第20話 水の溜まるところ

 Hさんはその温泉旅館についたとき、「嫌な気持ち」になったという。


 昔から、Hさんは、『水辺』嫌いだった。

 川、海、プール、温泉。

 とにかく『水』が大量にあるところがダメだった。


 幼い頃溺れかけた、とか怖い思いをした、という記憶も事実もない。だけれど、Hさんは水がたくさんある場所が苦手だった。


 「嫌な気持ち」になるからだそうだ。


 だから、Hさんは友人や会社の同僚に誘われても、そういった場所に行くことはなかった。


 だが。

 両親が「私たちも高齢だ。まだ元気なうちに家族旅行をしたい」と言いだした。


 Hさんのご両親は確かにもう、八十が見え始めている。

 Hさんのお姉さんはこの話に乗り気で、早速ある温泉旅館を手配した。


――― ……温泉か……


 水が、たくさんある場所だ。

 Hさんは参加をためらったが、夫に諭されて参加を決めた。



 お姉さん夫婦が手配した温泉旅館には、送迎用のバスがついていた。

 Hさんたちは駅で待ち合わせをし、他の利用客たちと一緒にこの送迎用バスに乗って温泉旅館まで向かったのだが。


 旅館が近づき、温泉の気配が濃くなるごとに。

 Hさんは「嫌な気持ち」になったのだという。


 温泉旅館についたときには、やっぱりHさんは参加したことを後悔した。

 だけど、そんなことを今さら言えるわけもない。

 Hさんのこどもも、お姉さんのこどもも成人しているので、両親の世話はこの子どもたちが買って出てくれた。今も、両親の荷物を持ったりしながら旅館に入る。


 Hさんは、一番後に、他の利用客と共に旅館に入った。

 お姉さん夫婦がフロントで手続きを行っている間、子どもたちはHさんの両親を連れて部屋の方に先に向かった。


 Hさんもそれに続く。

 いや。

 続こうとした。

 その時だ。


 どん、と。

 両肩に急に重みを感じた、という。


 勢いよく肩を叩かれたような衝撃と重さに、Hさんは膝を崩す。


 一瞬前のめりに転倒しかけたが、なんとか堪えて重みを感じたままの肩に視線を向けた。


 肩は。

 ぎゅっと。

 上から腕で押さえつけられていた。


 咄嗟に、夫の腕だと思ったという。

 何か悪戯でもしているのだ。


 そう思って、振り返った。この時、頭の中は怒りしかなかったらしい。「驚くじゃない」とか、「危ないでしょ」とか。


 そう言ってやろうと思ったのだけど。

 背後には、誰もいなかった。


「……え?」

 Hさんは思わず呟く。そして視線を移動させた。


 だが。

 自分の肩は、確かにがっしりと二本の腕に捕まれている。


 そう。

 二本の、腕だけが。

 上から、ぎゅううううっと、Hさんの肩を押さえつけている。


 Hさんは恐怖や戸惑いを覚えるよりも先に、「痛かった」らしい。

 床の方に無造作に押し付けられ、今にも膝を崩しそうで、必死に踏ん張っていた。


 その、Hさんに。

 同じ送迎バスに乗っていた女性がスタスタと近づき、背後から不意に首の根元に手を置いたのだという。


 不気味な腕がHさんの肩を押さえつけていることなど気にもせず、女性はHさんの首裏に両掌を押し付け、それから肩から腕の方に向かって3回撫でた。


 その後、「ちょっと失礼」と断りを入れ、どん、と強く背中の真ん中を叩いたのだという。


 不思議な事に。

 途端に、肩の重みも、押さえつけていた腕も消えた。


 急に重しが外されたようにHさんは体勢を崩しかけたが、女性がしっかりと肘を捉えてHさんを立たせてくれたらしい。


「変だなと思ったら、両方の肩を三回払うの」

 唖然としているHさんに、その旅行客の女性は言った。


「自分でこう、片方ずつ払っても良いけど」

 女性はそう言い、やって見せる。なるほど。肩についたゴミを払うように、首元から腕の方に三度撫でるらしい。


「最後に、背中の真ん中を……。ちょっと上の辺りね。強めに叩いてもらわなきゃいけないから、それは誰かに頼んでみて」

 女性はそう言い、キョロキョロとロビーを見回した。


「ひとり?」

「いえ、家族と……」

「じゃあ、安心ね」

 女性は笑顔を作り、Hさんに言う。


「水辺は、変なものがたまりやすいから。気を付けて」

 そう言うと、女性はさっさと彼女の友人らしいグループの中に戻って行った。



 Hさんは、温泉旅館に泊まっている間、怯えながら過ごしたが、特に変な事は起こらなかったらしい。

 だが、Hさんは二度と「水の多いところ」や、「嫌な気持ち」になる場所には近づかないと心に決めているそうだ。

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