第三節・第二話

 どうして、前葉君は死のうとしたの。

 あの日、屋上で、あんなに苦しそうに泣いていたのは、どうして。


 鵠はそんなことを言っていたはずだ。

 しかし俺は応えられない。

 鵠の対面に座る前葉由貴は、一人、溺れていた。

 彼女のたった一言が、俺を水中に沈めた。

 目は開いているのに、目の前は暗く濁っている。

 耳には水が詰まったかのようで、聞こえる声はどこか遠く、鈍く、不鮮明。

 声は出ない。水がはばむ。

 呼吸さえ、叶わない。

 屋上の空気の中、ありもしない、しかし突如湧いて出てきた深海に身を沈める。

 出処でどころはおそらく、己の臓腑ぞうふ

 腐り、にごり、焼けただれた臓腑が、んだ深海を生み出している。

 自分が汚水から生まれたことを思い出す。汚水を生み出すのは汚物だということも。


 前葉君……?


 いつの間にか、地面が目の前にあった。額をつけてうずくまっているらしい。

 なんとなく、鈍い音が聞こえる。うっすらと、熱も。

 痛みはないから、大丈夫だろうと思った。


 なにしてるの……!


 鵠の声が、すぐ傍でぼんやりと聞こえる。

 なぜか、彼女が俺の左腕を抱きかかえている。いや、よく見ると必死な様子で、抑え込んでいる。時々振り回されよろめきながらも、離すまいとしている。

 いずれ、非力な鵠では転んでしまうだろう。

 転べば、怪我をするかもしれない。

 俺が、他人を傷つける。

 俺が鵠を、傷つける。

 そして、やはり、俺は――?

 熱に侵され溶鉱炉と化していた脳が、急速に冷えていく。

 打って変わって、凍死しそうなほどの恐怖が身体を支配する。

 小刻みに歯が打ち合う。

 思わず自分を抱きしめる。鵠がいまだに離そうとしないため、右腕だけで。

 それでも、余熱は徐々に広がっていく。

 残った頭を打ちつけたくなる。無性に、切実に。いっそ頭蓋を割ってしまいたいとさえ。歪みじれた脳髄をぶちまけて、終わりにしたい。

 耐え難い衝動だった。しかし地面にこすりつけるだけでこらえる。歯をきつく食いしばり、荒い息を吐きながら。

「前葉……君?」

 彼女も、疲弊ひへいしているようだった。髪も呼吸も乱れている。俺を見つめている。どんな目で俺を見ているかは、恐ろしくて確認できない。ただ、左腕に彼女の体温を感じた。


 人目から隠してきた左手は、より一層醜く仕上がっていた。

 幼少期の骨折を放置したのが原因で無様に曲がっていた中指と薬指。それ以外は比較的まともだったのに、痛々しく皮はめくれ、肉が覗いている。

 きっと、全力で地面を殴りつけたのだろう。繰り返し、何度も、過去ごと潰さんばかりに。

 痛みはたぶん、後から来るんだろう。

 後のことなんて、想像したくなかった。

 自覚もなしにここまで痛めつけたのは初めてだった。

 やっぱり、自分は駄目なんだな、と改めて知る。思い知る。

 よりにもよって、この人の前で。

 きっかけは彼女だったが。

 でも、どうして――。

 口の中に血の味が広がる。

 血の味は、最低な人生の調味料。しかしこの酸味はなぜか心を落ち着かせる。

 飲み込んだ血と同じだけ、冷静になる。顎の力を抜く。身体が重い。

 気が付けば、地面に伏していた。

 もう、自分の身体さえ手放してしまいたい。

 このままこの廃校と共に風化できたら、どれだけ良いか。

 ただ、鵠が手を離してくれない。もう暴れてもいないのに、強く左腕を抱いている。

 もう、しないというのに。

 誰も、喋らない。

 徐々に呼吸が整い、大人しくなっていく。

 鵠椎名は、なにも喋らない。なんだよ、自分から切り出したくせに。

 そんなねたことを心の中でぼやく。

 生憎あいにく、我慢比べは嫌いだった。

 我慢するのも、耐えるのも、もううんざりだ。


 口から吐き出す声は、老人のようにかすれ、震えていた。

「……もう、いいだろ」

 お互い、忘れよう。こんなこと。

 そう言った。この屋上での出来事は都合よく忘れて、二人でしみじみと流れ星でも見ていればいい。そのための逃避じゃないか。どうして遠路はるばる寂しい廃校を訪ねて、隠遁生活しながら自分の人生最悪の暗部に向き合わされなくちゃならないのか。理解できなかった。

 鵠は、ようやく左腕を離してくれる。

 代わりに、両手で俺の左手を握った。鬱陶うっとうしいと思った。

「やめろよ」

 なんの真似だよ。

 拒絶の意思を込めて、声にする。

 だというのに自分が耳にしたのは、泣きそうな子供の声。

 みじめな子供の、なけなしの強がりだった。

 うるみ始める自分の目が心底嫌いになった。

 もう、なにもかも、耐えられなかった。限界だった。


「……あなたしか、いない」

 ……私しか、いないんだよ。


 鵠のその言葉がどういう意味を持つのか。そんなことは分からなかった。

 ただ、俺は、もう生きるのが怖くてたまらないから。

 いつ身を投げ出すかも分からなかったから。

 最後の最後、末期の飾りに、自分の全てを披露してやろうと思った。

 目の前の、たった一人の人間に。

 前葉由貴という人間の幕引きには、贅沢なくらいだ。

 心の底から、そう思えた。

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