第3話 優先順位
Tさんは、介護福祉士として病棟に勤務していた。
それまではデイサービスや老人保健施設に勤めていたのだが、たまたま求人雑誌に載っていたその病院の夜勤つき勤務は給料が良く、それで転職して来たのだ。
夜勤は老人保健施設で体験していたし、この病院の看護師は介護士に対してむやみやたらに命令をしたりしないので、「良い職場だな」と思ったそうだ。Tさんは、自分が男だから喜ばれているのかもしれない、とも思った。というのも、病室のテレビの修理や電球交換など、女性が不得手だとおもうこともよく頼まれたからだ。
『福祉』の現場ならともかく、『医療』の現場では、医者が頂点で、その下に看護師、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士等がおり、介護福祉士はその末端だ。一昔前なら、「使い捨て」とまで言われ、酷使されていた。
だからこそ、覚悟をしてきたのだが……。
この病院は、とにかく入って来た人材を大切にした、という。
その様子に、Tさんは、若干拍子抜けしたが、給料が良くて待遇がいいなら文句は無い。Tさんは一生懸命働いたという。
ある日の夜勤での出来事だ。
その日は、頻繁にナースコールが鳴ったのだという。
Tさんのいる療養病棟は看護師1名と介護福祉士1名で、約40名を夜勤時はカバーする。入院患者のほとんどが高齢者だ。オムツ交換に、トイレ誘導、夜間の徘徊に、状態変化などが重なり、いつもは柔和な看護師も苛立ち始めた。
もちろんTさんもひっきりなしに鳴るナースコールにうんざりしていた。
呼ばれて病室に行っても、緊急性はほぼない。
「眠れないから眠剤が欲しい」、「家に帰りたい」、「息子を呼んでくれ」、「今何時?」など、ようするに、誰かと話したい、と言った内容がほとんどだった。
とにかくこの晩は、皆が不穏になったのだそうだ。
「〇〇さんは、詰め所にいていただきましょう」
看護師は詰め所で、Tさんにそう指示した。
〇〇さんは、歩行がおぼつかないのに病室を出て廊下を徘徊するなどの問題行動を何度も起こすため、Tさんは看護師の指示に従い、その患者さんを病室から車イスに乗せ、詰め所に向かった。
その途中。
もうひとり徘徊している高齢者を見つけ、Tさんはその人の手も掴み、言ったのだそうだ。
「眠れないんなら、詰め所に一緒にいますか?」
高齢者は黙って頷き、付いて来たらしい。
詰め所に戻ると、看護師の姿は無かった。
ナースコールが点滅しているところを見ると、どこかの病室を確認しに行ったようだ。
「〇〇さん、ここにしばらくいましょう」
Tさんは声をかけ、もう一人の高齢者には椅子を勧めた。
Tさんが記録を取ろうとし始めた時、またナースコールが鳴る。
舌打ちしたいのを堪え、病室に行って状況確認。寝かせて詰め所に戻ると、今度は〇〇さんが、車イスを自分で動かして詰め所から廊下に彷徨い出ていた。
「ちょっとっ!」
〇〇さんを追いかけ、呼びかけたときだ。
「あの……」
声を、かけられた。
Tさんは「はい?」と思わず語調をきつくして振り返る。
そこにいたのは、詰め所の椅子に座ってもらっていたはずのあの高齢者だ。
『なんで、二人ともじっとしてられないんだ』
内心の苛立ちを噛み潰し、その利用者の名前を呼んで詰め所に戻ってもらおうとした。
そして、気付いたのだ。
これは、誰だ?
いくらまだ勤務して数ヶ月しか経っていないとはいえ、利用者の顔と名前ぐらいは覚えている。
だが。
廊下の落とされた照明にぼやり、と浮かぶその高齢者の顔を、いくら見ても思い出せない。
名前、病歴、状態、家族。
わからない。
これは。
誰だ。
「あの……」
高齢者は、困ったような声を出して、Tさんに手を伸ばした。その手は、Tさんを掴もうとしているようだ。
逃げたいのに、体が竦んだように動かない。
「たすけて」
高齢者はそう言った。
その時。
詰め所からナースコールが鳴る。
途端に、肩が震え、それが全身に広がるようにして体が動き始めた。
自分に向かって伸ばされた手を振り払い、Tさんは思わず怒鳴った。
「すいません! 生きてる人、優先なんです!」
そう言って、〇〇さんの車イスのハンドルを掴み、高齢者に背を向けて一目散に詰め所に戻った。
とにかく〇〇さんを詰め所に入れ、そっと顔だけ覗かせてTさんは廊下の暗がりを見た。
そこにはもう。
人影はなかったという。
その後、詰め所に戻って来た看護師にその話をすると、小さく肩を竦めてTさんに言った。
「出るのよ、ここ。でも辞めないで。夜勤の人数がいなくなっちゃう」
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