第三節・第十話

 茉代ましろ駅に到着する頃には鵠も泣きやんでいた。

 時折鼻をすすってはいたが、ある程度落ち着きを取り戻したらしい。

 二人、暗く沈んだ茉代ましろを歩く。

「もうすぐ、廃校だから」

 暗がりでよく見えなかったが、声をかける度に鵠は小さく頷いていた。

 些細ささいな反応でも、安堵を覚えた。


 茉代ましろは夜、ほぼ真っ暗闇になる。家屋のシルエットが影絵的な風情をかもしだす。

 外灯はほぼないに等しく、光源はもっぱら住居の窓から漏れる照明に限定される。 陰の中、明かりから隠れるように二人は進む。

 空を見上げてみる。早くも星が姿を現していた。今朝のやりとりを思い出す。

「流星群、見えるよな、晴れてるし」

 鵠も追従して夜空を見上げ「……そうだね」と、か細い声で応える。

 町を抜け山道を登り、ようやく茉代ましろ中学校の姿を拝める。

 道中、この廃校が恋しくて仕方なかった。

 最初に訪れ、住み着いた日が随分昔に感じられる。実際にはたったの三日しか経っていないにも関わらず。

 そこであることを思い出す。

 風呂を失念していた。いつもなら、その時間帯は銭湯で湯を浴びて、帰ってきているはずだった。これから行くとなると、帰りは深夜になってしまう。

「風呂、どうする? ……俺なら平気だけど」

「……うん……大丈夫、私も」

 しかし、女子にとって風呂抜きは大問題ではと思い、遠慮はしなくていいと伝えるのだが、鵠は首を縦に振らなかった。

「ううん、いいよ……少し疲れたし」

 彼女の言う通りでもあった。再び電車に揺られて隣町の銭湯まで行って帰ってくることを考慮すると、いささか面倒だった。

 それに加え鵠は精神的に疲れた様子だし、素直に休むべきだった。

 正面玄関から入り、お馴染みの保健室へ向かう。

 明かりはないが、互いに危なげなく進んでいく。

 そして部屋に着くなり彼女はベッドに腰かけ、そのまま横になってしまう。

「ちょっと……休むね」

 そっとしてあげたほうがよいだろうと思い、俺は保健室を後にする。


 鵠に譲られた懐中電灯を手に、なんの気なしに屋上へ向かう。

 保健室を除いてもっとも馴染みのある場所はそこくらいだった。

 屋上は暗く、黒く、静かだった。風もなく、動くものも一切ないその風景は深海を想起させる。

 出しっぱなしの椅子に座る。その途端全身の緊張が途切れ、思わず机に突っ伏す。

 吐きだす溜め息は重く深い。

 動揺の一日だった。

 疑問と悔恨の一日でもあった。

 それまでのスローライフな二日間とは打って変わり、たった数時間の間に色んなことがありすぎた。凄まじい落差だ。

 朝の自殺動機の問いに始まり、鵠の静かな豹変ひょうへん、年齢など互いの新事実の発覚、列車内での鵠の涙――。

 生き急ぐように畳みかけられた。

 起点はもちろん鵠だ。

 前触れなく俺の心に踏み込んできたと思ったら、今度は人格が変わったように振舞いを変化させる。しきりに手を繋ぎたがったり、普通の女子みたくころころと表情を入れ替えたり。

 そして最後の涙。

 三日目の彼女は、あまりに情緒不安定だった。

 彼女について新たに分かったこともある。だが鵠椎名という人物に対しての謎はそれを補って余りある。彼女の輪郭りんかくを捉えきれない。

 鵠、あんたはいったい何者なんだ。

 なにをしに、俺をここへ連れて来たんだ。

 いつか教えると言っていたが……。

 頭の中に溢れ、暴れ、絡まり合う感情に翻弄される。

 彼女を知りたい。

 でも問い詰めるような真似はしたくない。

 彼女を傷つけたくない。

 そして、彼女の傍に――――。

 そこで感情を抑圧させる。

 自惚うぬぼれるな。

 自分がどんな人間か思い出せ。

 踏み込めば、傷つけるかもしれない。

 求めれば、怖がらせるかもしれない。

 ……弁えろ。

 前葉由貴は、誰かと生きられるような人間じゃない。

 心が温度を失っていく。

 それ以上を望むことは許されない。

 包帯が巻かれた左手を抱きしめる。鵠が手当てしてくれた左手を、壊さないように。

 視界が暗くなっていく。

 心がおもりとなって、意識が沈んでいく。

 その最中、頭をよぎるのは朱色と影に彩られた鵠の姿。

 非力に、心を枯渇させるように流した涙。

 それを拭き取ることくらいは、許してくれないだろうか。

 あの人のこぼす涙は、あまりに切なく、虚しすぎた。

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