第18話 トイレ
Nさんはデイサービスに勤務する男性介護福祉士だ。
Nさんの勤めるデイサービスは開所してまだ間もないが、建物は古かった。なんでも、元は個人病院だったらしい。そこをある程度改装し、デイサービスとして使用していた。
この建物。
昔から「出る」として有名な建物らしい。
おまけに。
開所してまもなく、「見た」という職員が続出する。
「そんなバカな」
Nさんはそういった話を一切信じていない。幽霊は「見間違い」。怪奇現象は「勘違い」だと思っていた。
「本当だって。みんな、見た場所が同じなんだって」
見たという職員は鼻息荒くNさんに訴える。
確かに。
出ると言われる場所はいつも同じだ。「見た」と言うモノも同じ。
出る場所は一階東隅の男性用トイレ。
そこには、利用者でも職員でもない高齢の男性が居て、トイレの隅にただただ、じっと立っているのだという。
――― 誰だろう
そう思って、声をかけると姿を消すという。
「照明の具合で影がそんな風に見えるんじゃないのか?」
Nさんは興味が無いのでぞんざいにそう答えたらしい。
Nさんの言うことは確かにもっともで、皆が「高齢の男性を見た」というその場所は、照明が一番届きにくいところだ。視界の悪さと気味悪さが相まって、そんなありもしないモノを見せるのだろう。
Nさんはそう思っていたし、Nさんが幽霊を見ることはなかった。
そんなある日、Nさんは「トライやる・ウィーク生」を預かることになった。
「トライやる・ウィーク」とは、地域の中学生が地域の企業で数日間職場体験をする事業だ。
Nさんの職場には一人の中学生男子が体験を希望していた。
この男子生徒。特別支援学級に在籍し、知的に障害があった。
当初、この男子生徒の受け入れに、大半の職員が反対した。「誰が面倒を見るのか」と。
普通の生徒でも手を煩わされるのだ。障がいがあるとなると、なおのこと現場が混乱する。
誰もが担当になることを渋ったが、Nさんはこの男子生徒の担当になっても良い、と上司に告げた。
「他の同級生が皆、希望する体験ができるのに、この子だけできないのはおかしい」
Nさんはそう言い、上司はNさんをこの男子生徒の担当にした。
そしていざ、実際に「トライやる・ウィーク」が始まってみると。
この男子生徒。言われたことはきっちりとこなすし、Nさんの後にも素直について歩いた。
Nさんと一緒に利用者さんの車椅子を押したり、Nさんと一緒に食事介助をする様子を見て、他の職員は見方を変えた。Nさんが忙しそうにしていると、男子生徒の相手をしてくれたり、昼食休憩のときは声をかけてくれたりした。
そうして。
初日のトライやる体験があと数時間で終わるころに、Nさんは気づく。
――― この子、トイレに行ってないな
少なくとも、Nさんは男子生徒がトイレに行くところを見ていない。
「トイレに行くかい?」
Nさんが尋ねると、大きく頷いた。どうやら声をかけられるまで我慢していたらしい。
「行っておいで。今度からは、トイレに行きたくなれば、僕に言えばいいからね」
そう言うと、「はい」と返事をして、男子生徒はトイレに行った。
だが。
すぐに戻ってくる。
「どうした?」
尋ねると、「使えません」と答える。
「どうして使えないんだい?」
「人がいます」
男子生徒は無表情のままNさんに言う。
「人?」
Nさんはおうむ返しに言いながら、ふと思いだした。
そういえば、他人がいると気になっておしっこがでない、と担当教員が申し送りをしていた気がする。
Nさんは男子生徒を連れ、再度トイレに向かった。
一階東隅の、男子トイレに。
「誰かいますか?」
Nさんはトイレの照明をつけ、男子生徒と共に中に入る。
トイレの中は無人だ。
念のため、二つある個室も覗いたが、利用者も職員もいない。
誰かいたのかもしれないが、もう出たのだろう。
「いないよ」
Nさんはくるりと振り返り、手洗いの前で棒立ちになっている男子生徒に笑いかけた。
「僕は外にいるから、トイレを……」
「います」
Nさんの言葉を遮り、男子生徒は能面のような顔のまま、指をさす。
「それは誰ですか」
男子生徒は、Nさんの背後を指さす。
硬直したようなぎこちない動きで。
ぞわり、と。
生まれて初めてNさんは鳥肌だったという。
そこは。
男子生徒が指さしたのは。
皆が、「高齢の男性が現れる」という場所だった。
「利用者さんですか、職員さんですか、誰ですか」
早口で男子生徒が問う。
何もない暗がりを指さして。
Nさんはゆっくりと、背後を振り返る。
小便器が3つならび、そして個室が二つ並ぶトイレの中を。
だが。
そこには当然。
誰もいない。
「いなくなりました。おしっこをします」
唐突に、男子生徒はNさんにそう言うと、さっさと小便器の前に移動した。
「……僕は外で待ってるよ」
Nさんは男子生徒に声をかけ、足早にトイレから出る。
――― そういえば、『誰ですか』と声をかければ消えるんだっけ……
Nさんはそんなことを思いだす。
あの男子生徒は、問うたのだ。「誰ですか」と。
そして、「消えた」のだ。
Nさんには見えないが、「高齢者の男性」は。
結局Nさんは今でもトイレの中にいる高齢者男性の幽霊を見ることはないが、「何かいる」ことは信じているらしい。
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