第四節・第三話
――私は母子家庭に生まれました。
シミの目立つ薄い壁と、歩くたび軋む脆い床に囲まれて生きました。
母は昼も夜も働きに出て、ほとんどの時間を私一人で過ごす、そんな家庭でした。
貧富で言えば、貧しかったでしょう。
基本的に身に着ける服は古着ですし、お小遣いもなかったから化粧品も持っていない、流行の曲を聴くため、買いもしないのにCDショップに通う、もっぱらの娯楽はテレビ番組か図書館での読書・インターネット――――。
こんな貧乏くさい人間が、私なのです。
……実際のところ、周りのお洒落で綺麗な子達と比べて、自分を恥ずかしいと思うことは多々ありました。ですが、子供心にわがままを言ってはならないと、どこかで理解していたのです。
なにしろ、一人で生活を支える母の顔は日を追うごとに暗くなり、体は痩せ細っていくのです。本当はもっと若いのに、十や二十は老けたように見える時さえありました。
そんな、身を削るように働く母を前にすれば、口をつぐむほかありません。
なにより、私は母が大好きだったのです。
穴の空いた服に、パッチを縫ってくれる母。
時々、月に一回くらいの頻度で漫画やお菓子を買ってくれる母。
一緒に寝る時、よく分からないけど物語を聞かせてくれる母。
いつも不愛想で、笑った顔なんて一度も見たことないけれど、そんな母が好きでした。
だから、私は母の力になろうとしたのです。
図書や学校の授業で習ったレシピを元に料理したり、洗濯や掃除、それから裁縫だって覚えました。
いつも一人で頑張っている母の為に、できることをしたかった。
母の荷を、少しでも軽くしたかった。
母が帰ってくるまで寝ずに待って、おかえり、を言った後にその日の成果を報告しました。
褒めてもらいたかった、というのもあります。
でも、一番は「私が済ませておいたから、お母さんは楽にしていいんだよ」と伝えたかったのです。
それだけだったのです。
でも、母はそれを聞いても、不審げに眉をひそめるだけでした。
「…………そう」
母の返事は、そっけないものでした。
幼く鈍い私は、お母さんはお疲れなんだ、なんて勝手に納得していました。
それからも毎日、私のお節介は続きました。
朝は母より早起きして朝食を作り、洗濯物を干し、学校から帰れば洗濯物の取り込みと夕飯の準備――――。
充実していました。
相変わらずお金にゆとりはなく、母と娘の二人だけ。
それでも、自分が家庭に貢献している実感に夢中でした。
こんな自分でも、母の役に立てる。
いつか母も元気になって、笑ってくれる日がくる。
そう信じていたのです。不都合な事実から目を背けながら。
二週間ほど経った頃。
その夜も普段と同じように、母の帰りを待っていました。
余り物で作った肉じゃがモドキが、意外とうまくできたんだ。じゃがいもも崩れなかったよ。
そんな些細な成果を伝えたくて。
やがて母が帰ってくる。
私は上機嫌に、おかえり、と声を上げて迎える。
母は相変わらず不機嫌そうな顔――ううん、よく見れば怯えてたはず。
でも当時の私はそんなこと気づかないで、構わず母に話しかける。
お母さん、あのね―――。
「――いったいなんなの!?」
私の言葉は、母の悲痛な叫びにかき消される。
頭を両手で抱えながら、母は私を睨む。
突然の大声にすっかり身を竦ませている私に、母が畳みかける。
「なんでこんなことするの!? なにか気に食わないんなら言いなさいよ!」
顔を真っ赤にして怒鳴る母。
見たことない母。
私はその怒気に当てられて、ろくに喋れない。
頭は真っ白になっちゃって、こぼれるのはつっかえたような音だけ。
「いつもいつもあてつけみたいにして! こっちはアンタ抱えて一人なんじゃん! そりゃ完璧ってわけにはいかないじゃん!」
唐突に突き飛ばされ、私は後ろに転ぶ。
そんな私にまたがって、母が手を上げる。
母を保っていたなにかが壊れる。
……追い詰めたのは、他でもない私だった。
母が、言葉にならない声を上げながら、私をぶつ。
顔をしわくちゃにして、涙を流しながら、拳を振り下ろす。
それは殴るというよりも、ただ泣きじゃくる子供が無茶苦茶に手を叩きつけてるみたい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
私はとにかく謝った。
なんでこうなったのか全然理解できてなかったけど、きっと私が悪いんだと思って。
母のうめき声に混じって、途切れがちな言葉が耳に入る。
なんで私がこんな目に。
何もしてないのに、何も悪くないのに。
産んで、育てて、働いて。
何の罰よ。
ふざけんな、ふざけんな。
そうやって、母は非力に不満や不幸を吐き出した。
一方の私は、泣くばかりで。
自分が何を間違えたのか、それも分からず謝り続けた。
……私は母のことを、まるで知らなかった。
どこで、どんな人生を歩んできたのか。
私は誰との子供で、どんな気持ちで育ててきたのか。
私は母を知らな過ぎた。母娘なのに。
知ってることと言えば、母さんの生まれは
昔、県内の過疎地域の特集が地元番組で流れたことがあった。
その中に茉代という地名があり、「ここ、お母さんがいたとこだよ」と教えてくれた。
私が知ってるのは、それだけ。あまりに無知だった。
母にぶたれた後、どのようにして布団にもぐったのかよく憶えていない。
とにかく哀しくて、痛くて、辛くて、苦しくて、なにも考えられなかった。
気絶するように眠っていた時、強制的に目が覚めた。
反射的に開いた視界に映ったのは、死人みたいな顔で涙を流す母の顔。
そして、気付く。首を絞められていることに。
呼吸ができないだけじゃない。喉が潰され、全身から血の気が去って、体の端から死んでいくみたいだった。
朦朧とした意識の中、私は必死で抵抗した。
力の入らない指で母の腕を引っ掻いて。
母の顔をペタペタと叩いて。
でもまるで母を止められない。
お母さん。
やめて。
そう訴えるも、潰れた喉に
私にできたのは掠れ、くぐもった声を上げるだけ。
そんな私の言葉が届いたのかは分からないけれど。
視界が狭まり、意識が遠のきかけた瞬間、母は手を離してくれた。
解放された直後、うずくまって呼吸する。
唾液がつっかえて
嘔吐するみたく、唾液を吐き出す。
私の顔は、涙と鼻水と唾液でぐちゃぐちゃだったと思う。
そうやってなんとかまともな呼吸ができるようになると、母が呟く。
「…………ごめんなさい…………ごめんね………」
私は、母が恐くて堪らなかった。
……母も、私が恐かったんだ。
でも、それを知るのはまだ先。
その翌日からの生活は、特に変わらなかった。表面上は。
まず、私は発声に支障を来すようになった。
首を絞められたせいか、それとも精神的なものか分からないけど。
どっちにしても、私はある一定以上の声量を出そうとすると、胸から喉にかけて圧 迫される感覚に襲われ、むせてしまうようになった。
問題なく声をあげられるのは、ギリギリ小声じゃない程度の域まで。
あの夜の影響は、しっかり私の体に刻まれていた。
次に、私と母について。
あの夜以来、私は他人行儀に母と接するようになった。
話す時は敬語。
家事から学校行事からなにまで、なにか行動するときは一言伝えておく。必要なら了承を取る。
母のテリトリーに踏み込みすぎないよう、慎重に距離を測る。
そんな具合に。
それはもう、母娘と呼べない関係だったけれど、それでも私は母に捨てられたくなかった。
どんな形になっても、母の娘でありたかったんだ。
でも、母はそんな私を、気味悪そうに見ていた。
考えてみれば当然だよね。
自分が殺しかけた人間が、危険を感じて逃げ出したり、または反抗してくるのでもなく、まるで無かったことにするみたく他人行儀に振る舞って、頼んでもない家事を引き受け続けるなんて。
ましてや愛想笑いを顔に張り付けて。
結局、臆病な私はそんな形でしか母に向き合えなかった。
取り繕った母娘関係が、しばらく続く。
私が愛想よく笑って話しかけ、母が気まずそうに短い返事をする。
そんな歪な朝と夜を繰り返して――――。
その日が来る。
私が高校に入学して少し経った頃。
その時の母は仕事の疲労とストレス、それから私との生活に参ってしまっていた。
食は細くなり、仕事から帰ってくるなりシャワーを浴びて、そのまま寝る。
目に見えて母は疲れ果てていた。まるで枯れ木みたいに。
私の存在が余計に母を追い詰めていると内心気付いていたのに、とうとう私は変われなかった。
ある日の朝、私は一歩踏み込んで母に話しかけてみた。
いい加減、逃げてばかりでもいけないと思って。
数年の間、最低限の会話しかしてこなかったから、声が震えかけた。
――あのさ、お母さん、私天文部に入ってみたんだ。
恐かったけれど、なんとか敬語は抜けた。
たぶん、柔和な笑みを浮かべながら言えたと思う。……いつもと変わらないけれど。
「……そう」
母は短く、そう応える。
いつもの少し怯えた感じじゃなくて、昔みたいな無表情で。
なんとか会話を続けようと言葉を繋ぐ。
――昔授業で星とか空のこと知ってさ、ちょっとだけ興味があって。青空の青色も、一口に青だけじゃなくていろいろ種類があったり……。
――ああっ、あとね、うちの学校の天文部には専用の屋上の鍵があって、休み時間とか出れて……。
母の反応を窺いながら話し続けた。興味がなさそうな話題はすぐにやめて、別の話題に移る。
そうやって忙しなく口を回してるうち、やがてバイトの話になった。
――他にもバイトとかもいいかもね、ほら、私も高校生になって働けるし。そしたら母さんの負担だって……。
「……バイト?」
ようやく母が興味を示してくれた。
私の緊張がわずかに高まる。
――うん、そうそう。やるならどんなバイトがいいかな。飲食店とかは大変だっていうし、無難に……。
「――売ったら」
母が何を言ったのか、分からなかった。
……分かりたくなかった。
「……若いんだし、稼げるでしょ」
どう足掻いたって、母が言っている事の意味は一つだけで。
そんなの、親の言うこととは思えなくて。
いくら関係が冷え切っていても、そこまで言うなんて、思ってなくて。
私は、無様に崩れた愛想笑いを浮かべながら、泣くことしかできなかった。
制服のスカートをくしゃくしゃに握りしめながら、震えて涙した。
……でも、振り返れば分かりきっていたことなんだ。
私のせいなのか、どういうわけか母は私を疎んじていて。
軽蔑していて。
それこそ、殺しかけるほど憎んでいて。
その娘も、自分のなにが間違っているのかも分からないまま、中途半端に居座り続けた。
その結果、来るところまで来てしまった。
――私が、悪いのかな……?
――だから、こうなっちゃったの……?
内に留めるなんてできないくらい、決壊してしまった。
袖で拭っても、目を押さえても涙は溢れて止まらなくて。声も抑えきれなくて。
ただただ、哀しくて。
うずくまる私に背を向け、母が出ていく。
声の一つもかけず、去っていく。
部屋に残るのは、私一人。
これが、私と母の最後の会話だった。
……その翌日、母は自ら命を絶った。
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