第2話

「……あのさ、メノ。今の話を聞いた限りの感想を言っていい?」

「ん、どうぞ」

 瑪瑙めのうがベランダに来るまでに至った経緯を聞いた限りの感想。それを数拍の間をおいて、ため息とともに吐く。

「どっかのアニメでよくある、同級生から自慢されて泣きつく小学生と同じレベル……」

 珍しく真剣な顔をしているからどんな話なのかと真面目に聞いていた。

 だが、その内容は真面目に聞いていたのがバカらしくなってくるようなものだった。

「そう言うなって! こっちからしたら深刻なんだよ! だってさ、妹から兄ぃってまだ童貞なの? 彼女いない歴イコール年齢なの? ってクスクス笑われて言われたんだぜ!? そんなことを言われた人間の気持ちになってみろよ!」

 なにかを訴えるように、瑪瑙はベランダの塀から身を乗り出す勢いで握り拳をつくって喚く。

 経緯を話し始めた頃は人目、いや、人耳を気にしてお互い静かに話していた。しかし、話していくにつれ、気付けばお互い普段の話し声に戻っていた。

 きっと、窓が開いている周囲のお宅にはなにを話しているのかモロバレだろう。

 もっとも、こんな話を聞いている物好きな人間がいれば、だが。

「心中は察する。でもさ! だからって! 隣の家に住む幼馴染に、妹にこんなことを言われたって報告するかよ! それも、この家を出て行かない限り、ゴミ捨ての時とかに会うっつぅのに! その度にこっちも同じようなことを言われている気分になるじゃねえか!」

「自分と同じような気分を味わいやがれ!」

 話があると言って、愚痴を言って、この言い様。

 はあー……。

「ちょっと、トーさん! 向き直ってどこ行くの!?」

「いや、話は愚痴っぽかったし、味わいやがれとまで言われたからな。部屋に帰る」

「へ? ――あっいや、待ってください! 味わいやがれは言い過ぎました! 調子乗ってました! すいませんでした! 本題はこの後に話す予定だったんです! これはトーさん、透輝様の力が必要なんです! 自分、瑪瑙がたった一人で行うこともでき――なくはないけど、二人の方が成功率とかが格段に違いますし! なにより、透輝とうき様がいれば時間を無為に過ごさなくて済むようになるんです!」

 本題はこの後や成功率云々というワードが気になって振り返って見てみれば、瑪瑙はベランダの塀に手を着いて、土下座のようなお願いのポーズをしていた。

 そんなに必死になるほど妹に言われたことが悔しかったのだろうか。

「……わかった、わかったから頭を上げてくれ。内容次第じゃ聞くから」

 言いながら元の位置に戻ると、ありがとうございます! と瑪瑙は礼を言ってから頭を上げた。

「あのさ、一応確認なんだけど、妹に笑われたって話はあくまで途中ってことでいいんだよね? 本題があるってのは出任せじゃないんだよね?」

 尋ねると、瑪瑙は首を縦に振った。

「うんうん。さっきのは本題に至る経緯。こういうことがあったからってだけの話だよ。ウソじゃない」

 下手に出るキャラクターをやめ、瑪瑙は普段のような口調に戻る。

「えっと、自分とトーは同じ職場でアルバイトをしているフリーターで、休みもお互い土日休み。そして、今日は土曜日。ってことは、明日はお互いが休みの日曜日で――」

「なんだよ、いきなり!? 分かりきったことを口頭説明で言うなよな、わざわざ。……っていうか、メノに職場を紹介したら同じ曜日を休みにしたいから教えてくれって言ってきたんじゃないか」

「そうだっけ?」

「…………」

 その時のことをより詳しく言うなら、「トーがいない曜日にパートさん達となにを話せばいいのかが分からない! だから、休みの日を教えてくださいっ!」 と泣きつかれた、という状況だった。

 うん。紹介した恩とかそういうのは別に忘れてもらっても全然構わないのだけど、こうもあっさりと言われると、なんか心の中がもやもやとしてくる。

 いや。

 これはあっさり言われたモヤモヤではなく、目の前で舌を出して、てへっ! みたいな顔でシラを切られたことからくる苛立ちのモヤモヤなのかもしれない。

 マンガではこういう表情をするとき、たいていデフォルメされているから苛立ちはないけど、現実ではこんな気持ちにさせるものなのか。……もしくは、やっているのが男で美少女じゃないからなのかもしれない。

「……まあいいや。話を戻して」

 嘆息して、話の軌道修正をする。

「で、本題は?」

「えっと、明日はお互い休みだし、、逆ナン待ちに行かないかっ!」

 瑪瑙は普段しないようなとびっきりのいい笑顔に、サムズアップのジェスチャーをした。

「…………」

 唐突な提案に無言になる。

 しかし、無言になってはいても無心になったわけではない。

 心の中では、ええぇー……。愚痴の後になんの話があるのかと思って聞いていたのに、そんな話かよ……。しかも、逆ナン待ちって……である。

「なんだよ、トー。いやに乗り気な顔だな! 出番待ちの狂戦士ばりに、待ってました! ってかんじじゃないか」

「だ・れ・が、出番待ちの狂戦士だ! あまり乗り気じゃない顔をしたんだよ!」

 この顔を見ろと自分の顔を指差して言うが、勢いよくツッコミながら物言う顔。逆ナン待ちに誘われた時の表情よりは、まだ今の方が瑪瑙の例えに近い顔をしているかもしれない。

 それにしても、出番待ちの狂戦士って……。友達とはいえ、人を表現するのに言うことじゃないだろ……。

 愚痴が終わって本題に入ったかと思えば、今度は逆ナンの誘い。

 どうするか。うーん、よしっ、結論は出た。

「誘うなら、他の男を誘いなよ。んじゃ、おやすみ」

 体を反転させ、本日二度目の部屋への帰還を試みる。

「おい、トー! トイレか? なら待つぞ。たとえ、大だろうとな!」

「大でも小でもねえよ。おやすみって言っただろ? 帰るんだよ、部屋に」

「なんで!?」

 いや、なんでって。そこに疑問をもつのかよ。

 後ろを見れば、瑪瑙は本当に疑問に思っているような表情をしている。

「だってさ、メノ。内容次第で聞くって話だったろ? その話は付き合えない。だから、帰る。な、簡単な結論だろ?」

 逆ナンということは、あくまで受身。

 そんな都合よく好みの子に声を掛けられるなんて事あるわけが……。

「ばっっっかやろう!」

「ッッ!」

 瑪瑙からの唐突な叫びに、思わず目を見開く。

 付き合いはそれなりに長い方だが、はたして、瑪瑙がこんなに大きな声で叫んだことが今までにあっただろうか。

 それくらい、瑪瑙が叫ぶのはレアなものだった。

「やる前から諦めるんじゃねえ! それに逆ナン待ちなんて話、だれが乗ってくれるっていうんだ! トーくらいだろ!」

「…………」

 えぇー……、なんか熱く説教されたんですけど……。

 しかも瑪瑙が言うには、だれも乗ってくれそうもない話に誘われているらしい。

「いや、でも、やっぱさ」

「でもじゃない!」

 いや、こっちの話くらい聞けよ。

「メノ、少しクールダウンしよう、な? 妹に言われた事で、つい熱くなって急く気持ちは分からなくもないけど、なんか変に熱くなってるかんじだしさ。そんなの、全くもってメノらしくないじゃん。ほら、深呼吸しよう、深呼吸、な?」

 我ながらよくもまあ、こんなセリフがスラスラと口から出てきたものだ。

 どうやら瑪瑙もらしくなく熱くなっていたことを自覚したようで、数秒の間、空気を吸って吐いてを繰り返してから、わるい、と軽く詫びた。

「いやいや、落ち着いてくれたようでなによりだよ。……あのさ、メノ。誤解があるようだから説明しておくと、なにも頭ごなしに女の子が声をかけてくれるわけがないと決めつけて帰ろうとしたってわけじゃないんだよ。ただ……」

「ただ?」

「こっちからしたら逆ナン待ちだけど、向こうからしたらナンパをしにくるわけじゃん? 偏見かもしれないけど、好みの子がナンパしにくるとは思えないんだよ。どういう子が好みか、メノは知っているだろ?」

 こういう子が好みだという話は、瑪瑙とは友達同士なので気軽にしたりする。

 それでも改めて言う恥ずかしさに頭を軽く掻きながら、瑪瑙の話を聞いて思ったことを素直に言う。

「お淑やかそうな女の子がだよ、ナンパしにくると思うか?」

 狭いものの見方だとは思うが、有名人でもなんでもない二人組みに対し、お淑やかそうな女の子が話しかけてくることがそうそうあるとは思えない。

 駅前で逆立ちして変なことをしている二人組みがいる、とでも話題になったりすれば人が集まってその中に一人くらいは、と希望はあるのかもしれない。

 でもそれは、悪目立ちして写真を撮るだけ撮られ、青だか紺だか制服を着たお兄さんに連れて行かれるというオチにしかならないだろう。

 汚名を被っての逆ナン待ちなんてごめんだ。

「……あの、トーさん?」

「ん、なに?」

「なんか色々と考えちゃってるみたいだけど、自分、そういう子が声をかけてくれるかもしれないって作戦くらいは考えてるよ?」

「…………はい?」

「だから、お淑やかそうな、事によると熱意がありそうな女の子が話しかけてきてくれるんじゃないかって作戦があるって言ったんだよ」

「なん……だと……」

 そんな方法があるというのか。

 だったら、なぜそれを早く言わなかったのか。――ああいや、説明の途中で部屋に帰ろうとしたりしたから瑪瑙は言えなかったのか。

 …………てへっ!

 問う姿勢を正すように、瑪瑙は塀に肘を置いてから指を組んで、愚痴を話し始めた時のような真剣な表情に戻る。

「もし、お淑やかそうな子が声を掛けてくれるかもしれない作戦があったら、トー、乗るか?」

 真剣な顔でニヤリ笑うその顔は自信に満ちていた。

 普段だったら、ニヤリと笑うその顔がいけ好かないと切って捨てるところだ。

 だが、今回ばかりはそんな顔も許そう。

「ばっっっかやろう! そんな話、乗るに決まってる! 当り前じゃねえか!」

「だよなっ! トーなら来てくれると思っていたぜ!」

 そう言って、お互いにサムズアップを返し合い、笑い合う。

 ここは二階のベランダだからできないが、もし、触れ合える距離にいれば、ハイタッチをしたりしていただろう。

 そんな浮かれた気分でいる中、笑顔のまま、改まったように瑪瑙は咳払いを一つする。

「んーと、それじゃ、話に乗るか乗らないかという重要なことが決まったところで、詳しい話は明日、目的地に向かいながらでいいか? ちょっと現地で用意したいものもあるし」

「うん、オッケーオッケー」

 先ほどまでの断る気が満々だった空気からは打って変わって、浮かれた気分のまま瑪瑙の言ったことを了承する。

 どうなるかは分からない極小規模な祭りのようなものだが、こういうのは企画の段階が一番楽しい。

 それは十九年生きてきて学んだことの一つだった。

「それでトー、服はどうする? 貸そうか?」

 瑪瑙は予め準備をしてきていたのか、服が入っているであろう大きなビニール袋の塊を足元から取り出す。

 隣の家に住んでいるので私服姿の瑪瑙を見る機会はたまにあり、服装の傾向とセンスの良さは知っている。そして、お互いの身長等も似通っている。――となると断る理由はない。

「借りる借りる! へーい!」

 一歩後ろに下がって、こっちだ、こっち! と、両手を大きく広げて構える。

「落とすと面倒だからちゃんと受け取ってくれよ、な、ほれっ」

 大きさから見ると、その袋ははそこそこ重そうだ。

 なのに、瑪瑙はそれをバスケットボールパスで軽々放ってみせた。

「ぉぅっと」

 放物線を描いて飛んできた塊を腕と胸で押さえて抱き止めるが、その急にかかった重みに思わず小さく声が出てしまう。

 重さに対するリアクションがあまりにでかいと、軽々と投げた瑪瑙が力で勝ったように調子に乗る気がしたのであまり表情には出さず、極めて平静を装い、立ち上がって元居た位置に戻る。

 よしっ、予想より重かったと思ったことに瑪瑙は気付いていない。話題に出されないうちに話を進めてしまおう。

「あー……っと、そういえばさ、逆ナン待ちなんて初めてだから適当な開始時間ってものが分からないんだけど、時間はどうするの? 朝十時くらいから?」

「うーん、自分も初めてだからなー。……たぶん、お昼過ぎ――くらいでいいんじゃない?」

「そっか。それじゃ、あとはそれに間に合うように起きたらメールす――」

 起きたらメールするってことで! そう言おうとしたが、その声は次第に小さくなり、最後の方は声にして発せられていたかどうかすら曖昧だった。

 曖昧なくらいに動揺した。

 それは、あちらの家の窓がガラガラと勢いよく開く音が聞こえたからだ。

「兄ぃ、ちょっとうるさいんだけどっ! 夜なんだよ、よ・る!」

 瑪瑙の向こうに見える窓。そこからは声に続いてベランダに出てこようとする足が見える。

 声や瑪瑙に向けたセリフから、声の主はすぐに分かった。

 瑪瑙妹だ。

「――!」

 この後、瑪瑙妹と挨拶するくらいはすることになるだろうという予測から、次に頭の中を占めたのは疑念だった。

 もしかしたら、逆ナンに行くに至る経緯の話まで全てを聞かれたかもしれないのだ。

 頭の中に浮かんでくる疑念と動揺に、夏だから出てくる汗とはまた違う汗が背中からドッと流れ出てくる。

 親に逆ナンに行くという話を聞かれるのも恥ずかしいが、話の発端の人間に聞かれたかもしれないというのは親以上に恥ずかしい。

 もう気が気ではない。

「兄ぃ、そんなでかい声で誰と話して――あー、透輝さんか。こんばんはー」

「こ、ここ、こんばんはー」

 平静を装って軽く手を挙げて挨拶するが、動揺でドモって返してしまう。

 挨拶をしてくれた時は可愛らしくにこやかな笑顔を見せてくれていた瑪瑙妹さん。

 そのにこやかな笑顔も数瞬で、今は明らかに不機嫌そうだった。

 それも、ゴミを見るような目をするほどに。

 はて、笑顔が数瞬で終わる程うるさかったのだろうか。それとも、内容を聞かれてそれで不機嫌なのだろうか。

 もし前者の方で機嫌が悪いなら、瑪瑙と話す際にはもう少し声の大きさを考えた方がいいのかもしれない。

 それにしても、この話は本来なら向こうの家に彼女いない暦イコール年齢がいる程度で済むはずだった話だ。

 それが、同じような状態ということでクスクス笑われるかもしれないこの状況。完全に飛び火だ。貰い事故と言い換えてもいい。

 最悪の場合のことを考えると、次に一対一で会った時の気まずさやなんやで明日からが憂鬱になってくる。

「さて、挨拶はこの辺にしてっと」

 瑪瑙妹は仕切りなおすように笑顔になって、手をポンッと叩く。

「…………」

 人の笑顔が怖いと思ったのは、これが初めてかもしれなかった。

 次の行動が既に決まっているように語る瑪瑙妹。

 はたして、これからなにが始まるのだろう。

 指差されて、二人とも性交経験ないのー? とか笑われるのだろうか。

 とりあえず、強張った表情筋を動かしてこちらも笑顔を返す。

 どうか、笑うならお手柔らかにお願いしたいという気持ちを込めて。

 しかし、瑪瑙妹の次の行動は全く予想していないことだった。

「こンの、ヘンタイーー!!」

 叫びながら、瑪瑙妹は近くにあったチリトリ持って放り投げたのだ。

 それも、バスケットボールパスなんて生易しいものではなく、手加減なんてないオーバースローで。

「ッ!」

 反射的に、つい、顔の前に両手を出して両目を瞑ってしまう。

「…………?」

 目を瞑っている間にぶつかる音はした。

 しかし、体の方に痛みはない。

 こうしている間にも、二投目三投目の音が次々と聞こえてくる。

 恐る恐る目を開けて指の隙間から向こうを見ると、身を細くして壁際や塀の角に逃げ続ける瑪瑙が見えた。

 その表情は苦虫を噛み潰したような、例えるなら、銃撃戦の最中に弾切れをした兵士のような顔をしている。

 ……えーっとだ。現状に追いついてこない頭だけど、それを使って考えていこう。

 今もチリトリやハンガーを投げ続けられているのはだれか? こちらに飛んでこないことから瑪瑙だと推測できる。。

 物を投げられる瑪瑙。それには理由がある? 理由は不明だ。だけど、なにかがありそうだ。

 ヘンタイと言われたのはなぜか?

 それは疑問の答えを考えている最中、瑪瑙妹がハンガーを投げながら、叫んで教えてくれた。

「な・ん・で、兄ぃはナチュラルに尻出してベランダに出て話をしているのか、な

!!」

「…………」

 えっと、面倒くさいかもしれないが、瑪瑙妹がここに来た理由から物を投げ続ける理由までを、もう一度分かる部分で状況を整理して考えていこう。

 瑪瑙妹が怒っている理由その一。話し声がうるさかったから。

 だが、それはすでに問題にはなってはいないだろう。

 依然、近くにある物を瑪瑙に投げては塀に当たっている音の方が、話し声より明らかにうるさいのだから。

 瑪瑙妹が怒っている理由その二。窓を開けて外に出てみれば、実の兄が半裸(目撃したわけではないので未確定)でベランダで談笑という大変スリリングなことをしていたから。

 これは本当に半裸だったのなら擁護のしようが無い。

 自分の家とはいえ、半裸の兄に対して怒る妹の方が正しいだろう。

 ということは、だ。これらのことをふまえて考えると、こちらに物が飛んでくることは瑪瑙妹のコントロールミスでもない限り、ない?

「ちょっ、おい、くそ妹! あっぶねえだろ!」

「くそってひどくない? それよりさ、兄ぃ。これ、なんか楽しくなってきたか、も!」

「自分はぜんっぜん楽しくねえっ!」

 キャッキャッと笑いながら物を投げる妹。投げられた物を左右に避けてを続ける兄。それはうちでは見られない珍しい光景だった。

 うーん、どうしたものか。

 瑪瑙が半裸なのかを実際に見て確かめたわけではない。

 だが、小学生でも跳び移れるこちらのベランダに跳んでくることや塀を跨いで脱出を試みようしないあたり、瑪瑙妹の言うとおり、瑪瑙は本当に半裸なのかもしれない。

 でも、とりあえず瑪瑙がなにかを穿いていることを信じて、こっちに来いっ! と助け舟を出すか? いや、それはもし瑪瑙妹が言っていたことが本当だった場合、半裸の変態が跳んでくることになる。変態が跳んできたら……、あー、もしかしたら突き飛ばしてしまうかもしれない。

「うおぉっ、くそっ、間髪いれずに投げてくるからっ、反撃の隙がねえっ!」

 こうして葛藤している間も向こうのベランダでは激しい攻防が繰り広げられている。

 だが、避け続けた瑪瑙の頑張り(あれだけ投げられてダメージを受けていないってある意味すごいことなんじゃないか?)は功を奏したようで、突如、柵壁にぶつかる音が鳴り止んだ。

 瑪瑙妹の方を見れば、投げる物がないかを探している。

 弾が切れたのだ。

 今まで物を投げ続けられて苦渋の表情でこちらを向いていた瑪瑙の表情が一変する。

 その表情は、劣勢だったゲス野郎が優勢になった時にする笑みだった。

「よーくーもーやってくれやがったなッ! くそ妹がァっ!」

 瑪瑙は向き直って今まで投げられた物を越え、蟹股で一歩一歩と妹に歩み寄っていく。

 この光景を例えるなら、劣勢から優勢になったオークと女騎士が正しいだろう。

 とはいえ、さすがに瑪瑙といえど、妹相手に十八禁展開にはならないだろうが。

 だが、今はそんなことよりも大事なことがある。

「……SSRが出るくらいは信じてたのに……」

 それを目の当たりにしたことで、自然と口から落胆の声がこぼれた。

 そう。瑪瑙が歩いていくにつれ、今までは角度的に見えていなかったものが、未確定が確定になっていくのだ。

 妹に近付くにつれ、段々と瑪瑙の下半身があらわになっていく。

 そのあらわになる部分が、尻、太もも、膝、と段々と範囲を広げていく。

「ああ!? おいっ、メノ! なんなんだよ、その装いはっ!」

「んん? なんのこと? これのこと?」

「いいっ! 振り向いて確認しようとするな! 見えるだろ、色々と!」

 指差して指摘したのは瑪瑙の服装。

 その服装はティーシャツに靴下にサンダルという、マニアックな出で立ちだった。

 ……なんでこんなときに限って、膝下丈のハイソックスなんて履いちゃってるんだよ……。くるぶし丈の靴下より変態性が増すだろ……。ハイソックスをディスってるわけじゃないけどさ……。

「トー、見て見て」

 唐突に、瑪瑙はできなかったことができた子どものように声を掛けてくる。

「……こンのやろぉー……人の家のベランダだから手が出せないと思って……」

 瑪瑙がしたのは、いわゆる、お嬢様の挨拶。

 脚を交差させ、自分の着ている服の脇を軽く摘むといった、本来なら礼儀を含んだ所作だ。

 それをして、チラチラと横目でこちらの反応を確認してくる瑪瑙。

 もしこれが、小さい子がやっていたら大変微笑ましい光景だっただろう。

 だが、それをやっているのは大の大人。

 大人に尻丸出しでそんなことをされても、正直、ハートフルよりヘイトフルだ。

「くそぉー……」

 瑪瑙の挑発に奥歯を噛む力が強くなる。

 近くにいれば、あの一糸纏わぬ尻を引っ叩いてやりたい。それもバッチーンっと思いっきり……――ん?

 瑪瑙がこちらを振り返っているのとは反対側。瑪瑙の死角から、ゆっくりと瑪瑙妹が顔を出してこちらに人差し指を立てて口元にもっていくのが見えた。

 瑪瑙はそのジェスチャーにも、妹がゆっくり動いているのにも気付いている様子はない。

「…………」

 今の瑪瑙妹の行動の意味を口に出して問うなんてことはしない。

 問わずとも、意味はきちんと伝わっているのだから。

 煽ってくる瑪瑙に、代わりに制裁をしてくれるというのだろう。

 ああ、だったらジェスチャーの意味を問い、瑪瑙に気づかせるなんてことはしない。喜んで協力しよう。

 だとしたら、そのために取るべき手段は――。

「おい、瑪瑙。これを見ろ!」

 一瞬、塀に隠れてからまた顔を出す。

 ――瑪瑙妹の動きに気付かれないよう、注意を引くことだ。

「こいつがどうなってもいいのか?」

「……?」

 手に持った物を両手で持って塀の外に出す。

 しかし、瑪瑙は意図が分からないというような顔になっただけだった。

 今、両手で持っているのは服の入った袋。

 それを人質にこちらに興味を持たせる。それが今考えた限り、唯一興味を引けるものだった。

 だが、瑪瑙の反応から察するに、ただ空中に服を出しただけでは注意を引くのに弱い。

 なので、時間稼ぎに少しずつ行動の意味を説明していく。。

「メノの両親ってさ、家で喧嘩して騒いでもあんまり怒らないよな?」

 近隣住民ですら分かってはいることを、あえて瑪瑙に問う。

 この問いの正しい答えは、兄妹喧嘩は日常茶飯事。だから諦めている、だ。

 近隣住民ですら分かっていることをあえて問うたのは、今の騒ぎを以ってしても瑪瑙家のリビングから怒鳴り声が聞こえてこない理由を頭で確認させる、という意味がある。

 これは同時に、話しかけることで瑪瑙の注意が他にいかないようにする、という効果もある。

「んー、まあ、ね」

 怒らなくなった理由を騒動の本人も知っているようで、瑪瑙は申し訳なさを含んだ相槌を打った。

「だけどさ、メノ。それって大怪我をするレベルじゃないから何も言わないとも言い換えられないか?」

 事実、かすり傷や噛み傷や引っ掻き傷をつくって瑪瑙が学校に登校してきたことはあっても、包帯を巻いて登校したり、救急車が家の前に来たことはない。

 それを問うことで瑪瑙に確認させる。

 それから、ここからが本題だと、悪く笑って問い続ける。

「さすがに、この重さの物が上から落ちてきたら両親もリビングから顔を出すだろう。そのついでに注意しにベランダに向かってくるってこともあるんじゃないか?」

「――!」

 言われて、瑪瑙はハッとした顔を見せる。

 多少騒いでも大丈夫だとしても、それは日常を越えないからだ。

 それは、非日常、救急車が必要な事態になったら話しは別という意味になる。

 きっと、瑪瑙の両親とはいえ、きっかけさえあればついでに注意をするくらいはするだろう。

 その時に、だ。

 注意しに二階のベランダに上がってきたら息子がムスコ丸出しという状況。これは十分に説教をされるに値する内だろう。

「ちょっ、トーさん!?」

「なーんてね。時間稼ぎはこれくらいでいいでしょ?」

「はい。透輝さん、ありがとうございます」

 後ろからした声に、瑪瑙が顔の向きを戻す。

 その視線は始めは瑪瑙妹の顔。そこから徐々に下がっていく。

「チェックメイトってやつだよ、兄ぃ」

 桂馬の動きの位置にいる瑪瑙妹は笑顔で言った。

 瑪瑙妹は剣道で使われる下段の構えで、瑪瑙にそれをつきつける。

「……えっと、あのですね、妹様。さすがにそれはシャレにならないんじゃないカナー? ベランダの箒、しかも掃く方を局部に向けるってのはサ。……ね?」

 瑪瑙は説得を試みるも、箒を下段で構えたまま瑪瑙妹は動かない。

 妹を刺激してはまずいと悟ったのか、瑪瑙は少しずつ少しずつ両手を上げていく。

 ……この国でホールドアップする人間、初めて見た。

「あ、あのですね、いくら無機物の箒といえど、そんな使い方は望んでいないでしょうし? 脚が有効打突ではない剣道では利点がない構えとはいえ、下半身すっぽんぽんのこの状態ではとても有効打突なわけでして! ――や、やめろ、やめて! 箒の先をゆらゆらすんのやめてくださいッ!」

「んー、どーしよっかなー」

 いかにも楽しげに瑪瑙妹は箒を揺らす。

「んじゃ、とりあえず、その服装の理由を教えてもらおっかなー。ねえ、透輝さん、それって重要なことだよね?」

「ああ、そうだな。たしかにそれは大事なことだ。隣に住む幼馴染兼同僚が変態かどうかの問題だからな」

「だってさ、兄ぃ? 教えてくれる?」

「は、はひっ!……えっと……」

 答え辛そうに横を向いたりするその後ろ姿から、なんとなく、瑪瑙は目が泳いでいるのだろうと推測する。

「なにから話したものか。……あっ、ああそうだ! 話をする前に一つ言っておきたい! そこだけは誤解がないように先に言っておきたい!」

「ふむ。兄ぃ、聞こうか」

 優位に立っているからか、瑪瑙妹は偉そうな上司のような口調で答えた。

「自分がこの服装で人と話す背徳感に快感を感じるようになったのではないということを信じてもらいたい。たとえ、こんな服装で出てきた事実があっても。それだけは、それだけは信じてもらいたい!」

 言って、何故か瑪瑙は尻を引き締めた。

「うーん、メノの内面の問題だからすぐに信じるってのは正直難しい。けど、話が進まないから、とりあえず今の言葉を信じるということで」

 そういうことでいいよね? と目配せをすると、瑪瑙妹はコクリと頷いた。

 それから、とてもとてもとっっっても言いにくいんですけど、と瑪瑙は今の服装の理由を語る。

「トーにメールを送った後、どうせすぐには返信はこないだろうと高をくくって、待ってる間に部屋で一仕事終えようとパンツを脱いだんです。ッ。だけど、思っていたよりも早くトーから返信があってですね。どうせ脱ぐのに穿くのは効率が悪いと考えて、こんな服装でベランダに出ました。ッツ。けして、新たな性癖に目覚めたわけじゃな、イってえな! さっきから箒の先が袋に当たってんだよ! ちくしょぉー、なんなんだよ、この状況……」

「いや、状況については、こっちも思ってることだからな?」

 半裸の幼馴染とその妹が股間に箒突きつけている状況。そんな、滅多に見ることができないであろう状況に突っ込みをいれる。。

「ィッツ、くそ妹! さっきから揚げ足とって大事な大事なムスコさんの側面を突っつくんじゃねえよ! ああ、クソっ、もう、我慢ならねえ!」

 竜は顎の下にある一枚の逆さに生えた鱗に触れると怒るという。

 どうやら瑪瑙の逆鱗は下腹部にあったようだ。

「たとえ、己死すとも我は死なずッ!!」

 そう、瑪瑙が吼えたことをゴングの代わりに、向こうのベランダで第二回戦が始まった。

 再び蚊帳の外になったわたしは、キリがいいので荷物を持って自宅のベランダを後にした。


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