第一節・第五話

 そこからしばらくの出来事は略筆する。

 田舎の電車の本数の少なさに辟易へきえきし、たった数駅の間に広がる露骨な人口格差に半分呆れ、個人では初めて利用する公衆浴場に多少の緊張を抱いた程度で、取り上げるほどのことは起こらなかった。


 強いて挙げるならば、廃校の外での鵠は目に見えて口数が減るらしいことと、風呂上がりに髪を濡らした彼女の姿はどうにも直視出来なかったことくらいだ。

 十代少年には目に毒な気がした。


 ともあれ、往復を含めた三時間強の間は、穏やかに過ぎていった。

 時刻は午後八時に迫るかという頃、鵠と俺は寝床の準備をしていた。

 昼に干していたシーツやカバーを取り込み、ベッドに被せていく。

 夕食は隣町で風呂のついでに済ませてきたため、あとは歯を磨き、寝間着に着替えて寝るだけだ。

 電気ランタンが唯一の灯りとなって、ほのかに俺たちを照らす。これも鵠の持参だ。住居にしている廃校は夜真っ暗となるため、夜間の生活には必須の代物だった。元々は災害時用に買ったものらしく、備え付けの取っ手を回せば発電もできる。

 その電気ランタンを挟んで、鵠と俺のベッドは平行に並んでいた。

 既に着替えも終わり、あとは寝て朝を待つだけと思われた時、鵠が「寝る前に、お話なんてどうでしょう」と訊いてきた。少し前に互いに「おやすみ」と言ったばかりだった。

「いや……いいけど、どうしたんだ」

「えっとね」

 ベッドから身を起こし、鵠の姿が淡く照らし出される。

 鵠の寝間着は一般的なパジャマではなく、作務衣さむえと呼ばれる和風の代物だった。

「忘れていたというか」

 いまいち意味を判じかねることを言いながら、ゆっくりとした仕草で鵠は自分の口を両手で覆う。欠伸あくびが込み上げて来たらしい。そういえば帰りの電車でも、どこかぼうっとしていた。

「眠いなら、別に今じゃなくても」

 そう言われるや否や、二度目の欠伸を抑える鵠。

 しかし「せっかくだから」と、譲る気はないようだった。俺もここで無下にするのは後味が悪いと思い、体を起こして鵠に向き合う。

 てっきり雑談をするのかと思ったのだが、一度深呼吸をした鵠が語り出したのは、短い物語だった。



あるところに、人々を不幸にする国がありました。


その国の長は暴君で、悪政をき、人々を苦しめていたのです。


多くの人間が貧しいまま生き、不幸なまま死ぬそんな国で、ある一人の青年が立ち上がりました。


心優しく、正義に熱い青年は人々を見殺しにする国を正すべく戦い、遂には革命を起こして、新しい国の長となるまでに至りました。


国の長となった青年は悪政を裁いて善政を敷き、その活躍により貧しく不幸な人間がいない、彼がかつて夢見た通りの理想郷を実現しました。


誰もが彼を善王とたたえて支持し、中には聖人としてまつり上げる人間までいました。


ですが、彼が理想を叶えてからしばらくしたある日、彼は突然自ら命を絶ってしまいました。


民は嘆き悲しみ、同時に疑問に思いました。


「なぜ、彼は死んでしまったのだろう?」


 民の間で様々な憶測が交わされる中、一部の老人たちはその議論には加わらず、最後まで口を閉ざし続けるのでした。



「――という話でした」

 そんな話を、鵠は粛々しゅくしゅくつむいでいった。

 最初に聞いた時、どこかの御伽おとぎばなし寓話ぐうわ、または女子の間で流行っている謎かけかと思った。

 彼女に訊いてみると「ううん、たぶん違うよ」と答えた。

「これは、私の……母親が、作った話なの」

 ただし、末尾に「きっとね」と付けて。

「もしかしたら、なにか元ネタがあるかもしれないけど」

「鵠の母さんが」

「そう。子供のころ時々、眠る前に話して聞かせてくれたんだ」

 鵠曰く、彼女の母親は女手一つで娘を育ててきた人物で、身を粉にして働いていたらしい。

 日々を忙殺されながらも、鵠の就寝前には様々な物語を語って聞かせ、その中には彼女の母の創作もあったのだという。

「でも、母の考える物語は少し難しくてね、子供の頃は理解できなかったり」

 目を細め、どこか空中を見やりながら述懐じゅっかいする。「理解できるようになったのはつい最近」とも。

「それで、どうして俺に?」

「知ってもらいたいんだ」

 彷徨さまよっていた視線を戻し、正面から俺を見据えて鵠は告げる。

 切実に彼女は告白する。


「この物語を、君の記憶に残したい。でないと」

 あまりに、孤独だから。


 その時の、俺を見つめた鵠の瞳から目を離せなかった。

 離すわけにはいかなかった。

 目を背けてはいけないと思った。

 鵠の言葉の真意を知ることはなくとも、いささか戸惑っていたとしても、それでもなんとか頷くことができた。「分かった」とも言えた。

 鵠は「よかった」と、一言呟く。

 顔には、かすかな安堵が浮かんでいた。


「それでね、前葉君はどう思う、この話」

 どうしてこの青年は死んでしまったのか。

 鵠は話を元に戻し、そう質問した。

 正直なところ、直前の鵠の様子に気を取られて架空の青年に対する興味は失せかけていたのだが、約束を反故ほごにするわけにはいかないと思い、当時の俺は思考を巡らし始めた。

 物語の内容を鵠に確認しながら、青年の自殺の動機になるものを拾っていく。

 しかしこの物語には不親切なほど情報が少なく、解答を出すには多くの部分で自分の想像力に頼る必要があった。

 唯一具体的な情報が出されているとすれば、最後の一文。


 “一部の老人たちはその議論には加わらず、最後まで口を閉ざし続けるのでした。”


 老人たちが議論に参加しない理由は?

 そもそも何故『老人』なのか?

 手がかりのはずが、新たな謎に悩む羽目になる。

 鵠の母親が作ったという物語は、一見単純に見えて、掴みどころのないものだった。

 革命を果たして燃え尽き症候群になり、それが悪化して鬱病に?

 それか王としての重圧からノイローゼに?

 またはかつての暴君の陰謀による偽装自殺?

 はたまた、老人たちこそが黒幕で、裏で手を引いており、用済みになった青年を――――。

 浮かんでくるのは妄想染みた説ばかりで、まるで説得力も必然性も感じられない。 そもそも青年の自殺と『老人』が結びつかない。

 いったいなにを考えてこんな物語を作ったのか。

 思わぬ難敵に時折呻うめきながら首をひねり、やがて、自殺して悲しんでくれる人がいるだけこの青年は幸せか、それでいいじゃないか。

 そんな逃避に移り始めていた。

「……難しくないか、これ」

 お手上げだった。

 鵠には悪いが、前葉由貴という人間は頭脳明晰でもなんでもない。

 正直、これは物語の方にも問題があると考えなくもなかった。

「じゃあ、ヒントをあげるね」

 鵠は右の人差し指を立てて、迷える俺に助言を送る。

 それは「物語の青年の立場に自分を置き代えてみて」なんていう、初歩的なものだった。

 その人物がもし自分だったらと、仮定して置き代える。

 国語や道徳の授業以外に日常的な教育など、相応の歳月をかけて育まれ、習得を要求される、社会に参加するための最初の切符。

 共感能力。この物語を解く鍵はそこにあるらしい。

 改めて考えてみる。今度は意識的に、徹底的に。

 もし自分が志を抱き、討つべき敵を排斥はいせきし、新たにその地位に立ったら――――。

「それは……」


 生きるのが、怖くなったからじゃないか。


 その考えに至った瞬間、左手の指が痛む。

 人目から隠し続けている左手に痛みを覚える。

 右手で触れると、爪で指の皮をえぐってしまっていた。これ以上喰い込まないよう右手で指を放し、傷ついた部分を覆う。

「ちょっと、まだはっきりしないな」なんて言葉で茶を濁す。

 思いついたままを語る気にはなれなかった。

「そっか、なら宿題だね」

 そう応えて、鵠は再び横になる。夜のお話はそこまでらしい。

 電気ランタンが消灯される。

「答え、聞かせてね」

 ああ、とか、うん、とかそんな生返事をして、俺はベッドに潜り込む。

 落ち着ける時間が必要だった。

 その時は、あの物語はなんて寝心地の悪くなる話だろうと恨んだ。



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