を上げ、カゼルを出迎える。

「君のせいだぞ。トラヴィス」

 同様に、悪戯な笑みを浮かべたカゼルも片手を上げて、手を打ち合わせた。

 カゼルよりも一つ年下の若者だが、並みの大人を凌駕する偉丈夫であり、やや小柄なカゼルと並ぶと頭一つ分も差がある。

 口数は少なく、義侠に厚いトラヴィスとは、学院での生活で同室となってからこの三年間、寝食を共にしてきた盟友として、互いに実力を認め合う仲でもあった。

「カゼルっ!!」

 そんなトラヴィスから、遅れて駆けつけてきた姉のリーゼルがカゼルの首に飛びついてくる。

 そして、今にも泣き出しそうな顔で喚き出した。

「もう、アンタってば、賢いクセにバカなんだから!!」

「姉さん、バカはひどいよ」

「いーえっ! ひどくありませんっ!!」

 カゼルは困惑しつつも、姉が何を責めているのか察していたので、それ以上反論せず、子供でもあやすかの様に両手で姉を抱き上げると、クルクルとその場で回り始めた。

「ちょっとカゼルっ!?」

「あはははっ!」

 子供の様にカゼルが笑うと、リーゼルも釣られて笑い出す。

 いつの間にか、カゼル達の周囲に出来ていた人だかりから、ヒュウヒュウと指笛が吹き鳴らされた。

「カゼル、ちょっと恥ずかしいって!」

「いいじゃないか、姉弟なんだから」

 ようやく姉を地面に降ろすと、流石のカゼルも息が上がっていた。

「その辺にしておけ。まだ三志の試しが残っているぞ」

 人だかりの中でじゃれ合う二人を見てはおれんとばかりに、トラヴィスが足早に歩き出す。

「そうだった。こんなことしてる場合じゃないわよ!」

「リーゼルの方から飛びついてきたクセに……」

「あら、自慢の弟を祝福する姉のどこがいけないの?」

 照れもせずにそう言われると、カゼルは降参するしかない。


 姉の手を引き、人垣で出来た道を駆け抜けて学び舎の門を潜っていくと、そこでようやく先を進むトラヴィスの後姿が見えてきた。

 カゼルはそこで一旦足を止め、先を行くトラヴィスには聞こえぬ様、リーゼルに耳打ちする。

「……姉さん。そちらの首尾は?」

「いつでも大丈夫。それとね、狼はもう『狩り』を始めているわ」

 リーゼルは、意味ありげにそう答える。

「……了解。あとは、三志を終えるだけだ」

 カゼルは武道の試しで使った太刀をリーゼルに渡すと、小走りでトラヴィスを追った。

「すまん、待たせた」

「リーゼル姉の方は、いいのか?」

 トラヴィスは妹のユノア同様、リーゼルのことをまるで自身の姉の様に慕って、こう呼んでいる。

「ああ、大丈夫だ。問題ない」

 カゼルは振り返りもせずに、そう答えた。

 トラヴィスはまだ気がかりな様子だったが、カゼルの歩調に合わせて、長い渡り廊下へと進んでいく。

「それで、頼みとはなんだ?」

 カゼルは三道に赴く前、詳細を伝えず、ただ頼みがあるとだけ伝えていた。

「君に任せたいのは、三志を終えた後のことだ」

「気が早いな。送別会の件なら、合格が確定してからでも十分時間が……」

「合格の成否に関らず、僕等はこのまま学院を立ち去る」

 トラヴィスは一瞬、何か言いたげな顔を見せたが、すぐに前を向く。

「火急の事態か?」

「そうだ」

「……了解した」

 言葉短くトラヴィスがそう答えると、カゼルは少しだけ緊張の糸を緩めた。

 せめて、この盟友とだけは、きちんと別れを伝えておきたかった。

「ここで君と共に学べて、本当に良かった」

「……オレはもう一度、お前と勝負をしてみたかったんだけどな」

 トラヴィスは本気で言っている。

 本心ではその思いに応えたい。しかし、今のカゼルには最優先すべき大事な使命がある。

 生涯の友と誓ったトラヴィスにすら、それを説明することは許されない。

 カゼルは、これが武人として生きる道なのだと噛みしめた。

「……すまない」

 カゼルは何も聞かず、納得してくれるトラヴィスに心の底から感謝した。

「それで、何をすればいい?」

「送別会を、僕等抜きでやってほしい」

「主役抜きでか?」

 少し呆れた感じにトラヴィスが聞き返すと、カゼルは真顔で頷いた。

「それだけでいいのか?」

「理由は何でもいい。君に任せるよ」

 トラヴィスは一瞬困ったような表情を見せるが、すぐに悪戯を思いついた顔付きに変わる。

「ほどほどにな」

「まあ、任せておけ」

 トラヴィスはそう答えると立ち止まり、カゼルの右手を両手でがっしり掴む。

 カゼルもそれに応える様に、左手を重ね併せる。そして、トラヴィスの大きな手に自身の薬籠を握らせた。

「これは?」

「送別会の途中でもいい。頃合いだと感じたところで、これを開けてくれ」

 カゼルが真剣な面持ちで薬籠を託すと、トラヴィスも静かに頷いた。

「また会おう。我が友、トラヴィスよ」

「必ずだ。我が友、カゼル」

 足早に立ち去っていくカゼルの後姿を、トラヴィスは視界から消えるまでその場で見送り続けるのだった。


        *         *         *


 トラヴィスと別れたカゼルは、手早く沐浴を済ませると、この日の為に用意した礼服に袖を通した。

 大きな金属板の姿見の前に立ち、長い黒髪を後ろにまとめ、飾り紐で馬の尾状にして留めていく。

 正面に映ったのは、母譲りの優しげな顔立ち……。

 軽く両手を張って気合を入れると、若き武人の顔になった。

「これで、少しは父上に近付けましたか?」

 目を閉じると、すぐにでも父の勇姿が浮かんでくる。

 眉の凛々しさが父上譲りだと母に言われた時、誇らしい気持ちを感じたのを思い出す。

 父の名はヴァーゼル・フォントーラ。ブリアス南領公、第一の将軍である。

 中原一の名将とまで謳われたフォントーラ家中興の祖、ガイゼル・フォントーラの再来とまで言われた武人であり、幼き頃よりカゼルの憧れで、生涯の目標でもあった。

 この学院に通う前、すでにカゼルは父と祖父を相手に、三道三志の試しを行い、合格と認められている。

 それ故、無理にこの学院でその才覚を披露する必要はないと言われていた。

 そんな個人的な事よりも、遥かに重要な目的でこの学院には入学したからだ。

 しかし、カゼルは自己満足と言われようとも、自分の代でフォントーラ家の名誉が途絶えることに、その誇り高き矜持が許さなかった。

 姉のリーゼルが、あれほど心配するのも無理はない。そんな青臭い自分もこれっきりだと、カゼルは自分に言い聞かせる。

 しかし、実は一抹の不安もあった。

 それはこの学院が、先代の主君を討った仇敵からの寄進によって再建された場所でもあるからだ。

 もちろん、この学院内は帝国の聖地であり、全ての私闘は禁じられている。

 しかし、それぞれの子弟や師範には家があり、またはカゼルの様に主君と仰ぐ家があったりもする。

 当然、これから向かう学長室に立ち並ぶ講師陣の中には、フォントーラ家を敵視し、または敵対する家との繋がりがある人物もいるというわけだ。

 ベラルディ学長自身は、清廉な人物で知られてはいるが、一度、戦火で焼かれたこの学院が再建された経緯を考慮すると、少なくとも味方であるとは言えない。

 他にも、様々な場所から帝国の要人達が来賓として招かれている。

 当然、フォントーラ家の主君を討った仇敵の家からも……。

「(そんな大人達が待つ場所で、一体誰に対して、武人としての志を説くというのか?)」

 それでも、カゼルはフォントーラの子として、家の名に傷をつけることだけは、自身の矜持にかけても絶対に許されないこと……。

 『三道三志の試し』を受けたのは、自ら望んでの事。これが、カゼル・フォントーラの初陣だと思えばいい。

「武人として生きる道、自らの手で、いざ切り開かん!!」

 カゼルは自身に言い聞かせる様に言葉を発すると、浴室を出て歩き出す。


 学生寮の中には、三志に向かうカゼルの姿を一目見ようと、各自の部屋の扉から顔を覗かせていた。

 先ほどの三道の試しとは違って、三志の試しの様子は、学生達には見学することが許されていないからだ。

 学長室のある廊下には学生達が騒ぎ出さぬ様、見張り役の武道師範達が目を光らせている。

 三道の試しの時のような、馬鹿騒ぎはとても出来る雰囲気ではない……。

 親しい者は、声を出さずに拳を突き出し、通り過ぎるカゼルに自らの思いを託していく。

「格好つけやがって。これで合格しなかったら台無しだぞ」

「頑張れよ。お前は俺達の誇りなんだからな」

 トラヴィス以外にも、心を通じた友は何人もいた。

 中でも、特に親しかったのは北領公麾下である諸侯の庶流、イクセル、ハンネルの兄弟。

 そして東藩国からは、藩王家庶流のレイナード。

 また、フォントーラ家の隣領アルトナー家の親族ラウロスと、その重臣の子ドラートも、修練を共にした良き仲間達だ。

 皆、カゼルと同じく高い志を持ち、近い将来それぞれの家を背負って立つ俊英である。そんな親しき学生達の中に、トラヴィスの姿も見えてきた。

 トラヴィスはいつもの悪戯な笑みを浮かべ、片手の親指を突き出している。

 先ほど頼んだ一件について、準備万端だと言っているのだ。

 カゼルは、トラヴィスだけに通じる仕草で感謝の意を伝える。

 最後に目に入ったのは、姉のリーゼルと同室だったトラヴィスの妹、ユノア。

 淑やかさや恥じらいが美徳とされたこの時代の子女と違い、無邪気で天真爛漫な彼女は、平気で男子と談笑したり、一人で遠乗りに出かけたりもする風変わりな娘であった。

 カゼルがトラヴィスと二人で遠乗りに出かけた時、リーゼルと一緒に追いかけてきたこともあり、その可憐な見た目にそぐわぬじゃじゃ馬ぶりには驚かされた。

 愛くるしい笑顔が印象的な彼女は、カゼルとリーゼルの二人を、実の兄姉の様に慕ってくれていた。そんな彼女とも、おそらくこれが今生の別れとなるに違いない……。

 男同士なら、たとえ敵味方に分かれようとも、戦場で顔を合わすことが出来る。

 しかし、武家の男女が婚姻以外で顔を合わすことなど、この帝国学院以外ではありえないのが、この中原世界の慣わしなのだ。

「カゼル様……」

 それ以上の言葉が出ないのか、ユノアは涙を浮かべたまま、必死に笑顔を作ろうとしている。

 せめて、そんな彼女の顔をこの目に焼き付けておこうと、通り過ぎる瞬間に彼女に顔を向けると、ユノアは胸に抱いていた一輪の花を差し出してきた。

 爽やかな青と白に塗り分けられたその花の名前は、『初恋草』。

 可憐な蝶の羽を思わせるその花弁の形が、ユノアの愛らしさを思わせた。

 そんな彼女の気持ちが、痛いほどカゼルの胸に響く。

 もしも今、この時でなければユノアを抱きしめていたに違いない。

 しかし、今のカゼルが彼女に出来ることは、ただ差し出された小さな一輪の花を受け取ることだけ……。 

 それでもユノアは、いつもの様に花の様な笑顔を見せてくれた。

 その目からは、堪えきれなくなった涙が溢れ出している。

「(許せ、ユノア。君の想いは、けっして忘れない……)」

 カゼルは、そんなユノアへの想いの代わりにその花を懐に納め、ユノアの目の前を通り過ぎていった。

 想いが通じ合っても、一緒になることが出来ない。それが乱世というものだということもわかっている。

 しかし、ユノアとは恋を語らう時間さえ許されなかったのだ。

「(恋とは、何と不自由で、こうも狂おしいものなのだろうか……)」

 そんな想いにふける間もなく、カゼルは学長室の前に到着してしまった。

 扉は大きく開け放たれており、その奥には学長や講師達の姿が見える。

 カゼルは、片膝と片手を床に付けた姿勢のまま、学長からの言葉を待つ。

「カゼル・フォントーラよ。先ほどの三道の試しは、実に見事な手並みであった」

「過分なお褒めのお言葉。このカゼル、汗顔の極みでございます」

 カゼルは拝礼の姿勢のまま、この室内に感じる気配を探った。

 その多くは、高揚気味の気配を発している。

 また何人かは、ある種の緊張感を漂わせていた。

 そんな中に、気配を感じない場所があった。

 丁度、ぽっかりと人一人分の空間。そこにいる人物には、心当たりがあった。

 当代きっての剣聖リックハルド・カールレラ……その人であるのは間違いない。

 武道の試しの時に声を掛けられたが、まさか、この三志の試しにも顔を出すとは思ってもみなかった。

「(想像以上に、この試しの場は厳しいものになる……)」

 カゼルは、内心ひやりとするものを感じていた。

「カゼル・フォントーラよ。面を上げるが良い」

 学長から声をかけられ、カゼルは姿勢をそのままに正面を見据えた。

 中央にはベラルディ学長、その左右には筆頭政治講師と筆頭軍事講師の二人。

 そこから横並びにこの学院の講師陣一同が、ずらりと並んでいる。

 彼らは皆、この中原帝国で大臣などの要職を勤めたこともある老人達。

 確かに、彼らは尊敬すべき賢人であるのだろう……。

 それでも、この乱世を治めることに一切関与出来ぬまま、こうしてここにいる。

「(我々、フォントーラの子は貴方達とは違う……)」

 知らず知らずのうちに、不敵な笑みが浮かび上がろうとするをの堪えた。

 実の伴わぬ彼らの問答などに、負けるわけにはいかない。

「(父上と共に、必ずやこの世界を変えてみせる……)」

 カゼルはこの場にいる全員が相手になろうとも、一歩も引かぬつもりだった。

 学長室の扉が閉じられ、起立していた来賓や講師陣が着席した。

「では、これより三志の試しを始めよう。まずはカゼル、お主自身の言葉で三志を上げてみよ!」

 学長の言葉に、周囲の視線が一斉にカゼルに向けられる。

 カゼルはそれに応え、正面の学長の更に向こうの壁を相手するかの様に、声高に言葉を発した。

「不肖ながらこのカゼル、『孝』・『忠』・『義』の三志を、我が生涯の志と上げ奉らんと願います!」

 来賓席からは、やや安堵の声といくつかの疑念の声が囁かれた。

 カゼルの上げた三志は、武人として実に模範的な回答である。

 しかし、あえて疑念を問うとすれば、その順序にあった。

「カゼルよ。忠実なる帝国武人の心掛けとするならば『忠』こそが第一でなくてはならぬ。何故に『孝』を第一としたのか、答えよっ!!」

 早速、筆頭政治講師から厳しい問いが投げかけられた。

 周囲の来賓達から、そうだそうだと同調する声が聞こえてくる。

 カゼルは、涼しい顔のままその問いに応じた。

「……では、お答え申す。我がフォントーラ家は、この中原大遠征の頃より、幾代にも渡って南領公に仕えて参りました。しかし、先代の主君は言われ無き罪により討たれ、今やその御一族は家臣の家に匿われ、逼塞する身に御座います……」

 来賓だけでなく、講師陣からも一体この場で何を言い出すのかという動揺のざわめきが起こった。

「カゼルよっ! 少し言葉を慎め!! 今は三志の試しであって、政治的批判の場ではない!!」

 筆頭政治講師が血相を変えてそう叫ぶと、そうだそうだと一部の来賓からも同調する声が上がる。

「一同、静まれっ!! カゼルの答えは、まだ終わっておらぬっ!」

 無用に騒ぎ立てようとする講師や来賓を叱咤するかの様に、学長の怒声が室内に反響した。

 その場が静まるの待って、カゼルは言葉を続ける。

「誤解なき様、先に申し上げておきます。今のはこの場で亡き主君の無実を明らかにせんという意図ではなく、零落した主家に『忠』を成さんとした場合、まず自身の家が一つにまとまっていなければならないと考えての言葉ゆえ……」

 カゼルは一旦、言葉を切り、顔を下に向けるとその床に一粒の水滴が落ちた。

 その姿に、周囲からは静かなどよめきが起こる。

「……良い。続けよ」

 ベラルディ学長がカゼルに続きを促すと、カゼルは流れる涙を隠そうともせずに顔を上げ、口を開く。

「残念ながら、我がフォントーラ家は現在三つに分かれ、満足に主家に忠を尽くすことすら出来ぬ有様。それゆえ、正しき志を持つ者を家長とし『孝』を尽くすことをこのカゼル、第一の志とさせて頂きました」

 カゼルの答えは、多くの来賓達の胸を打った。

 フォントーラ家の分裂はあきらかに政敵の謀略であり、それに乗せられた主君の過ちであることは、中原の諸侯ならば誰でも知っていること。

 しかも、それは一度どころか二度、三度と執拗に繰り返されてきた。

 それによって分裂したフォントーラ家の一部からは志を失い、仇敵に組みする者さえも出てしまったのだ。

 それでも、カゼルの家だけは、決してその忠節をたがえず主君の悪しき行いを正さんと支えてきた。

 それゆえ、現当主である父ヴァーゼル・フォントーラは現状、領地も持たぬ一介の武人にあるにも関わらず、多くの諸侯達から一定の敬意を受けているのである。

「……流石は、フォントーラの子よ」

 真に、名将ガイゼルの意志を継がんとする者よと、賞賛の声が上がる。

 その一方、先ほどカゼルの言葉に非難を投げかけた者達は、居心地悪そうに顔を背けた。

 ベラルディ学長は、左右の講師陣に二心無きことの詮議を計ると、再びカゼルに声をかけてくる。

「よろしい。お主の申す『孝』と『忠』、筋の通った志であることは疑いようもない。では、ワシからも一つ、『孝』について聞きたいことがある」

 学長自身から一度良しとされた設問に対して、再度、答えを求められることは異例である。

 これには、左右に並ぶ講師陣達からもざわめきが起こった。

「……何なりと」

 まさか、学長自らが設問を投げかけてくるとは思わなかったが、この人物ならば十分にありえることだと、カゼルは気を引き締める。

「では聞こう。お主は正しき志を持つ者を家長とし、『孝』を尽くすことこそ第一と申したが、仮に、正しき志を持たぬ者が家長であった場合、どういたす? また、正邪の見極めとは一体、誰がどの様にして判断するというのだ?」

 これは、まさにフォントーラ家の現状に重ねた問いである。

 同様に諸侯らの中に内紛の起こらぬ家など皆無といっても良く、一つ間違えればその家の行いを非難することにもなる。

 カゼルがどう答えるか……誰もが、固唾を呑んでその答えを待つ。

 しかし、カゼルは長考する風もなく、少しだけ言葉を選んで口を開いた。

「まず、家長としての正邪をどう見極めるか。それは、家長の務めを果たしているか、否かによって判断すべきと存じております」

「ふむ。ならば、家長の務めとは?」

「領内の民草を案じ、家中の諍いを鎮め、一族の犯した恥ずべき罪を裁くこと」

「恥ずべき罪とは?」

「逆恨みや私欲に走った上での悪行、自我を失った愚かな振る舞いなど、言語道断……」

「ならばフォントーラの家は、分裂した家全てを裁きにかけることで、正しき姿に立ち戻ると?」

「いえ。我がフォントーラ家の様に分裂が外因にあるならば、それを排することで、自然と正しき姿に立ち返ると考えております」

 このカゼルと学長のやりとりに聞き入っていた来賓の中に、『外因』という言葉に引っかかりを覚える者がいた。どうやら、フォントーラ家の仇敵に味方する立場の者らしい。

「フォントーラの子よ! 今の発言で『外因』と申したが、それが一体、何を指すのか言ってみよっ!」

 カゼルは、丁度いい機会だと思い、その人物の家名を覚えることにした。

 年齢は三十台後半、カゼルの父ヴァーゼルの同期であろうか。

 礼服に描かれた紋章から見るに、元南領公麾下であった諸侯の一つ、アダンニ伯の縁者らしい。フォントーラ家から見れば、裏切り者の一人でもある。

 武人の一族にありながら、ろくに鍛錬もしてないのか首にたるみがあり、いささか酒気も帯びている様子。

「(この神聖な儀である三志の場に相応しくない、無粋な輩……)」

 カゼルはそんな男の挑発に、あえて失笑することで返事としてみせる。

 これで、三志の試しは中止されるかも知れないが、他の来賓達の反応を見てみたかった。

 果たして誰が、敵であるか……それを見極めようとしたのである。

小童こわっぱ! 何がおかしいっ!!」

 案の定、アダンニ伯の縁者は、脂ぎった顔を真っ赤にして立ち上がる。

「失礼。どなたかと思えば、南領公麾下から時勢を読んで早々に他所へと移られたアダンニ伯、御家中の方ではありませんか。そちらの居心地がよろしい様で、随分と脾肉を蓄えられておりますな」

 カゼルの皮肉の聞いた返答に、他の来賓達からどっと笑いが沸き起こる。

「きっさまぁ……礼節も知らぬ、田舎者めがっ!」

 当然、その男は烈火のごとく怒り、部屋の中央にいるカゼルに向かってずかずか歩み寄ってくる。そして、片膝をついたままのカゼルの襟を掴んで吊るし上げんと手を伸ばしてきた。

「ぎゃあっ!」

 次の瞬間、その男は伸ばした左手の小指をカゼルに捕まれ、あっという間に床に転がされる。

 無様に仰向けで転がされたその男は、小指を押さえて大仰に喚いていた。

 おそらく、小指を折られたのだろう……。

 その無様に転げまわる様子に来賓だけでなく、講師陣達も堪えきれずに噴出す始末。

「お、おぉぉぉおのれぇえええっ!!!」

 アダンニ伯の縁者は腰の物に手をやると、躊躇することなく抜刀した。

 最早、武人の作法も何もあったものではない。

 茶番もこれまでかとカゼルが思った瞬間、両者の間に吹いたのは一陣の風!

 カゼルの側面から放たれたその剣風は、目にも留まらぬ速さでアダンニ伯の縁者が抜いた刀身だけを斬り飛ばし、扉の前でボワッと爆ぜた。

「ひ、ひぃっ!?」

 アダンニ伯の縁者はその場にへたり込み、シュルシュルと回転しながら部屋の床を滑っていく折れた刀身を、青ざめた顔で見送っている。

「……たとえ来賓の方とはいえ、神聖なる三志の場にあって、この様な無作法は許されぬ。早々に外へ連れ出せ!」

 稽古用の木刀を片手に、講師陣の列から一歩前に出ていた剣聖リックハルドが涼しげな顔でそう言い放つと、慌てて警護の兵がアダンニ伯の縁者の両脇を抱えて、部屋から連れ出していく。

 一瞬、室内は騒然となるも、すぐ、安堵の溜息に変わった。

 しかし、カゼルだけは今までの自信に満ち溢れていた表情とは一変、呆然とした顔をしていた。

「(何の反応も……出来なかった……)」

 恐ろしいモノを見る様にぎこちなく横に顔を向けると、カゼルを見据える様な剣聖の視線がそこにあった。

「(……まるで、モノが違う)」

 カゼルが武道の試しで放った神気など、これに比べたら児戯に等しい。

 今の剣風は、およそ三十歩離れていた距離で苦もなく鋼の刃を切断し、その先にある部屋の扉を撃つことなく、意図的にその神気を霧散させていた。

 しかも、神気の伝達が鋼の刀よりも難しいとされる木刀で……。

 それだけの事をして、剣聖リックハルドは僅かな呼吸すら乱していない。

 カゼルは動揺すると同時に、心が大きく沸き立っていた。

「(本物が見れた……)」

 いや、あえて見せてくれたに違いない。

 そう思うと、カゼルは恐ろしさと興奮で、体の震えが止まらなくなっていた。 

 それを止めてくれたのは、ぱんっと打ち鳴らされた一拍の音。

「皆の者、静まられよ。今は乱世、この程度で一々騒ぎ立てなど無用のことぞ!」

 ベラルディ学長の言葉に、ようやく来賓や講師陣も落ち着きを取り戻すと、部屋の中央に立ったままのカゼルに視線を向き直す。

「さて……今のやり取りは三志の試しとは無縁なもの。いささか挑発的であったが、カゼルの言に他意はなく、このワシの設問への答えに過ぎない……」

 どうやら、学長は三志の試しを止めるつもりはないらしい。

 そう感じたカゼルは、再び正面を見据えて拝礼の姿勢を取り、学長の次の言葉を待つ。

「異議はない様じゃな。ならば、三志の試しを続ける。良いかな、カゼルよ?」

「ははっ!」

 今のやり取りの間に、カゼルはどうにか平静を取り戻していた。

 カゼルは、密かにベラルディ学長の計らいに感謝する。

 ようやく出番の回ってきた筆頭軍事講師が、冷や汗を拭いながら口を開いた。

「では、最後に問うのは『義』についてだ。今、学長は今を乱世とおっしゃった。その乱世において、義の志とは何であろうか、答えてみよ!」

 カゼルは、最後の返答を前に、いくつかの顔を思い浮かべた。

 敬愛する武人である父と、優しき母の顔。

 母の異なる二人の兄弟、そして姉妹達。

 ここで出逢った良き学友達。

 生涯の友、トラヴィス。

 そして、これから自分が仕えるべき若き主君……。

 カゼルは、それぞれへの想いを胸に顔を上げた。

「乱世においての義。このカゼル、この学院で出逢えたかけがえのない友との信義を第一に、生涯貫かんと誓います!」

 学長の口から少し意外そうな、ほうっという声が聞こえてくる。

 しかし、その答えに鋭く反応したのは設問してきた筆頭軍事講師だ。

「ほほう。主家の掲げる正義でも、家への仁義でもなく、友との信義と言うか。この乱世にあっては、学院で共に過ごした学友同士が、敵として戦場で相まみえることも珍しくはないことは知っておろう?」

 来賓達からも、然りという声も聞こえてくる。

 しかし、カゼルは一片の迷いもなく、それに答えを返す。

「この乱世において正義とは、勝利あってこその正義であり、一度、敗れればその正義は無となり、無に殉ずれば家を失います。また、仁義を第一とすれば、どうしても客観的に物事を受け止められず、公正さを失います。友との信義においては自らが選んだ友に裏切られれば、それは自らの目が曇っていただけのこと……」

 カゼルはそこで一旦、一呼吸置いてから言葉を続ける。

「たとえ、友と敵味方に分かれようとも、それは一時のこと。避けられぬ戦いならば全力で友と戦い、無益な戦いならば、理を説いて和する道を探す。それは、両者の根底に信義があってこそ通じるものであり、信義なくばこの乱世、到底終わりなど来ませぬっ!」

 カゼルの凛とした返答に、おぉぉと同意の感嘆が来賓の一部から漏れた。

 ざわめきだした来賓を静める様に、学長が片手を上げてそれを制すると、左右の筆頭講師と小声で短いやり取りを行い、静かに立ち上がった。

 いよいよ、三志の試しの裁定が、ベラルディ学長自身によって下されるのだ。

 室内の一同は、固唾を飲んで学長の言葉を待つ。

 元々、この三志の試しに、これという正解などは用意されてはいない。

 己が目指す武人としての志を、他人の言に惑わされることなく、筋の通った返答が出来れば良いのだ。

 その点に於いて今のカゼルの応答は、実に堂々たるものであった……。

 その場にいる誰もがそう認めている。ベラルディ学長はそれを確認する様に周囲を眺めると、静かに口を開いた。

「……なるほど、カゼルよ。おぬしの三志、しかと聞かせて貰った。弁の立つ筆頭講師を相手に、これだけの来賓の方々の面前で堂々たる答弁、見事である!」

 ベラルディ学長の言葉を合図に、後ろの壁沿いに立ち並んでいた講師陣が一歩前に踏み出す。

 それを見て、来賓一同も一斉に立ち上がる。

 異論無きことを講師、来賓一同が拝礼で示したことを確認すると、ベラルディ学長は満足そうな顔で、両手を掲げる様に広げて見せた。

「カゼルよ。ここにいる皆がおぬしの三志を認めた。三道と併せ、全てにおいて『最良』であったことを証する。今後はその栄誉に恥じぬ武人として、この帝国の為に働くが良い」

 カゼル自身にとっては茶番であろうとも、フォントーラの家名を汚さずに済んだ意義は大きい。

「(父上には無用なことと叱られるだろうが、きっと母上は喜んでくれるに違いない)」

 部屋中に沸き起こる拍手の最中、カゼルは張り詰めていた気を、ようやく緩めることが出来た……。

 やがて、カゼルの三道三志の修了証書の授与を見届けた講師陣や来賓達は、次々に学長室から退出していく。

 カゼルもまた、大勢の立会人達が退席するのを見送ると拝礼を残し、部屋を退出していった。

 学長室に残ったのは、ベラルディ大僧正と剣聖リックハルドの二人。

「……剣聖殿、如何でしたかな。此度の『三道三志の試し』は?」

「見事の一言に尽きるでしょう。流石はフォントーラの秘蔵っ子。父ヴァーゼル殿と比べても、あの多芸なる才能は、決して劣ることはありますまい」

「確かに。ここであれだけの才能を見せたのは、かのガイゼル卿以来であろうよ」

 ベラルディ大僧正の言葉に、剣聖リックハルドも静かに頷く。

「しかし、あの者はおそらくガイゼル卿の様に、この中原にその名を轟かすことはあるまいて……」

 今までカゼルを絶賛していたベラルディ学長が、溜息を付きながらそう呟くと、リックハルドは静かに天井を見上げて呟く。

「ガイゼル卿と同じ道は、最早、誰にも歩めぬのでしょうな……」

 フォントーラ中興の祖である名将ガイゼル・フォントーラは、主君の命で数々の戦場に趣き、多くの輝かしい勝利を収めたにも係わらず、その主君に名声や権勢を疎まれ、最後には暗殺された……。

 当時の南領公は、すでに名ばかりの大総督であり、全ての軍権をフォントーラ家に委任していた。帝国武人の最高位にありながら華美な貴族の様な生活に憧れ、女に現を抜かすだけの無能の人であったのだ。

 更に言ってしまうと、この中原の主である大帝自体が、その当時ですら直属の軍勢すら持てぬ弱小領主に過ぎない。

 それは、陪臣であるはずのガイゼル・フォントーラが、この中原帝国をいつでも手中に収めることが出来たと言っても過言ではなかったということ……。

 ガイゼル自身、その事実をどう考えていたのかは、今となっては知る由もない。

 結局、かの名将は覇道を望まず、それがゆえに命を落とした。

 その結果、それから五十年が経ってもこの中原は、建前だけの帝国の名の下に、諸侯が好き勝手に争い続ける乱世の時代が続いている……。

「あの者は、家の為に志を貫かんとしている。父やガイゼル卿と同じ陪臣のままでな……」

 ベラルディ大僧正は、カゼルの去った部屋の中央を眺めながら、溜息交じりに本音を漏らす。

「すでに、この中原に南領公の領地など、どこにも残っておらんのにな……」

「陪臣ならば見事な忠義。しかし、フォントーラ一族は忠義ではなく、ガイゼル卿が貫かんとした志を守る為だけに、今もなお陪臣のままでいようとしている……」

 ガイゼル卿の志を貫けば、結局、無能な主君に疎まれて、その命を無為に散らすことになる。

 かといって、その志を捨てたフォントーラの者が、誇り高きガイゼル卿の末裔を名乗ったところで、誰も聞く耳を持とうとしないであろう。

 志を貫いた先には身の破滅しかなく、今更、他の道を選べば一族の誇りと信頼を失う。

 この中原にフォントーラの家名を残す道があるとすれば、新たに良き主君に巡り合うか、もしくは今の主家である南領公の血脈が完全に途絶え、その役割から解放されることだけ……。

 それも、主家の血脈が途絶えたその時、フォントーラの家が残っていればの話である。

「……実に、惜しいですな」

 剣聖リックハルドは、視界の先から消えていったカゼルを思い、そう呟く。

「フォントーラの者は、ガイゼル卿の志に束縛され続けている限り、その才を開花させることなく朽ちていく。あのカゼルとて、おそらくはそうなってしまうのだ。まったくもって、嘆かわしいことよ」

 ベラルディ大僧正はそういって、心底つまらなそうに頬杖をついた。

 剣聖リックハルドは無言のまま一礼すると、静かに学長室を退出していく。

 一人残されたベラルディ大僧正は、カゼルについて紙に書き記した今の評を眺めた後、末尾に一文を付け足してみた。

『願わくば、この者が家の呪縛から自ら解き放たんことを……』

 そこで、ふと筆を持ったまま苦笑いを浮かべた。

 彼のガイゼル卿の再来とまで評された、カゼルの父ヴァーゼル・フォントーラのことを思い出したからだ。

「そういえば、彼の時にも同じ様な一文を付け足したのだったな……」

 あれだけの才能を、またしても自分はむざむざ無為な争いの中へ送り出してしまうのかと……。

 ベラルディ大僧正は、付け足した一文を塗りつぶすと、静かに目を閉じるのだった。

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