序節
序節
まるで廃墟だと思った。
早朝の学校、部活の朝練も始まっていないような時間、廊下に響くのは自分の足音だけ。
すれ違う人間もいない。
一年間、愛着も抱けぬまま通った校舎を歩く。
死に場所は、どこでもよかった。
ただ漫然と、屋上を目指す。
一号館も二号館も、屋上は施錠されていて入れなかった。
当然、これから向かう三号館もそうだろう。
そしたら、また別の場所に向かおう。
そんなことを考えながら足を運ぶ。
三号館三階で、その日初めて誰かとすれ違う。
名前も知らない女子生徒。どうやらトイレに向かっているようだ。
こんな朝早くから登校するのは、部活の朝練か、朝の自主勉か。
いずれにせよ、もう関わりのないことだった。
屋上へ続く階段を、一段一段、なんの感慨もなく上る。
そして屋上手前の踊り場に着いた時、思わぬ不意打ちを受ける。
なぜか、扉が開いていた。
閉められ、施錠されてしかるべき屋上扉が開け放たれている。
教師の閉め忘れか、はたまた今まさに誰かが使っているのか。
疑問を抱く俺の胸は、早鐘を打つように鼓動を強める。
まったく予想していなかった。
学校の屋上から飛び降りるなんて、叶うはずがないと高をくくっていた。
でも、目の前に道ができてしまったら、もはや進むしかない。
震える手に気付かぬふりして、俺はその場所へ向かった。
屋上には、誰もいなかった。
俺を見つける人間も、止めようとする人間もいなかった。
だから、後はもう死ぬだけだった。
自殺防止用のフェンスに手をかける。
いくらフェンスの背が高くても、その気になれば乗り越えられる。
そのはずなのに、手足に力が入らないせいで全く登れない。
呼吸も鼓動もどんどん早くなっていく。
手足は震えるばかりで、完全に怖気づいている。
死まであと一歩。
フェンス一枚越えてしまえば、もう目の前にある。
自分の意志でそこまで来た、だというのに。
俺は、死ぬのが恐くて仕方なかった。
――いや駄目だ、もう駄目なんだ。
――俺は生きてちゃいけないんだ。
――誰かの人生を台無しにする、その前に死ななければ駄目なんだ。
そうやって自分を追い込んで、果たそうとする。
だが、心も体も限界を迎えていた。
唐突に胃液が込み上げてきて、堪らず吐き出してしまう。
これから死ぬ、って時でさえ俺は無様だった。
二度、三度とえづき、空になるまで嘔吐する。
それをきっかけに、俺のなにかが決壊してしまう。
涙は溢れて。
叫んで、訴えた。
心を、荒く拙く、不格好な言葉に加工した。
本当なら、それは誰にも届かないはずだったのに。
俺に声をかける人がいた。
「――あの」
振り向くと、背後には一人の女子が立っていた。
三階ですれ違った、あの女子だ。
どうして彼女がそこにいるのか、そしてなぜ、涙を流しているのか。
俺は完全に混乱していて、なにも分からなかった。
「えっと、あの……」
彼女はなんとか涙を止めようとしながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
死にたくなんか、なかったよね。
幸せに、なりたかったよね。
名も知らぬ彼女の、たったそれだけの言葉が。
空に。
心に、響いた。
それからさらに、泣き続けた。
お互い、ボロボロに。
やがて、落ち着いたころ。
彼女がこんなことを言い出した。
「――提案があるんだ」
たった数日、ううん一瞬だけでも。
自分は幸せなんだ、って、思えるようになりたくない?
「…………」
それはいいな。
……どうせ死ぬなら、それがいい。
俺は、そう答えた。
きっと、これが人生で初めて、心から笑えた瞬間だろう。
「そういえば、名前、聞いてなかったよね」
彼女が尋ねる。
「
憎む親がつけた名前。
嫌いな名前。
でも、どこまでも自分の名前。
「そっか、前葉君か……私はね」
苗字みたいでしょ。
彼女が、鵠が笑う。
照れくさそうに。
「……ほんとだ、変わってるな」
いつの間にか座り込んでいた俺のもとに、鵠が歩み寄る。
そして、俺に手を差し伸べてくれる。
そこでふと、疑問に思った。
「ところで、なんでここに……?」
なぜ、彼女がその場に居合わせたのか。
すると彼女は、空を仰いでこう言った。
どこか、悪戯っぽく、微笑みながら。
「ああ、それはね……」
空が青いから、かな。
こうして、その朝。
誰も知らない屋上で。
俺は鵠の手を取った。
拝復、空へ 東条計 @Koake
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