第一節・第四話

 俺の担当は、居住スペースとなる保健室の清掃だった。

 手近な教室から拝借はいしゃくした、刷毛はけの潰れた自在箒とちり取りを使って床のほこりを掃いていく。次にくぐいに渡された雑巾で床と壁を磨く。ちなみに校内の水道は止められているため、雑貨屋で複数購入した飲料水で雑巾を濡らしている。


 一通り終えると廊下に出て、昇降口脇の枯れた水道場へ向かう。

 そこでは保健室のベッドのシーツとカバーを洗濯するべく、果敢にも手洗いで事に当たっている鵠がいた。

 持参していたのだろう洗濯板と桶を使っているが、さすがにシーツの面積の広さには苦労しているようだ。彼女がかけている黄緑色のエプロンの約半分ほどは、既に深緑ふかみどりに染められている。

 こちらに気が付いた鵠が振りかえる。

「あ、そっちは終わったの?」

「一応」

 離れた場所から見下ろすというのもいかがなものと思い、およそ一歩分の距離の場所でかがむ。近付いてみると、鵠の額にはうっすら汗が浮かんでいるのが見て取れた。

「そっか、お疲れ様」

 こっちももうすぐ終われると思う、そう言って鵠は作業に戻る。

 鵠の隣には既に洗濯済みのシーツやカバーが折り重なってまとめられており、残るは彼女の手にある一枚だけのようだった。

 洗濯前のシーツらも白く見えたが、すすがれて落ちた汚れが溜まり、桶の水は少し濁っている。

「……よし」

 一つ溜め息を吐いて、鵠は額を手の甲で拭う。洗濯は完了したようだ。

「休憩するか?」

 と訊いてみるが、彼女は一言「平気だよ」と答えた。

「干さないといけないしね」

 ということで、次は洗ったばかりのそれらを干す段取りに移った。

 試しに校内を探索したのだが、さすがに都合よく物干し竿は見つからない。

 外に出れば鉄棒もあったのだが、そこで干したら砂まみれになるだろうという理由で却下。おあつらえ向きの物がない以上、自力で用立てる他なかった。


 そんなわけで、二人で考えた末にできたのが、机と自在箒による即席物干し竿であった。

 まず、ひっくり返した机を別の机の上に重ねてH型にする。

 それを複数作り、二セット一ペアで運用する。

 積まれた机の四足の間を繋ぐパイプに、自在箒や竹刀など棒状の物を縄跳びなどで縛りつけ、固定する。

 そして二つのHを橋渡しする竿となった竹刀らにシーツを被せれば、完成だ。

 あとはそれを校庭には面していない窓の近くで組み立て、自然に乾燥するのを待つ。


 机を持ちあげたり運んだりで意外と体力を使ったので、一度休憩を挟む。

 時間的にも昼食時だったため、保健室でくつろぐことにした。

「お昼は、ミートソーススパゲッティなんてどうでしょう」

 もどきだけれどね、最後にそう付け加えて鵠が調理の準備を始める。

 これまたキャリーバッグから調理器具や食器を順に取り出していく。

 いい加減、あのキャリーバッグにはどれだけの物が詰まっているのか不思議に思えてくるが、よく見ればどれも小ぶりなサイズで揃えているため、別に魔法のキャリーバッグということはなさそうだ。女子が備える収納術の本領発揮と見るべきか。

 まず初めに鍋に水を敷き、塩を少量まぶしてから火を点けて沸騰させる。

 雑貨屋で買った乾燥パスタを円状にばらしながらお湯に浸け、茹でるのを待つ。

 茹で終わったら菜箸で器用にすくい、穴あきボウルで水を切る。

 次にフライパンにサラダ油を少量垂らし、缶詰のトマトソースと、同じく缶詰のとりそぼろをまとめて炒めていく。

 匂い立つ肉と油とトマトの酸味に自然と食指が動く。

 具合の良いところで消火し、水切りの済んだパスタと共に皿に盛り付けていく。

 あっという間に廃墟の中にミートソーススパゲッティ(もどき)が生み出された。


「なんと」

 気の利いた言葉とはつくづく縁のない人間だった。

「幸せの第一条件は、あたたかいごはんを食べれることだから」

 パスタを茹でた残り湯を活用してインスタントスープを作りながら、鵠はそんなことを言う。末尾に小さく「きっとね」と付け加えて。

「では、お待たせしました」

 二人で囲むには狭く感じられる業務机の上に、ミートソーススパゲッティ(もどき)とオニオンスープが湯気を立てて並べられる。「お好みでどうぞ」と置かれた乾燥ハーブや香辛料の小瓶がコトっと音を立てる。

 鵠が両の手を胸の前で合わす仕草をする。

「いただきます」

 少し遅れて、俺も「いただきます」と口にする。

 そんな言葉を使うのは久々だった。

 そうして腹ごしらえを済ませ食休みにはげんでいる間、生活するならテーブルやソファが欲しい、という話になって、応接室から盗人猛々しくも接収することになった。

 なんとか二人で運べなくもない重量ではあったが、部屋の狭い入口を潜り抜けるために瞬間的な筋力と神経を費やす必要があり、特に鍛えてもいない十代学生には若干厳しいものがある。

 結局運びこめたのはテーブルとソファの一台ずつが限界だった。

 当初の計画ではもう一台のソファも運搬する予定だったが、さすがに断念した。

 確かな疲労にさいなまれ休憩している中、つい口に出してしまった「応接室で生活すればよかったんじゃ」という言葉に対し、鵠は「……考えちゃだめ」とだけ答える。後先を知らぬ若人たちだった。


 ともあれこれで基本的な生活空間は確保できたのだが、喫緊きっきんの課題はまだ幾つか残っていた。

 人間の文化的生活に必要な要素といえば衣食住であるが、俺たちの生活環境には、衣食住の『住』に含まれる『便・湯』という二文字が欠落していた。

 廃校に電気もガスも水道も流れてはおらず、校内で水洗トイレを使うことも、湯を沸かすこともできない。

 個人的には最悪風呂は我慢できたが、女性の鵠はそうはいかないだろう。

 さて困ったというところで、鵠はあっけなく「その二つは外注しよう」と結論付けた。

 これはもちろんどこかの建設会社に委託して水洗トイレや風呂を新設するという意味ではなく、素直に外の公共施設を利用して用を足そうという、身もふたもない、しかし至極まっとうな意見であった。


 栄養を摂取し、運動もこなした身体は代謝もよくなっており、そろそろ便意をもよおす頃合いだった。ついでに汗もかいたということで、少し早いが風呂も一緒に済ませてしまおうと、二人で山を下りる算段になる。

 当てはあるのかと訊いたところ、隣町まで行けば健康施設があり、そこに浴場も併設へいせつされているという話だった。

 ちなみにトイレなら、茉代ましろ駅に水洗トイレ、最寄りなら山のふもとに小さな公園があり、そこに汲み取り式便所が設置されている。

 贅沢は言っていられないが、緊急を催さない限り後者は使いたくないのが本音だ。

 余談だが、その公園には水道蛇口が設置されており、生活水はそこから補給するという。空になったペットボトルはここで有効活用される。

 

 そして時刻は午後四時頃、午前登ったばかりの山道を下っていく。

 景色は登りとうって変わり、両脇に生えた木々の枝葉から頭上の空や太陽が垣間見え、こぼれ落ちた春の陽光が二人にまぶされる。

 陰をまぬがれたわずかな陽の光が、鵠と俺にまだらを作る。道を進むにつれて頭上をさえぎる木々は薄くなっていき、山を抜けた時、傾いた太陽が二人をさらし出す。そうして、茉代ましろの隙間へ人知れず踏み込んでいく。

 茉代ましろの土地は起伏があり、都市部や人口密集地の平坦な街並みとは異なる、三次元的な様相をていしていた。

 短い坂道や小規模の丘が絡み合っており、その合間に家屋や畑、物置きらしき建物と雑草に覆われた空き地などが点在しているといった具合だ。

 家屋は年季が入ったものが多く、外装が黒ずんでいたり、一部塗装や建材が禿げている家も見受けられる。

 中には完全に廃屋と化している家屋も見かけた。建材が腐っているのか壁は歪み、家は傾き、屋根は剥がれかけた上に窓も何枚か外されている。

 風に脅かされ、雨に侵食され果てていくその姿は、土に還ろうとする枯れ木を連想させた。

 高低差が生み出す陰から陰へ渡り歩いていく。道中地元民の姿を見ることはなく、時折聴こえる鳥の鳴き声と風の音、それから二人分の足音だけを耳に、抜け殻のような町の中を進む。

 互いに口を開くことはなかった。


 例の細く急な階段を上って、再び茉代ましろ駅に着く。

 次の電車が到着するまで余裕があるということで、いまのうちにトイレで用を足す。トイレの中は特別汚れているわけでもなかったが、どこかアンモニア臭がただよっている。

 壁も床もタイルで組まれ、ひんやりとした空間の中、廃校での生活を考える。

 衣食住の問題もひとまず解決しそうだ。多少不便を感じることはあるだろうが、不自由に思うほどではないだろう。しかし、いずれは食料も尽きるし、それを補充する資金にも限りがある。いつ廃校に人が訪れ、追い出されるかも分からない。

 どう考えても、この隠遁いんとん生活は長く持たない。

 いつか、再び岐路きろに立つ時が来る。

 ふと、屋上で初めて出会った時、鵠が口にした言葉を思い出す。

 はたして、これがそうなのだろうか。いまだに鵠の意図が読めない。

 そんなまとまらない思考を重ねながら手を洗う。その間、蛇口から垂れ流され渦を巻き、いたずらに消費されていく水の様子をぼんやり眺めていた。

 水は、すくい出さない限り落ちていくだけなのだ。


 トイレを出ると、鵠が待っていた。思ったより長い時間、思考にかかずらっていたようだ。

「待たせた」

 一言、詫びておく。鵠は「平気だよ」と答えた。

 直接問えばいい。

 鵠を目の前にそんな考えが湧く。

 だが当時の俺には彼女の心に踏み込む度胸はなく、「行こうか」という彼女の言葉に黙して頷くばかりだった。

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