第15話 営業

 営業、営利(通常の意味としては利潤の獲得と言い換えられる)を目的として業務を行うことをいう。「酒屋を営む」という場合の「営む」が「営業」の意味であり、しばしば店先に掲示される「営業時間」という場合の「営業」もまたちょうどこの意味である。


 鈴木は元ゲンに背中を押される形で、決意を固めて出社した。異動は本日付けとされているが、荷物の整理やデスクの移動などがあるので、実際の業務は明日からになる。今日は総務課の片付けと、営業部への挨拶になる。

 同じビルなので手間はかからないが、壺井と顔を合わせるのがなんだか気まずい。そして鈴木は、もう一つの問題を忘れていた。


「えっ!太郎さん総務課じゃなくなるんですか?」


 出社して総務課にやってきた、望に異動のことを告げる。事前に言ってなかった鈴木も悪いのだが、望はかなり驚いていた。


「そうなんだ。昨日突然決まってね。僕も急な異動で戸惑っているんだ」

「そんな辞令断ればいいじゃないですか」


 望は無茶なことをいう。断ると言うことは会社を辞めると言うことだ。会社に生きる者として断ると言う選択肢は鈴木に存在しない。


「そんなことできないよ。望ちゃんだって分かっているだろ」

「む~、じゃ太郎さんが営業に行くなら、私も営業に行きます」

「えっ!そんなことできるはずないだろ?」

「やってみないとわかりませんよ」


 望はそう言ってオフィスを出て行った。望が仕事のことでワガママ言うのは珍しい。鈴木が唖然として入口を見ていると、望と入れ違いに壺井が入ってきた。


「邪魔するぞ」

「壺井……怪我は大丈夫か?」


 壺井は首固定のサポートを巻いていた。耄さんに投げ飛ばされた衝撃で、ムチウチになったのだろう。


「ああ、それよりも今日からここは俺のオフィスだ。出て行ってくれるか」


 壺井は不機嫌そうに鈴木を追い出す。鈴木は荷物を入れた段ボールを持って急ぎ足で出てきてしまった。やはり壺井も顔を合わせるのは嫌なのだろう。鈴木は総務課のオフィスを後にした。

 一応、メールで望に壺井と交代になったことを告げて、営業課に向かう。営業課は同じ階ではなく、総務課の一つ下で、三階を営業課と広告課が分けて使っているのだ。


「すみません。総務課から配属になりました鈴木 太郎です」


 営業課のオフィスに入ると、ほとんど人がいなかった。


「あの~誰かいらっしゃいませんか?」


 鈴木が恐る恐る声をかけながら、中に入って行くと数人の女性社員がパソコンを打ち込んでいた。


「あのぅ」

「来たね。鈴木君」

「うわっ!あっ、耄課長」

「そんなに驚かんでくれんかね。老人には大きな声は厳禁じゃぞ」


 鈴木の声に驚いた風でもないが、耄に諭されて頭を下げる。


「今日からお世話になります。鈴木 太郎です」

「うむ。耄オイボレ 幽玄ユウゲンじゃ。今日から鈴木君には、ワシの下で営業のノウハウを学んでもらうぞ」

「はい。よろしくお願いします」

「うむ、素直でよろしい。では早速君のデスクに案内しよう」


 耄に連れられてやってきたのは、営業課の隅の方だった。机が二つ置かれているだけの静かな場所だった。営業部の最前線とは到底思えない。


「ここですか?」

「そうじゃよ。ワシのデスクの前じゃ」

「よろしくお願いします」


 明らかな窓際に置かれたデスクを見て唖然としてしまう。しかし、総務課で7年間雑用をしてきた鈴木には、なんだか落ち着ける空間に思えた。


「それでじゃ。早速仕事をしてもらおうと思うが、大丈夫か?」

「はい。何から取り掛かればいいでしょうか?」


 鈴木はデスクに事務用品を置いて、耄に向き直る。


「まずは挨拶周りじゃな」

「挨拶周りですか、じゃすぐに外に出るんですね」

「いやいや、そうではない。君には言っていただろ。壺井が信用を失ったと」

「はい。言ってましたね」

「その信用を回復するのじゃ」

「挨拶周りで、信用回復ですか?どうやればいいんでしょうか?お菓子を持って謝罪にでも……」


 鈴木が思い当たるリスクに対しての対処法を言うと、耄は溜息を吐いた。


「それは謝罪をするときの方法じゃ。あくまで我々は中小企業、相手は小社なのじゃから。こちらが優位なまま、相手も仕事をしやすいようにしてやらねばならん」

「すみません。言っている意味がわかりません」

「そうじゃろうな。そこでじゃ、まずは壺井が担当していた小社や業者に電話を片っ端からかけるんじゃ」

「電話だけですか?」

「そうじゃ、まずは一本だけ見本を見せてやる」


 そういうと耄課長は電話をかける。


「これは、これは。丸小社さんかい。ワシは中小企業の耄じゃ。そうじゃ営業の。うむ、頼むぞ」


 耄さんは小社に電話をかけると名乗るだけで話が進んで行く。向こうの反応などはわからないが、向こうの方が恐縮しているのが何となくわかる。


「おお、営業のこの度は我が社の若い者が迷惑をかけたみたいで、本当にすまないことをした。今後は別の者が担当するので、これからもどうか長く付き合ってほしい。うむ、うむ、本当に申し訳なかった」


 電話を持ったまま耄が深々と頭を下げる。口調こそ横柄ではあるが、耄さんの誠意が伝わったのか、話がまとまったようだ。


「ほれ、鈴木君。話しなさい」


 耄課長から受話器を受け取り耳に当てる。


「お電話代わりました。今度担当させて頂きます。営業課の鈴木 太郎です」

「これは、これはご丁寧に。私、丸小社の営業を担当している者です。中小企業の課長様から態々ご連絡いただきありがとうございます。我が社としても、ちゃんとした対応をしていただけるのでしたら、これからも長いお付き合いをさせていただきたいと思っております」


 鈴木に代わってからも、向こうは低姿勢のまま話を終えて受話器を置いた。あまりにもスムーズに事が運ぶので、鈴木は疑問しか浮かんでこない。


「ワシは言ったはずじゃ。人と人は支え合っていると。むこうも理不尽な担当では利益をあげられん。しかし、ちゃんとした利益をもたらしてくれる担当ならば取引をしたい。それぞれに思いがあるということじゃよ」


 鈴木はイマイチわからないと思ったが、それ以降の電話で何となく理解することができた。


「あっ、捻子屋さんだ」

「ほう、捻子屋を知っているのか?」

「はい。地下で少し話をしましたので」

「なるほどな、では次はここに電話してみろ」


 小社に一通り電話をかけ終えて、個人経営や工務店などの業者へ電話をかけていく。その中にいた捻子屋は地下で謝罪をした際に、一番に賛同してくれた人だ。


「はい。中小企業の鈴木です。捻子屋さんはお手隙でしょうか。はい。よろしくお願いします」


 電話の向こうは事務をされている女性だったので捻子屋を呼び出してもらう。


「おう。お電話代わりました。捻子屋です」


 電話の向こうで地下であった親方の声が聴こえてくる。


「あっ、この度は私共が大変なご迷惑をおかけしました。それにつきまして担当を変更させていただき、次回からもお付き合いをしていただきたいとお電話させていただきました」

「おう。鈴木さんか、あの時は世話になったな。あんたが担当してくれるなら問題ないな。こちらこそこれからもよろしく頼むよ」


 捻子屋の快い返事に鈴木は嬉しくなりながら、何度も礼を述べて受話器を置いた。


「どうじゃ、問題なかろう?」

「はい。なんだかできる気がしてきました」


 鈴木の反応を見て耄は何度も頷いた。鈴木が地下でコツコツとしてきたことが、評価されていたことを本人は知らない。

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