ナイフ

 胃の中にとらわれていたものをすべて解放したら、ずいぶんらくになった。

 ユリアとマリオンが汚れた床をみて、半裸でわたわたしている間に、何者かに部屋の扉が開けられた。


「……やあ。今日の夜は、……おおっと」


 訪問者は丈の長いドレスが床につかないように、裾をつまみあげて後ずさる。

 床を汚した犯人を探すように、訪問者がこちらを見上げてきた。


「……思い切りやったねぇ」


 エメラルド色の髪の訪問者が嘆息をもらす。

 そしてその幼女は一旦、扉を閉めてどこかに行き、ぞうきんとバケツを持って戻ってきた。


「……部屋が酒くさいね。アリア、飲んじゃったのかい?」


 確か、この幼女の名前はエリスと言ったか。

 エリスはもたついている冒険者をよそに、せっせと床をふきながらわたしに話しかけてきた。

 幼女の問いに、いまだズキズキと痛む頭を刺激しないように、ゆっくりとうなずく。


「……今日はなんだか素直じゃないか。なにかあったのかな?」


 昨日までなら、エリスはわたしからリルちゃんを奪おうとする敵だった。

 話とか行動とか全部が気に食わなくて、話しかけられようものなら殴りかかっていただろう。

 でも、いまはなぜか心が落ち着いていた。

 いつもこうだったら、リルちゃんに怒られなくて済んだのに。


「……よし完了。じゃあアリア、食堂で水でももらって、落ち着こうか。キミたちも、早く服きて食堂に降りてきてよ」


 エリスに手を取られる。

 リルちゃんと同じように、あったかい。


 わたしより小さい幼女に気遣われながら、一階の食堂へ。

 エリスは自分の家のように厨房に入り込み、わたしに端っこの椅子で休んでいるように言った。


 貯水槽から水をすくい、鍋に入れて火にかけているところを見物。

 水がふっとうするまでの間に、エリスは調理台の下からタマノハを取り出した。


 黄緑色の大きな葉が何層にもくるまって、ボール状になっている野菜を、エリスはナイフで真っ二つに切断する。

 その片割れをもう半分に切って、今度は端から何度も何度も葉を切り刻んだ。

 タン、タンと、ナイフがリズミカルに音を立てる。


「……リルフィはね、今日、一度も笑わなかったんだ」


 量産されるタマノハの細切りをボウルに乗せる一方で、ふっとうしたお湯を脇に置いて冷ます。

 流れるような作業の中で、エリスはこちらも向かずに呟いた。


「……ボクがリルフィの大好きなシチューを作ってあげたのに。元気がないからいっぱい抱きしめていい子いい子してあげようと思ったのに。頑張っているリルフィをたくさん褒めてあげようと思ったのに」


 ブツブツと言いながら、もう半分のタマノハを切りはじめるエリス。

 ナイフの音は、さっきよりも早く、力強い。


「……ボクの手は、払いのけられてしまったんだよ」


 冷まし終えたお湯を木のカップに移して、わたしのところに持ってくる。

 カップを持っていない方の手には、野菜を切っていたナイフが握られたまま。


「……ボクじゃ、ダメだったんだよね」


 わたしは差し出されたカップを受け取るが、エリスの視線はするどくナイフの刃先に向いていた。


「……アリアみたいになりふり構わず、このナイフを振り回せたらどんなにラクなのかな」


 ならやればいいのに。

 魔法しかとりえのないわたしなんて、エリスにかかればなんてことない。

 役立たずのわたしを殺して、リルちゃんを独り占めすればいい。


 見せつけるように握られたナイフを前に、動じることはない。

 どうせ抵抗したって無駄だから、堂々とするんだ。

 ふつうの人間は、こういう風に死をちらつかされる状況では、恐怖で足がすくむのだろう。


 エリスはふつうじゃないわたしに、ナイフの刃を首元に当ててきた。

 ひんやりと冷たく。

 チリチリと痛む。


 わたしは手に持ったカップを、エリスの腕に触れないように口元にはこぶ。

 人肌までに冷めたお湯を一口。


「なんで殺さないの?」


 首元からいっこうに動かないナイフに、当然のように湧き出る疑問。

 ここまで無抵抗なら、あとはそのナイフを押し込むだけで終わる。

 わたしは無様に地面に落ち、エリスは邪魔者を一人消せるのだ。


「……キミ、は」


 金属が地面に落ちる音。

 わたしの喉元が、冷たい感触から解放されて、熱をおびてきた。


 ナイフを落としたエリスは、ちいさな手を広げてわたしの頭を抱いてくる。


「……ボクとしたことが、契約者じゃない人間に、こんなことをしまうなんて」


 今日はリルちゃん以外に触られる機会が多い。

 モヤモヤする。


「……リルフィがアリアに構ってしまう理由が、わかる気がするよ」


 そっと、エリスがわたしから離れ、床のナイフを拾い調理台に戻っていく。

 わたしは二口目のお湯を含んで、幼女の動きをじっと見ていた。


「……ボクは造られた存在だけど、人の心を持っている。だから、リルフィが困るようなことは、しない」


 わたしの血がついてしまったナイフを、丁寧に水で洗うエリス。

 結ばれているエメラルドの髪が、言葉に合わせてゆれている。


「……アリアは、どうなの? どうしてリルフィのそばにいるの?」


 わたしがリルちゃんを好きな理由。

 かわいくて、かっこよくて、なんでもできて、たまにドジなところが好き。

 金色の髪が好き。

 青い目が好き。

 小さい鼻が好き。

 ピンク色の唇が好き。

 声が好き。


 ぜんぶ好き。


 でも、伝わらなかった。

 どんなに頑張っても、この想いを理解してもらうことはできなかった。


「……もっとよく考えてみるといいよ」


 エリスは作業に戻り、それ以上の言葉を発しない。

 考えてみろと言われても、難しいことはわたしには分からない。

 リルちゃんと一緒にいることが幸せ。

 それだけ。


 さっきから胸の中がモヤモヤするのを酔いのせいにして、すっかり冷めたお湯を飲んで洗い流そうとした。

 そうして無言の時間を過ごしていると、厨房に宿屋の女将が入ってくる。


「いい匂いがしてきたと思えば。今日もお料理、作ってくれたのね。助かるわ」

「……リルフィのご飯はボクが作るからね。そのついでだよ」


 女将の言葉で、厨房に広がっている美味しそうな香りに気づいた。

 火にかけられた大きな鍋に入っている、具だくさんのシチュー。

 空腹感が押しよせてくる。


 体調のわるさとか胸のつっかえとかより、空腹の方が勝ってきて、頭の中は食べることでいっぱいになった。


「じゃあ暇そうな黒髪の子、お客さんを呼んできてくれないかしら。今うちに泊まっているのはあなたの仲間だけだからね」


 いいでしょ、と背中を押されて、女将に厨房から追い出された。

 ……わたしも客だと思うんだけど。

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