第三節・第三話


 前葉由貴という人間は、無駄に産み落とされた。


 両親がまだ十代の頃にこさえた赤ん坊が、俺だった。

 父親は高校中退、母親に至っては中卒と、学歴主義社会に毒された現代の日本では、きっと底辺に位置する両親だった。

 もっとも、それでも定職に就き、稼ぎ、子育てに励む親だったら、文句を挟む余地なんてありはしなかった。むしろ立派すぎるくらいだ。

 だがそうはいかなかった。

 両親が俺を産んだ理由はなにか。

 性欲を持て余した少年少女がろくに避妊もせず、不幸にもデキちゃったから。

 都合が悪いなら堕胎すればいいものを、なにを血迷ったのか妊娠を機に結婚。家庭を築こうなんてのたまった。

 適当な病院で無事出産。三〇八七グラムの健康児として生を受ける。親は二人とも感動し、赤ん坊を抱き締める。

「この子と幸せになろうね」

 そんな言葉もあったかもしれない。

 親なりに、幸せな未来なんてものも想像したのかもしれない。

 だがそんな未来が訪れることはなかった。

 他ならぬ、両親の手によって、最低な家庭が構築された。


 両親は人の親になるには若すぎたんだろう。子育ての仕方が分からない、なんてレベルではない。彼らはそもそも、他人と生きる術を知らなかった。身につけようともしなかった。

 父親は典型的な亭主関白で、炊事、洗濯、掃除、子育て、これら一切の家事を請け負おうとはしなかった。自分は安い給料を酒とたばことパチンコに費やし、溶かしていれば役目を果たしていると勘違いしているような男。それが俺の父親だった。

 当然そのしわ寄せは母親にくるが、母親も母親で未熟だった。まず母親はなによりも自分優先で、一人では食事どころか排泄はいせつだってままならない赤ん坊を家に置き去りにして、昼も夜も遊びに出かけるような女だったそうだ。

 誰も相手のことを考えない。

 自分に責任はないと信じて疑わない。

 そんな家の中飛び交うのは、怒鳴り合う夫婦の罵声ばせいと、無様に泣き叫ぶ赤ん坊の悲鳴。それから暴力。

 家庭の崩壊はあっという間だった。


 家を出ていったのは母親だ。

 旦那にも二歳の息子にも愛想を尽かし、離婚届に判を押して姿を消した。

 物心ついた時にこれを知り、ああ、自分は見捨てられたんだなと幼いながらに理解した日をよく憶えている。

 宿題で貰ったアサガオがしずくに濡れていた光景も、なぜか印象に残っている。

 こうして不完全な家庭は、一翼を失うことでさらに歪んでいく。

 吐き溜めに残された父と俺。

 父は家事を押し付ける相手を失い、自分のもとには面倒の種が残ったままだ。

 職場ではなめられ、泣き喚く赤ん坊を適当に黙らせ、部屋は散らかり、余裕もないのに金を道楽に費やし消耗していく日々。

 彼のフラストレーションが限界を超え、解消するための道具が必要になるのは道理だった。

 どうにかこうにか赤ん坊時代を俺は生き延び、少年まで成長した。

 だが、俺は父親にとって格好の玩具だった。


 初めて虐待を受けたのは五歳の頃だったと記憶している。

 それまで不躾ぶしつけに追い払われたり、怒鳴られたりすることはあっても、直接的な暴力を受けることはなかったはずだ。

 しかし、状況は一変する。

 よどみの中生まれた前葉由貴の人生は、さらに理不尽にねじ曲がる。

 最初の虐待はデコピンだった。

 デコピンといえばどこか可愛げがあるが、愛も配慮も介在しないそれは、子供にとってただの暴力でしかなかった。

 なにか間違えたり、『悪いこと』をする度にデコピンされた。それも加減なしに、 成人男性の力の限り。


 物を壊したら、デコピン。

 好き嫌いしたら、デコピン。

 わがまま言ったら、デコピン。

 父の所有物に触れたら、デコピン。

 口をきいたら、デコピン。

 泣いたら、デコピン。

 ムカついたら、デコピン――。


 なにかにつけて、額を打たれる。

 子供の頭皮と頭蓋ずがいは柔らかいため、直に苦痛を与えられる。脳の発育にもよくないだろう。

 だが、そんなことはお構いなしに、小さな暴力が日常と化していく。

 次第に父も、虐待に慣れてくる。罪悪感も麻痺していく。

 七歳頃からは、デコピンからビンタへと代わった。

 一応、名目上は『おしおき』だ。

 裁量は父の一存。

 こちらに拒否権はない。

 息子は、父にとってサンドバック同然だった。

 最初は頬をぶたれていたが、やがて目立つと不味いと思い至ったのか、背中がぶたれるようになった。いわゆる、紅葉というやつだ。俺の背中には真っ赤、時に青い手形が常についていた。


 でも虐待なんて、いつか露呈する――。


 そう思う人もいるだろう。

 しかし、少なくとも俺の場合、そうはならなかった。

 当たり前だが、暴力を振るう方も工夫する。他人にばれないよう、長期的に虐待できるよう、殴る部位、方法、虐待痕の消し方を考える。虐待のために知恵を絞る。

 次に、虐待を受ける側だが、これは人によりけりな気もする。素直に助けを求めて、救われた子も中にはいるだろう。

 ただ、俺にはそれができなかった。

 理由は単純だ。父が恐ろしく、また、他人を信じられなかった。

 センターや警察に日々の虐待を訴えたりすれば、怒り狂った父親に殺されるのではないかと、本気で恐れていた。殺されはしなくても、さらに酷い目にあわされるのだと。

 また同時に、子供の自分の言葉を、大人が真に受けるとも考えられなかった。

 大人という生き物は、自分に厳しいものなんだと、思い込んでいた。なんなら、父と一緒に自分を苛めてくるんじゃないか、と。


「誰もお前の話なんて聞かないよ」

「全部お前が悪いんだ」


 そう、あの父親に言い聞かされて育ったのも、一因かもしれない。

 少なくとも、誰かが助けてくれるなんて都合のいいことは起こらない、それだけは確信していた。

 そして、虐待が露呈しない三つ目の理由が、周囲の人間の看過だ。

 教師なり、近所の誰かなりが虐待の疑惑を抱き、それを通報すれば事態は改善されるかもしれない。

 けれど、わざわざ面倒事を背負うような人間がどれだけいるだろうか。

 それも、特に親しくもなく関わりもないような子供の境遇を。


 まず気が付かない。

 気付いても『様子を見る』

 やがては『その家の問題だから』


 家庭内暴力は、そうやって段階的に見過ごされる。

 といっても、直接訊いて回ったわけではないから、これに関しては想像でしかない。

 なにはともあれ、このような理由で、前葉由貴の虐待生活はとどこおりなく遂行された。

 月日を重ねるごとに虐待はその暴力性を強めていく。

 鳩尾みぞおちを力いっぱい殴られ、嘔吐、後に気絶。

 食事中、茶碗やコップで指を潰される。

 冷水、熱湯は日常茶飯事。

 日々浴びせられる罵詈雑言。

 就寝中、唐突に蹴り起こされ、袋叩きにされたことも十や二十ではきかない。

 別にこれといって独創的な虐待を受けてはいない。

 ありふれた、普遍的な暴力を十年近く受け続けてきた。その中、虫の息で永らえていた。


 虐待で一番辛いのは、心が参ることだと思う。

 子供に経済力はない。

 家に帰らなければ、食べれない、眠れない。

 しかし家の中では、食事中も、風呂の中でも、就寝中でも、一時だって気が抜けない。休まる時がない。父がいる時間はいつだって虐げられる。不意に、唐突に、こちらの都合なんて考えず。


「誰のおかげでものが食えると思ってる」


 よく、そんなことを言われながらぶたれた。

 そして、人間不信に陥る。

 誰がいつ自分を標的にするか分からない。

 助けを求めれば、逆にそれが弱みとなって狙われるかも分からない。

 助けてくれる人間はいない。

 逆にいるのは敵ばかり。

 たとえ思い込みだとしても、他人とは俺にとってそういうものだった。

 そんな少年期を過ごした。


 しかし、ある時変化が訪れる。

 中学二年生の頃だった。その頃には俺も多くの青少年にたがわず成長期を迎えていた。背は伸び、筋肉はつき、骨格も男らしくなる。

 ある夜、いつものように就寝中を蹴り起こされた。横腹をしたたかにえぐられる。通常ならそのまま殴る、蹴るのフルコースだったが、連日の睡眠不足とストレス、思春期らしい苛立ちなどが重なって判断力を喪失していた俺は、ほとんど無意識のうちに父親を蹴り飛ばしていた。


 それは偶然で、衝動的なものだった。

 すぐに、愚かだと思った。

 むやみに逆らったりすれば、もっと酷い目にあう。

 あまつさえ、反撃するなんて。

 食事を抜かれる。

 煙草の火を押し付けられる。

 また、窒息寸前まで顔面を水に押し付けられる。

 背筋が凍った。

 今度こそ殺されるかとも思った。


 しかし、予想に反して、息子の反撃を受けた父親は、大人しかった。

 打ち所が悪かったのか、蹴られた腹を抱えて呼吸困難に陥っている。

 小さく、床にうずくまりながら。

 まるで、痛めつけられた直後の自分のようだった。

 絶対的な暴君だったはずの父親が、みじめにいつくばっている。

 大の大人が虫の息で必死に痛みをこらえている姿は、あまりに矮小わいしょうだった。

 頭の中が真っ白になる。

 その後なんとか起き上がり、なにか凄みながら迫ってくる父親を、再び蹴り飛ばす。

 今度は起き上がる前に、さらに蹴る。顔や股間を踏みつける。

 馬乗りになって、繰り返し殴打する。手の皮が剥けようが構わず殴る。

 鼻を潰す。

 頬を凹ます。

 かばおうとする手は払い、指は潰す。

 無我夢中でいたぶり続けた。

 自分の下で涙とよだれと血にまみれている、自分の人生の諸悪の根源へ、無言で拳を振りおろし続ける。


 父親によって折られ、歪んだ左手が、さらに汚れる。

 初めて知った。自分でも他人を虐げられると。

 初めて知った。あれだけ恐れていた父親が、こんなにいやしく、弱い存在だと。

 初めて知った。ムカつく人間を殴るのが、あんなに気持ちのいいものだと。


 どれだけの時間、殴り続けたかは分からない。

 憶えているのは、全身の疲労と緊張感と、虚無感。

 それと父の、許して、という声。


 許すわけがなかった。


 そうして、立場は逆転した。

 父親の姿を見たら、とりあえず足を払って転ばせる。

 なにか文句を言ってきたら、ビンタする。黙るまでぶち続ける。

 抵抗してきたら、拳で殴る。蹴りを入れる。起き上がれなくなるまで徹底的に踏みにじる。

 今まで与えられなかった小遣いのツケを払わせるように、金を強請ゆすった。

 通報でもすれば、過去の虐待の事実も一緒に暴露する、最後にはお前を殺す、そう脅迫し続けた。

 この上なく痛快だった。

 生まれてからずっと暴力を振りかざし、心をくじいてきた暴君が、自分の下で震えている。無様に泣き、卑屈な目で睨みつけてくる。目の前で財布から金を抜かれても、文句ひとつ言えない。息子の機嫌を損ねないよう、家の中で小さくおびえながら暮らしている。

 当然の報いだと思った。

 おかげで高校に進学することもできる。携帯電話だって手に入れた。どちらも、あのままでは決して手の届かなかったものだ。


 俺は勝った。

 成し遂げた。

 最低の人生を覆すことができた。

 ようやく、まともな人生を歩める。

 そう思えたのも、短い間だった。


 疑念が芽生えたのは、高校一年生の冬。

 昔自分がされたように、洗面台で父の頭を冷水に沈めていた。

 水の中では父がモゴモゴ、ブクブクと濁音を上げている。

 殺しては意味がないため、適当なとこで水中から引き上げる。酸素をむさぼろうと荒く不規則な呼吸をする。

 鼻には水が詰まっているのか、口を大きく開けて息を吸う。数秒猶予を与えたら、また沈める。それを飽きるまで繰り返す。

 その日常風景は、虐待によって崩壊した親子のなれの果てだ。

 しかし不意に、実の親に責め苦を与えていた俺は父親のことを考えた。

 過去、俺を殴り、蹴り、ののしり、こうやって窒息させていた父は、どんな気持ちで事を行っていたのか。

 最初は、イラつきを抑えきれず、衝動的にやっていたんだろう。

 俺も同じだった。限界を超えたから、手を上げた。

 だが途中からは、暴力行為自体に、少しずつ味をしめていったのではないだろうか。不満のけ口として使うだけでなく、その反応、声、表情、仕草に、ある種の愉悦ゆえつを感じていたのではないか。

 非力に無様にのた打ち回る様を眺める、そこによろこびを見出していたんじゃないだろうか。

 いつの間にか、虐げることそのものが目的になっている。

 気が付かないうちに、人の皮を被った畜生になり果てている。

 他人を痛めつけるのが、楽しくて、たまらない。

 その段になって、初めて気付いた。

 過去、自分が殺意を抱くほどに憎み、恨み、否定した相手と変わらない、最低の人間に身を落としていたことに。あれほど暴力に怯え、泣き叫んでいた自分が、今度は他人に同じ不幸を強要している。たとえその相手が自分を不幸にした元凶だとしても。

 自分がもっとも嫌い、恐れていた最低の人間が、今では自分自身なんだと知った。

 俺と父の中身は同じ。

 違いは、たったの薄皮一枚分しかない。

 それから、俺の精神は追い詰められていった。


 いつ、自分が人を虐げるか分からない。

 クラスの日蔭者を苛めるようになるかもしれない。

 誰か女性を襲ってしまうかもしれない。

 たとえ恋人ができても、手を上げてしまうかもしれない。

 実の子供すら、虐待してしまうかもしれない。

 人をいたぶり、それに快楽を見出すような破綻した人間。

 自分が最低の人間であるという、その事実に耐えられない。

 目を背けようとした。

 忘れようともした。

 開き直ろうとさえした。


 だが、家で父の姿を見るたびに、自分の暗部と直面させられる。

 込み上げる暴力の衝動と、それを抑え込もうとする理性の板挟みに苦しむ。他でもない、自分の自我が俺を苛む。虐げる。

 自分が信用できない。

 自分が恐ろしい。

 最終的に、前葉由貴を苦しめたのは、父でも母でも誰でもなく、自分自身だった。


 そうして、自分がもっとも恐れた暴君になり果てた俺は。

 生きることが恐くなって。

 生き続けることに耐えられなくなって。

 自らの手で命のけじめをつけるしかなくなった。

 それしか、思いつかなかった。



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