Your Song.

鍵黎 陸

1.

   ◆


 理想を現実にすることは難しい。一体、自分のしたいことをしたいようにしている人間がどれだけいるだろうか。それはきっと、ほんの一握りだけなんだろう。大体は、これぐらいならいいだろうと妥協しているのだ。


 僕もそんな中の一人。理想には近づけなくて、夢を叶えられずに毎日を過ごしている。でも、最後くらいには何かを成し遂げたい。たとえ自分の理想と、全く同じではないとしても。


 残業帰りのサラリーマンたちが疲れきった表情をしている電車の中で、そんなことを考えていた。きっと、ここにいる多くの人たちも、若い頃は今現在こんなふうになっているなんて考えたこともなかっただろう。昔は夢を抱き、それに向かって進もうとしていたはずなのだ。でも、壁は大きくて険しくて、妥協するしかなかったんだ。


 きっと、自分もこんなふうになってしまうんだろうな、と少し憂鬱になる。でも、きっと仕方がないことなのだろう。たくさんの人がいるんだから、こうやって働く人間も必要なのだ。


 終点の駅に着き、電車を降りる。改札を出ると、遠くの方からギターの音色が聞こえてきた。ちょうど駅の近くに大きな広場があり、そこではよくストリートミュージシャンたちが各々自分の音楽を紡ぎだしている。


『――――♪』


 それは別に珍しいことではないのだが、なんだか少し気になることがある。この音は初めて聞く音だった。それだけではなく、すごく上手い。弾き慣れているのがよく分かる。だから、近くで見てみたいと思った。早足で広場へと向かう。


 広場の隅の方にスペースがあり、そこに音色の主は居た。意外なことに、それを紡ぎだしていたのは小さな女の子だった。少女は小さな身体とは反対に、大きなギターを完全に弾きこなしていた。


 その光景が珍しいのか、何人かのギャラリーがすでにいる。僕もその中に混じって少女を眺めていた。


 少女は目を閉じてギターを弾いている。口元は笑っていて、とても楽しそうだった。こんなにも楽しそうに弾いている人を見たのは久しぶりな気がする。本当に、この少女はギターを弾くのが好きなんだろう、と直感的に思った。


 ゆっくりと、閉じていた目が開かれていく。その真っ黒な瞳はとても綺麗で、でも、どこか壊れてしまいそうで、僕は思わず見とれてしまっていた。


 笑っていた口元がゆっくりと形を変えていき――ギターの音色にもう一つの『音』が加わった瞬間、あまりにも圧倒的なその歌声は僕を、世界を貫いた。


 気がつけば、僕は咄嗟に声を上げていた。


「キミだ!」


 突然の声にびっくりしたのか、ギャラリーも少女も動きが止めて一斉に僕の方を向く。でも、そんなことを気にせずに、僕は少女へと近づき手を取り――


「キミが欲しい!」


 僕の発言に誰もが唖然とする。ここでようやく、自分が何をしたのかを冷静になって理解した。――あ、これダメなやつだ。


 少女は突然のことにびっくりしたのか固まっていた。そして時間が経つごとに、この状況を理解したのか、顔がりんごのように真っ赤に染まっていく。


「いや、えと、あの、これは」


 どうしよう。この状況はどうやって乗り越えればいいのだろうか……ダメだ、全然思いつかない。


 とりあえずいつまでも握っていては悪いし……と少女の手を離そうとしたとき、勢いよく引っ張られる。


「すっ、すみませんでした~!」

「え、ちょっとっ!」


 どこに連れて行かれるのかと思ったけどさほど距離はなく、近くの物陰まで来たところで体力の限界なのか掴まれていた手から力が抜けて、少女はその場で荒い息を吐いている。そんなに距離は走っていないはずだけど、少女には負担が大きかったのだろうか。


「あの……大丈夫?」


 そう声をかけると、少女は苦しそうな表情を浮かべながら真っ赤な顔をこちらに向ける。


「きゅ、急に、な、何なんですかあなたは! そんな、急に、わっ、わたっ、わたしがほ、欲しいだなんて! あ、あなた、一体っ!」

「とりあえず落ち着いて……ほら、深呼吸」


 ある程度落ち着きを取り戻してもらわないと、こんな状況では話がまともに出来そうもない。それを察したのか、少女は僕の言葉に素直に従い、ゆっくりと深呼吸を数回行う。これで、もう大丈夫だろう。


「いや、ごめんね。僕もちょっと興奮してて……」

「こ、興奮!?」


 咄嗟に少女が自分の腕を抱く。


 これはあまりにも無神経すぎる僕の失態だった。すぐに言葉の選択を正し、先程の言葉を訂正する。


「いや、そういう変な意味じゃなくて! ……君の声が、その、すごく素敵だったから」

「あぁ……。声、ですか……」


 少女は僕の言葉に、少し落胆したような表情を見せ視線を逸らす。それがなぜだかはわからない。けど、それはあまりにも自分勝手な願いかもしれないけれど、少女の歌声を聞いた時から考えていたことがある。それを伝えずにはいられなかった。 


「それで、よかったらなんだけどさ、僕らのバンドでさ、歌ってくれないかな?」

「え……?」


 あまりに突然だったのか、少女の目が僕をしっかりと捉える。でも、すぐに何か申し訳無さそう表情が曇る。


「君の声が、僕の求めていた理想の声にピッタリなんだよ。きっと最高の曲になる。だからさ、歌ってくれないかな?」


 もう一度言ってみる。だけど変わらず、少女は暗い顔のままだった。


「無理は言わない。断ってくれても構わない。……でも、できれば僕は、君に歌って欲しい」


 暗い表情のまま、少女がゆっくりと口を開く。


「その、私の声には、色々と問題があって……」

「問題? 僕は素敵な声だと思うけど」

「いえ、そういうのではなくて……」


 上手く言い出せずに、少女は暗い表情のままもじもじしている。

 一度ゆっくりと深呼吸をし、腹を決めたのか少女は少しずつ口を開いた。


「私の声にはタイムリミットがあるんです。この声は――神様にもらったものなんです」


 正直、少女の言っている意味がわからなかった。タイムリミット? 神様? もしかして、僕はめんどくさい人に関わってしまったのだろうか。

 そんな僕の思考が表に出ていたようで、訝しげな視線に突き刺されていた。


「そんなバカを見るような目をしないでください! ……やっぱり、信じてくれませんよね。大丈夫です、わかっていましたから」


 確かに、信じられないことが多すぎる。でも、僕にはどうも少女が嘘をついているようには見えない。


 それに、簡単には理解されないということをわかっていても、この少女は耐えることが出来ていない。


「……その声のタイムリミットっていつ頃なの?」

「え? あ、えっと、10日間だったと思います」

「10日間か……。よし、それなら間に合う。だからぜひ、僕たちのバンドで歌ってくれないかな」

「でも……」


 僕の思考が読めないのだろう。少女はどうしていいのかわからずに俯いたままでいる。だから、僕はありのままの気持ちを伝えた。


「君の言葉を信じられたわけじゃない。それでも、君の歌なら信じられる。その声は素晴らしい。だから、都合のいい男と思われるかもしれないけど、僕はやっぱり君に歌ってほしいんだ」


 やっと、理想を現実に出来そうなんだ。今まで、どれだけ求めようとも得ることの出来なかった確かなものを得ることが出来そうだから。


 幾ばくかの時間が流れ、ゆっくりと、少女の口が開かれる。


「…………わかりました。それが、私にできることなら」

「よかった! それじゃあ、えっと……」


 鞄から何曲かの楽譜を取り出し、それと一緒に自分の名刺も渡しておく。


「急で悪いけど、とりあえずこれ明後日の練習で合わせるからさ、覚えといて。それと僕の名刺。何かあったら連絡して」


 少し困ったような表情を浮かべているけど、少女はすぐに優しい笑みを浮かべた。


「はい、頑張ります!」



   ◇


 いろんな事があった。いや、ありすぎた。まさか、私にこんな出来事が訪れるなんて夢にも思わなかった。思えるはずがなかったから。


 理解の範囲を超えすぎていたせいか、家に帰るとシャワーを浴びるよりも先にベッドへ寝転んだ。


 本当は全て夢なんじゃないだろうか。試しに頬をつねってみた。……普通に痛い。

 でもやっぱり納得いかなくて、鞄からさっき貰った楽譜を確認してみる。


「ふわぁ~……」


 やっぱり現実だ。あまりにも信じ難い事実だけど。


 楽譜の間から何かがコロッと落ちる。そういえば、名刺も貰ってたんだっけ。


 名刺はとてもシンプルなもので、バンド名と名前、メールアドレスと電話番号だけが書かれていた。


「麻野、結弦さん……」


 それが彼の、私の声を必要としてくれた人の名前だった。


 本当は、どうしてあんなことを言ってしまったのかわからない。だって、この声は本来存在するはずのない声なのだから。正直なところ、少し後悔している。だけど……


 与えられたこの声には、きっと意味があるんだと思う。未来のことなんてわからないけど、今はそのために生きたいと思った。

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