リオ・ビザール

 目を覚ます前のまどろみの中、私は思考の海を泳いでいた。


 リオ・ビザールに拷問された。

 爪を剥がされた左手は、今確認してみても元どおりになっているけど、あれは夢じゃない。

 苦痛の記憶は確かにあるし、あの屈辱を夢で終わらせるのはありえない。


 少し休んだから、恐怖が和らいで色々考える余裕ができた。

 私の拷問が終われば、次に矛先が向かうのは仲間の誰か。


 アリア、ユリアさん、マリオンさん。


 あの苦痛を他の誰かが味わうことになる。

 男は爪剥ぎが準備運動と言っていたから、次はもっと悲惨なことをするだろう。


 もし、アリアが選ばれたら。


 ユリアさんだってマリオンさんだって、選ばれないのに越したことはない。

 しかし、あのひとたちは冒険者で、大人で、私たちよりずっと丈夫だろう。


 アリアは、私より脆い。

 拷問を受ければ、すぐに壊れてしまう。

 だから私が守ってあげないとダメなのに。


 どうして今までそのことに気づかなかったのだろう。

 自分のことばかりで一杯一杯になっていた。

 寝てしまったせいでだいぶ時間が経っているだろうし、もしかしたらもう……。


 焦りが生まれる。

 早くここから逃げないと。

 みんなを助けて、屋敷を抜け出して。


 追っ手はどれくらい?

 本当に逃げられる?


『起きたら、あの男を殺しに行きましょうね』


 眠る直前にかけられた、メイドの言葉がよみがえる。

 ……男爵を、殺す?


 そうすれば、別に早く動かなくてもよくなる。

 親玉が消えるから、追っ手も出てこない。

 そうだ、これがいいよ。


 私が受けた痛みとか、他の冒険者の恨みとか、全部返してやればいいんだよ。

 あの男なんて、不意を突けば私でも殺せるよ。

 ここで負の連鎖を断ち切らなきゃ。

 殺せばみんな喜ぶ!


 ガチャリ、と部屋の扉が開く音がしたので、まどろみから這い上がり、体を起こす。

 部屋は暗い。

 でも、月明かりが窓から差し込んできて、あの地下室のような不安感はなかった。


「目が覚めましたね」


 メイドが長い銀髪を輝かせて、ベッドに歩み寄る。

 その姿は神々しくて、この人は女神なんじゃないか、と思った。


「あなたに、武器をお持ちしました」


 差し出されたものは、私がもらったユリアさんの剣とは違う。

 鞘に細やかな装飾がなされ、初心者の目から見ても明らかに安物とは違う逸品。


「か弱いあなたでも、確実にあの男を仕留められるよう、『強化の魔法』が刻まれた宝剣をお持ちしました」


 その剣を受け取り、抜いてみる。

 まっすぐに伸びる刀身には傷ひとつなく、中心に魔力を通す溝が入っている。


 詠唱を伴わない魔力の扱い方は知らなかったが、剣を持っていると魔力の込め方を感覚的に理解することができた。

 直感にしたがって剣に魔力を通すと、一本の赤い筋が剣先へ伸びていく。

 その光を見ていると、だんだんと体が熱くなってくる。

 気分が高揚して、感覚が冴えていく。


「それで、あの男を殺すのです」


 これなら、あの男を殺せる。


「殺せば、あなたは自由です」


 殺せば自由。


「さあ、殺しに行きましょう」


 みんなを助けることができる。


「殺す、殺す」

「そうです。その意気です」


 剣を握り、メイドに先導されて部屋を出る。

 視界はこれまでにないほど澄んでいる。

 聴覚は蟻の歩く音さえ聞こえそう。


 早く、この力を振りかざしたい。

 暴れたい。


 廊下を進むのにしたがって男を殺す理由など、どうでもよくなってきて。

 この剣で肉を刺し、骨を砕く感触を味わいたくって、うずうずしていた。




 ・・・・・・・・・・・




 男は自室のツボに向かい、嘔吐していた。

 やりたくもない拷問をやらされて、いたいけな少女が泣き叫ぶ様を、笑顔で痛めつけなければならない。

 その事実は、男の良心を蝕んでいたのである。


 午前の拷問は、長くは耐えられなかった。

 痛々しい少女の姿を見て、そうしたのは自分だという自責の念に駆られ、男は気分を悪くして逃げ出してしまったのだ。


 男は少女の拷問を終えた後、自室にこもってずっとうずくまっていた。


 身分に不相応な衣服を着せられ、男の一生分の稼ぎをかけても住めないような部屋に住まわされ、見たこともない高級な食材を食わされて肥えた身体。

 その代償として奪われたものは、自分の名前と、仲間と、自由だった。


「リオ……!」


 自分をこの状況に陥れた人間の名を、心の底から憎しみを込めて言い放つ。


 リオ・ビザールは、狂っている。

 冒険者を捕まえて拷問し、快楽を得る猟奇趣味を持った、女である。


 銀髪の髪を持った、女である。


 普段、自身はメイドとして『男爵役』に引き立てた人間の側で控えている。

 そして、誘い込んだ冒険者を罠にはめるべく、『男爵役』に命令を下して舞台を整えていくのである。


 男もまた、かつては冒険者であった。

 男とその仲間はリルフィたちと同様に、魔物に襲われた演技をしている『男爵役』を助け、屋敷に誘い込まれたのである。


 男の仲間は皆、リオの拷問を受けて死んだ。

 残された男は、新たな『男爵役』となるべく、リオに唆されて先代の『男爵役』を殺したのである。


「剣……剣が欲しい……」


 その時に持たされた剣は、精神を蝕む魔剣である。

 剣に魔力を流し込むと、一時的に気分が高まり、全てを忘れることができる。

 仲間を失ったことも、リオの命令で陥れた冒険者のことも、望まぬ拷問で磨り減った精神も。


 剣を持てば、強い殺害衝動に駆られ、人間でも動物でも、生き物を斬れば斬るほど快感に浸ることができるのだ。

 その快楽を求めて、拷問をする。

 最初のうちは、リオに持たされた魔剣を持ち、欲望の限りを冒険者にぶつけた。

 剣が血を吸うほどに、脳に甘美な痺れが伝わり、その先を追い求めて拷問を繰り返した。


 しかし、剣を手放してしばらくすると、罪の意識が何倍にも膨れ上がって、男の心を押しつぶそうとする。

 それを魔剣を使って拷問することで、快楽で上書きする。

 だから、男は宝剣が手放せなくて、それを管理しているリオの元からも逃げ出すこともできなくなっていた。


「くぅ、すまない、すまない、リルフィさん……」


 魔剣を持たないでする拷問は、苦痛の他ならなかった。

 男が拷問した少女の泣き顔が、目の前に鮮明に映し出される。

 本人はそこにいないのに、指先から血を飛ばし、耳を塞ぎたくなるような悲鳴をあげる少女が、男には見えていた。


「すまない、すまない……」


 少女の幻覚は、自分で自分の腹を裂き、生暖かい腸を男に投げつけてくる。

 少女は男にのしかかり、自分の腸で男の首を締めながら気持ち良さそうに笑う。

 力が入りすぎて伸び切った腸が切れると、また新しい部分を引っ張り出してきて、巻きつけた。

 腸がなくなれば、腹の中をグチュグチュとかき回して、新たな臓器を取り出す。

 赤黒く血液に塗れるそれを男の口の中に押し込み、男を窒息させようとする。


「う、うぅ……」


 その幻覚に、男は再び気分が悪くなり、空っぽの胃から罪悪感を取り出すように、嘔吐を繰り返した。


 剣をリオに貰いに行かなければならない。


 繰り返される悪夢に、男はそう結論を下した。

 こんな夜に外を出歩けば、リオ直属の使用人に何をされるかわからない。

 仮にリオの元にたどり着いたとしても、彼女の不満を買えば、剣をもらうどころか鞭打ちの刑にされるかもしれない。


 しかし、男の禁断症状は、そんなリスクよりも辛いものとなっていた。

 壁に手をつきながら、脂汗をかき、よだれを垂らすのも気にせず、出口に向かって歩いた。


 そしてドアノブに手をかけようとしたところで、向こう側からノックをされる。


 男は歓喜した。

 これから尋ねるはずのリオが、訪ねてきてくれたのだ。


 相手を怒らせないよう、汚れた口元をぬぐって衣服の乱れを整えて、扉を開く。


「リオさま……剣、剣を……!」

さま、金髪の少女が、あなたに、ご用が、あるそうですよ」


 あれほど求めていたリオ・ビザール。

 獲物を前にした時の笑顔が、男に向けられていた。


「殺す、殺す」


 リオの後ろから、リルフィが姿を現す。

 その手には、例の魔剣が握られていた。


「なんてことだ……」


 剣の魔力に我を失った少女を見て、男は正気に戻る。

 男は自分の境遇よりも少女の不憫さに絶望した。


 次の『男爵役』は、この少女に決まった。

 まだ成人にもなっていない少女は、これから自分と同じ苦しみを背負って生きていかなけばならないのだ。

 その事実は、幻覚よりもずっと男の良心に響いた。


 リオ・ビザールに狂気と正気を管理され、ここで生活するほどに深まる罪悪を耐えるだけの生活。

 この女は、なんて残酷な運命を少女に課すのだろうか。


 リオ・ビザールは狂っている。

 男は、少女を助けなければならないと思った。


「リルフィさん、その剣をこちらに、渡しなさい……。でないと、後戻りができなくなってしまう……」

「男爵様が命乞いをしているようですよ。さあ、早くやってしまいなさい」


 リオに背中を押された少女が、男の元に一歩一歩、近づく。

 男とて元は冒険者。

 戦闘の心得は持っている。

 少女から力づくで剣を取り上げようと、身構えた。


「ふぅん。風よ、リオの名の下に、拘束せよ」


 この時、男はリオが貴族であることを失念していた。

 貴族は高い魔力を持つゆえに貴族であり、自在に魔法を扱うことができる。


 平民である男は、わずかに魔力を持っていても、それを操ることはできない。

 せいぜい魔剣の餌になっていた程度である。


 男は身構えの姿勢から動けなくなり、迫る少女を待ち受ける。


「殺す、殺す」

「そう、殺すのです」


 少女が紅く光る剣を振り上げて———。


「リルフィさん、強く、生きてくれ……!」


 ———男の首を、掻き切った。

 名もなき冒険者の一生は、そこであっけなく途切れたのであった。

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