第3話今川義忠
応仁の乱が一つの契機となり、西三河では松平氏が。東三河では牧野氏と戸田氏がそれぞれ勢力を拡大していったこの時代。同様の出来事は日本各地で発生。それまで国のトップとして君臨して居た守護家は軒並み衰運ないし滅亡の憂き目に遭っていたのでありましたが、そんな中にありまして守護大名がそのまま戦国大名へと飛躍を遂げた稀なケースとして語られるのが薩摩の島津氏と駿河の今川氏。規模的に考えれば奥州の伊達氏もその中に入るかもしれませんが。そんな彼らでありますが、何事もなく無事戦国大名に変貌を遂げることが出来たわけではなく、島津氏は(明治維新の礎となった家でありますので穏便な物言いがされておりますが)要は分家が本家を乗っ取る形で。と言った他の国同様激しい競争に晒されることになるのでありました。
一方の今川氏はどうであったのか?と言いますと室町幕府の成立から九州平定に至る過程の中で活躍した今川了俊の功績により本拠地の駿河のほか隣国の遠江も守護する立場にあったのでありましたが応永26(1419)年斯波義廉の手により遠江における守護職の地位を失った今川氏は長禄3(1459)年に遠江今川氏の今川範将自らが中核となって起こした中遠一揆に失敗。死後それまでの所領であった今の袋井市などを斯波氏の守護代に奪われたばかりか寛政6(1465)年には徴税権たる代官の地位をも失い了俊以来の地。今の磐田市からも追い出された範将の子・貞延は今川氏の本貫地である駿河を頼り、今川宗家たる義忠も彼を庇護したことにより駿河の今川氏と斯波氏との関係は悪化の一途を辿ることになるでありました。
この状況下で勃発したのが応仁の乱。義忠と対立関係にあった遠江守護・斯波義廉が西軍方についたことを見た今川義忠は、西軍方大将山名宗全の誘いを断り、東軍側に属するのでありました。翌応仁2(1468)年東軍方総大将細川勝元より西軍方に属する遠江攻略を命じられた義忠は駿河に帰国。いち早く本貫地に戻ることが出来たことが、応仁の乱以後も駿河を統治することが出来た大きな要因となったのでありましたが。帰国後義忠は早速兵を遠江に向け進発するのでありました。このまますんなりと遠江攻略となれば良かったのでありましたが、同じ東軍方に属する三河の国守護細川成之を支援するため三河へ出兵した際、兵糧用として提供された土地を巡り東軍に属する尾張守護で義廉が西軍方となったため遠江の守護も兼務することになった斯波義良並びに救援を依頼した細川成之と対立。更に義忠は西軍方斯波義廉の重臣・甲斐敏光を。あろうことか義忠は、遠江から斯波氏を駆逐したい。故地を奪回したい思惑から守護代に任じてしまったため、現遠江守護である斯波義良と。同じ東軍方に属しているにも関わらず修復不能の関係に陥った義忠は文明8(1476)年斯波義良に通じた国人領主を遠江で制した帰り道。不意の一揆に襲われた義忠は流れ矢により敢え無い最期を遂げることになるのでありました。
共に東軍方による同士討ちと言う事態を重く見た幕府は、遺された今川氏嫡流である龍王丸(数え6歳)の討伐までは考えては居なかった。ただ義忠死去の経緯が経緯であったこと。比較的平穏とは言え駿河国内には今川宗家に取って代わるだけの勢力を保持するもの(小鹿範満)がいること。その小鹿と外戚関係にあるものの中には扇谷上杉氏ような有力な勢力が存在しているなど龍王丸を護らなければならない要因が揃っていたこと。このため幕府は、龍王丸保護するため駿河に送り込んだのが龍王丸の母の兄であり幕府の申次衆でもある伊勢盛時。のちに北条早雲と呼ばれる人その人でありました。
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