第三節・第一話
第三節
廃校生活三日目の朝も、一人で迎えた。
ベッドから身体を起こすも、どこか疲労を感じる。
寝起きから深い溜め息を吐く。
重く感じる腰を持ち上げ、背伸びをし、全身の
部屋を見やればすでに鵠の姿はなく、二日目同様テーブルの上にメモが置いてあった。
“おはよう。私はたぶん、上にいます。”
昨日と同じ文面だ。
しかしメモ自体を使い回してはいないようで、整った字を見ながら律儀だな、と苦笑が浮かぶ。
着替えを済ませ、保健室を出る。向かう先は決まっていた。
静寂の廃校内に、一人分の足音が響く。階段を上る際、それは最も顕著になる。
自分の足音は孤独を思い出させる。ここは楽園なんかではなく、臆病な自分が逃げ込んだ避難所なのだと胸に刻む。
一段一段、孤独な残響を耳に、上へ向かう。
屋上手前の入り口で立ち止まる。
恐ろしいとさえ感じた。逃げ出したいとも。
しかしここより他に逃げ場などないと思い至り、諦めてドアに手をかける。
屋上はやはり、俺を迎え入れる。
視界には、雲ひとつ見えない
空一面から反射される光に瞳孔が狭まり、一瞬だけ鋭い痛みを感じる。
彼女は椅子に座り、机を枕に眠っているようだった。思わず軽い溜め息が出る。
起きるそぶりは見られなかった。声をかけるべきかとも思ったが、起こすのも悪いと、そのままにしてあげた。
机の上にはレトルトパックや缶詰、食器などが用意されている。
おそらく、俺が起きるのを待っていてくれたのだろう。
時刻こそ不明だが、昨日の朝食の時よりは日が高く感じられた。
日頃の借りを返そうと、いまだ眠り続ける彼女に代わって食事の支度にとりかかる。
傍まで近寄ると、彼女の呼吸が耳に聞こえる。
段取りは全て鵠の見様見真似だ。
まず初めに小鍋に水を注ぎ、ガスコンロで沸騰させる。
熱湯の中にお
一度砂が落ちきったら、再度上下を入れ替える。
その間におかずとなる缶詰食品を皿に盛り付けていく。
朝食の献立は、鶏塩粥に、さんまのかば焼き、インスタントの味噌汁と、デザートのフルーツミックスらしかった。
やがてお粥を熱湯から取り出そうという段になって、鵠の視線に気付いた。
彼女は、
いつからかは分からない。
丁度その時に目が覚めたのかもしれないし、もっと前からかもしれない。
反射的に左手を握り、死角に回す。
彼女が二、三回瞬きをする。
「……起きたのか」
「……うん、前葉君も」
「ああ、おはよう……」
見たか、そう訊きたくて
「ううん、大丈夫」
寝起きでまだ意識がはっきりしないのか、鵠の口調は緩やかなものだった。言葉と言葉の合間にわずかな間がある。
軽く伸びをした後、ふと鵠が言葉をこぼす。
「……今日は、
言われて空を眺める。
勿忘草がどんな花かは知らなかった。ただ、昨日の空よりは薄い青色をしているらしい。
勿忘草が、空に咲き乱れている。形も知らない青い花が。
「ご飯、用意してくれたんだ」
ありがとうね。
そんな言葉がどうにもむず
やがて支度も済ませ、二つの机に二人分の朝食が並ぶ。二人で「いただきます」と声を合わせる。
食事の最中、二人の間に会話は生まれない。
聞こえるのはスプーンや箸が食器に触れる音、持ち上げた食器がテーブルに下ろされる音、風の音、木々が擦れる音。
屋上での食事は、あまり多くの音を
だが、不思議と気まずさは感じない。この二人の間では、無言もまた自然体だと思えた。
二人共に「ごちそうさまでした」で朝食を締めくくる。運びやすいよう、食器の種類ごとに重ねてまとめる。後でまた洗わなければならない。
「前葉君って、料理とかするの?」
片付けの途中、何気なく彼女が訊いてきた。
「いいや、しないよ」
「そうなんだ」
「鵠は、するんだよな、たぶん」
調理時の手慣れた仕草を思い出しながら返す。鵠はそれに対し、微かに目を伏せて「うん、するよ」と答える。続けて「お母さんが忙しかったから、私が代わりに」とも。
大変だな、偉いな、苦労しているな……そんな言葉が浮かんだ端から霧散していく。
気恥ずかしいというのもある。
だがなによりも、気安い同情はするべきではないと思えた。
苦労も不幸も、他人と共有できるものではないから。
結局口に出したのは、「そうか」という一言ばかりだった。
食事を終え片付けも済み、そろそろ下に降りようかという頃、食器を持ちあげて「今日はどうする?」と声をかける。
てっきり彼女も残りの食器を持って追従すると思っていたのだが、予想に反して鵠は椅子に座ったまま、「うん……」と
「……どうした?」
なにかあったかと思い様子を
「……うん」
再び、彼女が呟く。
訪れる沈黙。俺は寄る辺に困り、一度食器を机の上に下ろして席に戻る。
普段とも異なり、神妙な顔付きの鵠に、どう接するべきだろうかと思案する。
……頭の中に浮かぶのは、ありふれた気遣いの言葉。
しかし、それは
自分が抱いた不安を解消するための偽善ではないだろうか。
もし彼女がなにかを悩んでいるなら、待つべきだと思った。
彼女が俺を必要と判断するまで。なんらかの役割を求めるまで。
屋上には
朝も昼も夜も、ここは音から切り離されている。
その静寂を犯すまいとするように、俺も鵠も沈黙を保っていた。
この二人の間でそれは日常的な風景だったはずだが、その時ばかりは、千切れんばかりに張り詰めた生糸に似た緊張感が伴っていた。
首の下から、圧迫するような鼓動が聞こえる。
大した
季節が春とはいえ、吹きさらしの屋上に居座り続ければ身体も冷えてくる。指先に冷たさを感じ始めた頃、遂に彼女が口を開いた。
「えっと、ね」
鵠にしては珍しく、歯切れの悪い第一声だった。
俺は頷いて応える。
「その、ね」
そう言ったきり、再び言葉は途切れる。
彼女は一度、溜め息を吐く。そのまま椅子の背もたれに寄りかかり、空を仰ぐ。
やがて眼を
「……今夜は、こと座流星群なんだって」
鵠の口調は、普段の調子に戻っていた。それを聞いて、思わず緊張が解れる。
白状してしまえば、その場で鵠から、この
彼女の思い詰めたような様子は、それを予感させるに十分だった。
拍子抜けすると同時に、安堵したのが本心だ。
「流星群?」
「そう。あんまり、数は多くないけれど」
でも、せっかくだから。
一緒に見ようね。
そう口にして、鵠は空へ薄くはにかむ。
緊張からの解放も相まって、思わず俺も相好を崩す。
「ああ、いいよ」
どうせ、やることもないんだ。
あまり露骨だと恥ずかしいため、声の調子を抑えながら応える。
気安い態度は、どうにも
なにせ、
「うん……」
ありがとうね。
彼女の視線は天に別れを告げ、水平に戻される。
黒い瞳が差し向けられる。
彼女の背後にはなにもない。ただ、勿忘草の空が広がっている。
「それとね、前葉君」
二人の間を遮るものはない。
あるのはひたすらに露骨で、明け透けな空気だけ。
彼女の言葉は空気を震わせ、俺の
「どうして、死のうとしたの」
俺に、その言葉を拒む
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