第三節・第十一話


 前葉君、前葉君……。


 鵠の声が意識を浮上させる。


 ねぇ、ねぇ……。


 右肩が控えめに揺すられる。

 耳には、鵠の呼吸と、鼻をすする音が聴こえる。

 まさかと思い、瞬時に顔を上げる。

 見れば、鵠がかたわらに立っている。

 彼女が持ってきた電気ランタンが、ほのかに鵠の姿を照らしている。

 そこに映る彼女は、なぜか泣いていた。

 居ても立ってもいられず、椅子を蹴飛ばして立ち上がる。彼女の薄い肩に手を乗せる。

「なにがあった」

 鵠は涙をあふれさせながら、俺の背後を指差す。

 振り返った先は、例の空洞だった。山に挟まれ、その中央が地平まで見渡せる、あの場所。

 そこに、奇跡が生まれていた。


 自分の常識や価値観が、その一瞬で滅び去る。

 星がさかのぼっている。

 大量の流れ星が、大地ではなく、天に向けて降りそそいでいる。

 星が昇る。

 空に向かって。

 比喩でも誇張でもなく、眼前に実在した。

 その光景は、報われない人々の命と心を、誰かの祈りと願いと許しのもと天へ送り出している、そんな神秘の存在を想像させた。

 信じがたい景色だった。

 ただひたすら、圧倒される。

「流れ星、はね」

 嗚咽おえつを漏らしながら、鵠が目の前の奇跡を紐解ひもとく。

「流れ星の元となる宇宙のちりや……隕石は、重力に引かれて地球に降ってくるから、もちろん上から下へ向かってくるよね」

 けれどね、その落下物の角度と方角、観測者の位置次第で見え方が変わるの。

 落下物を正面に捉えて、なおかつ落下物がなるべく水平に近い角度で進んでいると――――。

「今夜の、ように……星が、空へ帰っていくんだ」

 目の錯覚でも、嘘でも。

 元いた世界へ、戻れるんだ。

 そこで、彼女はこらえ切れず地面に座り込む。

「よかった……」

 私、生きててよかった。

 せきを切ったように、鵠は泣き叫ぶ。

 まるで子供みたいに、自由に、思うがまま涙を流し、声を上げた。

 恥じらいも、虚勢も、建前も全て捨て去って、鵠は夜に告白する。


 お母さん。

 お母さん、私、不幸なんかじゃないよ。

 私、今、幸せなんだよ。

 だから。

 だけど。

 なんでなの。

 悲しいよ……。

 笑えないよ――――。


 それが彼女の、人生最大の自己表現だった。

 枯れた心を涙で濡らして。

 はくろうの仮面を涙で溶かして。

 剥き出しの鵠椎名を、世界に告白する。

 絶望と不幸と悲哀の中、自分は幸せだと叫ぶ。

 ただ一人の当事者を除いて、誰にも届かない彼女の拝啓。

 傍に立つ俺は、鵠のなにを知っているだろう。

 彼女がなぜああまでして泣き崩れているのか、見当もつかない。

 だけど、その時初めて、彼女がただの鵠椎名になれたのだということは分かった。

 鵠が、ずっとこの瞬間を渇望していたのだろうことも。

 死体なんかじゃない、体温を持つ生身の鵠椎名がそこにいた。

 その姿を見ていると、俺の眼からも涙が込み上げてくる。

 抑えることはできない。ただ純粋に、彼女の誕生に心打たれていた。

 遂には俺もひざまずくような姿勢になり、言語化できない感情に晒されながらむせび泣く。

 感謝すべき主を持たない俺は代わりに、宙で燃え尽きていく宇宙のちりに、祈りを捧げた。


 その夜こそが、前葉由貴と鵠椎名の初対面だったのかもしれない。

 建物に囲まれた窮屈な屋上ではなく、さかのぼる星の下、忘れられた屋上でようやく、二人は人として出会うことができた。




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