遣らずの雨

文月六日

第1話

 ぞっとするような晴天を携えて今年も祭りの日はやってきた。

 入道雲が手を振るには少し早い七月の、まだ柔らかそうな雲が頭上を悠然と泳いでいる。盆地のこの村にとってまだ明けぬ梅雨は耐え難いほど蒸し暑く、じりじりと皮膚を焼く日差しと纏わりつくようなぬるい風が喉の渇きを覚えさせた。

 「…藤香。」

 名前を呼ばれて振り向けば、校門の前に立っていたこちらを見つけて校舎玄関から親友が走ってくる姿が見えた。肩上に切りそろえられた首筋は涼しそうで、今度自分も長い髪を改め気分転換に短くしようかと思案する。

 少しだけ肩を上下させて私の目の前に立つと鹿乃は、見分するように私の足先から頭までを一瞥し、申し訳なさそうに首を振った。

 「ごめんね、随分と待ったよね。」

 私の少し湿った制服を見ての事だろうか。実際どれくらいの間自分でもここに立っていたのか余り覚えておらず、どうやら私はこの暑さのせいで呆けているらしいと苦く笑いながら答えた。

 「大丈夫、今ここに着いたばかり。」

 「…そう。」

 藤香は昔から間が抜けているからどうだか、と肩をすくめて鹿乃は言った。そんなに自分はおかしな行動をとっていただろうかと、幼い頃から長い時間を共に過ごしてきた友人を小突く。くすくすと笑う、この掛け合いも何故だか久しぶりな気がして心地よかった。

 「ねぇ藤香、今日はもうお祭りの日だよ。覚えてる?」

 「うん、浴衣の人が多く歩いてる。隣町からも人がたくさん来るようになったね。」

 「最近は近郊じゃなかなか見れない大きな花火が上がるからって、県外からも結構来てるんだって。」

 本当に迷惑な話、と鹿乃が目を伏せがちに言った。黒い革靴を光らせながら、ゆっくりと家へと歩を進める。隣同士の自宅へ向かって私も鹿乃の後ろへと続いた。

 「人が来てくれるのは嬉しいことだよ。昔はおじいちゃんもおばあちゃんも、毎日のように過疎化がなんだの少子化がなんだのと怒ってたじゃん。」

 「今は祭りのたびに屋台の手伝いをしろと元気すぎて煩いけどね。」

 それは確かに問題だと神妙な顔をして頷いておいた。

 ゆるゆると歩きながら話を弾ませれば遠くもない家はもう目の前で、しかし友人はその中に入ることを躊躇っているようだった。らしくない彼女の様子を伺おうとして肩に手を伸せば、逆にこちらが掴まれて少し驚く。

 「鹿乃?」

 胸位置で掴まれた私の手は、運動が得意な鹿乃の健康的な手と比べると奇妙なほどに白かった。見ればこめかみから汗も滴って、暑いのだろう、掴んでいる彼女の手の平もヒリヒリとまるで焼けるようだ。

 もう一度名前を呼んで言葉を促せば、観念したかのように鹿乃はゆっくりと唇を動かす。

「…去年行った山上の神社、覚えてる?」

「あの廃神社のこと?あそこは危ないからもう行っちゃダメだって、」

 「うん。でももう一度だけ。今度は、藤香に連れて行ってほしい。」

 どうして、と聞こうとして躊躇った。鹿乃は今にも泣きそうな顔を堪えて、知らない人が見れば寧ろ怒っているようにも見えた。握っている手は固く、震えていて、握り返せばびくりと大袈裟に驚かれる。

 このいつだって強気な彼女は一体どのような覚悟を持って物物しくその決断を口にしたのだろうか。聞くことは容易かったが顔をあげて、やめた。彼女がどれだけの思いで自分に頼んだろうとその過程を考えると、どうにもそんな気にはなれなかった。

 「カバンは、置いて行った方がいいと思う。」

 重いし、邪魔だし。そう続ければ鹿乃は弾けるように顔をあげた。

 「置いてくる。そこで待ってて。」

 くるりと回って家へ駆ければ、彼女の膝上丈のスカートもまた同じように揺れた。紺色のセーラー服を纏ってはいるが、走る後姿はあまり昔と変わらない。明るい、はつらつとした、彼女そのものだ。

 近くに生えていた低木の元、腰かけるには十分な大きさの岩に座って辺りを見回す。

 小さな駅が近くにあるというものの、見える限りは一面の緑ばかりだった。大きな田んぼが広がって、麓に神社を構えた大きな山がその背中に真っ青な空を負っている。

 まるで絵葉書のようなこの景色が私は好きだった。幼い頃から変わらない、小さな自分を包んでくれるような大きな自然。きっとこれからも変わらず皆を抱いて守ってくれるのだろうと信じられるような。

 「まるで見納めるみたい。」

 いつの間に戻ってきたのだろう、鹿乃がこちらに向かってゆっくりと歩いて隣に立つと、横を向いて同じ景色を眺める。

 「別に今更珍しい景色でもないでしょ。」

 そうなのかもしれない。見慣れた、いつも通りの景色。それでも私はもう暫くそのままでいたかった。視界の中で切り取るように。この甘い風を、青い土の香りを飲み込むように。

 ゆっくりと瞼を下ろして、そうしてその倍の時間をかけて瞳を開けた。

 痺れを切らしたのだろう鹿乃は、行こうと座ったままの私に手を伸ばす。

 「もう、子供じゃないんだから。」

 少し頬を膨らませてその手を掴まずに立ち上がれば、それもそうだねと困った顔をされた。




 その山の上にある寂れた神社は、今は麓に据えてある神社の前の姿だ。高齢化が進んでいる村のために、皆不便だろうからと現神主が移動してくれたのである。

 残念ながら興味がなかったため詳しくは知らないのだが、どうやら小さいながらも何百年も続いてきた格式高い神社だそうで、麓に移動はしたものの本宮はそのまま山の上にと取り壊されることもなく残っているのであった。

 子供たちは大人に危ないからと止められ上の神社へ行くことは滅法なくなったが、決して山上のそこが廃れたわけではなく、人の目が少なくなったことを言い転じて小さい子の中でそう呼んでいたのだ。神主が管理の関係で普段立ち入りを禁止していたこともその認識を助長させていたのかも知れない。

 そのような理由で祭りという人が大勢集まる日でも、山へと登る長い石階段に足をかける者は私達の他には一人もいなかった。鮮やかな浴衣に袖を通し煌々と光る提灯の元、焦げたソースが鼻をくすぐる焼きそばや、ここ一番と腕を見せる射的などに皆夢中で、学生が2人、どこへ向かって歩こうとも気にも留めている暇などないのだ。

 「やっぱり昼間の方が歩きやすいね。」

 足を踏み外さぬよう慎重に歩を進めつつも赤く染まってきた空を見上げて、後ろから階段を上る鹿乃に声を投げかけた。

 昨年は初めてこの山を登るのにあたって、日が暮れてからは勝手が分からぬと日中に二人で事前に散策をしたのであった。一年ぶりに訪れるのも足元は不安で、言外に今年もどうせ来るなら早い時間にと含ませたのである。

 「うん、でも今年はそんな余裕はなかったから。」

 声を落とした返事を貰えば、やはり友人の様子が気になった。少し前から思ってはいたが、どこかこの友人は今日一日気落ちしているように見える。後ろから着いてきているのがちゃんと彼女であるかどうか振り返ろうとして、頭を少し傾ければ前を向けと怒られた。

 「…ごめん。花火があがるのって何時からだっけ。」

 「確か七時かな。えっと、あと一時間くらい。」

 少しでも気分をあげようと楽しい話題を投げかけた。そうだ、この花火が有名になっていつも見ていた場所からでは混み合うからと、昨年はこの山へ登ろうとしたのだ。一度も二人で登ったことはないけれど、麓から少しだけ顔を覗かせる、木が切られたあの神社からだったら他からは見られない景色が望めるだろうと。

 しかし、おや、と歩きながら首を傾げた。

 大きな花火の上がる音、パラパラと火花が散って消えゆく音。

 そんな類い稀なる巨大な華の、奏でた音しか思い出せない。

 「ねぇ、鹿乃、」

 確かに二人で見に来たはずなのだ。いくら何でも自分はとぼけすぎだと、嫌な不安に駆られて後ろの友人に声を掛ける。

 「着いたよ。」

 またもや振り返ろうとすれば声に遮られた。しかし思い更けて登っているうちに、確かに目の前はひらけて広い境内が見渡せる。

 登り切れば空はもう日を隠していて、あとは薄紫の残り灯だけだった。今宵は細い月が笑うだけだから、一番星はここぞとばかりに自己を主張し輝いている。

 鹿乃はあっちと指さして、今は一般客の訪れない宮の裏へと歩いて行った。花火が上がるのはあちら側で、確か去年は見る場所を間違えて慌てて場所を移ったのだ。

 (一応、来たことは覚えているんだけど。)

 どうしてだろう、肝心なことを忘れている。小さな胸騒ぎを抱えて友人を追いかける。

そして角を曲がり見やった後ろ姿に、私は悲鳴をあげそうになった。

 「鹿乃!」

 その細い体が今まさに、広くない道から逸れて崖下へと傾いていた。遅い足を全力で走らせて手を伸ばす。土がぬかるんでいて踏ん張る革靴がぬるぬると滑る。

 まだ薄明かりがあって本当に良かったと思う。神社の裏手、ロープも何もない崖の上から友人はまだ身を乗り出していて、辛うじて掴んだその手でどうにかこちら側へとバランスを保っていた。

 「…離して。」

 「え?」

 しかし、とっさに掴み取った手を鹿乃は握り返してはくれなかった。全く自信のない腕力に、必死に力を込めて体を手前へと傾ける。

 「冗談は良いから、早く、こっちに、」

 「離してよ!」

 大きな声に怯んで思わず彼女の願いを聞き入れそうになる。けれど頷いて良い訳がなかった。火事場の馬鹿力と言うものなのだろうか。脱力している同じ年頃の友人を引っ張り上げるのは一筋縄にはいかないものの、泥だらけになりながらも、どうにかして少し平らな場所まで引きずり上げる。

 息が切れてまともに喋るには少し時間が欲しかった。ただでさえ今の状況を把握しきれていないのだ。どうしてこうなったのだと恨めしく友人を見る。

 「なんでよ…。」

 鹿乃は少し前から虚脱感に陥っていて、なぜ、どうしてと同じ言葉を繰り返すだけの人形となってしまっていた。

それを言いたいのはこちらなのだと、非難も込めて手を握る。大きな瞳に涙を浮かべて、ようやくこちらを振り向いた彼女はわぁわぁと声をあげて泣き出した。

ドンっと大きな音を立てて花火が上がり、もう空はとうに黒を飲んでいたのだと、漸くその時気が付いた。




 昨年の今日、私たちは日頃の大人の言いつけを守らず、この山上の神社へと足を運んでいた。昼間明るい時間に一度下見をしていたし、近年有名になってきた村の花火大会も混雑が極まってきて、人が集まることは嬉しい反面、思うように動けない状況に嫌気が指していたのも事実であった。そんな中、鹿乃がこの場所であれば落ち着いて楽しめると提案したのだ。

「実はね、ちょっと前に親と喧嘩したときにこっそり一人で登っちゃって。その時に見つけたの。」

 私の前に立って階段を上る彼女は浮かれていた。そしてそれは私も同じだった。小さい村で娯楽も多くなく、しかし普段周りに禁止されている場所へ足を伸ばすという後ろ暗さは、まるで小さな子供に戻ったように胸を膨らませたのだ。

 長いはずの階段も登るのは全く苦ではなく、お互いとりとめもない話に花を咲かせれば辿り着くのはあっという間だった。

 拓かれた境内は思っていたよりも手入れがされていて、定期的に管理者である神主が訪れていることを伺わせた。それでも今この場には私たちに他には一人もおらず、ここから覗ける景色を独占できると考えると浮足立つのも仕方がない。

 「もうすぐ村の明かりが全部消されて、その後すぐに花火が上がるはず。大勢に揉まれて校庭で見るより、絶対こっちの方がいいでしょ。」

 この日のために解放された、村で一つだけの校庭は年々人の数を増やしていた。前の年に知らない人にぶつかられて卸したての浴衣を汚した時には、もう二度とこの場で花火を見ることはないと誓ったものだ。

 「浴衣を着ては登れないけど、これだけゆっくりと見れるなんて何年ぶりだろう。」

 「藤香、去年すごく怒ってたよね。もう浴衣なんて着ないって。」

 鹿乃が指をさして笑うので、少しむくれてそっぽを向いた。ごめんと謝ってきても口元はまだ笑みを浮かべたままで、山を下りたら綿あめでも買ってもらおうかと密かに企てる。あまり怒らないでと窘められれば、子供の様だと余計に複雑な気持ちになった。

 突如、ドンっという重低音が頭上へと響く。

 「え?もう始まり?」

 「あ、多分建物の裏手なんだ!」

 登った達成感に気を緩めて方向を全く考えておらず、てっきり階段を上って正面から見えると思い込んでいたのだ。二人して急いで裏手へと向かう。花火の音だけが鳴り響いて、気ばかり急いていた。

 それが、いけなかったのかもしれない。

 「藤香!」

 普段余り日の当たる事のない地面はぬかるんでいて、足を踏み外したのだと気付いたのは、体が傾き宙を舞った後だった。焦った鹿乃が必死に手を差し出そうとしているのが見える。自身も掴もうと片手を思い切り伸ばすも、しかし届かなかった両手は空を切るばかりだった。

 ドンっ、と音がした。

 それが上がった花火の音なのか、私の体が地面に打ち付けられた音なのかは分からない。

 見上げれば鹿乃が懸命に何かを叫んでいて、けれど全身の痛みに何が定かなのかも覚えられない。ただ私は留まることを知らずに手足を打ち付けては転がっていった。まばらに生える木々にぶつかって、年頃の女子ならぬ声が出る。

 左手が冷たい。足の感覚はない。

 それでもゆっくりと意識だけは取り戻して、耳が水音を捕えた。漸く眼球だけを動かして横を向けば、そこは学校裏の貯水池が見える。

 あぁ、私は落ちてゆくのだとその時分かった。

 お腹が張り裂けたように痛くて全身寒くて仕様がなかった。当たり前に体は動かなくて、ゆっくりと、浸かるように、私は落ちてゆく。

 (鹿乃に、伝えなきゃ…。)

 どうか真面目で優しい彼女が自身を責め立てないようにと。きっと責任感が強いから、この不幸な事故を自分のせいだと思い込んでしまうだろうから。

 どうか、心優しい私の友人に、一言で良いから伝えなければ。

 沈みゆく身体と意識の中、とかくそれだけはと強く願った。

 強く、強く、願ったのだった。




 「藤香が校門の前に立っているのを見つけたとき、私を迎えに来たのだと思った。」

 鹿乃が嗚咽を堪えながら、泥にまみれたスカートの端を握って言った。

 「やっぱり、私の事を恨んでいるんだって。あの日、私があなたを誘わなければ死ななくても済んだのにって!」

 「そんなこと思っていない!」

 啖呵をきって言えば、少し驚きながらも鹿乃は首を振って続けた。

 「それでも私は私を許すわけにはいかなかった。この一年、誰も私を責めることはなかった。藤香のおばさんも、学校の先生も、クラスメイトも、皆遠巻きに大丈夫かと声を掛けてくるばかり。それ以上触れもせず、それ以下を見ることもせず、ただ私は一年前の夏に縛られたまま一歩だって動けなかった。」

 誰も、何も、と繰り返す鹿乃に、彼女が求めているのは労いでも同情でもないのだろうと、泣き腫らした大きな目を見て思った。ずっと一人であの時間に捕らわれて、後戻りは叶う事なく、けれど前に進む事も出来ずに、ひたすらに誰かからの裁きを望んでいたのかもしれない。そして、私はそのために今ここに居るのだと喉を上下に動かした。

 「伝えなきゃって、思ったの。」

 こんな汚れた格好では友人を抱きしめることは出来なかったけれど、せめてもの思いが伝わればと、握りすぎて白く固くなった彼女の手に自分のものを重ねる。

 「知ってるよ。あの後、鹿乃が必死に私を助けようとしてくれたこと。」

 私が足を滑らせて山肌を落ちて行ったあと、一人では助けられないと理解した彼女は来た道をそれは早く駆け下りて、近くの大人たちに声が枯れるまで助けを求めていた。祭りの、それも花火を打ち上げている最中、女の子の声が遠く響かないことを分かっていて、それでも棒になった足を走らせて人を呼んで回っていた。

 消防隊の人たちが少しでも遅くなると知れば、彼女一人で池の方まで走って私を引きずりだそうと苦悶していた。結局、全身の外傷の他に私は水を多く飲んでいて、もう手遅れだと分かっても周りの静止を聞かずに心肺蘇生を繰り返そうとしていた。

 必死に、ただひたすらに、私を助けようとしていてくれた。

 「それで、誰一人鹿乃を恨むなんてあり得ない。」

 そんな人、いる筈なんてない。

 「誰も怒ってなんかいない。恨んでなんかいない。だから、鹿乃は、そもそも許しなんて乞う必要ないんだ。」

 触れている拳から大きく彼女が揺れ動いたことが分かった。一度止まったはずの涙が足元にぼろぼろと落ちて、雨も降っていないのに大きな水たまりをつくっていた。

 「あのね、伝えたかったの。ごめんねって。鹿乃は、優しくて、真面目だから。きっと自分を責めてしまうかも知れないけど。私がね、悪かったんだよって。鹿乃は悪くないんだよって。」

 違う、そんなことない、私が、ごめんね。友人は首を振っては謝ってばかりだった。私もごめんねと答えれば、ごめんね、ごめんねと思いっきり抱き付かれた。これだけ汚れた制服ならもう大して変わるまいと、私も背中に手を伸ばして抱き返した。

 「ずっと会いたかった。」

 「うん。」

 「ずっと謝りたかった。」

 「うん。」

 「許して貰えるなんて今でも思ってない、それでも言いたかった。」

 「…うん。」

 抱きしめた肌は私と違って暖かかった。きっと池に落ちた私は臭いんじゃなかろうかと一瞬頭を過ぎったが、余計なことは考えないようにする。

 肩口でぐすぐすと鼻を啜りながら鹿乃は、きっとこの一年貯め続けたであろう悲しみをこぼしていた。制服を濡らすその涙ですら温かくて、湧き上がる未練をぐっと飲み込んだ。

 「じゃあ、鹿乃。仲直りしよう。」

 元々怒ってなんてないのだけれど。けれど、きっとこう言った方が上手く伝わると知っていて言洩らす。真面目というのは難儀なもので、頑固と言い換えられたりもするものだ。それに受け入れることには大きく違いはないのだからさしたる問題ではない。

 「私ね、去年綿あめ食べ損ねたの。買ってきてくれると嬉しいな。」

 「綿あめ?」

 そんなに好きだったかと聞かれれば、そういう気分だったのだと答えた。腑に落ちたようではなかったが、それで良いならゆと納得はしたようだ。少し落ち着いたのかひとつだけしゃっくりを上げると、分かったと頷いてくれた。

 頭上では花火が連発で上がっており宴も終盤であることを告げていた。あとは大きな四尺玉が上がれば歓声があがり麓の人々は散ってゆく。そして、今年の祭りは終わるのだ。

 色鮮やかな夜空の華を見て、そうだ、これを見るためだったのだと今更ながら思い出した。一滴一滴が一瞬を切り抜いて、脳裏にその姿を焼き付けてゆく。今、私はここに居たのだと、彼らが主張しているかのように。

 藤香、と震える声に振り返る。己を見れば少しずつ影が褪せていく様が見えて、残された時間も僅かなのだと知れた。愕然とこちらを見る鹿乃に、そろそろだと告げる。

 「覚えていてね。」

 綿あめ、待ってるから。

 抱きしめ続けていた体を離して一歩退いた。鹿乃は、勿論だと頭を振って応える。あまりの必死さに相変わらずな姿の友人を確認して、ありがとうと笑い返した。

 空気を震わす、大きな、大きな、音がした。

 最期に目にするその大輪に、手をかざして息を呑む。

 辺り一面明るくなって、その瞬間だけ、全ての生命が彩を取り戻したかのように見えた。そうしてはらはらと散っていく様は切なく、だからこそ、何よりも代えがたく、綺麗なのだと思い知った。

 何よりも、誰よりも、それは美しかった。



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遣らずの雨 文月六日 @hadsukimuika

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